第7話 禁断の密約
第七軍団の帷幕にカールが到着したとき、アランは半狂乱になって、「進め」を繰り返し叫んでいた。カールは馬から飛び降りて、アランに向かって行く。護衛兵もカールの顔を見て、誰も止めようとしない。誰の目にも、狂った軍団長を止めてくれるのでは、という期待が滲んでいた。
「アラン、砲撃が続く間に早く兵を撤収しろ。我が軍の砲弾もあと何発か撃てば底をつく」
カールが腹の底から声を出すと、アランはゆっくりと振り向く。その目は狂気に支配されていた。
「なぜだ。我が軍はもうすぐ城壁を超える」
アランの声に力はなく、病に冒されたように見えた。
「全軍が城壁についたところで為す術はない。そのまま一斉射撃を浴びて全滅するだけだ。なぜ目の前の事実を無視する」
カールが激しく詰め寄っても、アランは譫言のように、「ハシゴをかけて登れば勝てる」と繰り返すのみだ。
登る間に狙い撃ちされると、なぜ分からんと言いかけて、カールは最早言い争っている時間がないことに気づいた。
全滅のカウントダウンが始まろうとしていた。自分を責めるカールに対し、アランはプイと顔を逸らしそのまま前を向いた。もう殴って意識を奪うしかないと、カールが思ったとき、物見の一人が叫び声をあげた。
「殿下の直営軍が後退しています」
「なに!」
カールは急いで振り向いて、物見台の上に登った。自軍の後ろに控えたシャルルの本隊四万が、後方へ全速力で進む様子が見えた。
「何をやってるんだ」
カールは本隊のおかしな動きに、思わず非難の声をあげた。
最前線の様子はシャルルには分からぬはず。分かったとしても、あれだけ交戦を主張した以上、戦いもせずに後退するなどあり得ない。万が一後退するとしても、最前線に連絡してから退くはずだ。
「まさか」
カールの脳裏に六年前の悪夢が蘇った。
「いや、そんな馬鹿な。徹底して伏兵を探したはずだ」
否定はしてみたものの、シャルルの軍の後退の仕方はあきらかにおかしい。秩序ある反転ではなく、後背に迫った敵に最後尾の兵が反応して戦うときの動きだ。
春のやさしい陽射しが、帝国軍の頭上に降り注ぐ。こののどかな陽気の下で、カールは絶体絶命の予感に悪寒を感じて、身体をブルッと震わせた。
***
アルバイン連合の北端に位置するファイザーバード要塞。その高い城壁からは、広大なワハン回廊が一望できた。冷たい風が砂塵を巻き上げ、遠くの山脈は薄い霧のベールに包まれている。標高七千メートルを超えるパミール山脈が、その壮大な姿を見せていた。
ラシード・ハサン・ムハンマド皇子は、要塞の最上部に立ち、双眼鏡を覗き込んでいた。彼の鋭い瞳は、遥か彼方に見える軍勢に注がれている。黒髪が風に揺れ、その姿はまるで砂漠に立つ一本の槍のようだ。
「ついに来たか…」
彼は静かに呟いた。その隣には、忠実な副官ヤシン・バムが控えている。ヤシンは皇子の横顔を見つめ、不安げに問いかけた。
「ラシード様、本当に彼らが…?」
ラシードは双眼鏡から目を離し、微笑を浮かべた。
「間違いない。アフリアド軍だ。密約は果たされた」
その言葉に、副官の表情が一瞬驚きで歪む。
「しかし、彼らは異教徒では……?」
「敵の敵は味方だ。今はそれで十分だよ」
***
その頃、ワハン回廊を抜けて進軍してくるアフリアド軍の先頭には、マラン・カマラ将軍の逞しい姿があった。褐色の肌に刻まれた無数の傷跡が、アフリアド
「やれやれ、マラン。あなたの無謀な行軍にはもう付き合いたくないものだね」
アミナタは苦笑しながら肩をすくめた。マランは豪快に笑い、十二才から槍を持ち四十年以上戦い続けている女傑の肩を叩く。
「何を言う、アミナタ。我らが越えた剣山は、まさに伝説となるだろう。我が軍の精強さを世界に示す良い機会だった」
「確かにね。でも次はもう少し楽な道を選んで欲しいものだ」
