第1章 ユキヒョウの棲む高原

第3話 伝言

 朝の光がパミール山脈の頂上に差し込み、雪に覆われた峰々が黄金色に輝き始める。空は澄み渡り青空が広がる。山々の間には深い谷が刻まれ、そこを流れる川がキラキラと光を反射する。冷たい風がリュウの頬を撫で、清々しい空気が肺に満ちていた。


「壮観ですな」


 ローガ・メルボがワハン回廊の景観に唸りながら、馬を連ねて進むリュウ・クジョーに顔を向けた。


 リュウはローガに向かって軽く頷くと、回廊の南に目を向ける。そこにはヒンドゥークシュ山脈の険しい峰々がそびえ立ち、その壮大さに圧倒されそうになる。山肌には岩がむき出しになっていて、ところどころに緑の草地が広がり、その先にワフジール峠が遠くに見える。ここからでもその高さと険しさは一目で分かった。


「この道が地獄に続く道でないといいな」


 リュウが半笑いで、この旅の行く着く先の過酷さを口にすると、ローガが片目を瞑ってニヤリと笑う。


「地獄の門を開いた先にこそ、欲しい果実があると思ってられるくせに」


 ローガに野心を言い当てられても、リュウは特に反論も返さず、真っ直ぐに前を向いて、ロック帝国史上初の二十万の大軍の行く先を見据える。


 この軍を率いる皇太子シャルル・ロックは、数の力に酔って自軍の勝利を疑っていない。


 シャルルは帝国を建国した英雄たちの物語が大好きで、自身もそう成らんとしてこの機会を待っていた。特に現皇帝フィリップ十二世が、六年前に大敗を喫した相手を、自身の手で打ち破るヒロイズムに心が奪われている。


 名将の誉れが高い帝国元帥ジョージ・エッフェルト公爵は、首都シャンハの留守を守れと勅命が降りたため、シャルルの暴走を心配しながらも同行できなかった。代わりに帝国一の智将の呼び声が高い、長男のカール・エッフェルトを、統合参謀長としてこの軍においた。

 カールと親交のあるリュウは、親友の要請に応えた形で従軍を承諾し、遊軍の将として己の野心を果たそうとしていた。


 リュウ・クジョーは馬を進めながら、戦前に交わしたカール・エッフェルトとの対談を思い出していた。


***


 その日リュウは、ユラリアの反乱を鎮圧して帰還したばかりのカールに、戦勝の祝いを贈ろうと、帝国の首都シャンハのエッフェルト家を訪れていた。カールは久しぶりに会う盟友の訪問を喜び、二人は向き合って酒を酌み交わした。


「ユラリアへの遠征は無事勝利を収めたと聞く。さすがだな」

「二千年前は栄華を極めた地と聞くが、今は氷と氷獣に悩まされる貧しい地だ。我が帝国が反乱を治めることなど造作もない」

「それでも、反乱の地に行くまでの道中は、長い海路が続いて悩まされたのではないか」

「うむ確かにな。シャンハからアフリアの南端を回ってユラリアの西岸に行くには、三ヶ月もの船旅になる。あの近辺はアフリアドの海賊が出没するから、航海中も気を抜けないな」

「風属性の兵士が総じて疲弊してしまいますな。人口が少なく、暮らしも貧しいユラリアを、無理して押さえる必要はないんじゃないか」

「いや、放っておくとNAC(北アメリア連邦)の連中が、アトラン海を渡って侵攻して来る。軍事的にも経済的にも負担が大きいが、やらざるを得ない」


 そう言うカール自身も、その意義がどこまであるのか半信半疑な面持ちだった。

 帝国の名家の苦しい立場を思って、リュウの顔に皮肉な表情が浮かんだ。


 現在ユラリア地方の北緯四五度以上の地域は、雪と氷で覆われた無人地帯で凶暴な氷獣が生息しているため人が通ることはできない。

 そのため、陸地沿いにユラリアに兵を進めるためには、カスピ海沿岸部を通らなければならないが、現在この地域は、北アフリアからアラビカ半島にかけて、強大な勢力を誇るアルバイン連合の占領下にある。

