第13話 遠征のエピローグ
シャンハの夜空は、無数の星々が煌めき、宮廷の塔の先端に静かに光を降り注いでいた。壮麗なロック帝国の宮殿は、アフガム遠征の勝利を祝うために一層華やかに飾られ、その中では高貴な衣装に身を包んだ貴族たちが賑やかに談笑していた。
リュウ・クジョーは、喧騒から少し離れたバルコニーに立ち、遠く彼方の星々を見つめていた。二一才という若さで少将に任命され、第七軍団を率いることとなった彼だが、その表情は静かで、内に秘めた決意が瞳の奥で燃えている。
「これが始まりだ...」
微かに呟いた言葉は、夜風に乗って消えていく。腐敗した貴族たちと皇帝を打倒し、新たな時代を築く――その壮大な野望が彼の胸の内で煮えたぎっていた。
その時、背後から柔らかな声が響いた。
「美しい夜ですね、リュウ少将」
振り返ると、月明かりに照らされた一人の女性が立っていた。美しい黒髪は波のように揺れ、深紅のドレスが彼女の気品を一層引き立てている。皇帝フィリップの四女、エレノア・ロック。シャンハの薔薇と謳われ、多くの貴族たちから求婚を受けていながら、二五歳となった今も独身を貫いている。
リュウは一瞬、その美貌と存在感に見とれたが、すぐに姿勢を正した。
「エレノア殿下、お目にかかれて光栄です」
彼女は薄く微笑み、バルコニーの手すりに寄りかかった。
「先ほどの宴では、多くの方々から称賛を受けていましたね。確かに素晴らしい戦功です。たった一度の戦功で、ここまで昇進するのは異例のことですが、それに見合う働きと私も思います」
その言葉には、どこか探るような響きが含まれていた。リュウは慎重に言葉を選ぶ。
「皆様のご支援と幸運に恵まれた結果です。特にカール中将の不屈の粘りがなかったら、軍自体が崩壊してました。私だけがこのような過分な評価をいただき、申し訳なくも、陛下のご厚情に身が引き締まる思いです」
エレノアは月を見上げ、淡々と続けた。
「ですが、私は思うのです。あなたは全てを予測していながら、あえて黙っていたのではないかと」
リュウの心臓が一拍早く鼓動した。彼女の洞察力は鋭く、その瞳はまるで心の奥底を見透かすようだ。それでも彼は冷静さを崩さずに答えた。
「とんでもない。戦場では何が起こるか分からないものです。命を賭ける場で、全てを予測するなど不可能に近いことです」
エレノアは彼の横顔をじっと見つめた。
「そうでしょうか。あなたほどの才覚があれば、可能だったのでは?」
リュウは一瞬、彼女の瞳と視線を交わした。その中に感じるものは、ただの興味ではない。
「もし、あの戦に不実を見いだしたのであれば、私などを疑われる前に、この作戦の決定の背後にあったものを、むしろ殿下のご兄弟にお聞きになるべきかと思いますが」
少し皮肉を込めた言葉に、エレノアは口元に微笑を浮かべた。
「確かに。その通りですわね。まずは兄を断罪しなければなりませんね」
彼女はそう言い残し、ドレスの裾を揺らして踵を返した。去り際に振り向くこともなく、月明かりの中にその後ろ姿が消えていく。
リュウは静かにその美しい背中を見送りながら、胸に不思議な感覚を覚えた。
「彼女が……、我が野望の最大の敵になるかもしれないな」
エレノアの持つ鋭い洞察力と野心。それは彼自身の目的と交錯し、やがては対立する運命を暗示しているように思えた。
バルコニーから宮殿内を振り返ると、明るい笑い声や音楽が遠くから響いてくる。カール・エッフェルトやシェスター少将たちが杯を掲げ、彼を称える声が聞こえる。
「リュウ、こっちに来いよ!」
