第2話 死せる森の美女
「う、うーん……ここはどこだぁ……?」
謎の
まるで某アニメーションの大佐のような、目を抑える体勢で転がりながら、目の疲れを
瑞樹が目覚めたここは、アモルゴ大森林の一角に偶然出来ていた、
少し辺りを見渡せば、木々の根や幹が
しかし、寝転がることで瑞樹の服に土がまとわりつき、
直前まで
瑞樹はひとまず起き上がって、全身についた土を両手で払った。
そして手を組んで真上に伸ばし、限界まで伸ばしてから手を離して、身体の筋肉及び精神的なものも含めて緊張を解した。
「うー……っぁああっ! さて、と……ここどこだ……?」
それから瑞樹は、自分が置かれている状況の
自分が今森の中にいて、だがどこの森かも知らないので、どこへ行けば森を抜けれるのかは分からない。
地図から検索しようと、ズボンの右ポケットに入れていたスマートフォンを取り出すが、左上に表示された電波はなく、通信環境も
「はぁ……マジか。っと充電器どこやったっけな……」
だが、瑞樹が大学の帰りに肩にかけていた、赤いエナメルバッグがどこにも見当たらないのだ。
どうやらいつの間にか、あの骨董屋に忘れてきてしまったようだ。
財布や自宅の鍵などの貴重品も、全てあの中に入れているため、服を除いた今の瑞樹の持ち物は、電池が切れかけのスマートフォンただ一つである。
「おいおいマジかよ。これでどうやって生きてけっつーんだ? どこのジャングルとも知れねえこの中でそりゃないわ……」
人はおろか動物の気配すら感じられない中、これから先どうしようかと本格的に悩み始めたその時────。
グギュルルル……
「腹……減った……」
唐突に瑞樹の腹の虫が鳴った。
そういえばと、あまりに調べ物に熱中しすぎて、大学で昼食を抜いていたことを思い出す。
更にいえば、気絶してからたった今起きるまで、どれだけもの時間を寝過ごしたのか分からないので、丸一日
「あー……腹減ったなぁー……」
瑞樹の独り言が止まらない。
泣いても笑っても、食べ物を恵んでくれる人が現れるはずもないので、結局は自分で探さないとならない。
また、いつまでも森の同じ場所でじっとしていれば、熊のような野生の動物に襲われるかもしれないのだ。
仕方なく、瑞樹は森の中を当てもなく歩き始めた。
途中で木の実を探そうとするも、農業
仮にあったとしても、毒があるかもしれないことを考慮すると、やはり手が出しづらくもなるのだ。
キノコは論外。瑞樹は昔から、人口
だが、別にキノコを意欲的に探しているわけでもないのに、キノコすら見つからないほど食べられそうなものがないのだ。
「お腹空いた……あー飯ぃ……」
足の運びが段々と遅くなっていく。
瑞樹の頭の中では、
「大盛りカツカレー……
食べたことのある、または出来ることなら食べてみたい、思いつく限りのメニューを何度も何度も呟いては、大きなため息を吐いて現実に絶望を
しかし、そんな調子で一時間ほど歩いた時のことだった。
「ん?…………この音は…………はっ!」
四方八方見渡しても木しかないが、どこからか聞いていて心地がいい音を、瑞樹の耳が捉えたのだ。
それは、普段からあまり聴いた覚えはないが、そこへ行けば大体は聴くことができる音。
気がつくと、瑞樹はその音がする方向に向かって足を走らせていた。
音の発生源らしき場所に近づくにつれて、段々ハッキリと聴こえてきていた。
それは川の音だった。アモルゴ大森林の南方、ガリフ川の流れる音が、瑞樹の耳には聴こえていたのだ。
この辺りはガリフ川の中流付近に当たり、大量の
その
また上流の景色の背景には、東のパミラーナ
瑞樹にしてみれば、森の景色ばかり見てきたせいか、山があり森があり川がある、この景色から感じられる
「あーやばい。ちょー喉渇いた」
しかし、そんな
体感の気温が
ふと思い立って水中で目を開けてみると、その透明度の高さに驚いた。
川底に沈んでいる砂や小石はもちろんのこと、たまたま通りがかった見たことのない魚の纏っている鱗までもが、模様や形までハッキリと分かるほどだ。
ひとまず三口ほど水を飲んでから、すぐさま顔を上げる。
「ぷっはーっ! きっもちいぃーっ そしてうんめー その辺の天然水より美味くねーか!? これでかき氷作ったら絶品だろ……!」
感想を口にするなり、再び顔を水面に
水分で腹を満たすのは瑞樹からしてもあまり良いとは思わないが、その水が前代未聞の名水──と、瑞樹が勝手に考えている──なら話は別だろう。
しかし、通算四口目のそれは決して美味とは言いがたかった。
「何だ……? 急に鉄の味が……」
ものの一分ほど前は絶品に感じた水が、突然不味く感じるようになったのだ。
まるで
水中に何やら赤い成分が、独特な形を持って流動している様子が見て取れたのだ。
