特異点X

第1話

 男がコーヒーを飲んでいた。

 カフェオレだった。インスタントに安売りの牛乳を注いだ一品だった。

 今日は平日だった。そして、午前中だった。良く晴れた表の街はバイク便の音やトラックが走り抜ける音なんかが響いて、田舎の地方都市ながら賑やかだった。

 男はそんな街をアパートの2階の部屋から感じていた。

 男は今日仕事を休んでいた。

 それも仮病によるずる休みだった。

 なぜ休んだかといえば何もかも投げ出したくなったからである。

「いやぁ、やはり平日の午前中は良い。自分が世界からはみ出してる感じがあるな」

 男は言った。

 会社をずる休みしているのを実に満喫していた。

 男は最近仕事に追われに追われていた。

 あまりに忙しすぎ、あまりに理不尽だった。

 そして、昨日。男は唐突に全部が全部嫌になったのである。

 なので、今日はこうしてずる休みをしているのであった。

 社会人としての節度なんか知ったことではない。大人としての立ち振る舞いなんかどうでも良い。

 男の心は今無職時代に戻っていた。あの、なんの保証もないがなにも縛るものがないあの時代に。

「ははは。素晴らしい」

 男の目に映っているのは今だけだった。昨日や明日のことなんか見ていない。現実だって見ていない。この幻のような今の時間のみが現在の男の全てだった。

 あまり正気の目ではなかった。

「昼は出前でも頼むか」

 もう何年も使っていない定食屋の電話番号を探す男。

 男はただ、今を楽しむことしか考えていなかった。

 その時だった。

──ピンポーン

 突然部屋のチャイムが鳴ったのだ。

 男はむっとする。誰なのか。この平和な時間を邪魔するのは。

 ドカドカとわざとらしく足音を立てながら男はドアの前まで行き、ドアの向こうを確認した。

「なんだ?」

 そこに立っていたのは女性だった。

 それもかなりの美人。かわいい系だ。淡い栗色の髪。服装は私服と言って良いようなシャツにスキニーパンツ。

 一体全体なにごとなのか。

 女性はなぜだかもじもじと落ち着きなく辺りを見ていた。

「営業か勧誘か」

 男は若干テンションが上がりつつも警戒は怠らなかった。

 綺麗な女性が突然訊ねてくるということはどう考えても裏があるのがこの社会だ。

 裏のない美人が独身で給料の安い男のアパートの部屋を訊ねてくることは現実では有り得ないのだ。

「むぅ」

 男は少し考えた末にドアから離れた。

 あまりに怪しすぎる。居留守をキメることにしたのだ。

 しばらく待てば諦めて帰るだろう。美人としゃべれないのは若干残念だったが、今面倒に関わるのはゴメンだった。

──ピンポーン

 美人はまたチャイムを押してくるが男はドアから離れる。

 またカフェオレを飲むのである。

 しかし、

「ごめんください。今こっちを覗いてましたよね、猪島タケルさん」

 男はぎょっとした。

 なぜ、この美人は男の名前を知っているのか。猪島タケルとはまさしく男の名前だった。

 猪島タケル(32歳)、それがこの男だった。

「居るのは分かってます。あなたに話があって来ました」

 女はペラペラとドアの向こうからしゃべってくる。

 残念ながら壁が薄いこのアパートでは言っていることは良く聞こえた。

 とにかく怪しかった。

 なぜ、男の名前を知っているのか。なぜ、住所を知っているのか、なぜこの平日の真っ昼間に男がアパートにいることを把握しているのか。

 なにからなにまであまりに怪しかった。怪しいというか危なかった。男は今大変恐怖していた。近頃は強盗の話もニュースで良く見る。この女がなんらかの犯罪行為を行おうとしてないとは言い切れない。

 あまりに怖すぎた。

 男は、猪島は今すぐにベランダから逃げだしたいほどだったが、ここは4階だった。無理だった。無理なので猪島は歯を食いしばりながら美人がドアから離れていくのを祈るしかなかった。

