【没ネタ】江戸時代から花魁がやってきた

夏目くちびる

第1話

「ねぇ、主さん。これはなんざんす?」

「それはスマホです、スマートフォン。言ってみれば、現代のアヘンみたいなモノです」

「なんと、ほんざんすか。あれ程までに人々を狂わせたアヘンが、遠い未来では合法になっておりんすねぇ。じゃあ、このすまほを大きくしたような箱は?」

「現代のアヘンのようなモノです」

「なるほど。令和には、アヘンが蔓延っておりんすねぇ」



 俺は、ビックリするほどあっさりと信じてしまった、目の前のやたらと妖艶で目の据わった着崩しの着物の美女に一抹の申し訳無さを覚えていた。



 仕事から帰ってくると、彼女が何が何やらといった様子で俺の部屋の隅にジッと座っていたのだ。ここは、台東区吉原の一般的なアパートメント。俺は、実を言えば、突然現れた非日常に出くわしても対して動揺していなかった。



「まぁ、似たようなフィクションを散々知ってる俺はさておき、あなたも随分と落ち着いてますね」

「この空間と窓の外の景色だけでも、わっちの知ってる吉原とは勝手があまりにも違いんす。下手なことをすれば、ロクでも無いことになるのは明白でありんしょう。だから、座って心を落ち着けていたんでありんす」



 流石、江戸の夜を生きた女。肝の座り方が違う。



「とりあえず、状況を整理します。あなたは、江戸時代の吉原で働いていた花魁で、あなたに対して盲目的なお客さんに刺されたと思ったらここにいたと。子どもの頃に売られてずっと吉原暮らしだったから、実は江戸時代と何が違うのかもイマイチ分かっておらず、タイムスリップ。いえ、時間旅行に気が付かなかったと」

「えぇ」

「名前は?」

撫子なでしこ、と呼ばれておりんした」



 電子タバコを咥えると、撫子さんは俺の口元に注目してポカンとした表情を浮かべた。なるほど。そういえば、花魁ってのは長いキセルを咥えてタバコを吸っているイメージがある。俺は、予備用のキットにタバコを挿して彼女に渡した。



「バイブ。じゃねぇや、振動したら吸えますから」

「……おぉ、なんと」



 多少勝手が違うだろうが、彼女はそれなりに気に入ったようだ。死ぬほど大人びた顔つきに、妙に幼気な笑顔を浮かべるとプカプカと煙を吐いた。



「それで、この後はどうするつもりですか?」

「どう、とは?」

「令和で花魁とは行かないでしょうから、今までとは違う暮らしに身を投じなければならないでしょう」

「あぁ、そういうことでありんすか。見ての通り、わっちはこの働き方しか知りんせん。出来れば、この時代の似たような仕事を紹介してほしいと思っておりんす」



 撫子さんは、開けた胸元の襟を摘んで少しだけ肌を見せながら言った。



 俺は、なんとか帰る方法を探すという意味で言ったのだが、どうやら、彼女は既にこの時代で生活していく方向にシフトしているらしい。



 一体、どれだけ強メンタルならタイムスリップしてその時代でいきなり働こうと思えるのか。俺は、現代ではなかなか見られないであろう撫子さんの気概と胆力に思わず心を奪われていた。



「しかし、初めて会った女性に水商売を紹介するというのは、あまり気乗りしませんね」

「なぜですかえ?」

「令和には、江戸時代と違って他に幾らでも女性の働き口があります。別にそういう仕事が好きなら構いませんが、遊郭しか知らない撫子さんには、もしかすると別に好きなモノが見つかるかもしれません」

「なんと」

「というか、身売りだの縁切りだの家族の借金だの、そういうモノはすべて前時代的ですから忘れてください。しきたりとか伝統とかも無いです。変わりに、江戸時代にあった男性が女性を守るみたいな文化も無いです。なので、数日くらいは自分の住処を探しながら興味のあるモノを見つけるのも悪くないでしょう」



