不在の百合の証明

紅野素良

寂しげな百合の花

 春の午後、都会の喧騒を避けるように小さなカフェの窓際に座る、静かな女性。


 彼女の目の前には、薄い紅茶が入ったカップと、どこか寂しげな百合の花がひとつ、ガラスの花瓶に差されている。手に持つ文庫本は何遍も読んだのだろう。所々擦り切れていて、それでも大切にしている様が伺える。ガラスの花瓶に差された百合の花は、まだ開ききらない蕾を持っており、その白さが、どこか私と似ているように感じられた。



 私は無意識にその花を見つめながら、過去の記憶に引き寄せられていた。

 あの日、春の訪れと共にわたしの人生に舞い込んだ一人の女性、悠莉ゆうり。彼女は、私が長い間閉じ込めていた感情を引き出し、毎日水を与えてくれた存在だった。しかし、今ではその花が枯れてしまったように、彼女はいなくなってしまっていた。




 カフェの中は穏やかな音楽が流れ、わずかな時間が過ぎていく。彼女は、ゆっくりとカップを持ち上げ、時間が経ち冷めたであろう紅茶をひと口飲み込んだ。私も冷めてしまった紅茶をよく飲んでしまうが、口の中で広がる味わいは、甘くもなく、苦くもない、どこか中途半端な感覚だ。



「百合の花が似合う。って、言われたことがあったな」



 私は、誰に言うでもなく呟いた。もちろん、彼女に聞こえるわけもなく。店内に流れる音楽が、相槌を返す。さりげなく彼女に近づき、手元を覗いてみる。



『 ツバメを追う、か弱き私。追って、追って、逃げて—――― 』





 ◇◇◇



桜花おうかは、百合の花が似合うよね。清らかで、でもどこか手の届かない感じ」



 まだ出会ったばかりの、桜の花が散り始めた頃、クラスになじめない私に声をかけてくれたのは悠莉だけだった。



 私のイメージする人との繋がりは、自分の持つ”縁”が自分を中心にして”円”のように広がっている。自分の持つ”縁”が多ければ、自分を囲む”円”もそれに応じて大きくなる。そして、その”円”が他人の持つ”円”と重なり、共通部分が大きいほど、その人との繋がりが深くなり、親密になれる。



 彼女は私よりもずっと大きな”円”を持っていた。だから、私以外の友だちを作ろうとすれば、彼女はすぐにでも私から離れていけただろう。それでも、彼女はそれをしなかった。それは、蕾に閉じこもって決して咲こうとしない私とは、似て非なるものだ。


 だからこそ、彼女が私を過大評価してくれていることに驚いた。花が似合うなんて、今まで言われたこともなかったし、正直嬉しかった。


「・・・私、さくらだけど」


「たしかに」


 こんなつまらない返しでも笑ってくれる彼女に、私はいつも素直になれない。



「それでも、短い時間で一気に咲いちゃう瞬間の美しさより、静かにゆっくりと咲く積み重ねの美しさのほうが、桜花らしいと思うけどね」




 ◇◇◇


 それから、私たちは三年間ともに高校生活を過ごし、無事に今日、卒業することができた。彼女と過ごす高校生活は、入学するまでには想像できないほど、充実したものになることができた。それも、彼女が隣にいてくれたからだ。私も彼女も大学に進学することが決まっている。でも、私は彼女の進学先を聞けなかったし、彼女からも聞かれることはなかった。この事実だけで、これからの私たちの関係を推し測ることができた。


「桜花、ありがとうね」

 おそらく、もう交わすことのない別れの挨拶。いつもなら 『また明日ね』 と言って笑ってくれるのに。


「・・・うん」


 私のほうが彼女に伝えたいことがたくさんあるはずなのに、言葉が出てこなかった。目の前で悠莉が微笑むたびに、胸の中で何かが潰れていくのを感じた。『ありがとう』、そう言いたかったのに、喉が詰まって声にならない。今にも涙が溢れだしてしまいそうで、俯くことしかできなかった。


「別れって嫌だね。こうやって桜花と話してると、余計に離れがたく感じちゃうよ」


 顔上げると、悠莉は今にでも泣きそうな顔をしていた。そんな悠莉を見たとき、私の中で何かが震えた。それは、悠莉が私をどう見ていたのか、そして私が悠莉をどう感じていたのかを実感させられた瞬間だった。


「ありがとう、こんな私と仲良くしてくれてありがとう」


 私たちは人目を気にせず、肩を寄せ合い、今までの思い出を噛みしめるようにして泣いた。きっと傍から見たら奇妙な光景だったと思う。クラスで目立たない私たちが泣いているのだ。でもいいんだ。私と悠莉の”円”にあなたたちは入っていないのだから。




◇◇◇



「—―――すみません」

 私を呼ぶ声が現実へと引き戻す。


「はい、ただいま」

 窓際に座る女性に呼ばれ、慌てて向かう。


「紅茶のお替わりいただけますか?」


「かしこまりました」


「あと、ここの窓って開けても大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫ですよ」


 女性は、カフェの窓を開け、春の空気を吸い込んだ。風は優しく、どこか懐かしい香りを運んできた。女性は微笑み、ゆっくりと立ち上がると、百合の花を優しく持ち上げ、窓辺に置かれた小さな鉢に差し直した。そして、ゆっくりとその花びらを指でなぞった。



     「やっぱり似合うよね、百合の花」




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