白幽霊さん

八朔たくま

本文

 白いクッションを腹に抱えて、本を読む。


 行を読んで、次の行に進んで、また同じ行を読んで、内容が頭の中をぐるぐるして。本が読めないのは、1年前に死んだ幼なじみのせいだと思うことにして、僕は本と一緒に白いクッションをベッドに投げた。


 筆箱からシャーペンを出して、棚から原稿用紙をとって、勉強机の前に座る。原稿用紙に文字を綴って、消して、綴って、ぐちゃぐちゃに丸めて、その繰り返し。僕はきっと、文を書く才能に恵まれていない。

 秒針がうるさいほどに鳴る。ちく、たく、ちく、たく。しばらくして、ぐぅーと腹が鳴ったので、僕は仕方なく文章を書くのをやめた。


 リビングに向かって、母親の置き手紙を通して見て、顔をあげて、


「やほー」


 どうやら僕は寝ぼけているらしい。あるいはこれは夢か。

 自分の頬をつねって、目をこする。そうしてもその幻像は消えてくれないので、僕は洗面所に行って水をかぶった。ばしゃ。水の音を耳で確かめると、リビングに戻って、


「夢じゃないよー」


 僕は自分の頭を殴った。


「ちょー? だいじょうぶ?」


 間延びした声にゆっくり顔をあげると、先程見た幻像――幼なじみ。

 きっとこれは悪い夢だ。そう思うことにして、僕は幼なじみの頬をつねった。ちく、たく、ちく、たく。


「ねぇ、痛いよー」


 頬をつねっているのに普通に喋る幼なじみは、どうやら本当に幼なじみらしい。よくできた夢だな、と思った。特にいろいろ成長した姿とか、よくできている。


「信じてないでしょ。ほんとうに、夢じゃないんだよー」

「……本当によくできた夢だと思う」

「夢じゃないよ。幽霊だよ、ゆーれい」


 なるほど、夢は夢だということを気づかれたくないのかもしれない。あるいは――本当に、すずなのか。

 僕は、すず(仮)の言うことを信じてみることにした。


「わかった。君の言うことを信じるよ。ところで、どうして触れるの?」

「幽霊って、人が思ってるほど幽霊的な存在じゃないのかもしれないよー」


 白いワンピースをひらひらさせて、すず(仮)は言った。ひらひら、ひらひら。鬱陶しい。


「なるほどね。あるいはそうかもしれない」

「ねー。不思議だよねー」

「本当にね」


 ここで本来の目的を忘れかけていた僕は、ようやく昼食を食べることにした。棚からカップラーメンを取り出し、蓋を半分ほど開ける。やかんに水を注いで、コンロに火をかける。すず(仮)はこの一連の動作を、じっと見つめていた。


「……カップラーメンくらい食べたことあるでしょ」


 その視線に耐えられず僕が言うと、すず(仮)はきょとんと首をかしげた。子どものような仕草に、少し笑ってしまう。


「食べたことあるよ?」

「じゃあ、どうしてそんなに興味津々なの」

「体に悪いよー」

「あれ、僕の日本語が下手なのかな」


 あるいは彼女の日本語が下手なのか。なるほど、幽霊は日本語が下手なのかもしれない。

 僕から離れてるんるんで部屋の観察を始めたすず(仮)に目線を向けながら、そんなことを思った。


「ねぇ、りょーちゃん。わたしも何か食べたい」

「……幽霊なのに腹が減るの?」

「うん」

「なるほど、しょうがない幽霊だね。カップラーメンでいい?」

「いいよー」


 すず(仮)は僕らの想像する幽霊ほど幽霊的な存在ではないらしい。触れるし、見えるし、浮いてないし、腹が減る。なるほど、あるいは幽霊を偽るゾンビなのか。ひらひらが視界の端で動く。ひらひら、ひらひら。鬱陶しい。


「3分待ってね」


 きちんとすず(仮)に言って、しばらくしてから、僕は自分の分のカップラーメンを箸でかき回した。

 麺をすくって、口に運ぶ。しばらく咀嚼して、飲み込む。ごくん。美味しい。

 隣を見ると、すず(仮)が僕と同じように麺をすくって口に運ぶところだった。黒い髪を左手で押さえて、右手で麺を運ぶ。その姿は本当にすずにそっくりで、僕は頭がおかしくなってしまいそうだった。

 ――彼女は幽霊なのか、すずなのか。それとも、あるいは、どちらもなのか。

 考えても仕方がないので、僕も彼女と同じように麺をすすることにした。ごくん。美味しい。


「ごちそうさま」


 きちんと両手を合わせて、食事を終える。彼女はまだ、麺をすすっていた。


「……部屋にいるから」


 彼女に一言残して、僕は自分の部屋に帰った。部屋の扉を閉めると、ベッドにダイブする。食べたあとすぐ寝ると牛になる、なんて言うけれど、そんなことは、どうでもいい。

 白いクッションを抱えて目をつむる。すずか、すず(仮)。難しい問題だ。もしすず(仮)の言うことが本当だとして、すずはどうして戻ってきたのだろう。あの世に不満でもあったのだろうか。