カールが手招きしている。その笑顔は純粋な友情と信頼に満ちていた。リュウは一度深呼吸をし、自分の中の迷いを振り払った。
「今は、進むべき道を見失うわけにはいかない」
彼は再び決意を胸に、明るい宴の中へと足を踏み入れた。
***
宴会場では、美しいシャンデリアが眩い光を放ち、豪華な装飾が空間を彩っていた。貴族たちの華やかなドレスや軍人たちの制服が輝きを増し、祝福のムードが満ち溢れている。
「リュウ少将、おめでとうございます!」
「若くして少将とは、大したものだ」
多くの者たちが彼に声をかける。リュウは一人一人に丁寧に礼を述べながらも、周囲の視線の中に嫉妬や警戒を感じ取っていた。
オスカー・ネルヴィン大将やエーリヒ・マイヤー中将ら、古参の将軍たちは遠巻きに彼を見つめ、不満げな表情を浮かべていた。
「たった一度の戦功で、過分な恩賞だな……」
小さな声が耳に届く。リュウは顔には出さず、心の中でせせら笑った。
その時、ピエール・ビジャール中将が彼の前に現れた。鋭い眼差しの中に知性を感じさせる彼は、用兵家としても名高い人物だ。
「リュウ少将、ちょっといいかな」
「ビジャール中将、何でしょうか」
二人の名将の対峙で、周囲に緊張が走る中、ビジャールは微笑を浮かべた。
「あなたの軍才、確かにきらめくものがある。いろいろなことを言う者もおるが、それだけは他の者たちも認めざるを得ないでしょうな。ぜひ、一度軍事について、あなたとゆっくりと話をしたい」
「光栄です。ぜひお時間をいただければ」
二人の間に、静かな共感が生まれた。周囲の将軍たちもその様子を見て、渋々ながらもリュウを認めざるを得ない。
***
宴もたけなわとなり、人々はそれぞれに談笑や踊りを楽しんでいた。リュウは再びバルコニーに出て、夜空を見上げた。遠く輝く星々は、彼の未来を示しているかのようだった。
「エレノア・ロック...」
彼女の存在が、彼の心に重くのしかかる。共に野心を抱く者として、いずれ真っ向からぶつかる日が来るだろう。
「だが、負けるわけにはいかない」
風が彼の髪を揺らし、冷たい夜気が肌を刺す。リュウは拳を握りしめ、自分の中の熱い思いを確かめた。
「新たな時代を、この手で創り上げるために」
その決意とともに、彼は静かに笑みを浮かべた。
***
シャンハの夜空は深い群青色に染まり、宮廷の塔の尖端には星々の輝きが瞬いていた。アフガム遠征の勝利を祝う宴は、豪奢な宮殿内で賑わいを見せていたが、シャルル・ロック皇太子はその喧騒から離れ、自らの部屋に籠もっていた。高窓から差し込む月明かりが、彼の彫刻のような横顔を淡く照らし出している。
「勝利か……」
シャルルは机に肘をつき、深いため息をついた。多くの犠牲者を出したにもかかわらず、周囲からは称賛の言葉ばかりが浴びせられる。それが彼の心に重くのしかかっていた。
「もし、クジョーがいなければ…」
彼は拳を握り締めた。己の軍才の欠如を痛感し、無力感が胸を締め付ける。窓の外を見つめる瞳には、後悔と自責の念が滲んでいた。
その静寂を破るように、扉が軽くノックされた。
「お兄様、入ってもよろしいですか?」
涼やかな女性の声が響く。シャルルは一瞬顔をしかめた。
「エレノアか…今は一人にしてくれ」
「大事なお話がありますの。クレマンも一緒です」
扉が開き、エレノアが弟のクレマンを伴って入ってきた。
「話したくないと言っているだろう」
シャルルは苛立ちを隠さずに言ったが、エレノアは微笑を浮かべたまま優雅に部屋の中央まで進んだ。
「申し訳ありませんが、これは放っておけない問題ですの」
