第10話 伏兵には伏兵を
蒼穹を裂くように、太陽がじりじりと肌を焼く中で、アルバイン連合のファイザーバード要塞は、切り立った崖と荒涼とした大地に囲まれ、不気味な静寂を湛えていた。その要塞を向こうに見据え、アフリアドの猛将マラン・カマラは戦場を見渡していた。彼の漆黒の肌は陽光を反射し、銀糸で刺繍された軍装が風になびく。その眼差しは獲物を狙う鷹のごとく鋭く、口元には自信に満ちた微笑が浮かんでいた。
「シャルル・ロック、ここまでだな」
彼は低く呟き、手にした長槍を地面に突き立てた。遠方には混乱に陥るロック帝国の軍勢が見える。皇位継承者であるシャルルを追い詰め、勝利は目前だった。
「全軍、突撃せよ!」
マランの轟くような号令に、アフリアド軍の兵士たちは一斉に前進を開始した。砂煙が立ち上り、大地が揺れる。彼らの戦歌が戦場に響き渡り、その勢いは止めようもなかった。
マランは次なる展開を思い描いていた。シャルルを討ち取れば、アフリアドの名声はさらに高まる。帝国は弱体化し、アルバインとアフリアドがこの世界における二大強国と成るだろう。おそらく二国の関係も帝国を滅ぼすまで、その後は世界の覇権をかけて、ラシードと戦場でまみえることに成る。この戦いの先を想像するマランの胸には、熱い高揚感が渦巻いていた。
しかし、その瞬間——背後に不穏な気配が漂った。微かな風の流れが変わり、鳥たちが一斉に飛び立つ。マランは眉をひそめ、背後を振り返った。
「何だ、この感じは…」
彼の側に控えていたアミナタ・ディラックが静かに近づく。彼女の白髪混じりの髪が風になびき、その瞳は冷静に周囲を見渡していた。
「マラン、どうやら後方に動きがあります」
その言葉を聞くや否や、遠くの砂煙の中から一隊の軍勢が姿を現した。旗には見たこともない家の紋章が描かれている。
「何!? 帝国軍が背後に!」
急襲してきたのはローガ・メルボ率いる千の兵。彼らはマランが越えて来たパミール山脈と回廊を挟んで反対側にあるヒンドゥークシュ山脈に潜んで、戦いの始まりと共に密かに山を下りて追跡して来たのだ。
――リュウ・クジョーは、彼の特殊能力で一部の獣の記憶を知ることができた。ユキヒョウの記憶から敵の伏兵の存在を知ったリュウは、ローガに伏兵として待機するように命じた。ローガは戦いのクライマックスを狙って、じっと待っていた。今この場に臨む彼の鋭い眼光は、まるで獲物を狙う狼のようである。
「今だ、突撃せよ!」
ローガの声が響き、彼らは一斉にアフリアド軍の背後に襲いかかった。たった千の兵であるにもかかわらず、その攻撃は電光石火であり、大きな武功を目の前にして前のめりになっていたアフリアド軍の後方部隊は、為す術もなく崩壊していく。
「くっ、何たる不覚…!」
マランは歯噛みし、怒りに拳を震わせた。その時、最前線で猛威を振るった後、再び本営に控えていたカマウ・ンジョロゲが一歩前に出る。彼の引き締まった筋肉は緊張でさらに硬くなり、鋭い目つきが光る。
「マラン様、ここは私が食い止めます」
「カマウ…頼んだぞ」
カマウは深く頷き、重い鉄棒を肩に担いだ。その鉄棒は普通の人間では持ち上げることすら困難な代物である。
彼は鋭い嗅覚で敵の気配を感じ取っていた。
「あの先にいるのは、並の相手ではない…」
ローガの部隊に迫り、カマウは大声で叫んだ。
「アフリアドの勇士たちよ! 我らの祖国を汚す者を許すな!」
その声に呼応して、動揺していたアフリアド軍の兵士たちは再び士気を取り戻し、反撃を開始した。
一方、ローガは冷静に戦況を見極めていた。
「精兵の損害は避けねばならぬ……だが、あの男……」
彼の視線の先には、まっすぐにこちらに向かってくるカマウの姿があった。猛獣の如き気迫を全身に漲らせ、その目は獲物を逃さぬ鷹のようだ。
「面白い……相手になろう」
ローガの胸に、かつての近衛騎士団戦士としての血が
二人の間合いが縮まる。周囲の喧騒が遠のき、二人の世界がそこに広がった。
「名を聞こう」
カマウが低く尋ねる。
「ローガ・メルボ。かつては帝国近衛騎士団の一人だ。今はわけあって、リュウ・クジョーという御仁の下でこうして戦っている」
「わしはアフリアドの勇者カマウ・ンジョロゲ。お主ただの騎士ではないな。尋常ならざる力を感じるぞ。全力で来い。手加減は無用だ」
カマウは鉄棒を構え、一瞬にして間合いを詰めた。その動きはまるで稲妻のように速く、炎を纏った鉄棒が風を切る音が響く。
ローガは紙一重でその一撃を避けた。地面が砕け、砂塵が舞い上がる。炎の分だけ間合いが伸びていた。彼は心を落ち着け、カマウの動きを見極めようとした。
「なんという速度と力だ…だが、読める」
