第11話 戦いの行方

 熱気と砂埃が渦巻くファイザーバード要塞の戦場。太陽は頂点よりもやや西に傾き、荒涼とした大地を斜めに照りつけていた。遠くには切り立った山脈が連なり、天空に向かってそそり立つ。その壮大な風景の中、ラシード・ハサン・ムハンマドは馬上から戦況を静かに見つめていた。


 彼の鋭い黒い瞳は、戦場の隅々までを逃すことなく捉えている。頭に巻かれたターバンは白く、風になびく衣装は砂漠の風景に映える。冷静沈着な顔立ちの中には、わずかな疑念の色が浮かんでいた。


「まさか、あのマランが僅か千の兵に退けられるとは…」


 彼は低く呟いた。その声を聞き取った隣のヤシン・バムが、深い皺の刻まれた顔で微笑を浮かべる。


「ラシード様、軍勢の数は絶対ではありません。タイミングと精鋭さがあれば、千も万の力を発揮します」


 ラシードはハッとし、自身の考えを顧みた。自分も五千のアフリアド軍で四万のシャルル本隊を壊滅寸前に追い込むことを信じていた。過信していたのはマランだけではないと悟る。


「確かに、その通りだな。我々も同じ誤ちを繰り返さぬよう、用心しなければ」

「御意に」


 ヤシンは深く頷いた。ラシードは即座に指示を出す。


「隊を二つに分ける。一万の兵をお前に預ける。敵の伏兵に対処せよ。味方が挟撃されるのを防ぎつつ、慎重に攻めるのだ」

「お任せください」


 ヤシンは馬を返し、迅速に部隊をまとめていく。その背中を見送りつつ、ラシードは再び戦場全体に目を向けた。


 アフリアド軍は撤退したが、まだ勝機はあった。東の敵軍、すなわちシャルルとアランの軍は戦闘不能。唯一残るカール・エッフェルトの軍だけが奮闘している。数では互角だが、敵軍の疲労は顕著であり、勝利への道は開けていた。


「北、南、西の敵軍も要塞からの牽制で動けぬ。この好機を逃す手はない」


 ラシードは自らに言い聞かせるように呟く。慎重に、しかし苛烈に――彼の用兵術は常に的確で、無駄がなかった。


 だが、その時だった。右側面から突如として強烈な衝撃が走った。砂塵が巻き上がり、喚声が響く。ラシードは瞳を細め、視線をその方向に向けた。


「何だ?」


 迫り来る敵影。その数、およそ三千。彼らはまっすぐにラシードの本隊を目指し、猛然と突進してくる。その先頭には、強い決意を宿した若き指揮官の姿があった。


「また伏兵か……!」


 ラシードは即座に判断した。


「動揺するな! 相手は少数だ。三重の壁を敷いて防戦せよ!」


 兵たちは指示に従い、盾と槍を構えて防御陣形を整える。しかし、敵の勢いは凄まじく、精強さは予想を超えていた。瞬く間に第一の壁が突破され、第二の壁も揺らぎ始める。


「なんという強さだ……!」


 ラシードは自ら剣を握り締めた。その剣は祖先から受け継いだ名剣であり、その刃は陽光を反射して煌めく。


「ここまでか……」


 覚悟を決めたその時、砂埃の中から力強い声が響いた。


「ラシード様、ご無事ですか!」


 ウスマン・イブン・アフマドが二千の精鋭『サハラシューラ』を率いて駆けつけたのだ。その逞しい体躯と鋭い眼光は、まさに戦場の鬼神と呼ぶに相応しい。


「ウスマン!」


 味方の兵たちから歓声が上がる。ウスマンはラシードと敵兵の間に割って入り、そのまま敵の中心へと斬り込んでいく。


「我が剣にかけて、貴様らをここで止める!」


 彼の豪快な太刀筋は敵兵を次々となぎ倒し、その武勇は圧倒的だった。


 しかし、敵軍の中から一際大きな男が前に出た。黒い肌に筋骨隆々の体。彼の名はアダム・クロード。冷静な瞳でウスマンを見据える。


「俺が相手だ」

「ほう、なかなかの男だな!」


 二人の剣が交錯する。火花が散り、金属音が響き渡る。その技量は互角であり、激しい攻防が繰り広げられる。


 時間が経つにつれ、ウスマンの技が徐々に優勢を引き寄せる。彼の攻撃は鋭さを増し、クロードは防戦一方となった。


「くっ……!」


 クロードが危機に陥ったその時。


「待て!」


 長身の剣士が助太刀に現れた。彼はマット・ホランドと名乗り、冷静な表情でウスマンを見据える。


「二人まとめてか。面白い!」


 ウスマンは笑みを浮かべ、更に攻撃の手を強める。だが、二人の連携は見事であり、一進一退の攻防が続く。


 その間に、ラシードは戦況を再び見渡した。ヤシンが率いる一万の兵は、敵の伏兵と対峙している。敵は精強だが、ヤシンは慎重に兵を進め、兵力差を活かして徐々に圧力をかけている。