瑞樹は頭の中で、理科の実験で中学生の時に
しかし、前者なら成分的にほぼ
それでもなおどこかで口にしたであろう味に、
流れてきたものは、瑞樹が今までの人生で見たことがないような、文字通りの絶世の美女だった。
水面から顔を覗かせた仰向けの姿勢で、胴体だけが浮力を保っていて、手足とほとんど髪の毛が水中で揺らめいていた。
そのあまりに不気味でむごい女性の姿を見るに耐えられなくなって、瑞樹は視線を彼女から外し、近くの岩場に喉元まで込み上げていたものを吐き出した。
先程大量に水を飲んで満たしたつもりの胃から、今朝食べたものの
そして一通り吐き出して、胃液の独特の酸味を舌で絡み取りながら、少し血の味が引いた川の水でうがいしてそれを消した後、未だ流れ続けている女性の身を助けようと、服が濡れるのもお構い無しに川に靴ごと長ズボンを履いた足を突っ込んだ。
◇ ◇ ◇
「はぁ……はぁ…………それにしても……なんて……」
美しいんだ……。
瑞樹はその一言を、声に出さずに心の中で呟いた。
これほどの
だが、氷のように冷たくなっていた彼女の腕からは、一切の脈動を感じることはなかった。
その事実で全てを
そして羽織っていたスウェットで、顔と服が破けて派手に露出していた胸を覆い隠し、立ち上がってから
顔を上げて、瑞樹は近くの大きな岩に腰をかけた。表面は太陽によって熱されていて、尻や太ももが焼けるように熱いが、瑞樹の心はどこか
「……これから……どうすっかなぁ…………」
放心したまま独り言にすら散々悩み抜いた末に、瑞樹はこう口にすることで精一杯だった。
どこかも知らない森の中、初春を過ぎて初夏のような暑さの下で、名前も知らない女性の死体と共に佇んでいる瑞樹。
手荷物は、圏外かつ電池が切れかけのスマートフォンただ一つ。
呆けた頭で何も行動に移さないまま、
そんな時ふと頭に浮かんだのは、謎の骨董屋で何の
──訳の分からないままこんな場所に誘拐して、放置した
「おーおー、そろそろこの老いぼれが恋しくなった頃かのう。どれどれ」
瑞樹の
瑞樹が最後に見た時と同じく、身体全体を覆うほど大きなフード付きのローブを
彼女の背丈はそれほど高くはないが、座っている瑞樹にしてみれば見上げる形になるためか、老婆の顔を以前よりはっきりと見ることが出来ていた。
黒ずんだ肌に近づかなくても分かるほどの
瑞樹の言葉でいうならば、どうしようもないほどのクソババアなのだ。
「あ、クソババア! てめぇよくも俺をこんな所に置き去りにしやがって! よくも
「ほっほっほ、この老いぼれに
くどくどと呆れた様子で吐き捨てるように
やけに大きなその物体を、瑞樹は慌てふためきつつも両手で受け止める。
そしてそれは、失くしたとばかり思っていた、瑞樹にとって今は命の次に大切なもの。
「お、俺のエナメルバッグ! ……ちょっとボロボロだけど、よかった……。どうして、あんたが……?」
「お前さんの風に言うなら、ちょっとしたババアの気まぐれじゃよ。それにお前さんにとっても、中身の物はガラクタのばかりじゃなかろうと思ってな。礼には及ばんがのう、こんな老体に
シャープペンシルと黒と赤のボールペンに、消しゴムと替えの
これらは全て、骨董屋を訪れた時に瑞樹が肩にかけていた、エナメルバッグの中身であり、
バッグそのものは表面の
「その……なんだ。ええっと……持ってきてくれて、ありがとな。助かった」
「ふん。素直にそう言えばいいのにのう……これだから最近の若者は……」
「言いたいことは分かったが、あんたにだけは言われたくないわ!」
──恩をキチンと受けたのに、何故すぐに傷口を抉るようなことを言うんだこのババアは。
老婆の不器用な反応に、瑞樹は心の中で
だが、老婆にそういう面があることを真っ向から否定できないことが、なんとも皮肉ではあるが。
「で、なにゆえお前さんはこんな所で道草を食らっておるのだ? こんなに日差しが差し込む下で、何時間も居座っていたわけではなかろうに」
「ああ。さっき森の中で目が覚めたんだがな、飯抜いてたせいか腹減っちまってな。それで食えるもんでもないかと思って探してたんだが、毒がありそうで野生の植物には手が出しづらくてな。そんな時に、水が流れる音が聞こえてきたから来てみたら、この通り川があったんだわ。それで喉渇いて、顔浸けて水分補給してたら上の方から……その…………彼女の死体が、な……」
語尾を濁しつつ苦い顔をしながら、瑞樹は老婆を川沿いで横たわっている女性の死体に向けて目配せした。
「ほぅ……」
すると何を思ったか、老婆は早足で女性に近づくと、様々な角度から感心したかのように観察し始めたのだ。