「出てこないんですか。じゃあ、入りますね」

 美人はドアの向こうでそう言った。

「ハイリマスネ?」

 猪島はその言葉を繰り返した。

 つまりドアを開けて入ってくるということなのだろうが、残念ながら鍵がかかっている。不可能なはずだった。

 その時だった。

──メキメキ、ボキャ

 鈍い音が響き、ドアノブは引き抜かれたのだった。

「ああ!?」

 猪島は叫んだ。

 ドアノブが引き抜かれたということは鍵は破壊されたということだった。

 ギィ、と軋んだ音を立て、ドアは開かれた。

「あ、やっぱり居ましたね」

 美人は柔らかい笑顔でドアの向こうから現れた。その手には今し方引き抜かれたドアノブが握られていた。

「ああ.....」

 猪島ははっきり言って失禁しそうだった。

 なにせ、不法侵入だ。いやそれ以前にこの女はなんなのか。猪島の目の前の光景から得られる情報から推測するに、女は素手でドアノブを握り壊したとしか思えなかった。

 尋常な状況ではない。

 少なくとも人間かどうか疑わしかった。

 人間かどうか疑わしい存在がドアを破壊し猪島の部屋に不法侵入してきた。それが今、猪島の目の前の現実だった。

 やはり失禁するに相応しい状況なように思われた。

「助けて.....」

 猪島は自然と呟いていた。目にはうっすら涙が浮かんでいた。

「あ! 怖がらせちゃいましたね。心配しなくても私はあなたに危害は加えませんよ」

 優しい笑顔でわたわたしながら、ひしゃげたドアノブを片手に美人は言った。

「ああ...」

 一向に猪島の恐怖は薄れない。

「あ、あの! ドアを壊しちゃったのは緊急事態だからなんです。怖がらせたならごめんなさい。私はあなたを助けに来たんですよ」

「なんの話ですか....」

 怖すぎるがなんとか冷静に美人の言葉を理解する猪島。

 残念だが支離滅裂な話だった。

 猪島は今助けられるような状況でなかった。

 なにせ、猪島は今ずる休みという至福によって自らを救っていたところだからだ。

「単刀直入に言います。あなたは狙われているんです」

「ネラワレテイル?」

 あまり猪島には馴染みのある言葉ではなかった。なので、一瞬意味が理解出来なかった。

「狙われる? 俺が? なんで? 誰に?」

 そして、追いついた理解から生まれるのはひたすら疑問符だった。

 謎だった。

 猪島には少なくとも誰かに狙われる心当たりはない。残念ながら金はない。そして、恨みを買うほどの人間関係もない。なにも起きずただ呆然と過ぎていくのが猪島の日常だ。

「この部屋が問題なんです」

「この部屋が?」

 この美人がたった今ドアを破壊したこの部屋が?

「ここの座標はちょうど特異点なんです。それも昨日から。そして、特異点に居た人間には異能が生まれる。あなたにはその可能性がある。だから、『財団』に狙われるんです」

「なにを言ってるんだあんたは」

 猪島には一切頭に残らない言葉の数々だった。

 普段使う単語とあまりに種類が違う単語のオンパレードだった。ラーメンやフォークリフトとはあまりに種類が違いすぎた。特異点だの異能だの財団だの言われても猪島にはちんぷんかんぷんも良いところだった。

「いきなり理解して欲しいって言っても分からないですよね」

「当たり前だ。ていうか出てってくれ。警察を呼ぶぞ」

 ここに来て猪島の頭は冷静になった。

「そうだ。警察だ警察だ。不法侵入、器物破損。あんた、ちゃんとそのドア弁償してくれるんだろうな」

「い、今それどころじゃないんです! 早く逃げないと財団の職員が!」

「黙れ! 漫画の話なら余所でやってくれ! あんたがしてるのは歴とした犯罪行為なんだぞ!」

 猪島の絶叫とほぼ同時だった。

──ズガァアアアン!!!

 すさまじい轟音が響いた。

 それと同時に飛び散る壁、割れる窓、引き裂かれるカーテン。なにかがベランダで起きたのだった。

「なんだ!?」

「しまった! もう来た! 下がってください、猪島さん!」

 美人は猪島の前に躍り出た。

 猪島は女の手に押されて後に下がる。いや、下がるといるか吹っ飛ばされた。

「わぶっ!」

 転がるように尻餅をつく猪島。

「ああ、すいません! 加減を間違えました!」

 すさまじい力だった。ドアノブを握りつぶした力はトリックではないらしかった。

 しかし、そんなことより。

「財団の職員! Dレベルの収集係コレクター!」

 ベランダの土埃が晴れ、その向こうから姿を現したのは。

「ロボット!?」

 鈍く光る6本の足を持ったクモのようなカニのような巨大な金属の機械がそこに居た。

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