第8話 ワハンの英雄

 アフリアド軍は迅速に動き、見事な鶴翼の陣形を敷いた。その中心に立つのは、アフリアド軍一の猛将、カマウ・ンジョロゲだった。彼の屈強な体躯はまるで岩のようで、褐色の肌に浮かぶ筋肉が陽光を反射していた。カマウは狂気じみた進軍を続ける敵を、不敵な笑みを浮かべて迎え討った。


 カマウはバールのような形をした巨大な鉄棒を片手で軽々と振り回していた。火属性のカマウの鉄棒は赤い炎を発し、振り回すたびに炎が周囲に円を描き彼の身体を包み込む。その威容は、まさに戦場の鬼神といえるものだった。


「さあ、来い! 我が鉄棒の餌食となれ!」


 彼は突進してくる帝国兵を次々と殴り倒していく。骨が砕け肉が飛び散ると、敵兵は無惨に地に伏していく。隙をついて彼に近づく敵兵は炎に焼かれ、焦げた匂いが周囲に漂った。その凄惨な光景に、帝国軍の兵士たちは一斉に足を止めた。


「なんだ、あの化け物は……!」

「もう戦えない! 逃げるんだ!」


 恐怖に支配された兵士たちは、進むべきか退くべきかも分からず、混乱に陥った。そこへ、左右の翼を広げたアフリアド軍の両翼の部隊が猛攻を仕掛けた。


「一斉突撃! 逃がすな!」


 アミナタの的確な指揮の下、アフリアド軍は秩序だった動きで帝国軍を包囲した。逃げ惑う兵士たちは次々と倒れていく。


 帝国軍本隊四万は、わずか五千のアフリアド軍に翻弄されていた。進行方向を見失い、逃げる者と進む者がぶつかり合い、隊列は完全に崩壊していた。


 自軍が崩壊しようとする様を見て、シャルルは焦燥の色を隠せなかった。


「このままでは全滅する…! 全軍、陣を立て直すんだ!」


 しかし、彼の指示も混乱の中で届かない。側近たちも必死に兵を纏めようとするが、混乱は広がるばかりだった。


 マランは戦場を見渡し、静かに呟いた。


「これがロック帝国の精鋭とはな…。思ったよりも脆いものだ。」


 アミナタが隣で微笑を浮かべた。


「ですが、油断は禁物です。敵軍の後方には、我々が何度も辛酸を舐めさせられたエッフェルトの息子がいます。噂では知勇兼備の猛将と聞いています。そういう男がいる限り、何が起こるか分かりません」

「ふむ。だが、ラシードもこの戦機を逃しはしまい。噂に名高いカール・エッフェルトも、ラシードに攻められては身動きは取れぬはず。今こそ、シャルルを討つ好機ぞ」


 マランの目に闘志が宿る。その視線の先では、カマウが依然として猛威を振るっていた。


「マラン将軍、次の手は指図ください?」

「全軍、前進せよ。敵を一気に打ち崩す。シャルルの首を獲るぞ」


***


 冷たい風が砂塵を巻き上げ、ファイザーバード要塞の周辺は薄茶色の霞に包まれていた。朝焼けの陽光が辺りを淡く照らし出す中、カール・エッフェルトは丘の上から戦況を見つめていた。彼の鋭い青い瞳は、本隊が敵の伏兵により崩壊していく様を捉え、眉間には深い皺が刻まれていた。


「助けに行くべきだが…」


 カールは拳を握り締めた。要塞からの不穏な動きが気になり、迂闊に軍を動かせない。おそらく敵要塞の南北と西に展開した三軍も、要塞からの追撃に備えて、簡単には動けまい。それどころか、東で何が起きているのか、まだ正確な情報を掴んでないかもしれない。


 カールの脳裏に様々な後悔の念が浮かんでは消えた。最も強く悔やむのは、敵の要塞を見た時点で、命を賭してでも撤退を貫くべきだった。戦略的に大きな過失を犯して、勝利など及ぶべくもない。そして次に悔やむべきは、あれだけ徹底して行った伏兵の索敵に失敗したことだ。


 カールには既に敵がどこから現われたか察しがついていた。伏兵はパミール山脈を越えて来たのだ。普通に考えれば、それは絶対に無理な行軍だ。だからカールも見逃してしまった。それは多分にシャルルからの要請に遠慮したところもある。


「してやられたわ。まさかあの急峻を越えてくるとは」


 カールの険しい声に、ザックフォードは闘志を露わに反論した。


「まだまだ勝負はこれからですぞ。パミール山脈を越えたとすれば、あの急峻を超える精鋭が五千を超えるとは思えませぬ。例えそれ以上の兵を集められたとしても、天候を読んで自在にルートを変える動きを大軍で行うことは不可能です」


