第10話 特訓、特訓! 『Piece of Strawberry Shortcakes』




「もうダメだ〜」

 この泣き言は、陽葵です。


 四月に新入生を迎えた演劇部は、六月に学内公演を行いました。

 夏の公演のキャスティングにも関わってくる公演で、主に一・二年生を中心に、初舞台を踏ませたり、演劇そのものの理解を深めたりすることを主眼としていました。

 脚本は、過去の公演で演劇部で作ったオリジナルのもので、人数ややりたい方向性があうものを使用しました。

 少ないですが、脇を固める三年生との絡みもありました。

 その稽古の中で、印西先輩は、一年生の酒々井との絡みのシーンを、ものすごく楽しそうに演じていました。

 もちろん、陽葵にも、印西先輩と絡むシーンはありましたが、酒々井とやっているときほど楽しませられた自信がありませんでした。

 それが、冒頭の嘆きに繋がっています。

「うう〜」

 いくらうなったところで、状況は変わりません。

「先輩も、楽しそうなんだよなあ」

 自分と酒々井美桜のどこが違うのか。

 陽葵には、何かが違うというのは分かっていながら、言語化できるだけの経験がありませんでした。

 とはいえ、思いが強くなればなるほど、自分の、印西先輩とのシーンと、酒々井と印西先輩のシーンとを比べてしまい、心身が凹んでいきます。


 ある日の練習後、水飲み場で、印西先輩と酒々井が、話をしているところに遭遇しました。

 陽葵は、思わず隠れて、それとなく、盗み聞きしてしまいました。

「お疲れさま、酒々井」

 印西先輩の方から話しかけにいく一年生なんて、あまり見たことがありません。

「先輩! 今日はありがとうございました」

 でも、酒々井は、それが当たり前であるかのように、普通に返答しています。

「こっちこそ。こんなに気持ちよく芝居が出来るのは、久しぶりだよ」

「本当ですか!? 先輩にそう言ってもらえると、すごく嬉しいです!」

「ボクさ、色気がないし、全然技術がないから、酒々井みたいにまっすぐに気持ちをぶつけてくれる人とやるのが、楽なんだよね」

 印西先輩は、すごい人なんです。だけど、決して偉ぶったところがなくて、むしろ、もっともっと上達したいという向上心だらけの人なんです。

「先輩が色気ないとか技術ないとかいったら、演劇部のみんな、ショック受けますよ」

 と、印西先輩にツッコミを入れる酒々井に、若干のジェラシーも感じました。

「買いかぶりすぎなんだよ、みんな。でも、酒々井との芝居は、本当に気持ちいいよ」

「私、先輩とお芝居やるの、本当に楽しいです! こんなド素人の私に言われても、全然嬉しくないでしょうけど!」

 すでに、二人の会話は、お互いを対等に見ている、そんな感じがしました。

「そんなことないよ。台本があるって事、忘れちゃう時があるし」

「分かります! 自分がお芝居をしてないみたいな感覚になるんですよね」

 台本のセリフを追いかけて、ちゃんとやると言うことしか考えられていない、それだけに必死の陽葵には、二人の言っている感覚が、まるで分かりませんでした。

 ひとり、置いてけぼりを食った気になりました

 すると、そんな陽葵が、隠れているのを、酒々井がめざとく見つけました。

「陽葵先輩! 先輩も、そう思いませんか?」

 声をかけられてしまい、盗み聞きしていた後ろめたさもありながら、陽葵は二人の前に姿を現しました。

「う、うん」

「あれ? ピンときてない?」

 盗み聞きをとがめられたらどうしよう、そんなどうでもいいことの方が気になってきていました。が、

「茂原の演技さ、どんどんよくなってるよね」

 その印西先輩の言葉で、全ての不安が吹っ飛びました。

「ありがとうございます!」

「身体のキレもよくなってきてる。今日のダンスレッスン、一番動けてたんじゃない?」

 演劇部の稽古では、走り込み、ストレッチ、筋トレ、発声などの基礎メニューをこなした後、ダンス練習も行っていました。

 舞台における生身の肉体の表現として、役者のダンスは、とても重要なのです。

「本当ですか!?」

「本当本当。姿勢もよくなってきたし、筋力も付いてきたし、一年生の時から比べても、すっごくがんばってるのが伝わるから、見てて気持ちがいいんだよねー」

