第11話 転落事故 『Piece of Strawberry Shortcakes』
『ラッキー・クリーム・ソーダ』(一部抜粋)
コウメ……小学六年生女子
ヒデオミ……小学六年生男子
セイジ……小学六年生男子(抜粋部分に出番なし)
ナレーション
○学校の屋上
コウメが、一人たたずんでいる。そこに、ヒデオミがやってくる。
ヒデオミ コウメ。
コウメ びっくりした! いるなら早く出てきなよ。
ヒデオミ なんか、入りづらくて。
コウメ どうして?
ヒデオミ ……コウメはさ、中学は、どこ受けるんだ?
コウメ 私? 受験しないよ。
ヒデオミ そうなのか?
コウメ うん……ヒデオミ君は? 頭いいもんねえ。
ヒデオミ 俺は、私立、受験するけど。
コウメ セイジ君はきっと公立だよね。
ヒデオミ セイジのことなんて、どうでもいいよ。
コウメ どうして?
ヒデオミ ……なあ、俺、運動会で勝ったよな。
コウメ あの雨じゃ、二人とも実力は出せなかったね。残念。
ヒデオミ でも、勝ったよな!
ナレーション 少年は、苛立っていた。理由はわかってる。わかってるけど、自分では、止めようがなかった。
コウメ ……どうしたの?
ヒデオミ 今、二人で何の話してたんだよ。
コウメ んー、なんでもない。
ヒデオミ なんだよ、それ。隠し事かよ。
コウメ そんなんじゃないよ。もー、どうしたの、ヒデオミ君。
ヒデオミ あいつ、約束破ったんだろ。
コウメ 約束? 何それ?
ヒデオミ コウメ、俺、その……。
コウメ 何?
ヒデオミ 俺、中学生になったら、もっともっと凄くなる。セイジなんか、足元にも及ばないくらいに。かけっこでも、勉強でも。もっとすげえ大人になる。
コウメ ヒデオミくんは、今でも充分凄いじゃない。
ナレーション そして少年は、一つの言葉を、思いを必死で絞り出す。ありったけの気持ちを込めて。
ヒデオミ ……俺と、付き合ってくれ。
コウメ それって、彼女になってくれとか、そう言うこと?
ヒデオミ ……返事、くれよ。
ナレーション それは、精一杯の言葉だった。彼なりの。もてる勇気をすべて振り絞った、ずっとずっと、心に秘めていた、初めての思い。ところが。
コウメ ……大人になるって、そういうこと?
ヒデオミ どういう意味だよ?
コウメ 友達のままじゃ、ダメ?
ヒデオミ は?
コウメ 私は、ヒデオミ君とも、セイジ君とも、ずっとこのままでいたい。
ヒデオミ なんだよ、セイジセイジって。あいつが、俺たちの間に関係あるのかよ!
コウメ ……ヒデオミ君?
ヒデオミ セイジなんて、あいつなんて、口先だけじゃないか。勉強だって、かけっこだって、俺に勝てるものなんか何もない。
コウメ 友達のこと、そういう風に言うの、よくないと思うよ。
ヒデオミ あんなヤツ、友達じゃない。
コウメ ねえ、その話はもうやめて。私も忘れるから。
ヒデオミ 忘れる?
コウメ 忘れなきゃ、みんなと一緒の楽しい時間が終わっちゃうよ?
ナレーション 少女に悪気はなかった。もちろん少年にも。だからこそ、口から出たのは、単純極まりない言葉だった。
ヒデオミ おまえ! むかつくんだよ。
コウメ え? なんで? なんでそんなこと言うの?
ヒデオミ ちくしょう! どっかにいってくれ!
