冷たくなった月だけが

えんがわなすび

第1話

 人魚を捕まえた。

 とても大きな人魚だった。いや、もしかしたらその人魚は標準的な大きさだったのかもしれない。僕の身長が中学二年生になっても一五五センチしか届いていないから、余計に人魚が大きく思えたのかもしれない。


 その人魚はとても綺麗な姿をしていた。

 黄金の紅茶に蜂蜜を混ぜたような髪は毛先にいくほどウェーブが掛かっていて、その髪が滑り落ちる肌は初冬に降ってきた淡雪みたいに白い。おへそから下に向かって伸びている尻尾は、虹色を丁寧に置いた絵画のようだった。

 もちろん、人魚だからおへそから上は裸の肌しかない。厳密にいえばおへそから下も裸の尻尾しかないのだけど、虹色に煌めく鱗が裸なのと、僕たち人間と同じ肌が裸なのとは随分受ける印象が違う。外で犬が裸で歩いているのと、外で人間の女の人が裸で歩いているのとは――僕はそこで思考を切った。

 つまりは、中学二年生の僕には女の人の体というものは酷く羞恥心を煽るものだった。彼女の蜂蜜みたいな髪が胸元まで長く、それが上手く肌を隠していてくれたから多少はマシなようなものだ。

 とはいえ、その羞恥心を煽られたのはなんとか家に人魚を持って帰ってそれを自宅の浴槽で洗い流した後のことであって、人魚を持って帰る道のりではそんなことは考えてもいなかった。なにせ人魚は、僕が住んでいる山と小さな川に囲まれている寂れた田舎の、泥やら藻やらで年中汚いどぶの真ん中で泥だらけになってへたり込んでいたのだから。


「よい、っしょ!」

 僕は渾身の力で人魚を水槽の中に滑り落した。滑り落すというと乱暴な言い方になってしまったけど、実際僕の力では人魚を抱き起すのも一苦労で、それを人魚が入れるほどの大きな水槽に入れるのにはもっと苦労するのだ。半ば放り投げる形で水槽の水に落ちた人魚は、バチャンと水しぶきを床に落としてそれでも元気そうに水の中を一泳ぎした。僕の口から安堵と疲れの溜息が零れる。

 この水槽は以前お父さんがアロワナを飼っていた時のものだけど、そのアロワナも寿命で死んでしまって水槽だけが部屋に取り残されていたものだ。綺麗に掃除していたから水垢や藻なんかは生えていない。人魚はそこに入ってもらった。蓋をするか迷ったけど、人魚に蓋をするのはなんか違うなと思って水槽の蓋は外した。

 水槽の横にある部屋の窓から差し込む日差しが人魚の虹色の尻尾を撫でて煌めく。彼女が動くたびに鱗から虹が生まれ消えていく様を僕はひと時の間堪能し、それから水槽のガラスに手をつける。

「ねえ、なんで溝なんかにいたの?」

 この辺りは川はあるけど、海までは車で随分走らないと辿り着けない。普通海に住んでいる人魚がこんな田舎の川しかないところにいるなんて初めて聞いたし、実際会ったのも初めてだ。もっと海に近い都会の方ではよく人魚を見かけるらしいけど、ここで生まれてこの町から出たことがない僕は初めて間近で人魚を見た。しかも泥だらけの。

 水槽越しに眺める人魚は暫く水槽の中をうろうろ泳いでいたが、やがて場所を決めたようにちょっと隅っこの方に腰を下ろした。部屋から入ってくる日差しが届く部分だった。彼女はさっきの僕の言葉が聞こえていないみたいに無反応で、数回瞬きを繰り返し、それから水槽のガラスに背中を預けた。彼女の瞳は、朝日が昇る瞬間の澄んだ空みたいな色をしている。

 たとえ水の中にいようが声が聞こえないわけじゃない。無視されたんだな、と僕は思ってちょっと体を引いた。女性に対してぐいぐい行くのは失礼だと、前にお母さんが言っていたのを思い出した。

「じゃあ何か食べる? 何がいい?」

 これにも無反応で、彼女は数回瞬きを繰り返した瞼をとうとう閉じてしまった。彼女の蜂蜜みたいな髪が水の中をふわふわと泳いでいる。

 困った。さっきお父さんに聞いてみたけど、お父さんも人魚が何を食べるのか知らないみたいだった。なにせここは山と小さい川しかない田舎だ。そもそも人魚がいない土地だから、みんな人魚についてあまり知らない。お母さんには、持って帰ってきたんだからちゃんと面倒を見るのよと言われてしまった。それについては素直に頷いた。今更彼女をあの汚い溝に返す気はなかった。

 人魚は普通海に住んでいるのだから、食べるものは魚だろうか? 生の方がいいだろうか?

