20XX.12.7 失敗は誰にでもある。

 外の扉が開いた音がしてからだいたい三十秒。内側の扉が開くのと同時に、カランコロンとドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」

「らっしゃいませー」


 声を放りながら、お客さんの姿を確認する。このタイミングはやっぱりエンドウさんだった。

 感じのいい普段着の、三十代くらいのめちゃくちゃ物静かな男の人。

 カウンターじゃなくってお店の奥のテーブルの、一番すみっこの席に「ここが落ち着くんです」って顔して座る常連さんの一人だ。ついでに、よく見ると塩顔イケメン。


「ご注文はお決まりですか?」

「水出しアイスコーヒーとプリンで」

「かしこまりました」


 他の常連さんもだけど、エンドウさんも毎回おんなじものを注文する。やりとりは本当に必要最低限。

 彼はいつも文庫本を読んでるから、時間が経つと冷めちゃうホットコーヒーじゃなくて、初めから冷たいアイスコーヒーを頼むんだろうなって、あたしは勝手に想像してる。


 『純喫茶アポロ』の水出しコーヒーは、深煎りの豆を細挽きしたやつを使って、マスターが前の晩から仕込んで、ゆっくりゆっくり抽出して作る。ゴクゴク飲めちゃうさっぱりおいしいコーヒーだ。

 プリンはこれまたマスター手作りで、しっかり固め。のんびり食べてもへたらない、素朴な味わいの絶品デザートなのだ。


 そんな自慢の水出しアイスコーヒーとプリンを、エンドウさんのテーブルへと運ぶ時に、事件は起きた。起きたっていうか、起こしちゃったっていうか。

 もちろん、すっごく丁寧に運んでたつもりだったんだけど。

 先にプリンを下ろして、次にコーヒーのグラスを置こうとした瞬間、急に右のこめかみにつきーんと痛みが走って、クラッとして。

 気づいたらグラスはあたしの手を離れて、中身が思いっきりエンドウさんにかかってたんだ。


「えっ……ああ⁈」


 うっそ!


「すみませんっごめんなさいっ! 大丈夫でしたかっ?」

「いえ、はい」

「あああ、服と、それから本も……大変申し訳ありませんっ!」

「いえ」


 とにかく謝り倒して、ありったけのおしぼりを持ってきたけど白シャツにコーヒーなんて致命的で。

 クリーニング代と文庫本代をあたしのバイト代から天引きで弁償して、コーヒーチケットをお渡しして、最後の最後までマスターと二人で頭を下げて。

 いつも淡々としてるエンドウさんは、こういう時でも淡々としてて、怒ってるのか許してくれたのかも分かんない。


 エンドウさんが帰った後の店内で、あたしはベッコベコに凹んでカウンター席で溶けてた。


「マスターぁぁ……本当にすいませんでした……」

「いやいや、リンカさんもわざとじゃなかったんだし、起きたことは仕方ないよ」

「それはそうなんですけど……エンドウさんにすっごい迷惑かけちゃいましたし、せっかくマスターが作ったアイスコーヒーも台無しにしちゃったんで……」

「いや、まあ……そんなのはまた明日も作ればいいからね。今回コーヒーはホットじゃなかったし、グラスも割れなかった。リンカさんもエンドウさんも怪我しなかった。不幸中の幸いだよ」


 優しい言葉が却ってツラい。


「エンドウさん、来なくなっちゃったらどうしましょう……」

「うーん、そればっかりはね。やれることはやったと思うよ。失敗は誰にでもある。そんなに気に病まなくてもいいよ」

「はい、ありがとうございます……」


 ああ、二度とおんなじことを繰り返さないようにしないと。

 あたしは右のこめかみを人差し指でとんと叩いた。

 くそぅ、何もあんなタイミングで。

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