ナレーション 受け入れられるわけでもなく、拒否されるわけでもなく、現状維持を申し出る少女に、少年は最悪の言葉の選択をした。でもそれは、まだ大人になりきれていない少年にとって、辛い、辛いことだった。そう、自分の気持ちが「なかったこと」にされる。それがイヤだったから。そして事態は加速する。もう一人の少年が、戻ってきた。
「オッケー! お疲れさま」
「ありがとうございました!」
演出の船橋先輩の声に、演技をしていた酒々井が礼を言う。
オーディションは、体育館の舞台を使って、演技の審査が行われました。
演技は、一発勝負。クジを引いて順番を決め、酒々井、陽葵の順番に決まりました。
鎌ケ谷が用意した台本を渡され、一五分間の練習ののち、本番。
相手役は、本役としてつく予定の印西が勤め、ヒロインを、それぞれに演じます。
ナレーションとト書きは、暫定的に、脚本を書いた鎌ケ谷が読みました。
台本は、夏公演の本番用に鎌ケ谷が書いたオリジナル作品の抜粋で、ストーリーは、小学生の頃の三角関係の相手との確執を、一〇年経ってぶつけ合うというのが大まかな流れで、現在と一〇年前とを行ったり来たりしながら、次第に「一〇年前に何があったのか」が描かれていくものでした。
テーマは、「カレー、虹、ヒーロー」ということですが、それらがどう絡み合ってくるのか、全体像を知っているのは、脚本家の鎌ケ谷しかおりません。
トップバッターの酒々井の演技は見事でした。
酒々井が少女のコウメ役、印西が少年のヒデオミ役。
酒々井の演技は、役柄に一気に没入していくタイプです。
まるで、始めから酒々井のために書かれたキャラクターであるかのように、他にキャスティングが考えられなくなるレベル。
相手役の印西も、しっかり気持ちをぶつけて対応しておりましたが、むしろ、少し圧倒されるくらいだったかもしれません。
オーディションは、先にやった方が、断然有利です。
最初の人は緊張するし、後からやった方が、前の人を参考に出来る、と思われがちですが、二番目以降の人は、逆に先にやった人の演技に引きずられることもあります。
一番最初の人は、自分の演技プランを存分に披露することが出来ますし、何より、審査する側にとっての基準になるので、印象を強く残すことが出来るなら、トップバッターは本当に有利なのです。
とはいえ、決して酒々井が油断したり手を抜いたりすることはなく、照明にも当てられて、汗だくになりながら、しっかり演技していました。
まさに、舞台上で活き活きと生きていました。
終わった後、酒々井も印西も、共に、タオルで汗を拭きながら、やりきった充実感を感じていました。
「じゃあ、次は茂原。麻紀乃は引き続き相手役をよろしく」
船橋先輩の指示に、印西先輩が答えます。
「オッケーオッケー」
印西先輩が、そのまま舞台に乗ります。
そして、後攻の陽葵が、同じく舞台に上がります。
「よろしくお願いします!」
体育館中に、陽葵の声が響きます。
台本は同じもの。完全に、比べられます。
酒々井の演技は、本当に見事でした。まるで、本物の小学生の女の子がそこにいるかのような、あどけなく、しかし芯の強いキャラクターを、しっかり表現していました。
勝てるのか。緊張。うまく出来るのか。無理。怖い。逃げたい。
たくさんの思いが、思考が、頭の中でぐるぐる回ります。
視界がぼやけて、極端に視野が狭くなり、次第に何も見えなくなってきました。
周りが暗闇です。何も聞こえません。まるで、一年前、演劇部に入部したときの、周りが何も見えなくて、一人で閉じ篭もっていた、あのときみたいです。
(そうだ、あのとき——)
思い出しました。印西が話しかけてくれて、それで、顔を上げて、視界が開けて、周りを見ることが出来た。それがなかったら、逃げ出そうと思っていた。
あのとき、印西が話しかけてくれて——
「さあ。やろう」
印西の声が、今日も聞こえました。
真っ暗になっていた目の前に、光が差し込みます。
印西がいれば。先輩がそこにいるなら、大丈夫。
陽葵は、渡されていた台本を、舞台の下に放り捨てました。
それをきっかけに、開始の合図が船橋から出されます。
「よーい、始め!」
ひいき目なしに、このときの陽葵の演技は、酒々井よりも素晴らしかったといえると思います。
台本を手放したのは、台本を覚えていたから。