「りょーちゃーん」


 カップラーメンを食べ終わったのか、部屋に来た彼女が僕の頬をつつく。つん、つん。


「どうしたの」

「いやぁ、何考えてるのかなー、って」

「君のことだよ」

「お、まさかわたしに惚れた?」

「惚れたのかもね」


 そう返事をして、白いクッションに顔を埋める。

 すずか、すず(仮)か。そんな問いが、頭の中をぐるぐる回る。ぐるぐる、ぐるぐる。鬱陶しい。

 もし――彼女が本物だったとして。

 そんな馬鹿らしいことを考えているうちに、僕は眠ってしまったらしい。僕は眠って、夢を見た。その夢は、記憶は、僕の頭の中をいつまでも彷徨っていた。


   ※※ ※


 夢ならいいのにと願った出来事は、あるいはいつも夢ではない。

 すずは、あるいはすず(仮)なのか。すず(仮)は、本当にすずなのか。


 すずの吐息が顔をくすぐる。


「……近いよ」


 そう言ってすずから離れると、彼女はむぅっと頬を膨らませて、


「そんなことない。裸を見合った仲でしょー」


 少しどやっとした顔で言った。


「いつの話?」

「16年前くらいだねー」


 白いワンピースがひらひらしている。ひらひら、ひらひら。


「話は変わるんだけど」

「んー、なに?」

「……君は、どうして死んだの?」


 秒針がうるさいほどに鳴る。ちく、たく、ちく、たく。

 秒針に呼応するかのように、僕の心臓が脈を打つ。


「どうしてだろーね?」

「……真面目に」

「まじめだよー。わたしが真剣じゃなかったことなんてある?」

「たくさん」


 僕がそう言うと、すずは再びむぅっと頬を膨らませて、僕の頬をつねった。

 白いワンピースがひらひら揺れる。ひらひら、ひらひら。

 彼女が頬をつねるのを無視して、ひらひらを視界に入れないようにそっぽ向いて、僕は考えた。どうして、芹沢いすずは死んだのか。あるいは、どうしてひとりで死んだのか。


「わたしはねー、きっと、生きてちゃだめだったんだよー」


 僕がそっぽ向いたからか、あるいはすずの気まぐれか、僕の頬をつねるのをやめた彼女は、どこかさみしそうにそう言った。

 生きてちゃだめだったんだよー。驚いて、それを否定しようと振り向くと、


「じょーだん」


 すずは、いたずらっ子のように、笑って言った。1年前とは違う長さの髪が、ゆらゆら揺れる。ゆらゆら、ゆらゆら。

 僕が問い詰めようと口を開くと、彼女は「りょーちゃんは」と明後日の方を向いて、言葉を探したあと、


「りょーちゃんは優しいから、わかんないよ」


 白いワンピースを揺らして言った。

 冷房に当たった髪が、ふわりと舞う。ふわり、ふわり。1年間、表情を隠すために伸ばした前髪が、今だけ鬱陶しく思えた。

 なにかを言おうと口を開いて、冷たい風にかき消される。霧散した吐息が、長い前髪をかすかに揺らした。


 彼女はどうして死んだのか。


 うしろで手を組んで、白いワンピースをひらひらさせて、なるほど、彼女は本当に幽霊なのかと、ぼんやり考える。亡くなった人の記憶は、声から消えていくらしいよ。そんなどうでもいい知識が、不意に思い出された。