 すると、彼女は、仕事柄だろうか。俺の隣に足を崩して座りマジマジと目を見つめてきた。



「随分と心に余裕のある殿方でござんすね、男らしい」

「男らしいというか、現代の一般人は割とみんなこんな感じですよ。健康一番、余裕が二番。金は、まぁ暮らしていけるだけあれば構わない、みたいな」

「……女には興味がないんですかえ?」

「ありますよ。でも、一人でやれることが増えたこと、他人に構っている暇も余裕もないこと。そういう社会的な理由で後回しになっている側面は否定出来ないでしょう」



 俺が煙を吐くと、撫子さんもニコリと笑いながら煙を吹いた。



「なるほど。しかし、ほんに聡いですなぁ。主さんは学者さんか手習の師匠さんでござんすか?」

「違います、全部その箱に入ってる知識です。これも、大抵の現代人が知っていることですよ」



 もしも、俺が江戸時代に遡行していたのなら割と知識無双出来たかもしれない。いや、別に技術屋でもないし、礼節や常識の違いで普通に犯罪を犯して即座に打ち首になるのがオチか。



 よかった、令和で。



「このアヘンは、毒にも薬にもなるようでありんすね」

「その通りです。さて、話は終わりましたから飯でも食いましょう。この時代に生きていく覚悟が決まってるなら、クヨクヨしてる時間がもったいないです」

「料理番がおるんですか?」

「いいえ、俺が作ります。あまり上手くはないですけど」



 そういえば、彼女の身の振り方が決まるまでは二人分作る必要がありそうだ。大きめのフライパンを買っておこう。



「令和では、夫婦めおとでも男が台所に立つんですかえ?」

「これも別に決まってはいませんよ。まぁ、夫婦でも大抵は共働きでしょうし、疲れてない方がやればいいんじゃないですか?」

「なら、わっちが作りますえ。主さんは、仕事の帰りでごさんしょう? わっちは禿かむろ上がりでありんすから、料理もお手の物でござんす」



 なんか、違和感のある言い回しだと思った。



 俺の知ってる花魁ってのは遊郭で最強の女であって、下々の人間じゃすぐには会えないような身分だと思っていたのだが。そんな人が、少し親切にされたからといって料理をやろうなどと申し出るモノだろうか。



 ……まぁ、普通に出るんだろうな。知らんけど。



「なら、器具の使い方や調味料の場所を教える意味でも今日は一緒にやりますか。汚れたらあれなので、その着物は着替えた方がいいでしょう」

「これしか持ってありんせんが」

「俺のジャージでも着てください。明日、俺は休みなので上野に買いに行きましょう」



 もちろん、彼女に似合うような高級ブランドではなく大衆向けの機能的な服だけど。



「上野? 寛永寺付近に、商店がござんすか?」

「ありますよ、デカい百貨店が」

「へぇ、上野の山に百貨店が。ひょっとして、越後屋さんとこのお店ですかえ?」

「いえ、越後屋さんとこのではありませんが。まぁ、似たようなモノです。多分」



 化粧を落としたジャージ姿の花魁というのは、存外見応えのあるモノだった。天上の美人が生活感のある姿でいると、こう、なにかグッとくるモノがあるよな。



「なにやら、想像がつきませんなぁ。三百年という月日は、これほどまでに世界を変える長さでござんすか」



 撫子さんは、包丁で野菜を切りながら呟いた。三百年ということは、徳川吉宗の時代か。享保の改革くらいしか知らない俺は、彼女の知っている世界観に具体的な想像がつかなかった。