もちろん、台本を渡されて、たかが一五分。酒々井の出番を考えても、二〇分前後。それで、台本を一言一句覚え、間違えずに言うというのはなかなか至難の業です。
ですが、印西に会いたい一心での不純な動機での入部とは言え、入部以来、誰よりも必死で努力してきた陽葵は、渡された台本は、一言一句違わず、すぐに覚えるということも訓練してきました。
酒々井は、確かに演技としては素晴らしかったです。
ですが、台本を見ながら、ところどころつっかえたり、読み間違いなどがありました。
とはいえそれは、大きな問題になるレベルではありませんでしたし、そもそも、初見の台本で一五分しか時間はなかったのです。覚えている方が、すごいだけの話なんです。
相手役の印西だって、台本を持ったままやっているんです。
必死で努力してきた陽葵は、必死に集中して、一五分で台本を覚えたのです。
そのおかげで、演技の最中に視線を台本に落としたりすることなく、目の前の相手役に集中することができました。
それに応えて、印西もまた、途中から台本を見るのをやめました。
セリフは、相手役のセリフに合わせて、お互いに自動的に出てくる。まさに、役に入り込んでいました。もう、役と自分との境目が分からなくなったのです。
(ああ、これが。こういうことなんだ)
陽葵は、ようやく、印西や酒々井が見ていた景色が、ほんの少し分かるようになりました。
演技をしているのは、台本があることを忘れて、演技をしていない状態。これが。技術では、まだまだです。ですが、演技の端緒には触れた、その感覚がありました。
そして、事故は起きるのです。
お互いに集中して演技をしていた陽葵と印西は、役と自分との境目が分からなくなり、周りが見えなくなってしまいました。
二人はお互いに、相手の目をしっかり見て演技をしていました。
もし、このとき、足下を見ることがあれば、もしかして気づいたかもしれません。
先程の酒々井の演技の時から、舞台上には、汗が飛び散っていました。
そして、台本も終盤にさしかかった頃。
「あっ!」
陽葵が、汗で足を滑らせてしまいました。
「危ない!」
先程、汗を拭いたタオルを持ったまま舞台上に上がってしまった印西。
普段なら、そんな油断は絶対にしないはずの印西が、自分のタオルを演技している最中に落としてしまっていました。
「先輩!」
酒々井と、演出家の船橋も気づきました。
陽葵が倒れそうになった方角に、タオルが落ちています。足を滑らせながら、印西に支えられた陽葵は、なんとか足を着こうと踏ん張りますが、そこに、タオルが落ちていました。バランスを崩しているところに、更にタオルを踏んでしまい、陽葵が、舞台上から、下の床に落ちそうになりました。
「陽葵!」
印西が、陽葵に飛びかかります。腕を掴み、グッと引き寄せ、抱き締めて。
でも、崩れたバランスが元に戻ることはなく。
二人して、舞台上から落下しました。
陽葵と、その下に印西が。
下敷きに。
ゴン
鈍い音が、演劇部員以外いない、だだっ広い体育館に響きました。
音が反響します。それは、物理的にそうなのか、頭の中で反響しているのか、そもそも音が鳴っているのか、勘違いなのか、その場にいる誰も、正常な思考を持つことが出来ませんでした。
床の上で、微動だにしない印西と、その上に倒れ込んでいる陽葵。
うっすらと、しかし止めどなく、赤い液体が流れてきました。
どれほど時間が止まっていたのか、正確なところは誰にも分かりません。二人とも、まったく動きませんでした。
「救急車!」
叫んだのは、鎌ケ谷です。スマホで救急車を呼びました。緊急搬送と、手術です。
二人は、すぐに病院に搬送されました。
陽葵は、特に外傷もなく、念のために頭部のCTスキャンを撮りましたが、何も異常は見受けられませんでした。
印西も、命に別状はありません。出血はあったものの、外傷はそうでもありませんでした。問題は、内部です。
落下した際に、頭部を強く打ち付けており、視神経に損傷が見られ、失明の危険があるとのことで、緊急手術になりました。
手術自体は、長時間に及びましたが、一応成功したとのことです。ですが、失明するか回復するかは、術後数日は結果が分からないとのことでした。
事故の報せを聞いて駆けつけた学校の先生たちと印西の両親は、医者の説明に、悲痛な表情を浮かべていました。