もの凄いスピードで変幻自在に動くカマウの鉄棒を、肉眼で捉えることは不可能だ。ローガは鉄棒の間合いだけを見切ると、間合いの外と内に移動することにより、十数度繰り出される必殺の一撃を交わし続けた。
しかし避けているだけでは反撃できない。重量がある上、炎を纏った獲物だけに、槍で受けてはたたき折られることは容易に予想できる。しかもこれだけ振り回して、カマウに疲れる様子は微塵も見えなかった。むしろ全神経を集中して鉄棒を避け続ける自分の方が、先に集中力が切れるかもしれない。
これだけの難敵は、ローガの長い戦歴の中でもお目にかかったことはない。そのときローガの頭の中に、以前リュウが教えてくれた言葉が浮かんだ。
「戦いはバランスだ」
例えば武器選びで言えば、スピードと威力のバランスを取らなければならない。どちらか一方だけ突出しても、弱点を突かれて容易に破られてしまう。軍に例えるなら、機動力と攻撃力。どんなに機動力の高い軍でも、攻撃力が弱ければ戦いには勝てない。攻撃力だけに特化すれば、大事な戦場に間に合わなかったり、運動性能で劣って思わぬ不覚を取ったりする。
カマウの鉄棒で言えば、スピードと威力は申し分ないが、それを操るカマウ自身の体捌きが失われていた。思い鉄棒を自在に操る代償として、大地を踏みしめるカマウの両足は一点に固定され、足捌きをする余裕を失っていた。だから、体捌きをしっかりとする槍術家に比べると、間合いの外と内への移動が楽にできる。
そこに気づいたとき、ローガの長年の経験が、カマウの攻撃の軌道を予測させた。
カマウの両足が固定されている以上、鉄棒の動く支点も固定される。そこからの動きの変化は、肉眼で捉えきれなくても、ローガには予測可能であった。
鉄棒が縦横無尽に迫る中、ローガは間合いを変えることなく、舞うようにそれをかわし始めた。
「避けるだけか!」
カマウは苛立ち、さらに攻撃の速度を上げる。鉄棒が残像を残し、周囲の空気が震えたが、僅かに両足の踏ん張りに無理が来て、しっかりと保っていた体幹が乱れた。
「今だ…!」
カマウの体勢が乱れた一瞬の隙を見逃さず、ローガの眼が鋭く光った。彼の必殺の突きが鉄棒の軌道を大きく逸らし、鈍い音がして必殺の武器がカマウの手から離れた。
「なに!?」
驚愕するカマウ。しかし、その間もなくローガの槍が返され、彼の左肩から斜めに深く斬り込まれた。
「ぐっ……!」
カマウは膝をつき、血が砂に染み込んでいく。それでも彼の目は闘志を失っていなかった。
「見事だ……ローガ・メルボ」
「あなたもな」
短い言葉を交わし、ローガは一歩下がった。カマウは致命傷を負った。後十分もすれば出血多量で息が絶えるだろう。カマウの背後では彼の部下たちが、信じられないという目で、不敗の将の最期を見ていた
その時、遠方からマランの怒号が響いた。
「カマウ! 許さん、貴様ら!」
彼は剣を抜き放ちローガを討とうと、今にも駆け出そうとする。しかし、その腕をアミナタが静かに掴んだ。
「マラン、ここで命を捨てるおつもりですか。他国の戦争で、このような無益な死を遂げる必要はありません」
「しかし…!」
「我らが守るべきはアフリアドの未来です。ここは退くべき時かと」
マランは激しい感情の中で葛藤した。四二才の彼にとって、二七才のカマウは弟のような存在だった。いずれはアフリアドを背負って立つ将になると目をかけてきた。そんな男を失ったのに、復讐もせずにおめおめとアフリアドに帰ることができようか。
激情に流されそうな中で、アミナタの冷静な瞳に気づく。
マランは深く息を吐いた。
「わかった。全軍、撤退だ」
アフリアド軍は整然と隊列を組み直し、南へと退却を始めた。砂塵の中、彼らの背中が次第に遠ざかっていく。
ローガはその様子を見届け、その場に立ち尽くした。彼の背後からマット・ホラントが歩み寄る。
「見事な戦いでした、ローガさん」
「おお、マットか。シャルル殿下は無事か」
「はい。怯えて戦意は喪失してますが、無事保護しました」
第一の目標が達成され、ローガは微笑んだ。
「だが、まだ油断はできん。アルバイン軍はまだ無傷のままだ。我々も次の手を打たねば」
「ええ。まずはカールの第二軍団への援軍が急務です」
「よし。それでは我々もカールのいる戦場に急行するぞ。皆、準備はいいか!」
大地には出血多量で既に命の尽きたカマウが、目を開けたまま横たわっていた。その死顔は、異国の地で不本意の死を遂げたとは思えぬほど安らかで、死力を尽くして戦った相手を見送っているようだった。
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