 帝国はユラリアに行くには、アフリアを南回りする海路を使うしかなく、ユラリア支配の大きな足枷となっていた。


「やはり、皇帝陛下はアフガムへ侵攻されるのでしょうか?」

「やむをえんだろうな。陛下はともかく、皇太子のシャルル殿下は六年前の雪辱に燃えている」


 リュウは火の玉のような気概を放つ、シャルル・ロックの双眸を思い出した。

 六年前のアルバインとの戦いで、兄のジョージを失い、敗戦の屈辱と共に皇太子となったシャルルだが、大規模公共投資を矢継ぎ早に行い、大戦によって疲弊した国力を盛り返すなど、次代の名君としての資質を存分に見せている。しかし、その才は政治にこそ発揮されるが戦いには向かないと、リュウは見ていた。

 事実、半年前のブディストニア国境での反乱鎮圧では、怪しい用兵で出さなくてもいい損害を被っている。


「殿下ではアフガムを落とせまい」


 リュウが放った不敬の言葉に、カールは目を見開きながら立ち上がり、ドアを開けて誰も聞いてないことを確認した。


「貴公は口が過ぎるきらいがある。密告などされたら、面倒なことになるぞ」

「すまん口が過ぎた。しかしアフガムに侵攻するのであれば、それなりの策が必要だ。殿下には優れた用兵家に全権を任せる気はないのか」

「殿下はどうしても自分の手でアルバインを討ち、将としての力量を臣下に示したいと思っておられる。そのために前回の二倍に当たる二十万の遠征軍を編成されるようだ」


 それは策ではないとリュウは思った。どんな大軍であっても、地の利を活かした敵の策に嵌まっては、為す術もなく敗れるのが戦というものだ。


「いずれにしても、遠征が発表されたら貴公には、我が部隊の遊撃として参加をお願いしたい」


 それについては否はない。リュウは同意を言葉にする代わりに、深々と頷き爽快な笑顔を見せた。


***


 ワハン回廊の絶景を見渡すリュウの双眸は鋭く、この戦いの行く末を見通すかのように輝いていた。高い頬骨と引き締まった顎は、決意と野望に満ちた表情を際立たせている。

 リュウの姿勢は常に堂々としていて、軍服の襟元から覗く首筋には、若さと情熱が溢れていた。その瞳には二一才の年令には似合わない深い知識と経験が宿っている。彼の視線が向けられる先には、常に勝機を掴み寄せる深い策謀が潜んでいるように感じられた。


「あれは何だ?」


 リュウが指さした先には、白銀の毛皮が緑の大地と見事に調和した獣が、冷静さと鋭敏さを瞳の奥で輝かせて、崖の上からこちらを見下ろしている。しなやかそうな筋肉に包まれた身体は、この広大な高原においても、孤高を保った存在であることを示していた。


「あれはユキヒョウですな」


 以前アフガムに駐留経験があるローガが懐かしそうな目をして答えた。


 ユキヒョウはリュウと目が合うと、何かを伝えるようにパミール山脈を見上げた。

 つられたようにリュウも視線を移す。

 その山頂は雲に覆われ神秘的な雰囲気を醸し出し、山脈の斜面にはところどころに氷河があり、その冷たい青色が人を寄せ付けぬ厳しさを示していた。


 一瞬、リュウの脳裏に危険を予感させるインスピレーションが浮かび、ハッとして視線を戻すと既にユキヒョウの姿はなかった。


「ローガ」


 リュウが腹心の耳に何事か囁くと、ローガはすぐに千の兵を連れてどこかに消えていった。


「ユキヒョウよ。お前の伝言確かに受け取った。生きていたら再び会おう」


 リュウは呟きを残して、再び前進を始めた。



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