03 暁部隊 劫火へ向カエリ
――特攻少年兵たちのヒロシマ—―
僕たちは 死の街を歩いた
サブタイトル含めてチラシに書かれている文を、まんまコピー。のちほどポスターを近況ノートにアップします。
こんな風に銘打たれた企画展、以前にカクヨムさまにアップさせていただけた「知覧平和記念館に行ってきました」で感じてたことの回答や気づきを貰えたような気がいたします。
とんでもない資料の数々だと思いました。
太平洋戦争末期1944年に、全国に貼られたポスターに大きく書かれた文言があったのよ。
「陸軍特別幹部候補生」
このころは本土決戦が謳われるようになっていて、満15歳から20歳未満の少年たちが募集枠だったんだって。
純粋な少年たちは、教師にも親にも黙って募集していた者もいた……らしい。らしい、というのは暁部隊に所属していた方々の証言ビデオを上映していたから。
決して同調圧力っぽい強制ではなくて、子どもたちなりに
「日本の役に立ちたい、故郷の役に立ちたい」
そんな純粋な気持ちが発露になっていたというべきでしょうか。子どもたちなりに、世間で噂される「本土決戦」という語彙に敏感になっていたのではないかと思いました。
さて元々は"特攻兵"として招集されていた彼ら、暁部隊は訓練場だった江田島市幸ヶ浦で(爆心地から4.8キロの距離)
「太陽をふたつ見た」のでした。それが1945年8月6日です。
ふたつの太陽を見た直後、空いっぱいに広がるキノコ雲。
部隊の司令官だった
「本務を捨てても広島市の救護に立て」
と全隊に命令したとのこと。そこで当時15歳から20歳の子どもたちが広島市内へと急行することになります。
彼らが本来の任務……特攻兵として粗末なベニヤ板製ボートに爆弾を積み、敵機へと突っ込むほうがよかったのか否かの判断は、わたしには出来ません。おそらく誰も、正解は出せないと思うんですが。
以下は記憶している限りのエピソードの数々。読みにくかったら、ごめんなさい。
川には水を求めて亡くなっていかれた人たちで溢れていた。ひとり、一体しか担げなかった。大量の水を含んだ仏さんは、なかなか焼けない。
風の音もなかった。人のうめき声だけが聴こえた。これが地獄だと思った。
道を塞ぐ、黒焦げになっている遺体のおびただしさ。異臭。いつ消えるかもわからない火の海。崩れ落ちた建物、瓦礫。
なにもかも焼け崩れた町の中を歩いているとき「俺は、なにをしているのだろう。こんな火の上を歩いている。俺は、どこにいるのだろう。俺は、どこを歩いているのだろう……」と感じた少年が上官に、ぽつんと言う。
「戦争は、ダメですね」
しかし上官は「本土決戦を控えている兵士が、そんなことを言うものではない!」と叱りつける。
少年の心中に郷里である遠野の情景が、まざまざとよみがえったといいます。この方は復員後に郷里に帰った際、被爆者差別などもなかったようですね。遠野物語の、遠野ですよ。
「水をください」と全身が火傷でただれた大勢のヒトたちが頼むけれども、上官からは「水を飲ませたら死んでしまうから、絶対に呑ませてはいけない」と命令されている。けれども、あまりにも可哀想で可哀想で。弁当箱の蓋に少量の水を乗せて、水を求めた人にこっそりと与えた。ガツガツと水を飲む被爆者の顔が忘れられない。
真っ暗になった広島の街に、夜になると地面のあちこちから青白い炎が立つ。
だいたい50センチくらい。
ビデオの一番最後に紹介されたエピソード。
当時15歳の特攻兵、黙々と任務に就いていたとき。乳児を背負ったボロボロになった母親が尋ねてきた。
「奈良に帰る電車は、どっちに行ったらいいの」
同郷ということを打ち明けて
答えようと思ったら、背負われていた子どもが亡くなっていることに気づく。
「……仏さんを連れて電車には乗れませんよ」
母親は泣き崩れながら「どうしたらいいの!」と言っていたという。
少年兵は、亡くなっている子どもさんを荼毘に付してあげようと思った。お骨にしたら、連れて帰ることは可能だろうから。でも、母親の身になって考えた。
自分の子が油をかけて燃やされるのを見たい親なんて、いないだろう。
だから上官に尋ねる。すると上官は言ってくれた。「おう、ちゃんとしてやれ」
少年兵は母親に言う。
「お母さん、10分くらいその辺を歩いてて。(子どもさんは)ちゃんと、お骨にしてあげるから」
言葉通りに、子どもさんを荼毘に付して差し上げた。
復員して奈良に帰ってしばらくして。
そのお母さんは自分の家に訪ねてきていたという。たまたま、彼は留守にしていたけれども父親が対面していたとのこと。
お母さんは奈良市役所など、あちこちを探していた。憶えている限りの少年兵の特徴を話して一軒一軒を尋ねて周っていたんだって。
復員兵の父親は、お母さんの住所を聴いていなかったらしい。だから、それ以降は逢うことが叶うことなく時間が過ぎている。
わたしたちが現在享受している平和というもの。
戦地であっても本土であっても。
お亡くなりになった方々の礎があってこそと、あらためて感じる。
だからこそ、ちゃんと。伝えられる者が後世に伝えていかなくてはならない。
たとえ微力であろうとも。
(了)
広島平和資料館を拝観してきました 二回目です 優美香 @yumika75
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