20XX.12.6 ありきたりな幸せは、あたりまえの幸せではなかった。(マスター視点)

『クリスマス、楽しみね』


 あれからまもなく一年が経ってしまう。

 僕はもう二度と、クリスマスを楽しみにはできないだろうと思っていた。


 ■


 僕の目の前に、道がのびている。

 『伸びている』のか、『延びている』のか。

 どちらかと言えば後者だろう。


 海沿いの堤防の遊歩道には、人影がない。

 それはまだ日が昇りきらない早朝の時間帯ということもあるし、空気中に絶えず漂う塵芥毒のせいでもあろう。

 僕の手にしたリードの先には、防塵服にすっぽり身を包んだ愛犬の姿がある。防犯と安全を兼ねて装着した光る首輪とも相まって、さながら宇宙犬の様相だ。

 本来の僕は、好んで外を出歩く性分ではなかった。だが犬がいるなら話は別だ。

 日中は店に出ずっぱりで構ってやれないので、朝夕の散歩を欠かすわけにはいかない。生き物を飼うならば、責任を負わねば。


 薄明の空。淡い雲に覆われているとはいえ、朝の訪れは僕の心にある種の感慨をもたらす。

 新しい朝を、また迎えてしまった、と。

 どこまで行っても、一人と一匹分の足音だ。それすらも防塵頭巾に遮られて、存在自体が覚束ない。

 隙なく纏った防塵スーツは風を通さず、季節感をも曖昧にする。

 リードを伝ってくる、前へ前へと進む力だけが、ただ一つの確かなものだった。


 静かだ。とても静かだ。波の音も遠い。


 以前はもっと賑やかだった。

 僕の隣にはいつも君がいたから。

 スーパーに並ぶ野菜の値段の話や、馴染みの客にもらった美味しい菓子の話、季節ごとに活け替える花の話。

 他愛もない、取り留めもないおしゃべりが、僕の生活を彩ってくれた。

 だが、ありきたりな幸せは、あたりまえの幸せではなかった。


『いつか宇宙旅行に行けるといいわね』


 遠い日、君が何気なく口にした言葉を、意外なほど憶えている。

 まるで宇宙飛行士のような姿で、地上に貼り付いたままの今。僕のリードを引く宇宙犬は、そもそも君が飼い始めたものだった。僕たちには子供ができなかったから、その代わりとでも言うように。

 結局、僕と犬だけを残して、君は空の向こうへ行ってしまった。


 薄い雲のスクリーンの向こう側で、太陽の昇る気配がある。

 新しい一日が始まる。君のいない、新しい一日が。

 僕は今日も『純喫茶アポロ』の表の鍵を開け、豆を挽き、数えるほどのお客を迎えて、コーヒーを淹れる。

 最近の変化といえば、ひと月ほど前に新しくバイトの子を雇ったくらいだ。


 僕の目の前に、道が延びている。

 どこまで続くか知りもせずに。

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