 僕はちょっと考えて、「ちょっと待ってて」と人魚に言い残しキッチンに向かった。そう言わなくてもたぶん人魚は水槽の底から腰を浮かすことはなかったかもしれないけど、意思疎通は大事だ。一度もこっちを見てくれていなくても声は聞こえているんだから。

 キッチンに来た僕は冷蔵庫の中を覗き込んだ。魚があればいいなと思ったから。けれど僕の期待に反して冷蔵庫の中に魚は無く、代わりに刺身がパックで置いてあった。マグロの刺身だ。たぶん、今日の晩ご飯にお母さんが買ってきたんだろう。

 僕はそれを見て随分悩み、それから刺身を持って人魚のところに戻ってきた。

「ごめん、刺身しかなかった」

 水槽に向けて刺身を差し出す。人魚が見やすいように傾けると、パックの中でマグロの切り身がちょっとずり落ちた。

 彼女はさっきと同じ場所に腰を下ろしていたけど、僕の言葉に閉じていた瞼をパッと開けて僕を見た。澄んだ空の瞳が水中できらりと輝く。初めて視線が合ったことに僕の肩が跳ねたが、それを気にする素振りを見せないまま人魚はふいっと顔を横に向けて目を逸らす。反動でふわっと舞った蜂蜜みたいな髪が彼女の表情を隠したが、僕にはどこかその口元が笑っているように見えた。


 人魚を捕まえてから二日が経った。あれから結局、彼女は何も食べていない。

 試しに生魚を買ってきてもらって水槽の中に入れてみたけど、彼女はちらりと見はしても手にすることはなかった。変わらず水槽のちょっと隅っこの方に腰を下ろしてガラスに背中を預けている。

「もしかして、人魚は何も食べないの?」

 はたと思いついて口にしてみたけど、内心そんなことないだろと僕の中で誰かが否定した。人魚も人魚で瞼を閉じたまま無反応だ。

 この二日、彼女が何かを口にするのを見たことがなかったから、もしかして海に住む人魚は何も食べなくても生きていけるんじゃないかと思ったのだ。その証拠みたいに、彼女の髪は蜂蜜みたいに艶やかで、肌は変わらず淡雪のように白い。でも生きている以上何も食べないということはないのだから、単に彼女の望むものを僕が用意できていないだけかもしれない。

 相変わらず一言も喋らないため意思の疎通がままならない。内心溜息を吐いて水槽のガラスに手をつける。こんなに近くにいるのに、彼女のことは何も分からないままだ。

 と、不意に人魚が目を開いた。空色が煌めく。

「え、な、なに?」

 パッと瞼を開けた人魚は目の前にいる僕が見えていないみたいにすいっと水の中を泳いで水面から上体を出し、水槽の縁を両手で掴んだ。そのまま水槽の外に転がり出るんじゃないかと焦ったけど、人魚は縁を掴んだままじっと窓の外を見ている。

 窓の外はもう暗く、ちょうど切り取られた空の真ん中で月が輝いている。随分丸くなっているから、もしかしたら今日は満月なのかもしれない。

 人魚はその月を食い入るように見つめていた。

「……もしかして、海に帰りたいの?」

 月光に照らされる蜂蜜を見ていると、そんな言葉が浮かんだ。

 そうだ、どうして思いつかなかったんだろう。人魚は普通海で生きていくものだ。こんな田舎の、溝で捕まえたから忘れてしまっていたけど、本当はどこかから迷い込んで海に帰れなくなっていたのかもしれない。それを僕が持って帰ってきてしまったから、ますます帰れなくなったんだ。僕は人魚の目の前に移動してその空色を覗き込んだ。

「ごめん、僕のせいだ。僕が勝手に君を連れ帰ったから。でもここは海まで遠いから今すぐには無理なんだ。明日になったらお父さんが帰ってくるから、そうしたら車に乗って海まで――」

 人魚の、朝日が昇る瞬間の澄んだ空みたいな色の瞳が、ぎょろっと僕を見下ろした。僕の口から言葉が取られる。

 僕と人魚との距離は、抱き合うみたいに近い。その距離で見下ろされた空色は月光に反射して光の粒が舞い踊っている。綺麗で幻想的なそれのせいなのか、僕の体は動かなくなった。

 おもむろに人魚が手を伸ばす。僕の腕が取られる。暗い深海のような冷たさの手に肩が跳ねたが、それより前に人魚が、口を開いた。

「死にたいの」

 たった一言。光を砕いて振り撒いたような声がたった一言そう言って、彼女は掴んだ僕の腕をその口で噛んだ。

 痛みは、感じなかったように思う。その前に、人魚の体は凝縮した光が追い払われるように、わっと霧散して消えてしまった。何が起こったのか分からない僕の膝から力が抜ける。へたり込んで見上げた水槽の中にはもう蜂蜜も、淡雪も、虹も、澄んだ空も、何もない。


 ただ、彼女に噛まれた僕の腕は熱を帯びて火傷したみたいに膿んでいた。

 冷たくなった月だけが、いつまでもそれを見ていた。

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冷たくなった月だけが えんがわなすび @engawanasubi

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