演劇部の活動の中と言うことで、部長でもある演出家の船橋が、両親に深々と頭を下げました。元々、家族ぐるみで交流があるそうで、両親も、船橋からの説明を聞いて、偶発的に起きた事故だと、理解はしてくれました。
学校としてはそれでは終われず、学校内での部活動での怪我ということで、保険の対応や、演劇部顧問の先生の処分などにも関わってくることになるそうです。
特に怪我がなかった陽葵は、そのことで余計に落ち込みました。陽葵の両親が病院に駆けつけ、印西の両親に謝罪をしましたが、印西の両親は、演技のことだと理解を示し、陽葵を責めることはしませんでした。あくまでも不幸な事故だと。
その場にいる人たちの誰も、陽葵のせいだとは思っていませんでしたし、陽葵を責めることはありませんでした。ただ二人を除いて。
手術から数時間。ようやく意識が戻った印西が、両親と面会。その後、両親から、陽葵と酒々井に入ってきてもらうように言われました。
個室の病室の中には、白いシーツの大きなベッドがあり、印西が、目を包帯でぐるぐる巻かれて、上体を起こして座っていました。
包帯の下の口元は、笑顔でした。
「いやあ、ごめんね。心配かけたよね」
「先輩! 大丈夫なんですか?」
酒々井は、ベッドにすがりついて、とにかく自分が心配していたと言うことを伝えました。
「大丈夫大丈夫。一応、手術は成功してるし、今後回復する見込みも充分にあるってお医者さんが言ってるからね」
「よかった……。もし先輩に何かあったらと思うと、私、私……」
「全然心配しなくていいよー。これこの通り、元気元気」
印西先輩の声は、いつもと変わりません。元気いっぱいいつも通りです。
「……め、なさ……い……」
か細い声がありました。
「……陽葵?」
「ごめ、……なさ……い……」
蚊の鳴くような、小さな声。
「陽葵……お願い。謝らないで」
「ごめん……なさ、い……」
あの日、存在を消していたのに、誰よりも小さな声に、気づいてくれたように。
今このときも、ちゃんと聞き届けてくれる人がいる。
でも、その人の目は……。
「陽葵は悪くないから。ボクが悪いんだ」
「わたし、わた……ごめ、ごめん、なさ……」
「自分で落としたタオルが原因なんだからさ。ドジっ子って、こういうのを言うんだっけ?」
言いながら、笑おうとしていました。
周りにいる人たちも、無理に笑おうとして、そして、失敗していました。
「わた、わたし、が、もっとちゃんと、注意してたら……」
陽葵には、まったく、その声が届いていませんでした。
だから、少し大きな声で。
「陽葵。ねえ、陽葵!」
ビクッと身体を震わせて、陽葵が反応します。
「……はい」
「……陽葵は、怪我はない?」
そんなことを言われたら……
「……ないです……ない、です……」
「よかったああああ。ボクのタオルのせいで、陽葵が怪我をしてないなら、大丈夫」
「……でも……」
「話聞いてた? 手術は成功したし、回復する見込みも充分あるんだよ」
「でも……」
そこまで言って、印西先輩は、本題に入りました。
「ただ、ね。この夏の公演は、もしかすると、出られないかも知れないんだ」
「そんな!」
驚いたのは、酒々井です。
「ボクの回復を待ってたら、稽古を始めるのが遅くなるし、だったら、ボク抜きでやってもらった方がいいと思うんだ」
「嫌です! 嫌です!」
酒々井は、本当に嫌だと、だだをこねます。
「それで、出来れば、二人をメインにして、脚本を書き直してもらえないかって、鎌ケ谷に頼もうと思ってるんだ。今から書き直すんじゃ、鎌ケ谷は大変だろうけど、あの人、天才だから大丈夫でしょ」
もちろんです。しかし。
「嫌です! 私、先輩が好きです! 先輩と一緒に舞台に立ちたくて、頑張ったんです! 先輩と一緒に、舞台に立たせてください!」
「ありがとう、酒々井。嬉しいよ。だけど、今は、これが最善の選択なんだ。わかって?」
聞き分けがいい、酒々井ではありませんでした。
「分かりたくありません」
「困ったな。陽葵は?」
印西先輩は、陽葵に向かいました。包帯のせいで、まっすぐ見ることはできませんでしたが。
「……それが、先輩のためになるんですか?」
陽葵は、今出せる最大限の言葉を出しました。
「なるなる! オーディションの、陽葵の演技、よかったよ。だから、もっともっとよくなる」
