第4話 落下、そして
地面が崩れる。
突如として開いた巨大な穴に、飲み込まれるようにして落ちていく。
そんな状況になってもまだ、俺は心のどこかで油断していたのだと思う。
なにせ、こちらにはドラゴンがいた。野生動物の一匹や二匹、たとえ多少大きかったとしても問題にはならない。
踏みつけて、
だからヒナがさらわれていった時、俺は当然、ひどく動揺した。
「ガル——」
「な、おい、待て!」
どういうわけか無抵抗な少女の姿のまま、ヒナは怪物の口に捕らえられる。
岩のような牙の隙間に挟まれていた。今すぐ噛み砕かれなかったことを、喜ぶべきか。
全身を覆う緑色の鱗もまた、不揃いで荒々しい生え方をしていた。
血走った瞳がぎょろりと動く。その視線が、ほんの一瞬、確かに俺の姿を捉えた。
そこになにか激しい意志を感じたのは、俺の思い過ごしなのだろうか。
——ドラゴンか?
少なくとも、顔だけはそのように見える。
だが、違う。手足が見当たらなかったし、なにより翼がなかった。
似ているが、ドラゴンではない。
どちらかと言えば、蛇のような——竜の頭を持つ大蛇、と形容すればいいのだろうか。
そんな言葉があったような気がしたが、今は思い出せない。そんな暇もない。
激流のような速度で、大蛇の頭は俺の目の前を通過していく。
地中から出現したそれは、ヒナを口にくわえたまま再び地面に潜ろうとしていた。
そうなってしまえば、もちろん打つ手はない。
ほとんど反射的に、俺は左手を突き出す。
何千回と繰り返してきた、慣れた動作だった。その手はすでに、腰に差していた刃を抜いている。
リザードマンの戦士にとっての伝統的な武器。
『クルス』と、彼らの言語ではそう呼んでいた。三日月、という意味だ。
その名の通り、三日月状に大きく湾曲した刀身を持つ
リザードマンが生み出したものの中で、これだけは俺の性に合っていたと言える。
手首を回転させ、逆手に構えた
ずぶり、と沈む、硬質な肉の感触。
——入った。
だが、向こうが意に介したような様子はない。
たぶん蚊に刺された程度の損傷なのだろう——それでも、俺にとっては充分だった。
長い胴体をくねらせ、大蛇は元来た穴へと戻っていく。俺はクルスの柄をしっかりと
できるだけ姿勢を低くして、鱗で守られた表皮の側面にぴったりと張り付く。
この時、幸いだったことがふたつある。
ひとつは、敵に気づかれていなかったこと。
よほど鈍感なのか、あるいは知った上で無視しているのか——どちらなのかは不明だが、今すぐ叩きつけられたり、振り落とされたりするような様子はなかった。
そしてもうひとつは、地下に空洞が広がっていたことだ。
おそらくは天然の洞窟を、こいつが居住空間、もしくは移動経路として利用しているのだろう。
地中を掘り進むように移動されていたら、こうして張り付くのも不可能だった。
つまり俺がまだ生きている理由は、まったくの偶然だ。
——クソ。
心の中で、俺は悪態をつく。
いくら引き受けたとはいえ——いくら俺が社交的で文化的なリザードマンだからといって、見ず知らずの他人のために簡単に命を投げ出すのか?