アフリアド軍を指揮するマランは、首都タンザンから北進し、カスピ海南岸を進んで、キジルクム砂漠を横断した後、標高七千メートルを超えるパミール山脈を越えてワハン回廊に入った。
それはまさに死の行軍だったが、他国より強いネイチャーフォースを持つアフリアド軍は、大地に接したときに無類の粘り強さを発揮する
カールの綿密な索敵にあっても、この難ルートは想定の外にあり、彼らは帝国軍の意表をついて、背後をとることができたのだ。
アミナタの目線の先には、この苦しい行軍を不平一つ言わず従った兵士たちがいた。本来なら疲れ切っているはずの彼らの瞳には、確かな誇りと自信が宿っている。
「それにしても、帝国軍はもう詰みの状態だ。背後を突かれて、彼らも驚いていることだろう」
マランは遠くの帝国軍の陣営を見据え、厳しい表情を浮かべた。
「だが、真の敵は彼らだけではない。我々と密約を交わしたアルバイン皇子、ラシード・ハサン・ムハンマド……彼の戦略眼こそ畏怖すべきものだ。異教徒である我々に単独で交渉に来る度胸、そしてこの作戦を成功させた知恵。いずれ、我々の前に立ちはだかる強敵となるかもしれん」
マランの胸には、不思議な闘志が燃え上がっていた。アミナタはそんな彼の横顔を見つめ、静かに頷く。
「そうだね。彼のような若き英雄が台頭してくるのは、我のような年寄りにはとっても刺激になる」
その頃、要塞の上ではラシードが再び双眼鏡を手に取り、アフリアド軍の進軍を見守っていた。
「マラン・カマラか…伝説の将軍と共に戦えるとは、光栄なことだ。ヤシン、我々も要塞を出て攻撃するぞ。向こう十年間、帝国にもう二度と我がアルバインと闘おうなどと思わせないように、シャルルの首を獲るぞ」
未来のマラン・カマラとの戦いに胸を膨らませながら、目前に迫った帝国軍を殲滅すべく、ラシードの両眼には鬼火が宿った。
太陽は西の空に沈みかけ、赤い光が大地を染め上げている。両軍の白兵戦の火蓋が切って落とされるその瞬間が、刻一刻と近づいていた。
***
後方に伏兵ありの報に、シャルルが率いる直営軍には混乱と混沌が渦巻いていた。突然背後に現れた敵軍――それはアフリアド軍だった。ロック帝国軍の兵士たちは、まるで悪夢に囚われたかのように動揺していた。
「後方に敵襲! 挟撃されているぞ!」
「どうするんだ! 指示はないのか!」
六年前の第一次アフガム侵攻で同じように挟撃され、惨敗した記憶が甦り、直営軍の指揮官たちは恐怖に駆られていた。あげく彼らは軍令を待つことなく、てんでに背後の敵軍に向かって迎撃を始めた。
シャルルは、自軍の統率が瞬く間に崩れていく様子に狼狽した。彼の金色の髪は風に乱れ、その瞳には焦燥の色が宿っている。
「何をしている! 隊列を乱すな! 私の命令を待て!」
しかし、その声は混乱の中で掻き消された。将校たちは混乱する兵を前にして、誰も彼の指示を聞く余裕などなかった。ついにシャルルは再度指揮系統を確保することを諦め、自らも混乱する部下たちと同じように、背後の敵軍へと迎撃を命じた。
「全軍、敵を殲滅せよ! 皇帝の名にかけて!」
陣形を取ることもせず、無防備に突っ込んでくる帝国軍の様子に、アフリアド軍のマラン・カマラ将軍は眉をひそめた。彼の鋭い眼差しを以てしても、この無秩序に向かってくる敵軍の意図を見抜くことは困難だった。
「アミナタ、彼らは一体何をしている?」
隣に立つアミナタ・ディアッラは、冷静な表情で答えた。
「驚くべきことですが、どうやら統率が取れていないまま、バラバラに向かってきたようです。あの皇子は勢いだけはあるが、部下の統率を全くとれてない凡将のようですね」
アミナタの全てを見抜く慧眼によって、全てを理解したマランは短く息を吐き、頷いた。
「なるほど。では、鶴翼の陣で迎え撃つとしよう」
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