相変わらず流れ出る涙と鼻水にまみれながら、陽葵は言いました。
「私は、印西先輩の言うとおりにします」
その言葉を聞いて、印西先輩は、心から安堵しました。
「ありがとう」
「嫌だ!」
酒々井は、納得しようとしませんでした。
病院中に響くのではないかと思えるほどの大音量を出したため、酒々井と陽葵は、病室から追い出されました。
家族やその他、船橋など近しい人だけ残って、後の部員たちは、帰ることになりました。
解散した後、陽葵は、病室にハンカチを落としてしまっていたことに気づきました。
取りに戻ると、病室では、船橋と印西が、話をしていました。
「調べてみたらさ、けっこういるんだよ」
「そういうのホント早いよね」
「お笑いの人とか、歌手とか。片目が失明してる人って言うなら、ホント、気づかないところでけっこういる。サングラスの人とか、演出家でも、突然見えなくなった、って事もあるんだって」
スマホをいじりながら、船橋先輩が、調べたことを伝えています。
「片目で済めばいいけどねえ」
「一番びっくりしたのが、生まれてすぐに失明して、耳を頼りに歌手になったけど、普段の生活態度があまりにも普通すぎて、「実は見えてるんじゃないの?」という疑惑を持たれてる歌手がいた」
「誰?」
「誰でしょう?」
「まさかのクイズかよ」
二人して、ケタケタと笑いました。
「どういう結果になっても、俳優の路が断たれたことにはならないよ」
「はは。そりゃすごい慰めだ」
「あたしがあんたの目になるから。台本は読んで聞かせるし、演技も一緒に作るから」
船橋先輩は、あながち、冗談で言っているわけでもなさそうでした。
「ありがとう。千歳……」
「二人一組で動いたら、ギャラは折半だねえ」
ウキウキしながら、計算を始めます。
「千歳……」
「ん?」
「陽葵のこと、責めないでね」
「分かってるよん」
「千歳……」
「ん?」
「千歳……」
「……うん」
「もう、芝居できないよ……もう、もう……」
「麻紀乃……」
「うぃやだあああああああああああああああああああああああああ!」
印西先輩は、嗚咽を漏らして、大声で泣き叫びました。涙を流そうにも、包帯でぐるぐる巻きにされているので、流すことは出来ませんでした。
陽葵は、ハンカチを回収出来ず、そのまま病院を出ました。
病院の最寄り駅に着くと、駅のホームに、酒々井がいました。
折しも、雨が降り始めました。
雨を避けることもせず、濡れながら、駅のホームで、二人は向き合います。
「先輩に何か、余計なことを言いに行ったんですか?」
「……何も」
言えるわけない。
「どうだか」
前の電車は行ったばかりのようで、次の電車は、あと二〇分ほど待つようでした。
「……待ってたの?」
気になって聞いてみました。
「むかつく」
「え?」
「全部自分のせいですみたいな顔して。ほんっと、腹立たしい」
何にむかつかれているのか、正直、よく分かりませんでした。
「……だって、私のせいだし」
「そうだよ! あんたのせいだよ! 先輩の人生をめちゃくちゃにした!」
何かを言おうと口を開こうとしましたが、何か言おうとしていたのか、それとも何も言うことがなかったのか、わからないまま、陽葵は言葉を出せませんでした。
「茂原先輩、私と先輩の間を嫉妬してたんでしょ?」
「……」
「勘違いしてるみたいだから言っておきます。私だって、ただちやほやされてただけじゃないです。これでも、必死に食らいついてたんです」
陽葵には、若くて可愛くて才能もある人が何言ってんだろうという純粋な疑問しかわいてきませんでした。
「必死に頑張って、やっと、印西先輩と一緒に自主稽古するところまでこぎ着けたのに、あなたが邪魔した」
そして、言います。
「まるで、ゲームの中の悪役令嬢みたい」
ああ、そうなんだ。この子は知ってるんだ。そう、陽葵は思いました。
「私と先輩の間を、邪魔するだけの嫌な人」
自分が物語の主人公、ヒロインだってことを。
「それなのに、印西先輩、私と二人で特訓したあと、あなたとも特訓してくるって、そうじゃないとフェアじゃないからって」
昨晩、そうだったんだ。
印西に恋をしている陽葵の気持ちとしてはチクリと傷つきながらも、後輩としては、どうしてこうも、どこまでも尊敬できる先輩なんだろう。
「私だって必死だったの!」
……何に?