どうかしている。そこまでしてやる義理があるとは、俺は思わない。
——そもそも、俺の目的は。
ドラゴンになる。そして己の翼で、誰よりも強く、自由に、大空を舞う。
それが困難な道であるということは理解していたし、覚悟もしていた。そのためになら、どんなことだってやるつもりだった。
だからこそ、ここで諦めるわけにはいかない。
ヒナ。俺が初めて出会った、本物のドラゴン。あの白い翼を見た時、運命めいたものを感じた。
きっと俺がドラゴンになるために欠かせない、重大なパズルのピースだと。
それは希望的観測に過ぎないのかもしれない。
それでも、
——だから、苛立ってるんだ。
自分自身に。少しはヒナに。大半は、目の前の大蛇に。
なにに対して怒っているのか、もはや自分でもわからなくなっていたが、それも今はいい。
あらゆる怒りを込めて、引き抜いた刃を再び突き刺す。
空いている右手の爪を鱗に掛け、体を引き上げる。
クルスの
どのくらいそうしていただろう。
一時間か、二時間か——そんな風に感じたが、それはたぶん、五分に満たない程度の時間だったのだと思う。
次に顔を上げた時、奴の頭はもうすぐそこにあった。
「おい!」
俺は声を張り上げる。
「なにやってんだ、お前、ドラゴンじゃないのかよ?」
確実に気づかれるというリスクを背負うことにはなるが、ほかに手もない。この状況を脱する方法は、ドラゴンしかなかった。
大蛇の体が、わずかに身じろぎしたように思える。
一瞬の間のあと、前方の闇の中から返事があった。
「……ガル?」
よく通る声だ。どうやらまだ食われてはいないらしい、と俺は安堵する。
「そんなところで、なにをしてるの?」
「お前を探しに来たんだよ。で、そっちは?」
いちいち呆れていたら時間が足りない。俺は口早に尋ねる。
「竜化形態に移行するには、管理者権限による許可が必要」
「は」
その意味を理解するのに数秒。
そして俺は唸った——頭のすぐ近くをせり出した岩壁が通り、慌てて首をすくめる。
「ヒナ、おい、そういうことは、先に言え」
「わかった」
おそらくなにもわかっていないだろう、と俺は思う。
だが、よく言い聞かせている時間はもちろんない。
「なら許可する――許可するから、早くこいつをなんとかしてくれ」
しがみついている腕は、すでに限界だった。少しでも気を抜けば、あっという間に後方にはじけ飛んでいきそうだ。
「はい」
ヒナは頷いた。
俺には、それが見えた。逆立つ白い髪も、その隙間から生え始めた白い角も。
ゆらめく炎のような光が、そこに出現していたからだ。
夜空の星のように輝く、一対の赤い光。
それがヒナの目であると気づくまでには、少し時間がかかった。
普段の黒い瞳の面影は残っていなかった。
それは燃えるような、紅蓮だった。
そして、次の瞬間。
「えい」
あまりにも覇気のない掛け声と、どう考えても不釣り合いな衝撃が、俺と大蛇を襲った。
大蛇の動きは急停止し、俺は前面に投げ出される。
「がっ——」
どうにか受け身を取って転がる。手足の爪を地面に突き立て、勢いを殺す。
壁に激突するぎりぎりのところで、俺の体は静止した。
——どうなった。
俺は頭を振る。ヒナが拳を振り上げたところまでは、かろうじて認識できた。
だが、その先がわからない。
大蛇は。ドラゴンは。
そこでふと、周囲が比較的明るくなっていることに気づく。
どうやら蛍光石の鉱脈に突っ込んでいたらしい。広い空間のあちこちが発光し、もうもうと立ち込める砂埃を照らしている。
そこから立ち上がる影があった。
「だめ」
その向こうでゆっくりと体を起こす、さらに大きな影も。
「力が足りない。完全竜化形態に変身できない」
またひとつ俺の知らない単語をつぶやきながら、ヒナはこちらに歩いて来た。
その頭には角が生えたままだ。瞳も、赤く変わったまま。
ドラゴンらしいところと言えば角くらいで、あとは少女の姿と変わらない。
中途半端な変身、ということなのだろうか。
息を吐いて、俺は立ち上がる。
疲れ切っていたし、肩と膝と腹と——ほとんど全身が痛んだが、休んでいる暇もなさそうだった。
「どうすればいい?」
ヒナが首を傾げる。
「決まってるだろ」
俺は笑い出しそうになる。砂埃の上から顔を出した大蛇は、ほとんど無傷のように見えた。
怒りを含んだ視線が、俺とヒナを捉える。
こうなった以上、やることはひとつしかない。
「逃げるぞ」
俺たちは全力で走り出した。
奴が追ってきたことは、言うまでもない。
転生リザードマンはドラゴンになりたい 三社 @taiyaki0141
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