クレマン・ロックも静かに頭を下げた。このシャルルの六つ下の弟は、穏やかな性格で平和を望む人物だが、金属性のネイチャーフォースを持ち、その武勇は帝国内でも指折りとされている。
「一体、何の話だ?」
シャルルは重い口調で尋ねた。
エレノアはその青い瞳で兄を真っ直ぐに見つめた。
「クジョーについてですわ。彼は全てを知っていて、あえて黙っていたのではありませんか?」
「何を言っている?」
シャルルは眉をひそめた。
「彼は開戦前から敵の軍服を集め、伏兵に備えていたこと、ご存知でしょう? それなのに軍議では何も言わず、結果的にお兄様の失策を救う形になりました。まるで手柄を独り占めするための策のように思えますわ」
その言葉に、シャルルは苦笑した。
「確かに、俺は愚かだった。己の軍才を証明したくて、アラン少将のような無能者を信じ、カール・エッフェルトのような賢臣の意見を退けてしまった。あの場で俺に意見できる者などいなかったさ」
エレノアは一歩前に進み、なおも詰め寄る。
「ですが、クジョーは違います。彼は全てを見通し、黙っていた。その裏には何か企みがあるに違いありません」
クレマンが口を開いた。
「姉上、落ち着いてください。私は遠征に反対し、王都の守りとしてここに残っておりました。その私が言えることではないかもしれませんが、クジョーが多くの兵の命を救ったのは事実です。彼の恩賞が過分だとは思いません」
暗に、同じく王都にいたエレノアを牽制するような口調だった。エレノアは一瞬、その視線を受け止めたが、すぐに言い返した。
「クレマン、あなたは甘いですわ。あの軍才に対抗できる者がいない以上、彼は危険な存在です。いずれ帝国の脅威となるでしょう」
シャルルは呆れたように肩をすくめた。
「そんなに気になるなら、お前が彼を婿に迎えて内側から見張ればよいではないか」
「馬鹿なことを言わないでください!」
エレノアは顔を赤らめ、声を荒げた。しかし、その胸の内ではリュウ・クジョーの端正な顔立ちが浮かび、心が妙にときめくのを感じていた。
「まあまあ、二人とも」
クレマンが穏やかに間に入る。
「今は内部で揉めている場合ではありません。皇帝陛下もご心配なさるでしょう」
シャルルは深く息を吐き、窓の外に視線を戻した。
「そうだな。すまない、エレノア。俺の不甲斐なさが招いたことだ。だが、クジョーを疑うのはやめてくれ。彼は帝国にとって貴重な人材だ」
エレノアは唇を噛み締めた。兄の言葉に納得できない自分と、心の中で芽生える微妙な感情。それが彼女を更に苛立たせた。
「わかりましたわ。今日はこれで失礼します」
彼女はドレスの裾を翻し、扉へと向かった。クレマンも軽く頭を下げ、彼女の後を追う。
部屋に残されたシャルルは、静かな沈黙の中で再び一人になった。月明かりが床に影を落とし、その中に彼の孤独な姿が浮かび上がる。
「クジョーか…」
彼は小さく呟いた。
「彼もまた、帝国の未来を握る鍵となるのだろうか」
その問いに答える者はいない。ただ、静かな夜だけが彼の心の迷いを包み込んでいた。
一方、廊下を歩くエレノアは、自分の胸の高鳴りに戸惑っていた。リュウ・クジョーの冷静な眼差し、戦場での勇姿。その影が頭から離れない。
「私は一体…」
彼女は小さく首を振り、自分の感情を振り払おうとした。
「彼が敵として立つ前に、その本心を見極めなければ」
エレノアの瞳には、決意と複雑な感情が入り混じっていた。
夜の宮殿は静寂に包まれ、遠くから微かに風の音が聞こえてくる。新たな運命の歯車が、静かに回り始めていた。
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