奴等は翻弄してくる

遠部右喬

第1話

 これは、二匹の猫飼いの身に起きた恐ろしい……こともない記録である。なお、個猫情報に配慮し、二匹の仮の名を『ビジン』『カワユイ』としておく。恐らく、どこからも異論は出ないだろう。



 午前七時、『ビジン』と『カワユイ』は異変を感じていた。


 ――休日とは言え、常ならば六時半には動き出す筈の全自動給餌機NIN‐GEN、通称ゲボクが、まだ起動しないのだ。日頃からへっぽこなゲボクは、とうとう壊れてしまったのだろうか――。


 勿論、ゲボクこと私は決して壊れた訳では無い。二匹の朝ご飯を抜くために寝たふりを決め込んでいるだけである。

 それと言うのも、この日は朝から二匹の定期健診があるのだ。猫の健康診断も人間のそれと同じく、血糖値等を調べる為に十時間前後の絶食が必要になる。

 そんな訳で、二匹は昨日の夜十時から(厳密には更にその一時間前から)何も食べておらず、かなり腹を空かせている。動物病院の予約時間は午前十時。それまで私は、二匹からの「メシ寄越せ攻撃」に耐えなければならない。


 カーン!


 戦闘開始のゴングの幻聴が聞こえた。


 どすりどすりと、横たわる私の肩が軽く浮く程の力で頭突きをかます『ビジン』。それに耐える私の、上腕内側の皮膚の薄い部分1mmを捩じる様に踏みつけ続ける『カワユイ』。ふ、これ位は想定内だ。

 それでも起き上がらない私に業を煮やし、器用にも爪で左右交互に鼻フックを仕掛けてくる『ビジン』。脇腹をざかざかと掘ってくる『カワユイ』。二匹の攻撃が地味に効いてくる。いや、まだ戦える。

 次は搦め手だ。私の頬を優しくぽふぽふと叩く『ビジン』。ふぁぁぁん……と、か細い声で空腹をアピールする『カワユイ』。胸が痛む。

 私の髪を優しく引っ張る『ビジン』。何故そんな思い込みをしているのかは不明だが、私の服を舐めればご飯が貰えると信じてジャージを舐め倒してくる『カワユイ』。耐えるんだ、私。


 まあ、最後はやっぱり暴力ですね。

 全体重をかけた両腕を私の額に乗せ、力強く、ぐりっぐりっと頭を左右に転がしてくる『ビジン』。喉の上に腹這いになってこちらの呼吸困難を誘い、飯か死かの選択を迫る『カワユイ』。えげつない。これらを行ってるのが人間だったら、確実に恐喝及び傷害事件の現行犯で逮捕である。


 かくして、私は起き上がる羽目になった。時刻は八時。かなり粘ったが、ここらが限界だった。だが、病院への移動時間を考慮しても、後一時間半近くは耐え忍ぶ必要がある。勿論、空腹の二匹の前で、自分だけ腹を満たせる強靭な精神力を持ち合わせていない以上、私も朝食抜きであるが、そんなことは構わない。それよりも、私の一挙手一投足に「おっ、やっとご飯か?」みたいな、きらきらとした目で見上げられる方が、余程耐え難い。その瞳が、「ああ、違った……」と暗く沈み、深く溜息を吐かれたりすると、こちらもどうしようもなく悲しくなる。


 しかしこの戦い、負けるわけにはいかない。心を鬼にして二匹を無視し、テレビを点け、観るでもなく無駄に画面を見詰める。


 と、ここで二戦目が始まる。


 私の腕を絶妙な力加減でスパーンスパーンと叩く『ビジン』。爪を立てる振りをしてプレッシャーをかけてくる『カワユイ』。テレビ前ど真ん中に陣取り、強引に視界に入り込む『ビジン』。頭と尻を交互に押し付けて来る『カワユイ』。必死に見ないふりをする私。


 やがて、一向に応えようとしない私と空腹に気が立っているのだろう、二匹の乱闘が始まった。

 素晴らしいコーナリングのついでに私の腹に飛び蹴りを捻じ込む『ビジン』。胡坐をかいた膝を踏切台代わりにして空を舞う『カワユイ』。その度に「おんっ」だの「んぐふ」だのおかしな音を漏らし、衝撃に身を捩る私。

 ちょっとした地獄絵図である。


 だが、ありがたいことに、時間は誰の上をも通り過ぎてゆく。


 カンカンカン!