「じゃあ、後で夜の東京観光でもしましょうか。あ、塩はその青い蓋のヤツです。酒はそこの戸棚の中」

「あい。しかし、今は江戸を東京と呼ぶんでありんすか。日本橋の方はどうなっているんですかえ?」

「そっちには、越後屋さんとこの百貨店がありますね」

「なんと、この時代にも残っておりんすか。では、江戸城は?」

「幕府に馴染みのあるあなたには理解出来ないでしょうが、徳川が退いたあとに色々あって今は天皇が住んでます。尤も、城は跡地になってますが」

「しょ、将軍様がいなくなるんでありんすか。なら、銀座は?」

「死ぬほどいけ好かない街ですよ、今も昔も」



 すると、撫子さんはケラケラと楽しそうに笑った。それは、まるで生まれて初めて浮かべたように不器用な、クシャっとした慣れない綺麗な笑顔だった。



「確かに、銀座はいけ好かない街でありんすね。あははっ。あぁ、誰かに聞かれる心配もなくこんな話が出来るだなんて、なんと愉快でありんしょう」

「花魁ってことは、いわゆる部屋持ちでしょう? 内緒の話も出来なかったんですか?」

「人の耳に戸は建てられないモノでありんす。如何なる内緒も、必ず漏れるザマでござんした」

「へぇ、そういうモノですか」

「なにより、遊郭の壁はこんに頑丈でありんせん。普通に喋っていても、隣の客が耳を澄ませば聞こえてござりんすよ」



 言って、撫子さんはタイル張りのキッチンの壁をコンコンと叩いた。



「窓を開けると、何かが道を猛スピードで走る音が聞こえるのに、閉めてしまえば少しも気になりんせん。わっちは、こんに安心していられる場所を知りんせんした」

「なるほど」



 心が休まるという意味ではなく、物理的にと言うのが時代の背景を物語っているな。



「主さん、お出汁をとるので昆布をとってくれなんし」

「俺の家で使うのは出汁パックです。これを湯の中に入れておけば、ちゃんとダシがとれます」

「なんと」

「水は、冷蔵庫の中のろ過したヤツを使ってください。普通に水道水を使うより、多少は美味いモノが作れるハズです」



 残念なことに、どっちを使っても味の違いなんて俺には分からないけど。



「砂糖を」

「はい、どうぞ」

「こうして、獣の肉を当たり前のように食べられるのも驚きでありんすねぇ。前に一度、両国の豊田屋さんに鍋を食べに行きんしたが、思わず頬が落ちるような感覚でありんした」

「多分、撫子さんはそれよりよっぽどおいしいモノを作ってますよ。調味料一つ取っても、精製技術が段違いですから」

「ふふ。あぁ、ほんにいい香りでありんす」



 というワケで、撫子さんは肉じゃが的な煮物と味噌汁を作ってくれた。フリーズドライの分量が掴めず、とんでもない量のワカメが浮いているが、俺は海藻類が大好きなので何も問題ない。



「凄いことになってしまいんした。まさか、ワカメが分身するとは」

「仕方ないですよ。ほら、ご飯はその釜の中にあります」



 もちろん、釜ではなく炊飯器だけど。



「おぉ、なんと艷やかなシャリでござんしょう」

「座布団、使ってください。この部屋は、カーペット越しでも尻が冷えます」

「ふふ。女に上座を譲るだなんて、まこと不思議な感覚でありんすね」

「上座とか下座とか、そういうのもありません。令和じゃ、好きな場所に座っていいんです」



 まぁ、これに関しては未だにうるさい年寄りもいるけど。



「それでは、いただきます」

「いただきます」



 テレビには、何度も見ているのに実はまったく正体の分からないハンチング帽を被ったおじさんが酒を飲む姿が映し出されている。それを見て、撫子さんは「ここが今の神田ですか?」とか「この電車とはなんですか?」とか、映るモノすべてに質問をしてくる。



 そんなふうに、俺としてはありきたりな、彼女にとってはエキサイティングな会話は、やはり心の奥底で寂しがっていた俺にとってありがたいモノであった。



「ごちそうさま」

「ごちそうさまでありんした」



 腹を落ち着かせると、とりあえず今の東京の姿を知ってもらうため、俺は撫子さんを連れてタクシーで東京スカイツリーに向かい、安い方の展望台へ登った。



「おぉ! これは! これは凄いでありんすよ! 主さん! 綺麗な光がたくさんありんす!」



 撫子さんは、俺のシャツの袖を掴んだまま楽しそうに叫んだ。夜の展望台には、当然ながら大人のカップルしかいない。どう考えても間違いなく誰より格式の高いハズの彼女が、誰よりも無邪気にはしゃいでいるのがアンバランスで面白い。



「あっちが銀座、あっちが赤坂、あっちが新宿、あっちが渋谷。明治神宮、は、江戸時代だからないのか。名前からして明治だもんな」

「あれはなんでありんすか!?」

「えーっと、東京駅ですね。この東京に走ってる、ほとんどの電車が止まる日本で一番デカい駅。その奥にあるのが皇居です」



 まるで、子供のように楽しそうにしているジャージ姿の長身の美人は、どうやっても人目を引くらしい。ワンチャン、ドラマ撮影なんじゃないかとさえ疑われているのか、周囲にはいつの間にか人集りが出来ていた。



