第18話 絶望への旅立ち

 暗い石造りの壁に囲まれた小さな部屋。僅かな光が天井近くの出窓から差し込むだけ――。

 シン・タカヤは冷たい床に腰を下ろし、膝を抱えてじっと過ぎゆく時間を感じていた。捕らわれてから三日が経った。初日の審問以降、誰も彼の元を訪れる者はいなかった。


 心には様々な思いが交錯していた。結婚式で別れて以来、一度も会えないままのリーシアの姿が瞼に浮かぶ。彼女は今どうしているのだろう。心配しているに違いない。それでもシンには一つの希望があった。


「きっと、領主様が何とかしてくださるはずだ…」


 アムス・リオエール男爵。彼は善政を敷き、町の人々からも慕われている人物だった。シン自身も、父親の代から親しくさせてもらっていた。彼ならば、自分にかけられた偽りの容疑を晴らしてくれるに違いない。そう信じていた。


 石の壁にもたれかかり、静かに目を閉じる。遠くから聞こえる鐘の音が、午後の訪れを告げていた。その時、鉄製の扉が重々しく開く音が響いた。見習い僧がひょこりと顔を出し、無表情に告げる。


「ついて来い。ルドルフ様がお待ちだ」


 シンは立ち上がり、錆びた鎖の音を響かせながら廊下へと出た。足枷が歩みを重くする。冷たい石畳を一歩一歩踏みしめ、薄暗い通路を進んでいく。心臓が高鳴り、不安と期待が入り混じる。

 やがて、小さな部屋の前で立ち止まった。見習い僧が扉を開け、中へと促す。


「入れ」


 部屋の中には、淡い光が差し込んでいた。窓際に立つルドルフ・ジットが、背中を向けたまま外を眺めている。シンが入ると、静かに振り返った。


「シン・タカヤ、座りたまえ」


 示された椅子に座ると、ルドルフはゆっくりと歩み寄り、手元の書類に目を落とした。


「君の審理の結果が出た」


 シンは緊張で喉が渇き、声を出すことができなかった。ただ、相手の言葉を待つ。


「君は異教信仰の罪で有罪とされた。明日、北の果てにあるガレリア鉱山へと送られることが決まった」


 その言葉は、雷鳴のようにシンの頭上に落ちた。


「そんな…待ってください! 何かの間違いです! 俺は異教徒などではありません!」


 ルドルフは冷ややかな目で彼を見つめた。


「決定は覆らない。教会の裁定に異議を唱えることは許されていない」


 シンは必死に食い下がる。


「領主のアムス様はこのことをご存知なのでしょうか? あの方ならならきっと――」


 そこでルドルフの口元に微かな笑みが浮かんだ。


「君は勘違いしているようだ。今回の有罪判決を下したのは、教会ではなくマゴラ裁判所だ。つまり、アムス・リオエール男爵の直轄で行われたものだ。そして容疑はスパイ罪だよ」

「スパイ罪……? そんな、信じられない……」


 シンの視界がぐらりと揺れた。頭が真っ白になり、言葉が出てこない。


「では、連れて行け」


 ルドルフが見習い僧に指示を出すと、シンは立ち上がる力もなく、その場に崩れ落ちた。意識が遠のき、暗闇が視界を覆っていく。


 翌朝、冷たい水が顔にかかり、シンは目を覚ました。見習い僧が水桶を手に立っている。


「起きろ。護送の時間だ」


 鈍い痛みが全身を襲う。昨夜の出来事が現実だったことを思い知らされ、胸が締め付けられる。


「本当に……、ガレリア鉱山へ……」


 重い足取りで立ち上がり、再び鎖を引きずりながら部屋を出る。外には重厚な馬車が待ち構えていた。馬が引く荷台には乗客室とはほど遠い、囚人用の鋼鉄の箱が乗っていて、箱の壁には教会の紋章はなく、マゴラ裁判所の紋章が刻まれている。


「乗れ」


 無機質な声に促され、シンはまるで荷物のように鋼鉄の箱の中に乗り込んだ。中には一人の男が既に座っていた。中年で、ひねくれた目をした男だ。彼はシンを見ると、薄笑いを浮かべた。