「ほほぅ……これはこれは……おおぉ……立派に育っておるのぉ……中々の触り心地じゃわい……ほうほう、ここはこうなっとるのか……どれどれ」
額に手を当て、瞼を開けて目を覗き込み、胸を触り、尻を触り、派手に破れた服を
「ば、ババアてめぇ、何してんだ! 何をそんな真剣に…………あんたはマッドサイエンティストか!」
老婆が、死体の股間を服を捲ってまで覗こうとしていたことで
そのまま引き上げて、再度互いに向き直る。
──例え死んでるからって、他人の身体に何してもいいわけじゃない。
老婆を睨みながら瑞樹は心の中で再び毒づくが、全く気にもとめない老婆は、
「科学者、か……あながち間違っとらんのかもしれんのぉ……昔から色んなことをやってきたものじゃわい」
「あんたが過去に何してきたかは知ったこっちゃねぇ。けどな、それでも見ず知らずの他人の死体を
「生きとるよ、この娘は。そう長くはもたんがな」
淡々とした口調で言い放った衝撃の発言に、瑞樹は話を遮られたことも忘れて押し黙った。
「なん……だと……!? それは一体どういう……」
「……仮に、彼女が欠けた左腕も右足もあって、傷すらない
言いながら、老婆は女性のその金髪の、こめかみの辺りを指で
そして
「彼女はエルフの一族のものじゃ。エルフというのは主に、成長に沿って耳が鋭角に伸びていくのと、平均的に見て心拍数が低いという特徴があるのじゃよ。故に簡単には脈を感じ取れない代わりに寿命が長いのじゃ。たとえ腕を切られたとしても、一切の手当てなしに一週間は生き
一通りの説明をしてから軽く呼吸をすると、老婆は一転して
「私にとっては好都合だわ!」
少女のような可愛らしい声で言った。
瑞樹はふと、骨董屋で最後に聞いたこの老婆の声も、驚くほど幼いものだったことを思い出す。
しかし、どう見ても彼女は年老いた女性であり、今でこそ立っている瑞樹の角度からはローブのフードに隠れて見えにくいが、先程目に映した彼女の顔だけで判断するしかないのだ。
──特殊メイク? いやいや、わざわざこんな所でする理由あんのか?
瑞樹が思考を
「ねぇねぇお兄さん。一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
もはや
その余りの
「な、なんだよ……」
「今からあのお姉さんとキスして! キース!」
「…………はぁ?」
一瞬、瑞樹は本当に開いた口が塞がらなかった。
老婆の言動に、
言葉を再度
チャポン
小さなものだったが、ガリフ川の方から、何かが落ちて水面に
音の発信源は、死んだと思われていたエルフの女性がいる辺りである。
どうやら気がついているようだが、依然として瞼を閉じたまま起きる気配はない。
だがその表情が少しばかり強ばって見えるのは、老婆が口にした台詞を聞いて身構えているから、と瑞樹は思い込むことにした。
視界の
その事実に心底感謝し、胸を
「いーじゃんいーじゃん! 減るもんじゃないし! ちょっとだけ! ほんのちょっとだけマウストゥーマウスで三秒ほどヤルだけだから!」
──やめろ! やめてくれ! 俺も
顔では驚いているが、瑞樹の心はその表情すらポーカーフェイスにさえ感じられるほど、
まるでムンクの『叫び』の
そんな瑞樹と気持ちの一部がシンクロしたのか、視界の隅に映したエルフの女性が、寝たままの体勢を変えないまま手首だけで右手をぶんぶんと振って否定している。
しかし老婆は未だに気づいていないようだ。
瑞樹は小さく舌打ちしつつ、慌てふためきながらも
「イヤイヤ待て待て待て待て! どうしてだ! 何がどうしてこうなるんだ! それを俺がする理由はなんだ! 言ってみろ!」
「何ってやーねぇ。面白いことが起こるからに決まってるじゃない! 君もあの娘もウィンウィンになれるとっても面白いことなのになー」
まるで意味がわからない。何がwin-winなのか。
何が面白いのか。空腹も収まって、早く元の場所に帰りたい瑞樹にとっては知ったことではない。
やり場のない気持ちを発散したくて、ぶっきらぼうな足取りで立ち去ろうとすると、いきなり老婆に左腕をがっちりと掴まれる。
瑞樹が振り払おうにも全く離すことはなく、いやいや後ろに振り返ると、
「どうしても……ダメ……かな……?」
涙が
──やめてくれよ! ババアがそんな目でこっち見んな! 気色悪いわ! 声だけ幼女だから
瑞樹は今、「生理的に無理」と言われて彼女が一人も出来なかった過去を思い出し、自分がそう言いたくなるほどの嫌悪感を抱くような女性はいないだろうと
だが、この感情を俗に天使とするならば、逆に悪魔ともいえる思いも瑞樹の中にあった。
──なんでだよ! せっかく女の子と気兼ねなくキス出来る千載一遇で空前絶後レベルのチャンスなんだぞ! それをお前は無駄にする気か!