「……、君は」


 まとまらない考えを口に出そうとして、言葉に詰まって、なるほど、僕は自分で思っているより意気地なしなんだな、なんて思って。何回かの瞬きの末に、困ってすずを見る。

 彼女はそんな僕を見たあと、ぷっと吹き出して、失笑した。絶対に笑うところじゃないと思う。


「……君の笑いのツボがわからない」


 そう言うと、「ごめん、ごめん」なんて言って、涙を拭う。

 そこまで笑うことじゃないでしょ、と少しふくれて言うと「りょーちゃんだって」なんて返ってきた。僕の顔もいつの間にか緩んでいたらしい。


「すずが笑うから」

「りょーちゃんが笑わせるから」


 顔を見合わせて、ふたりで笑って、白いクッションを抱きかかえて。

 そうだ、と唐突に彼女が言った。「アルバムでも見ない?」


「ふたりで写ってるのは……、幼稚園、小学校、中学校。どれを見る?」

「ぜんぶ」

「欲張りだね、わかったよ」


 幼稚園から見ていこうか、と。アルバムを開くと、真っ先に入園式の写真が飛び出してきた。


「あ、これ、りょーちゃんだ。こっちがわたし」

「今とあんま変わんないな」


 ページをめくる。遠足、運動会、音楽会。


「あ、誕生日のとこ見たい」


 手形と写真つきの、誕生日のページ。今よりも随分小さい手形、同じ誕生月の子、将来の夢。


「『将来の夢、パイロット』だってー。……ちなみに、今の夢は?」

「専業主夫」

「ちゃんと働きなさい」


 すずは、と言いかけてやめた。すずに将来はない。なるほど、彼女は幽霊なので。


 続けて、小学校の卒業アルバム。

 懐かしいクラスメイト、未だに連絡を取っているクラスメイト。

 そして、すず。まだ幼い。


 中学校の卒業アルバム。

 記憶にある、隣りにいる彼女より幼い彼女がいた。懐かしい。


「……、あ」


 卒業アルバムをしみじみと見ていると、隣の彼女が声を発した。手には1枚の写真。高校1年の夏に撮った写真。アルバムを出すときに、棚からこぼれ落ちたらしい。


 僕とすずとで花火をしたときの写真。夏休み、すずが死ぬ前日。


「……、……これ」

「思い出づくりだよー」


 死ぬ前の、と付け加えて言った。


 前髪がふわりと浮き上がった。

 白いワンピースは、揺れない。


「……、りょーちゃん」

「なに」

「怒ってる?」

「どうして」

「だって、――」


 すずが口をつぐんだ。息をのむ。僕の頬を拭う。

 はじめて、自分が泣いていることに気づいた。


 前髪が濡れる。鬱陶しい。

 すずが、僕の前髪を持ち上げる。


「……ごめんね」


 謝ることじゃない。君は死ぬくらい、つらかったんだろ。


 ――芹沢いすずが死んだ理由を、誰もが「知らない」と言った。


 死ぬくらい苦しかったはずなのに、誰もそれに気づけなかった。もちろん、僕も。

 それがますます許せなくて、写真に染みを増やした。


 声が出ない。嗚咽が僕を呑み込んでいく。


「りょーちゃん」


 呼ばれる。引き寄せられる。


「……ずっと逃げたいと思ってた」


 ゆっくりと話しはじめる、声が心地よい。


「わたしね、他人を蹴落とすことしか考えてなかったの」


 温かい。


「そんな自分が嫌になった」


 このまま、現実から逃避したい。


「だから、死んだんだ」


 生きてるみたいだ。

 心臓も一定のリズムを刻んでいるし、温かい。


 すずが死んだっていうのは悪夢で、彼女が話していることは台本で。

 そんな現実逃避をする。


 嗚咽はいつの間にか止んでいた。涙もいつの間にか止まっていた。


 ゆっくりと顔を離す。

 白いワンピースの染みが、目の前。


「……僕は、そんな君でもよかった」


 だから、


「生きててほしかった」


 涙を袖で拭う。

 冷房にあたった髪が、ふわりと揺れた。ふわり、ふわり。


 うつむく。

 染みが顔にあたって、生ぬるい。


 変わらず僕を抱きしめる腕に、少し力がはいった。


 すずの黒い髪がふわりと揺れる。

 ワンピースの裾が、風にあたってひらひらと揺れた。


 そっと目を閉じる。

 目覚めたとき、すずが死んだってのは夢だって、そう言われる。

 いすずが死んだ? 馬鹿らしい、いすずは、ほら、生きてるじゃないか。

 すずの父さんの声が頭に浮かんだ。

「わたしが死んだなんて、ばかなこと考えてた?」

 そんなことを言って笑うすずが、目の前にいるはずだ。


 ――馬鹿らしい。

 彼女は、死んでいるのに。


 妄想を振り払う。

 芹沢いすずは、死んでいる。


 すずがそっと目をそらした。

 腕を離す。ぬくもりが離れる。


「……そろそろ、」

 すずが何かを言おうとする。


 まだ続きを言っていないのに、それがわかってしまって、急いで口を開いた。


「言うな」

「……、でも」

「……ごめん」


 だって、どうしたって君は消えるだろ。


「わたし、帰らなきゃ」


 嫌だと首を振る。

 困り顔のすずが、目の前。


「だいじょうぶだよ。りょーちゃん強いもん」

「……弱いよ。弱虫だ。すずのほうが、よっぽど」

「そんなことない!」


 急な大声に体を震わせる。

 前を見る。怒った顔。コロコロ表情が変わるな、なんて思って。


 羨ましい、なんて思った。


「りょーちゃんは、強い。強いよ。わたしが保証する」


 怒った顔から一変、優しい顔に戻った彼女。

 さすがに「幼なじみ」を信頼しすぎじゃないかなぁ、なんて。


「過信してるね」

「あたりまえ。何年、一緒にいたと思ってるの」

「……そうだね」


 生まれてからずっと、かな。


「だから、わたしがいなくても、だいじょうぶ」

「本当に、そう思う?」

「もちろん。だって、りょーちゃんは――」


 すずが消えてゆく。薄れていく体を見つめて、本当に死んでいるんだな、なんて場違いなことを考えて。ふっと幽霊が消えた瞬間、僕はどんな顔をしていただろう。


 とてもひどい顔に違いない、と思った。


 白いクッションを抱きかかえて、途中まで読んでいた本を手にとって、何気なく、最初から読み返すことにした。


 あるいは、それは。

 白い幽霊との、笑えない話。


 原稿用紙の文章は、いつまで経っても完成しなかった。

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