「新入りかい。よろしくな」


 シンは返事をする気力もなく、視線を床に落とした。馬車の扉が閉まり、重い音を立てて動き始める。

 しばらくの沈黙が続いた。車輪の軋む音だけが、二人の間に響いている。その男が口を開いた。


「俺の名前はコーネル・ダート。政治犯さ。お前は?」


 シンは答えたくなかったが、無視することもできず、小さく呟いた。


「シン・タカヤ……」

「へえ、若いのにご苦労なこった。何の罪で?」

「……異教信仰と、スパイ罪だと」


 コーネルは鼻で笑った。


「そうか、お前がね」


 同じ囚人なのに、コーネルの上から見下すような態度が気に障り、シンは苛立ちを覚えた。だが言い返す気力もなかったので、窓の外に流れる景色をただぼんやりと眺めた。


「思い出した。お前が濡れ衣を着せられた小僧か」


 コーネルが唐突に呟いた。


「何か知っているのですか」


 無視するつもりが、思わず身を乗り出していた。なぜ自分がこんな目なうのか――今、シンが一番知りたいことだ。

 食いついてきたシンの様子を見て、コーネルの顔に少しだけ同情するような表情が浮かんだ。


「俺たちみたいな活動をしてると、裏の情報が耳に入ってくる。政治ビラや偽手紙専門の代書屋に、奇妙な依頼が来た話を聞いた。ある男と異教徒の国の交流をでっち上げる告発状だ。そしてその告発状を届けたのは、リオエール男爵の息子、ベルガ・リオエールだと聞いている」


 その名前に、シンの心臓が跳ねた。


「何だって……?」

「知らなかったのか? アムスは良い領主として評判が良かったが、それでも息子のためにお前を有罪にしたって話さ」

「嘘だ……そんなはずはない……」


 シンは顔を上げ、コーネルを真っ直ぐに見据えた。


「何で嘘なんかつくもんか。同じ罪人同士、情報交換しようじゃないか」


 シンの頭の中は混乱していた。アムス伯爵は善良な領主であり、自分の父とも親交があった。それなのに、なぜ……


「もしそれが本当なら、なぜ自分が……」


 心がざわめき、全ての希望が崩れ去っていくような感覚に陥った。信じたくない。しかし、現実は容赦なく迫ってくる。

 コーネルは肩をすくめた。


「世の中、そんなもんさ。貴族なんて自分の都合で平民を弄ぶのが常だ」


 シンは拳を握り締め、震える声で呟いた。


「リーシア……母さん……」


 大切な人たちの顔が次々と浮かんでは消える。自分はこのまま死んでしまうのか。絶望が胸を覆い尽くす。


「そんな顔をするな。これから行くところは地獄だと評判の場所だ。気合いを入れてないと、すぐに死体になってマゴラに帰ることになるぞ」


 正真正銘の犯罪者のはずのコーネルは、実はかなりやさしい男のようだ。シンの身を本気で心配している。

 しかし、シンは生きる気力を失っていた。ボーッとして焦点が定まらない目を見ながら、コーネルが呟く。


「今まで平和に生きてきたんだな。だが、この世の中には不条理なことはいくらでもある」


 馬車はひたすら北へ向かって進んでいく。外の景色は次第に荒涼とした風景へと変わり、冷たい風が隙間から吹き込んできた。

 シンはただ、何もできずに運命に流されていく自分を感じていた。


「おい、もうすぐ北の無人地帯に入る。氷獣が出る場所に入ってしまったら、もう逃げ出す方法はなくなる。逃げ出す気があるなら手伝ってやるよ」


 コーネルが囁くように言った。しかし、シンは首を横に振った。


「帰ったって……。もう、何を信じていいのか分からないんです」


 その言葉に、コーネルは少しだけ真剣な表情を見せた。


「まあ、無理もないか。でもな、この世界には平和に生きていたのに、ある日突然何の罪もないのに殺されて、全てを奪われてしまう人たちがたくさんいるんだ。生きてる内はちゃんと目的を見つけて、懸命にあがく義務があるんだぜ。それに、生きていれば何か変わることも、あるかもしれないぜ」


 コーネルはその言葉を、シンにではなく自分に向かって言ったように見えた。この男にも何か辛い過去があるのかもしれないと、シンは思った。ただ、今はそれを尋ねる気力はない。


 シンは黙ったまま、ただ遠くマゴラの町のある方角をじっと見つめていた。

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