そう、いわゆる彼女いない歴イコール年齢のまま二十年以上もの人生を過ごしてきた瑞樹の、純粋な性欲からくる好奇心なのだ。
今までの人生で、親族を除いた女性と瑞樹が物理的に触れた時は、大体が満員電車の揺れで偶然起きるか、レジでお釣りを受け取る時程度だった。
歴代の担任は全て男性で、授業ごとに担当教師がいる中学高校でも、女性の教師に教えを
──でもよ……ダメだろそりゃ……。いくらなんでもあの様子じゃ、絶対無理だって……な? やめとけよ……俺……。
──だけど! 俺だって! 諦めたくないんだ! いつやるか、今だろうが! こうなったら……俺同士で、合体だ!
──え? ちょっと何勝手に話進め……ってうわあああああっ!
理性の天使が、欲求不満の悪魔の
白と黒が混じりあい、やがてそれは
──ああああもうわぁーったよ! こうなったらヤケだ! 別にディープじゃなくていいんだろ!
「やってやるよこんちくしょう!」
訳の分からない感情のまま、それでもその内の半分を
目は
しかし、もはや瑞樹にそんな事実は関係ない。
口にしたからには
道連れなんて
死因に多少の差異があるかもしれないが。
「やったー! 男の子はそうでなくっちゃ! それじゃあ早速ー、えいっ!」
飛び跳ねるほど嬉しそうな顔をした老婆は、瑞樹の背後に回り込んでそのまま両手で突き飛ばした。
よろけた
──あっぶねー! こちとらまだ心の準備ってもんが出来てねえんだよ! それにどつくな! 二重の意味で危ねぇだろうが!
不意打ちでしてしまいそうになった危機と、単純に勢い余って川に突っ込んでしまう、もしくは石に足を取られて砂利に顔からぶつかっていく命の危機、瑞樹は今その二つが迫ってきていたかもしれないと思い返してゾッとする。
前者は社会的に、後者は肉体的に死ぬからだ。
しかし、どっちにしても男としては
それでも、お互いの顔は既に指三本分ほどの、極めて近い位置にまで近づいているのだ。
思考を停止していても、心拍の
「キース! キース! キース! キース!」
コンサートの終わりにアンコールを求めるようなノリで、キスしてと連呼している老婆。
いや、ジョッキ一杯の酒を一気飲みさせようとする
どちらにしろ、瑞樹にとっては非常にキスがやりづらくて仕方がないのだ。
そんな状況の中で、瑞樹はこれ以上ないほどの
──そうだよ! 俺がこれからするのはキスじゃない、人工呼吸だ!
彼女は川で溺れていた。それ以上に生傷が酷く死人かと思ったが、通り過ぎた老婆曰くまだ生きていると言った。そこで第一発見者である自分が、彼女に気道を確保しつつ人工呼吸を行い、
この一連の
嫌そうな顔を見たくなくて目を瞑ったままにしているが、人生初めての行いに、さぞ気持ち悪い顔をしてるんじゃないか、瑞樹はそんな自分に
しかし、慎重に行っていた瑞樹を裏切るかのような声が、彼の目の前から響いた。
「あぁんもうっ!」
その時に瑞樹が感じた感触は、この先
キスと仮面の救世主(アルシオン) 風魔 疾風 @fuuma_hayate_
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