第35話 差し入れ

 時が経つのは早いもので、プログレスのギルドホームの裏手にはすでに大きなラボが建っていた。


 隣接するログハウス様式の雰囲気を損ねないよう木造の外見をしているが、高さも幅もギルドホームより大きいのでかなり目立つ。

 外見とは裏腹に、内装は白い化学建材が使われていて近未来的な様相となっている。


 建物全体はまだまだ建築途中だが、その中の小さな一角は完成しており、ベントは連日そこにこもっていた。


 ――コンコン。


「どうぞ」


 コンピューターを操作していたベントは、ノックが聞こえて1秒も間をおかずに答えた。


 いい香りとともに入ってきたのは、受付嬢のリゼ・ティオニスだった。


 ブロンドの美しい長髪と紫色のケープを揺らし、彼女はベントにほほえみかけた。


「ベントさん、お疲れ様です。今日はずっと姿を見なかったので、ご飯を食べていないんじゃないかと思って軽食をお持ちしました」


 リゼの持つトレイにはロールパンやホットミルクがのっている。


 彼女の言うとおり、もう昼を過ぎているのにベントは朝食も昼食もっていなかった。


「ありがとうございます。いただきますね」


 ベントは立ち上がってリゼの正面に立つと、軽食のトレイを受け取って机の端に置いた。

 そしてそのまま立った状態でロールパンを頬張る。


 実はこれまでも何度かリゼが差し入れを持ってきてくれていた。

 だからこれも日常のひとコマだった。


「あ、すごい! これが例のエアバイク改ですか!?」


 アメシストのような紫色の瞳が向けられた先には、パイプフレームにセットされたタイヤのないスクーターがあった。


 ハンドルと座席が黒い以外は白で統一されたシンプルなデザイン。

 科学大国であるシエンス共和国を想起させる代物である。


「そうです。ほとんど完成していて、あとは出力の調整をするだけです。明日の昼にはお披露目できると思いますよ」


「じゃあプログレスのメンバーに召集をかけて、コミス伯爵への連絡も手配しておきますね」


「ありがとうございます。助かります」


 リゼの差し入れを完食したベントはコンピューターの前に戻った。キーボードの上に手を置く。


 そのストイックな姿を眺めていたリゼは、なかなか動きださない指を見て、ベントの顔を見上げた。


「えっ!? ベントさん、大丈夫ですか!?」


 意外な光景を目にして、リゼは顔に驚愕の色を浮かべた。


 なんと、ベントが涙を流していたのだ。


「おや……?」


 ベント自身も言われるまで気づかなかった。自分のほおに触れ、確かめる。


 表情も声もいつもと変わらないのに、なぜか涙が出ている。まるでオイル漏れする旧世代のバイクのように。


「もしかして、エアバイク改の完成が嬉しいんですか? よかったですね。ベントさんの頑張りが成果につながって私も嬉しいです」


 エアバイク改の完成が嬉しいから涙が出た?


 そんなわけはない。


 事を成した大きさでいえば、シエンスで最初にエアバイクを開発したときのほうが大きい。

 しかしベントが涙を流したことなど、かつて一度もなかった。


「自分でも驚いています。リゼさん、ほかの人には秘密にしておいてくださいね」


「わかりました。ふたりだけの秘密ですね!」


 今日もリゼの笑顔は陽だまりのように温かかった。


 ベントの中の固い何かがじんわりと溶けていく。


 それがシエンスの侵略からウィルドを守ることに対するプレッシャーなのか、それとも自分の心に内在するもっと抽象的な何かなのか、ベント自身にもわからなかった。


「ベントさん。〝隣は赤字でもまず衣服〟といいます。無理せず休んでくださいね」


「ありがとうございます。ちなみに、正しくは〝隣は火事でも先ず一服〟ですよ」


「はわわ!」


 ぴょこんと跳ねて赤面したあと、「あはは」と照れ笑いするリゼ。

 変化が少ないながらもわずかに破顔するベント。


 部屋の色は冷たいが、暖かい空気が部屋を満たしていた。


 空になったトレイを持って出ていくリゼを見送ってから、ベントは作業を再開した。

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