「時間の問題か……」


 カールの軍も疲労の色が見える。戦線が膠着すれば、疲労は一気に押し寄せるものだ。ヤシンが左翼を制した時、全てが決まる。


 ラシードは勝利を確信しかけた。しかし、その瞬間——


 鋭い銃声が戦場に響いた。一瞬の静寂。ウスマンが右肩を押さえ、膝をついていた。


「ウスマン!」


 ラシードは驚愕した。射手は遥か後方、三千の敵のさらに後ろに位置する指揮官らしき人物。距離は八百メートルはある。信じがたい狙撃の腕前だ。


「まさか、あれほどの射手がいるとは…」


 感心している場合ではない。ウスマンが倒れれば、サハラシューラの士気は落ち、戦況は一変する。


「選択を迫られるな…」


 ラシードは瞬時に考えた。このまま戦いを続ければ、勝利は手中にできるかもしれない。しかし、その代償としてウスマンの命は失われ、自分自身も無傷では済まない可能性が高い。


 もう一つの選択肢は、ウスマンを救出し、全軍を要塞へ撤退させること。幸い、退路はまだ確保されている。


「……決めた」


 ラシードは深く息を吸い込み、決断した。


「全軍、撤退せよ! ウスマンを救出し、要塞へ戻る!」


 兵たちは一瞬戸惑ったが、ラシードの揺るぎない声に従い動き始めた。負傷したウスマンは仲間たちによって手早く背負われ、安全な場所へと運ばれていく。


 ラシードは最後に戦場を一瞥した。砂塵が舞い上がり、喧騒が遠のいていく。


「計算違いが多すぎた。この場で全滅するわけにはいかない」


 彼は馬の手綱を引き、要塞への道を進んだ。


***


 激しい戦いが終わり、戦場には静寂が戻った。敗走するラシード軍を見送りながら、カール・エッフェルトは深い息をついた。若き将軍の顔には疲労の色が浮かんでいる。


「何とか持ちこたえたか……」


 彼の隣にローガ・メルボが歩み寄る。精悍な顔つきと割れた顎が男臭い。


「間一髪でしたね、カール将軍」

「お前たちのおかげだ。伏兵を展開してくれたおかげで、敵の勢いを削ぐことができた」


 ローガは小さく頷いた。


「しかし、ラシードは手ごわい相手です。もう要塞から出てくることはないでしょう」


 ローガの言いたいことは、カールにはよく分かっていた。


「そうだな。我々も次を話し合わなければならない」


 遠くには、撤退するラシード軍の姿が小さく見える。要塞の扉が開き、彼らを迎え入れて閉ざされた。


「ところでクジョーはどうした? 姿が見えぬが」

「我らが殿は、最期のマジックの仕込みに入ってます」


 そう言って、ローガは片目を瞑った。カールにはその真意はよく分からないが、今まで敗戦の危機を悉く救ってもらったクジョーが動くのだ。きっと誰もが驚く仕掛けなのだろうと、期待した。


 砂漠の夕日が地平線に沈み始め、空は黄金色に染まっていく。戦いの終わりと共に、新たな戦いが始まりつつあった。




 要塞内の医務室では、ウスマンが治療を受けていた。ヤシン・バムがその傍らに立ち、深い皺の刻まれた顔に憂いを浮かべている。


「ウスマン、無事で良かった」

「ヤシン殿…申し訳ない。私の不覚です」

「いや、あなたが命を落とさずに済んだことが何よりだ」


 そこへラシードが静かに入ってきた。彼はウスマンの手を取り、真剣な眼差しを向ける。


「ウスマン、君の武勇には感謝している。しばらく戦いはないから、今は休むのだ」

「ラシード様…お気遣い痛み入ります」


 ラシードは微かに微笑んだ。


「次の戦いこそ、勝利をつかみ取ろう」


ウスマンは力強く頷いた。


***


 要塞の高台から、ラシードは夜空を見上げた。満天の星々が瞬き、静寂が広がっている。


「勝利は目前だと思っていたが、やはり戦いは生き物だ」


 彼は拳を握り締めた。寒風が彼の衣装を揺らし、遠くの狼の遠吠えが微かに聞こえる。


「しかし、あの二つの伏兵、あの鮮やかな手並みはカールのものではない。我をも凌ぐ大器が帝国軍にいるということか」


 ラシードの心には新たな強敵に対する闘志が生まれていた。敗北ではなく、一時の退却。挽回の機会は必ず訪れると信じて。


 夜の闇は深まり、戦士たちはそれぞれの思いを胸に、次の戦いに備えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る