閑話『タガタメニ』


 男が電柱の上から見下ろす街並みは閑散としていた。

 艶が維持された、一つしばりにまとめられた黒髪は闇に溶け込むことなく風に吹かれて宙を波打っている。身に纏う羽織袴は今の世には不釣り合いであるにも関わらず、男は周囲を特に気にする素振りも見せない。そもそも男には周囲が自分をどう見ているかなんて、興味すらなかった。ただ、淡々と。平坦に。自身の感情の波も見せずに灯りがポツポツと灯る片田舎の街並みを眺めていた。眺める意味はない。ただすることはないからそうしているというだけだった。

 最近では何かと事故や事件が起きていて、住人達は無意識に夜遅くまで出歩くことを避けるようになっていた。しかし、それが『何の原因で起こる』のかは警察も住人も理解が出来ていなかった。それもそうだ。今、起きている現象は全て『人智の中で』理解出来るものばかりでない。

 そんな無機質で、誰も出歩くことのない住宅街が建ち並ぶこの地区は、男が今まで生きてきた世とは大きく異なり、時代の流れを感じ取るには充分なほどであった。しかし、男はそんなことに感嘆するわけでもなく、嘆くわけでもない。

 何度も言うが興味がないのだからどう流れ、移ろうとも、その中に自分が『居る』という認識がなかった。

 それを聞いた者は人形のようだと言うだろう。しかし、男はそんなことを思ったことはなかった。ただ、自分はそうあるモノだと認識しているからだ。

 ふと、微かに変わる空気の流れに男は顔を上げる。シャラ、と耳に付けていた友の形見が小さく音とを立てた。

 流れ、空気は変質する。

 それが男が動く時間への合図であり、異形、妖の時間へと変化する合図だった。








 古い廃屋の中を、男は歩いている。雑木林に覆われ、いつしか人が寄り付かなくなったこの場所は近隣住人から不気味がられている場所の一つだった。なんでも人が出入り出来るはずがないのに物音がするや、呻き声、中には悲鳴も聞こえてくるという報告があるからだが、男はそんなこと知らないし、興味もない。

 ただ、ここに『それ』が存在している。ただ、それだけだ。

 屋敷の奥から唸り声が聞こえてくる。静かに、男は声のした方向を一瞥した。おおよそ、『部屋』と言えない何もない場所には、大量のケージとこびりつくような独特の匂いが充満していた。長い間、そこに留まり続けていた臭いは『それ』同様、なかなか離れることはない。絨毯にしては酷い新聞紙の敷かれた部屋に一歩。男は踏み込む。

 部屋の隅々には血のように赤黒い、無数の目が浮かんでいた。闇から姿を見せるぎらついて、牙を覗かせる怪異達の姿は骨のようだった。

 死因は餓死だろうか。それともまた別のものだろうか。

 ふと、男は隣の部屋に目を向けた。床に付いたシミはこの部屋とはまた別のもの。

 刀を掴む手がわずかにぴくり、と動いた。

 躊躇うようなその動きに、男は自分の手に視線を向けた。

 なぜ、と。頭の片隅で疑問が浮かぶ。しかし、そんなことを答える時間は、目の前の怪異達が待ってくれるわけでもなく。一匹の獣の一声によって、一斉に襲い掛かって来た。意識を元に戻した男は素早く横に飛ぶ。滑るように態勢を整えてから、手にしていた刀を鞘から引き抜こうとして再び躊躇う。

 なぜ。

 抜かなければ、斬らなければ目の前の怪異を倒すこともこの状況をどうすることも出来ないというのに。

 どうして、今更。刀を抜くことに躊躇う自分がいるのか。男には分からなかった。

 群衆の中にいた獣が男に飛びかかる。それは、血肉を求めているというわけではなく、『人間』に対しての防衛本能故だった。噛み付いて来た怪異の牙を男は反射的に刀の鞘でそれを防いだ。しかし、他の怪異の攻撃は避け切れず男の足や背、その肩に喰らいついた。