 陽葵は、憧れの人と普通に話していることだけでも嬉しいのに、褒められて、すっかりいい気持ちになりました。

「えへへ。ダンス、あの一曲しか踊れないんですけどね」

「十分だよ。そうだ。今度、三人で一緒に練習しようよ。お互いのいいところを教えあってさ。というか、ボクが二人から教わりたいだけなんだけど」

「いいんですか?」

 陽葵にとっては、青天の霹靂でした。

「ぜひ!」

 演劇部の稽古は、ほぼ毎日行われていましたが、そのうち週二日、印西、酒々井、茂原の三人は、居残りで自主練習をやりました。

 発声などの基礎、ダンス、そして、台本。

 それはとても贅沢な時間でしたが、陽葵は、喜びつつも内心ではモヤモヤした余計なものがあって、ざわついてしまいます。

「陽葵先輩! また立ち位置間違えてます」

「あっ、ごめん!」

「いいですけど。合わせますから」

 演劇経験ゼロで入部したのは、陽葵も酒々井も同じなのに、どうしてこうも違うのか。

 しかし、仮にも一年長くやっているのだから、負けっぱなしでいるわけにも行きません。

「でも、それを言うなら、酒々井の、直前のセリフ、台本と違うじゃん」

「間違えたわけじゃないです。自然と、そっちの方がいいと思って言葉が出たんです」

 酒々井は、悪びれたところなどこれっぽっちもなく、普通に反論してきます。

「勝手にセリフ変えられたら、立ち位置だって間違うでしょ」

「えー。それくらい合わせてくださいよ。先輩でしょ?」

「合わせるなら後輩が合わせなよ」

 思わずカチンときて、陽葵も、強い言葉を吐いてしまいました。

「は?」

 普段はケンカなどしなさそうな陽葵であり、酒々井ですが、こと芝居になると、本気であるが故でしょうか、ピリピリとしてしまいます。

 

 ぱんっ!

 

 印西先輩が、手を叩いて、二人を止めました。

「はい、やめ。板の上に立ったら、先輩も後輩もない。上下関係を持ち出すのは、卑怯だよ」

 言われて、しまった、と思った陽葵は、すぐに謝りました。

「ごめんなさい」

「だってー」

「酒々井も謝る」

 印西先輩が強い口調で言い聞かせ、酒々井もまた、謝りました。

「……すみませんでした」

 印西先輩は、一つため息をついて、言いました。

「お互いのためにいいかと思ったけど、あんまり成果がないなら、三人での自主練習はこれまでにしようか」

「申し訳ありませんでした」

 陽葵は素直に謝りましたが、酒々井は謝りませんでした。

「謝ることじゃないよ。二人とも、お疲れさま」


 陽葵と酒々井の対立は、その日以降、はっきりと他の演劇部員にも見て取れるようになりました。

 明らかにギスギスしていて、二人を一緒にすることがはばかられる状態でした。

 それでも、夏の公演まで、時間は過ぎていきます。

 メインが印西麻紀乃であることは決定済み。

 陽葵も酒々井も、演劇部としては舞台に立てる予定で、二人とも出演はする方向で間違いなくなりました。

 努力してきた陽葵はもちろんですが、酒々井は、一年生から唯一選ばれた、異例の出演です。

 問題は、そのどちらがヒロインを務めるか。

 決めかねた演出の船橋と脚本の鎌ケ谷は、相談の結果、オーディションをすることになりました。

 お互いが納得するには、そうするしかないということです。

 はっきりと、一騎打ちになりました。

 陽葵は、負けていられない。

 だけど、どうしたらいいかも分からない状態でした。

 オーディションが決まって、しばらくあまり口をきいていなかった酒々井が、陽葵に話しかけてきました。

「もう、私の邪魔をして、足をひっぱならいでくださいね」

 事ここに至って、弱気になる陽葵でもありません。

「あんたって、そんなこと言うキャラだったっけ?」

 しかし、酒々井もまた、譲りません。

「舞台の上で、先輩後輩を出さないでもらえませんか?」

 印西先輩に言われた説教を持ち出されたら、二の句が継げませんでした。

「そんなつもりは」

「鬱陶しいんで」

 オーディションまで、あと三日。


 オーディションは、いつもの演劇部の練習時間が終わった後、演出の船橋と脚本の鎌ケ谷、そして、主演が内定している印西がメインの審査員になり、その他演劇部員たちも、部員投票を行うことに決まりました。