「あなたに負けないように!」
涙を堪えながら、必死で自分を責めてくる酒々井を見て、陽葵は、こう思いました。
なんだ。同じだったんだ。ただ、印西先輩に憧れていただけ。
この子も、可愛いとか、見た目だけでちやほやされていたわけじゃないんだ。
自分も、そうだ。ただ、印西先輩がいたから。
小学生の頃から地味で、コミュニケーションが下手で、友だちがおらず、周りから浮いていて、中学生の時には不登校になった。でも、学校見学で見た印西先輩のお芝居に感動して、なんとか、先輩と同じところに行きたい、同じ舞台に立ちたいと思って、受験勉強をがんばって。
家で自宅学習しながら、昼間、親のいぬ間に母の化粧道具を勝手に使って化粧を練習して、無駄遣いして、怒られて。
それから、髪を切って、毎日、ニキビを潰して、肌ケアをして。
体力がなさ過ぎたので、ウォーキングから始めて、ネットの動画で調べたストレッチと筋トレを続けて。筋力がないだけじゃなくて、なまっている身体を引き締めるため、毎日、母がたくさん買ってきてくれていた、自分でもお小遣いでたくさん買っていた、目の前にあるならあるだけ食べていた、大好きだったお菓子を遠ざけて、ガマンしてガマンして。
お菓子食べたいお菓子食べたいお菓子食べたいお菓子食べたい。糖分よこせ。
がんばって甘いものを遠ざけて、筋トレもしたのに、体重があんまり変わらなくて、なんだかよくわかんなくなって。
でも、自分を変えようと必死になって。
それから、乙女ゲームをたくさんやった。
単純に好きだったというのもあるけど、演技とストーリーの勉強のためと言い聞かせて、セリフを声に出して読みながら、ゲームしていた。たくさんプレイした。時間ならあった。たくさん。
なんとか、受験はうまくいった。入学初日から、少しでも元気に明るくいけるように、生まれ変われるようにがんばった。
そして、演劇部の入部初日。
我ながら、今思い返せば、福笑いかって言うくらい、笑っちゃうくらいの厚化粧で、顔面を塗り固めて。
そのおかげで、誰あろう、印西先輩に話しかけてもらって。
そして、今がある。
なのに、私は、取り返しの付かないことをした。もういっそ……。
陽葵は、お嬢様は、この時、自分の罪を設定しました。その後、いくつもの世界を渡り歩く中で、すっかり記憶の奥底に沈めてしまう、罪。
そして、罪には罰がある。異世界に飛ばされて、その世界で、自分を裁く。永遠に。
かつての、引きこもっていた自分のように、逃げることだけを考えて。逃げていれば、罪を罰で償えば、許されると思って。
いや、許しを請うつもりはさらさらないのかも知れない。そんなものは自己満足にしかならない。どれほど自分を痛めつけたところで、そうだ。先輩の目は、もう元には戻らない。
「もう、元には戻れない」
そんな独り言を、聞いてか聞かずか、酒々井が、意味不明なことを言いました。
「あのね、異世界に転生したいんです」
「……は?」
まもなく、二番線、電車が通過します。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください。
「現世を離れたら、気づいたら乙女ゲームとか、ファンタジーの世界に飛ばされてるんです。イケメンたくさんいるんですよ?」
「ごめん、何を言ってるのか理解が追いついてない」
「でも、悪役令嬢になるのはいろいろ大変だから、やだなあ」
「冗談でもそんなこと言わないでよ。不謹慎だよ」
「大丈夫。現実にはそんなに期待してないし。異世界だったら、イケメンいるし。イケメンしか勝たん。でしょ?」
まもなく、電車が通過します。Please stay behind the yellow line.
酒々井が、ホームから線路に向かって、飛び降りようとしました。
陽葵が、酒々井に抱きついて止めようとしますが、抵抗されます。
危険です。お下がりください!
「なにするの! やめてよ!」
「あんたのせいだ! あんたが、先輩の代わりに怪我すればよかったのに!」
「私だってそう思ってるよ!」
「だったら、なんで、先輩を下敷きにしたの!? もう、先輩とお芝居できない世界になんか、生きていたくない!」
「やめて!」
その時、雨と夜の闇で視界が開けていない中、駅に電車が入ってきました。この駅は、各駅停車しか止まりません。そして、次の電車までの時間は、まだ余裕があります。
駅に侵入してきたのは、次の電車ではなく、通過電車でした。ほぼ減速することなく、最高速度のまま、駅の中に侵入してきました。
(そうだよね、もしかして、電車に轢かれたら、異世界転生できるかも)
電車が警笛を鳴らします。けたたましく。
(罰を受けないと)
自分が犯した罪が、何よりも重いと知っているから。
陽葵は、酒々井をホーム側に突き放し、自らは、線路に落ちました。
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