 仮面下の男の顔が歪む。

 自身を睨むその目に宿った感情──────怯えと恐怖の瞳を見る

 人が怖い。時に暴力を振るった。それで何人も死んでいった。この最悪な環境で、外へ出すことなく、ただただ金のために。


 だから、抵抗しただけだけだ。

 死にたくなかったからだ。


 「─────────っ…………!!」


 男は素早く、柄を握り締めていた刀を持つ手を強めて、衝動と共に引き抜くと身体を翻す。身に纏う羽織が宙を舞い、それと同時に自身に噛み付いていた怪異の四肢を斬っていた。低い姿勢のまま再び地を蹴り、怪異達の間を駆け抜けて男は怪異を逃すことなく全てを斬り捨てた。刀を振るうその動きには、先ほどとは違い一切の躊躇いも同様もない。

 一切の隙もなく流れる水のように男は刀を振るう。

 舞い散る血を見て、先ほどまで自分を押さえつけていた『蓋』はなくなっていた。



 ただ、静かに。目の前の『敵』を殺す刃に成る。

 


 最後に残った大元の怪異が唸り声と共に同胞の死体を取り込み、変化する。この地で死んだ人間の無念すらも取り込んだのか、その姿は獣でありながらも人にも近い。

 怪異は咆哮と共に男に襲い掛かった。しかし、男は背後から迫り来る爪に慌てることはなかった。ふらり、とわずかに身体を動かしたその場所にその腕が叩きつけられる。叩きつけられた衝撃で床が崩れ、木屑を舞い上がらせる。

 しかし。

 先ほどまで間違いなくいたその場所に男の姿はなかった。

 いつの間にか男は背後に回り、刀をしたから振り上げ、獣の胴を左斬り上げにしていた。

 斜めに斬り捨てられ、怪異は灰となりながら崩れ落ちた。微かにその喉から小さな鳴き声が聞こえてくる。それを聞きながら、男は自然と荒くなっていた息を静かに整えた。なぜ、息が上がっているのかも分からなかった。

(……確実に……あの時とは違っているはず……なのに…………)

 以前の自分であるなら、小物相手に息が上がることなく斬れていたはずだ。刀を握る手に躊躇いなんてものはなかったはずだ。

 それが、なぜ。こうして躊躇う?

 どうして、斬ることを躊躇っている?

 霞がかった頭に手を触れた。数日前から頭が痛む。

 そんなこと気にしている暇などない。怪異の非道は待ってはくれない。

 あぁ、でも。

 男は、ふらりと部屋を見回した。

 酷い惨状の室内には、何もいない。

 斬り捨てるべき『悪』も、守るべき、助けるべき人の姿もない。

 そう、人は。人間は守らなければ。


 でも、どうして?

 『人が悪でない』と、どうして言い切れる?

 『人を守ることが正しい』と。どうして言える?


 今、自分がこうして斬ることは正しかったのか─────────?


 どうして、俺は。こんな────────────






 ずきり、と走った痛みと共に男は意識を元に戻した。

 何分そうしていたのか、よく分からない。

 何かを考えていたはずだが、それが何なのか全く思い出せなかった。自分にしては珍しく頭を押さえていたから、その手を離してゆっくりと力なく下に落とした。

 空気が揺らぐ気配を感じて、男は顔を上げた。無機質な瞳はこの場にある物を捉えない。今。目の前にいる斬るべき『悪』を見ていた。

「……斬らなければ………」

 小さくそう呟いて、男はゆっくりと歩き出した。

 浮かぶのは、笑うかつての友の姿。

「もう……二度と……」

 あのようなことを起こさないために、斬らなければ。

 言い聞かせるように、誰に言う訳でもなくそう呟いて、男は刀を片手に歩き出す。










 抑えていたその蓋が外れ、忘れていた『激情』が溢れるのは、それからもうしばらく後の話である。












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緋色妖奇譚 林さん @hayashi_s

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