 演出や脚本の意見が強いとは言え、部員が納得しない人選をするわけにもいかないのです。

 オーディションの内容は、当日知らされます。

 陽葵は、必死で稽古をしました。

 毎朝、登校前に欠かさず行っていたランニングの距離を伸ばし、いつもより多くごはんを食べ、でも、食べ過ぎはよくないと二杯目でガマンして三杯目には手を出さず、それまでに部活でやった台本を何度も何度も練習し、ダンスで汗を流し、部活の後には居残って練習する。

 その姿を、印西が見ていました。

 オーディションの前日にも、陽葵は居残りでセリフを練習していました。

 基礎練をしっかりやり、発声、滑舌も繰り返し練習。

 何一つ、疎かにしたつもりはありません。

 不意に、印西先輩が声をかけてくれました。

「台本、相手役はいりませんか?」

 体育館の入り口に、憧れの人が立っています。

「……先輩……!」

「一緒にやろうか」

 そう言いながら、印西先輩は、もう、中に入って、準備を始めてくれました。

「お願いします!」

 印西先輩が、練習に付き合ってくれた。

 それは、陽葵にとって夢のような時間でした。

 何十時間もやったようで、一瞬で終わったようで、でも、何度も何度も、セリフを気持ちをぶつけ合いました。

 やがて、お互いの汗で濡れた床で、陽葵は足を滑らせてしまいました。

「大丈夫!?」

 印西先輩が、ものすごく心配してくれました。

 足を滑らせながらも、しっかりバランスを取って、なんとか、踏ん張りました。

「大丈夫です! こけませんでした!」

 印西先輩は、まるで自分のことのように、ほっと安心してくれました。

「よし。じゃあ、ここまでにしようか」

 その言葉を聞いた陽葵は、意識せず、涙を流していました。

「どうしたの?」

「すすすすみません! なんでもありません!」

 印西先輩が、そっとタオルを渡してくれます。

 受け取って、涙を拭きました。印西先輩の匂いがしました。

「思い出すなあ。陽葵が、一年生で入ってきたとき」

「ああ、存在を消していた頃ですね」

「誰ともしゃべらず、じっと座って、こっちを見てるから、何で睨まれてるんだろうって、毎日不思議だった」

「やめてください!」

 印西先輩は、やめてくれませんでした。

 薄く微笑みながら、話を続けます。

「セリフしゃべらせたら完璧なまでの棒読み、舞台を歩かせたら右手右足、左手左足を同時に出す不器用っぷり。走らせたらゲロ吐くし、エアロビさせたら貧血で倒れるし」

「ひーーーー! もうそろそろ勘弁してください……」

 陽葵は、恥ずかしさで死にそうになりました。

「よく成長したよ」

「成長なんか、してないです……」

 そう言いながら、あまりにも嬉しくて、にやけた顔を、タオルでしっかりと隠していました。


 一年前の四月。

 陽葵が晴れて志望校に合格し、憧れの先輩に会うために、演劇部の入部説明会に行ったとき。

 ひとり、体育座りで膝を抱えたまま、微動だにしない陽葵に、声をかけてくれたのは、印西先輩でした。

「ねえ、あなた、そう、あなた」

 人と交流するのが苦手なので、存在を隠して生きているつもりになっていた陽葵は、まさか自分に話しかけられているとは想像も出来ず、辺りをキョロキョロ見渡しました。

 が、しばらくキョロキョロした後で、体中の汗腺から、汗が噴き出してきました。

「……もしや、私のこと、見えているんでしょうか?」

 か細い声で、今考えると、とてつもなくバカなことを言っていたはずですが、印西先輩は、笑うことなく、ちゃんと相手をしてくれました。

「うん、そう、あなた。名前は?」

 やはり。まさか、自分だったとは! しどろもどろになりながら、ようやく名前を言いました。

「……茂原です。茂原、陽葵……」

 蚊の鳴くような声でしたが、印西先輩は、ちゃんと聞き届けてくれました。

 そして、まともに顔を見ることが出来ない陽葵の顔を、真っ正面から見据えてくれました。

「そう、陽葵さん。お化粧、キレイだね」

 ドキドキしすぎて、何を言われているのか、一瞬分かりませんでした。

「……ありがとうございます」

「気合いが入ってるのはいいけど、演劇部だからって、毎日舞台化粧はしなくていいよ。私たちも、本番の時くらいしかお化粧しないし」

 陽葵は、気づきました。

 言われたとおり、演劇部だから、化粧をして衣裳もオシャレにしなくちゃいけないと思って、必死になって準備してきたのです。

 自分でも信じられないくらいの、厚化粧を。

 でも、他に誰も、化粧もしていなければ、オシャレな服も着てきていませんでした。

 もう、自分自身がパニックになって、顔が真っ赤になって、より一層、顔を隠してしまいました。

「あと、他の入部希望者にも言っておきますが、中学から高校に上がって、少し色気づいて、お化粧の一つもしたいところだろうけど、うちはかなりのハードワークだから、汗だくになって化粧は崩れます。肌ケアとベースメイクまでするなとは言わないけど、化粧崩れを気にしている余裕は与えないので、あまり華美なお化粧はしてこない方がいいですよ」

