風吹く
「ん、おいしいねぇ」
千弦さんの頬が緩む。じゅわりと出汁の溢れる卵焼きは、ホテルの朝食バイキングと思って侮ることなかれ、かなり本格的な美味しさだ。僕たちが住む地域とは違う味付けは、千弦さんにとって新鮮なものとして映っているみたい。
長い移動の後、ようやく着いたホテルは朝食バイキングが有名らしい。実際にバイキングの会場へ入って、その本気度合いに驚かされた。いつもの出張で使うホテルと違い、ありとあらゆるものの品数が多い。その中に、地域で採れる野菜を使ったものや、郷土料理が並んでいる。
「こっちのお魚はなに?」
「これは西京焼き。白みそをお酒とかみりんとかでのばしたのに、お魚を漬けて焼いたやつだよ」
千弦さんは一つ感嘆詞を吐いて、そのまま魚を一口頬張る。数回の咀嚼を経て、口角が上がる。
「これ好きかも。おいしいね」
その言葉に「よかった」が漏れ出る。二人して大人びた舌を持つものだから、好きだとは思っていた。それでも少し、口に合わなかったらどうしようというのは考えていた。
お味噌汁に使う出汁、卵焼きの味付け、出てくる魚の種類、お米の銘柄、様々な食材や料理の呼び名まで。住む地域が違えば、食べるものも呼び方も変わる。それがとても興味深く、面白い。僕らも気がついてないだけで、きっと僕らにしかない呼び方や僕らしか食べない食べ物があるのかもしれない。機会があれば、出身の違う人に話を聞いてみたいな。それこそ、洋平くんはご両親が西方の地域出身だと言っていた気がする。今度会えたら聞いてみようかな。
おおよそが食べ終わったお盆の上に、最後に残ったのは豆乳のヨーグルト。たくさん置いてあったトッピングの中から、黒蜜ときなこを選んでかけてある。
「豆乳のヨーグルトって美味しいよね」
「確かに。私も時々食べたくなる」
「でも僕がスーパーに行く時間にはもう置いてないんだよね」
「私もだ。見たことないかも」
脳裏に空っぽのヨーグルトコーナーが映る。二人してスーパーの棚を考えてるのがわかって、思わず笑いが漏れる。千弦さんもそれにつられて笑う。
テレビに写されたニュースが別の番組へと変わり、会場には人が増えてくる。平日にもかかわらず、観光客から仕事で来た人などでにぎわっている。とうとう外で空いた席を待つ人が出てきたため、僕たちは席を立って部屋に帰ることとした。
仕事に行くまではまだ時間がある。ロビーでもらったコーヒーを飲みながら、僕たちはのんびりと時間を過ごしている。
「今日の予定はどう?」
少し時間が空くのなら、観光でもしたい。という気持ちを滲ませて聞く。
「午前中はこっちの署長さんに挨拶をして、特専本部の人と交流会してお昼ご飯食べたら終わりかな」
「夜に時間があったら、ちょっと町を歩いたり晩ごはんを食べたりしたいね」
「そうしたいのはやまやまなんだけど、藤原さんとか久世さんが晩ごはん誘ってくると予想してる」
「ふふ、確かに。お二人ともお酒大好きだから」
「浩太朗もたぶん呼ばれるよ。来る?」
「疲れてなかったら行きたいな」
脳裏には明るくて少し騒がしい二人の女性が浮かぶ。まるで僕たちの親戚のように、会うたびに楽しそうに受け入れてくる二人のことが僕たちは好きである。
突然スマホから通知音が鳴り、知り合いからのメッセージが表示される。彼からは『もうすぐホテル着く』と、愉快なスタンプと共に簡潔な言葉が送られてきている。これから僕が行く山は電車でも行くことができるが、駅からは少し遠めだという。そこで、現地の近くで仕事をしている知り合いが車で送ることを提案してくれた。僕としては、目的地の最寄りで拾ってくれるのだろうと思っていた。しかし、ホテルから直接行く方が近い、とここまで来てくれることになった。とてもありがたい。
改めて登山用リュックの中身を確認する。仕事で使うカメラとカメラの予備バッテリー、水筒、飴やキャラメルなどの甘味、スマホのモバイルバッテリー、その他もろもろ。それらが入っているのを確認して、最後はスマホの充電を確認した。
「ロビーまで送るよ」
そう言って、いつもは僕より早く家を出る千弦さんが僕を見送ってくれることになった。
部屋を出て、エレベーターに乗る。人は乗ってこない。朝のしんと冷たい空気と、エレベーター内の機械やカーペットの匂いが混じっている。ごうごうと音を立てて、止まる気配もなく一直線にロビーのある階へと降りていく。
「気を付けてよ」
千弦さんの張り詰めた声に、ふと彼女の方を見る。
「浩太朗の方がわかっていると思うけど、山の天気は変わりやすいから」
僕は声に出さずに頷いた。何度も山に登る中で、気のゆるみが全くないなんて言えない。気を引き締めてくれる人が身近にいるのはありがたい。
「何度も言うけど、二度目以降は無いぞ」
「うん。ありがとう」
チャイムが鳴って、扉が開く。ロビーの暖房が効いた空気がなだれ込んでくる。外は気持ちのいい晴れ模様で、あんなに晴れていたらきっと寒いのだろう。
知り合いを待つために自動ドアを通り抜けて、外に出る。さわさわと冷たい風で木々は揺れている。千弦さんは寒そうに両手を揉んでいて、やっぱり中に戻ろうかと考える。
「千弦さん」
声を出した瞬間、ぴゅうと強い風が通り抜けた。体が風に持って行かれそうになって、耐えきれず踏ん張る。地面に落ちていた木の葉たちが舞い上がって、円を描いて地面に落ちていった。そのうちの一枚がひらひらと舞って、千弦さんの髪に絡まった。冷たくて、爽やかな風だった。
短編小説まとめ 野鴨 なえこ @nae-ko087
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