 ザックフォードの冷静な判断に、カールは落ち着きを取り戻した。


「だとすれば、殿下が冷静に陣を整えて迎撃すれば、四万の大軍の利が働き、そう簡単に敵に打ち破られることはないはずだが……」


 ただ、先ほど見た本隊の動きが気になった。あれは統率の取れた軍の動きではなく、潰走する兵の動きに似ていた。本隊には六年前の挟撃による敗退を、覚えている将が数多く配置されている。もしそのときの悲惨な退却を思い出し、冷静な判断を失ってしまったら、ああいう動きをしても不思議ではない。


 不吉な予感に包まれて、カールは天を仰いだ。

 周囲の幕僚たちも沈黙を守り、ただ彼の指示を待っていた。


***


 カールが戦況を分析していた頃、戦場の最前線ではアラン・ウォーカーが焦燥に駆られていた。すぐにも直営軍の救出に向かわなければならないと、彼の顔には冷や汗が滲み、指揮棒を握る手は微かに震えていた。

 無謀な突撃が祟って多くの兵を失ったが、辛うじて動ける一万二千の兵を前に、彼の号令が轟く。


「全軍、前進! シャルル殿下を救うのだ!」


 アランが叫び、兵士たちが動き出したその瞬間――。


 要塞の巨大な門が重々しく開き、地響きと共にラシード・ハサン・ムハンマド率いる四万の軍勢が姿を現した。彼らは黄金の装飾が施された甲冑に身を包み、太陽の光を受けて眩く輝いていた。ラシードは漆黒の馬に乗り、高らかに剣を掲げていた。


「ワハンの英雄が出たぞ!」


 その報せは瞬く間に帝国軍全体に広がり、兵士たちの間に怯えと動揺が走った。アランは青ざめた顔で後方を振り返る。


「反転せよ! 迎撃態勢を整えるのだ!」


 必死に指示を飛ばすが、この指示はまずかった。疾風のごとく迫るラシード軍に対し、反転中の無防備な陣形はあまりにも脆弱で、ワハンの英雄がこの隙を見逃すはずはなかった。

 ラシード軍の先鋒部隊が帝国軍の側面を突き、次々と兵士たちが斬り伏せられていく。阿鼻叫喚の中、第七軍団の兵は為す術もなく潰走を始めた。


「待て、逃げるな。踏みとどまって敵を迎え討て」


 アランの必死の叫びも、逃げ惑う兵士たちの耳には届かない。帝国の誇る精鋭たちも、先の戦いでワハンの英雄に植え付けられた恐怖には勝てなかった。

 加えて砂漠の地に生まれたアルバインの兵士たちは、帝国兵に比べて圧倒的に火と風を属性に持つ者が多い。

 ある者は剣先の間合いから逃れても火柱に斬られ、ある者は相手の剣を受けてもカマイタチに斬られた。組織的な戦術を封じられた今、個人戦闘力の圧倒的な差が帝国軍を追い詰めていく。


 ついにアランの目前に敵が迫ってきた。自身が剣を取り闘った経験のないアランは恐怖にかられた。自分を護るべき者たちは、次々に敵の手にかかって倒れていく。


「ヒッ!」


 敵に斬り飛ばされた味方の腕が、アランの顔に当たった。衝撃で砕けた肉と噴き出した血が、肌にべっとりとへばりつく。鼻をつく凄惨な匂いは、一生かかっても取れない気がした。


「あっあああ」


 アランはうめき声をあげて、馬から転げ落ちた。

 目の前には早駆けしてきた騎兵が単騎で槍を振り上げている。られると覚悟して、アランは思わず目を閉じた。

 再び頭から血を浴びたが、不思議と痛みはない。目を開けると、複数の土属性の兵士が駆け寄って、土の壁を作ってアランを護っていた。頭に被った血は、防ぎきれずに切り倒された兵士のものだった。


「何をしている。早く逃げろ。我らもそうは持たん」


 この小隊を指揮する兵士が声を枯らして、アランを叱咤した。

 名も知らぬ味方の兵に叱咤され、恥ずかしさと怒りがアランの身体を突き抜けた。


「無礼な」


 アランは一際大声で叫んで、素早く起き上がり、礼も言わずに後方へ走り出した。


 その後ろ姿を見て、叱咤した兵が安堵の表情に変わった瞬間、押し寄せた敵兵の槍が土の壁を突き破り、支えている帝国の兵士たちの身体を貫いた。

 アランを叱咤した兵士は地面に崩れ落ち、息も絶え絶えに東の空に向かって呟いた。


「すまん。父は戻れなくなった……」

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