 周りから、クスクス笑う声が聞こえてきます。

 陽葵はもう、今すぐにでも逃げ出したい気持ちになりました。

「はいいぃぃぃぃ……すみませんんんん……」

 もうやだもうやだ。無理無理無理無理。もう帰るもうやめる。

 そんなことが頭の中をぐるぐると渦巻いていた陽葵の頭を、そっと優しく、ポンポンと叩いてくれたのも、印西先輩でした。

「大丈夫。今日は、めちゃくちゃ可愛いから、オッケー」

 印西先輩だけは、優しい笑顔を向けてくれさえすれ、その日、陽葵を笑わないでくれたのです。


 その日のことを思い出して、また更に顔が真っ赤になりました。

「黒歴史です……忘れてください……」

「なんでさ。何も悪いことしてないし」

「意地悪ですね……」

 陽葵は、ぷくーっと頬を膨らませました。

「それに、努力の甲斐あって、今では、こうやって対等に芝居が出来る」

「全然対等じゃありません。もう、ホントいろいろ無理です……」

「三月の卒業生を送る公演、楽しかったよね。どんな役でも楽しんでやれるのは、一番大事なことだよ。芝居は、主役だけで成立してるわけじゃないから」

 どんな役でも……陽葵はそこに引っかかってしまいました。

「……諦めろ、って事ですか?」

 印西先輩は、しまった、と思いました。

「違うよ。もし、そう誤解されたのなら、ごめん」

 本当に、そんなつもりはなかったのです。

「こっちこそ、ごめんなさい……。私、嫌な人ですね」

 陽葵は、自己嫌悪に陥ります。

 でも、印西先輩は、そんな陽葵を肯定してくれます。

「ボクには、そうは思えないけどな。君は、誰よりも一生懸命で、誰よりも、お芝居に向いてる。ボクよりも」

「先輩よりも?」

「自分のことで悔しくて泣けるのは、才能だよ」

「私、才能なんかありません」

「ボクだって、そうだよ。みんな買いかぶってるけど、ボクだって、本番は怖い。だから、やるべき事はしっかりやってるつもり。それでも、怖い」

 それは、陽葵にとっては意外でした。

 初めて印西先輩を見た舞台でも、演劇部に入って、ずっと見てきた印西先輩も、怖いなんて思ってるとはみじんも感じさせませんでした。

「先輩でもそうなんですか?」

「当たり前でしょ。同じ人間だっての」

 同じ人間だと思えないから、苦労しているんですが。

「私、酒々井さんに嫉妬してます」

「……うん」

「だから、余計なことをいっぱい考えちゃってると思います。先輩にも迷惑をかけてるって分かってます」

 印西先輩は、少し考えて、

「迷惑では、ないかな」

 と答えました。

 陽葵は、今このときに振り絞れるだけの勇気を、ありったけ、絞り出しました。

「先輩……合格したら、ご褒美もらえませんか?」

「……何? ボクの汗がしみこんだ臭いタオルとか?」

「このタオルは、洗って返すか、洗わずに家宝にします」

「いや、洗って返して」

 そりゃそうです。

「そういうんじゃなくて……私……オーディションで合格します。合格したら、先輩に聞いてほしいことがあります」

 まっすぐに、顔も上げることが出来なかった一年生の時の陽葵が、嘘であるかのように、まっすぐに、印西先輩の顔を真っ正面から見つめて話しました。

「それが、お願い?」

「はい」

「えー、なんだろー。気になるなあ〜」

「本当ですか?」

 印西先輩は、ちゃんとまっすぐ 見つめ返して、言いました。

「ボクは、本気の人に嘘は言わないよ。がんばれ」