「まこと、この世界は不思議でありんすなぁ」



 その後、彼女の気の済むまで景色を眺め、風呂屋に寄ってから家に戻った。



「では、ボチボチ寝ましょう。撫子さんはベッドを使ってください」

「主さんはどちらで眠るんですかえ?」

「廊下です、客人用の布団がありますから」

「そんな。このお部屋は、尻が冷えるでござんしょう? 床に布団を敷いて寝たら、きっと風邪を召してしまいんす」

「……いや、なんとなく読めた展開ではありますけどね。撫子さん。そのシングルベッドに大人が二人並んで寝たら、嫌でも引っ付くことになります。それは流石に、俺のあれがもちません」

「あれ、とは?」



 彼女は、妖しく笑って上目遣いに俺を見た。やはり花魁だけあって、こうして男を誑かして遊ぶのが好きなのだろう。彼女は仕事柄、そういうことに慣れているだろうし、別段気にするようなこともないというワケなのだろう。



 ならば、令和の男は一味違うところを見せて差し上げよう。俺は、大きく息を吸い込んでから電子タバコを吹かして答えた。



「下心です、絶対に勃起します」

「な……っ」

「絶対に勃起します」

「な、なんで2回も言うんでありんすかっ!」



 きっと、平和ボケした令和の男に初心な答えを期待したのだろう。しかし、それは江戸時代並な感想だ。俺のようにほとんど恋愛を経験してこなかった男というのは、自分に何も期待していないため恥も覚えずぶっちゃけてしまう生き物なのである。



「短い期間とはいえ、同じ場所に住む以上は家主の俺の言うことを一つだけ聞いてください。俺の心配はせず、別れて眠りましょう」

「……嫌でありんす」



 撫子さんは、なんとも艶めかしい仕草で俺の手を握ると俯きがちに言った。



「主さんには、大きな恩がありんす」

「恩義を覚える必要がない、と言っています。たまたま、あなたが刺された場所にこのアパートが建ったとか、俺たちの縁は多分そんな程度です。フェアじゃない」

「女に恥をかかせる気ですかえ?」



 それは、まるでヘビに睨まれたかのように体が硬直し、まったく持って目をそらすことの出来ないほどの魅力を秘めた魔性の表情であった。



「いや、そういうワケではなくてですね」

「実際に殺されるような体験をして、目を覚ませばどこなのかも分からない場所へ閉じ込められて。この後、自分がどうなるのかも分からず孤独と恐怖に震えていたところへ、突然現れた殿方からこのように優しく迎えられて――」

「は、はい」

「主さんには、そんな女の気持ちが分かりますかえ?」



 ……客観的に聞かされると、確かに妙な気を起こしてしまっても仕方ないというか。しかし、やはり俺が当事者になるというのは実に看過できないというか。



 やっぱり、ダメなんだよな。俺みたいな奴は、世の中が俺のためにあるとは考えられないんだ。不幸は素直に受け入れられるのに、幸運には何か裏があるんじゃないかって勘ぐってしまうモノなのだ。



 だから、こうして失敗し続けて今があるのに。それでも騙されないための処世術に縋るというのは、俺の本質が『逃げ』であることを証明しているのだろう。



 ならば。



「では、折衷案としてこの部屋に布団を引いて寝ます。カーペットの上なら、寒さもあまりありませんから」

「……ふふ。まことに残念ではありんすが、それで妥協しんしょう」



 まぁ、あれだよ。



 少しだけ、期待してもいいというか。なんなら、彼女になら騙されたって仕方ないと諦めもつきそうというか。こんな絶世の美女なのだから、俺じゃなくたって騙されてたに違いないというか。



 そんな感じ。



「それでは、おやすみなさい」

「寝る前に、一つだけいいですかえ?」

「はい、なんでしょう」

「主さんは、なぜわっちの話を信じてくれたでありすか?」



 俺は、彼女に背を向けて静かに言った。



「その方が、絶対に面白いと思ったからです」



 こうして、俺は眠りについた。



 彼女が江戸時代に戻る方法を探るのなら、きっと平賀源内の発明品あたりを探るのがいいだろうだなんて、本当にどうでもいいことを考えていた。

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