 気付けば九時半。心の中で試合終了の合図が鳴り響く。

 今年も無事、この戦いに勝利することが出来たのだ。


 何かを察し、逃げ出そうとする二匹を捕らえ、キャリーに押し込む。キャリー越しでもバイブレーションを感じる程に恐怖に震える『ビジン』。呪いの言葉を叫び続ける『カワユイ』。可哀想ではあるが、これも二匹の為である。ご近所に虐待を疑われない内に急ぎ家を出る。


 病院では、内弁慶の二匹の検査はあっという間に終わった。検査結果は一週間後に出る。



 帰宅後、可及的速やかに二匹に食事を給仕。

 ドライフードの上に、頑張ったご褒美としておやつをトッピングする。やれやれ、これでご機嫌を直してくれるだろう……おいおい、おやつ部分だけ食べるんじゃあないよ『ビジン』。ははは、『カワユイ』はもう少し落ち着いて食べなさい。


 二匹の食器を下げ、ようやく一息つきソファに腰掛けた私は、ふと、その一部に違和感を覚えた。何事かと顔を寄せると、刺激臭が鼻に刺さる。嗅ぎ覚えのある臭い……これは……猫の尿だ。


 猫の……尿だ……⁉


 え、何で?

 『ビジン』も『カワユイ』ももう大人だし、トイレ以外でやらかしたことなどないのに。 いやまあ、もしこれが猫のではないとしたら、その方が余程問題ではあるが……念の為に今一度嗅いでみたが、尿であることは疑いようが無かった。


 その時、ある記憶が甦った。


 家に来たばかり頃の『カワユイ』は、人間で言えばまだ幼稚園の年長さん位だっただろう。既にトイレは一人で出来ていた……にも拘らず、二回程、このソファに放尿したことがあったのだ。トイレが汚れていた訳でも無く、びっくりして漏らしてしまった風でも無く……理由は未だ不明だ。もしかしたら、私の匂いが染み付いたそこが、猫トイレと認定されるほど臭かったのかもしれない。

 ともかく、当時は目の前で起きた想定外の光景に呆然としたものだが、その後に椿事が起きたことは無く、また、『カワユイ』が他の布物の上でそんな振る舞いに及んだことも無かった為、すっかり忘れていた。


 そして『ビジン』はやや神経質な為、トイレ以外で用を足すなど思いつきもしないだろう。


 そんな訳で、今回の尿の出元も、99.9%『カワユイ』だろうと思われた。恐らくは帰宅後、私が二匹のご飯を用意している間にやらかしたのだ。いや別に、どちらの尿でもいっこうに構わないし、出ないよりは出してくれた方がありがたい。ただ掃除すればいいだけの事である。面倒だけど。面倒だけど!!


 問題は、『カワユイ』が行動に至った原因である。

 朝ご飯が貰えなかったことに対する抗議? それとも、病院に連れて行かれたことへの怒りを発散する為?

 恐らく違うのではないか。大らかな『カワユイ』は嫌なことは直ぐに忘れるタイプで、そもそも要求がある時はきっちりとアピールしてくる。目の前でするならまだしも、いつの間にかの放尿では、『カワユイ』の行動原理に合わないのだ。まさか、体調不良だったらどうしよう……俄に不安になった。


 と、ここまで考えてから、はっとした。テレビ脇に設置した猫トイレを確認すると、案の定、夜中から明け方にかけてしたのであろう尿が一匹分(『ビジン』のしたものと思われる)と、う〇こが二匹分残っていた。起床してからこっち、二匹をいなすことに必死で、今の今迄トイレ掃除を怠ってしまっていたのだ。『カワユイ』は、ばっちいトイレなんて使いたくなかったのだろう。全ては私のせいだったのだ。


 申し訳ない気持ちで一杯になった……のは束の間である。


 『ビジン』、『カワユイ』、よくお聞き。この猫トイレ含め、家のそこここに君等のトイレは合計四つも設置してあるのは知っているだろう? 特に『ビジン』、君は朝は大抵猫タワー近くのトイレで済ますのに、なんで今朝に限ってテレビ脇のしか使わないの。他のトイレは全然綺麗じゃん!


 雑巾片手にそう訴える私を尻目に、腹の膨れた二匹は炬燵の中へと去っていくのであった。


 これがある日の午前中、ゲボクの身に起きた出来事の全容である。


 余談だが、件のソファは何故か掃除中に背もたれが崩壊した。経年劣化か、はたまた猫の尿に因るものかは謎である。

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