 そう言うと、印西は、陽葵の手にそっと手を置いて、もう片方の手で、軽く陽葵の頭をポンポンと叩いて、体育館から出て行きました。


 体育館から出たところに、陽葵の同級生で、脚本担当の鎌ケ谷がいました。

「おや、鎌ケ谷さん。こんなところにいたんだ」

 印西先輩が、最初から気づいていたくせに、気づいてなかったかのように、言いました。

「同級生としては、陽葵が根を詰めてやしないかと心配になりまして」

「入ってくればよかったのに」

「冗談でしょう? 邪魔したら、一生、陽葵に恨まれますよ」

 ふふ、と印西先輩はその物言いに笑いました。

「そうかもね。で、脚本はどんな感じなの? ボクのセリフ、長ゼリフは、あんまり多くしないでね」

「大丈夫ですよ。天才ですから」

 印西先輩が、じろじろと見てきます。

「なーんかさ。鎌ケ谷っち、中身ちがくない?」

 何を言っているのか分かりません。

「どういうことですか?」

 印西先輩は、鎌ケ谷の周りを、じろじろと眺めながら、うろうろとしています。

「自分でもおかしなことを言ってるのは分かってるよ? でも、ボクには、君が、本当に鎌ケ谷さんなのかの確証が持てない」

「いい勘してますね」

 まったく。

「『運転手さん、前の車を追ってください!』ってセリフと同じくらいのレベルで、こんな言葉、現実で言うことになるとは思わなかったけどさ。『君、何者?』」

「あまり気にしないことです。私は傍観者ですから。ただ、私から言えるのは、私は、茂原陽葵さんのおそばにいるということだけです」

 勘の鋭い人というのは、本当にやっかいです。

「もしかして、陽葵をひいきしろって脅し?」

「いいえ。きちんと判断いただきたいって事です」

 うんうんと何度か肯いて、

「残念ながら、判断するのは、演出家の仕事。ボクの仕事は、一緒にお芝居することだよ。そして、彼女と芝居をするのは、ボクは好きなんだ」

「その言葉、本人に聞かせてあげれば良いのに」

「それもそうだ。伝えてあげてくれる?」

「お断りいたします。そんな野暮が出来ますか」

「野暮、野暮ね。なるほど。君はそれでいいの?」

 印西先輩が、人の周りをぐるぐる回るのをやめて、顔をのぞき込んできます。

 なるほど、大きくてキレイな目をしてらっしゃる。

「いい悪いの意味が分かりません」

「そうきたか。大人の返しだ」

 とはいえ、私にだって感情はあるんです。

「一つだけ。彼女は、本当に美味しそうにお菓子を食べるんです。そして、その幸せそうな顔が、私は好きです」

「へえ。見たことないや。見てみたい」

「彼女のこと、嫌いではないんですね?」

「一生懸命な女の子のことが、嫌いな人がいる?」

「それについては、同感ですね」

「それ以上は、言わない」

 大人の返しでした。

「では、私から」

「なに?」

「お嬢様を泣かせたら、私が許しません」

 印西先輩は、大きな目を更に見開いて、驚いた表情で、にっこり笑いました。

「お嬢様ね。分かったよ、陽葵の忠実な従僕さん」


 そんな話しをしている間に、陽葵は、体育館の掃除をして、先生から預かった鍵を閉めて、当直室に返却しに行きました。

「うあああああーーー! おなか空いたーーーーーーーー!」

 すっかり暗くなった体育館のそばで、陽葵の絶叫が響き渡りました。


 そして、夏公演の、学内オーディション当日。

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