閑話『タツの呪術珍道中/後編:終』
その話を人伝に聞いたひろとはまず、タツの部屋に向かった。部屋の鍵はかけ忘れていたが、今はそんなことどうでも良い。飛び込むように入るとそのまま流れるように寝室の襖を開けた。
「タツ!!大変だ!!!!」
ベッドに丸まっていたタツは、開いていない目で時計を見るとげんなりとした。
「……………まだ、あさのごじ…………」
再び寝ようとする彼をひろとは布団から引き剥がした。ギャンッ、とタツは変な悲鳴を上げてベッドから落下する。打ち付けた腰をさすりながらタツは眉を八の字にした。
「昨日、帰ってくるのが遅かったんじゃからもう少し寝かせてくれんか……儂は朝に弱いんじゃ……」
「んなこと言ってる場合じゃねぇんだよ!!今度は孝介さんが殺された!!」
ひろとのその言葉にタツは眼鏡をかけていない目を丸くした。
話を聞くと、その現場の第一発見者達はひろとの父、慎介などの祭りの関係者だった。祭りもそろそろ後半戦。そのため、関係者全員集まって村で集まりなどがあった時に使われる家にいた。最初にタツがひろとと訪れたあの家だ。祭りの主催者でもある孝介がそこに顔を出し、一緒に飲み会を始めた時。突如、彼が苦しみ出したのだという。医者と駐在している警察官を呼んで来るも駆けつけた時にはすでに息を引き取っていたらしい。
朝風呂を済ませ、部屋に運ばれた朝食を食べながらタツは「ふむ……」とうなずいた。話をした自分も自分だったが、よくこの話を聞きつつ食欲が出るなとひろとは他人事のように思ってしまう。
「おぬしの父親以外にも人がいたと言っていたが………他にはどんな?」
「桜子さんもいたって聞いた。あとは、木島のおっちゃんも。いなかったのは子供とかかな……夜遅くまでかかるかもって言ってたから。あと、蛇草さん達もいなかったらしい。」
「蛇草家がおらんのは調査の為、として……住人はほとんどいた………ということか。」
朝食を食べ終えたタツは、懐から煙管とマッチを取り出した。現代で使う人がいるとは思わず、ひろとは煙管をまじまじと見る。マッチを擦ると炙るように火をつけた。二、三度息を吐き出してから一服する。これが彼の一連のルーティンなのだろうか。
タツは煙を燻らせながら何かを考え込んでいた。その表情はわずかに険しく細まっている。その沈黙に耐えられず、ひろとは身を乗り出した。
「親父曰く、差し出された酒を飲んだら倒れたらしい………これってよく聞く『毒殺』って奴じゃないか?同じ犯人なら一件目は呪い殺したのに今回は毒を使ったんだ……?」
「いや、孝介殿が亡くなったやり方も一件目と同じ呪殺じゃろう。」
ようやく話し始めたタツにひろとはえ、と目を丸くした。タツは目の前に置かれたお茶の入った湯呑みの縁に人差し指を少しだけ置いた。
「『クチの呪詛』というものじゃ。相手の食べる物に呪詛を吹き込んで呪う、というものでの。本来は体調不良になる程度のものじゃが……孝介殿が取り込んだものは強い呪が入っておったのだろう。おそらく、毒は調べても出ては来ない。」
そう言うとタツは煙管を咥えた。
「今回の事件。『人智を超えた能力』を儂らが知っておるからこうして問題はないが、本来ならば二件とも事故か、病死と言われても仕方ない。犯人の狙いは『そこ』じゃろう。このまま見つからなければ、犯人は逃げ仰せるつもりか………世間は二件の事件は不自然死として認識して、誰も『殺人』とは思わない。」
「どうすんだよ……!」
たまらずひろとがそう叫ぶと、タツは人差し指を自分の額に当てて、何かを考えながら顔をしかめた。実の所。完全にお手上げ状態というわけではない。犯人を見つける方法は一つだけある。しかし、『向こうの動きが少なすぎる』のだ。向こうも警戒しているのだろうか、とタツは心の中で呟く。
それにしては、ずいぶん好戦的だ。
「そういえば、弓弦嬢はどうであったのか様子を見たのか?」
ふと、タツは顔を上げると首をかしげてそう問うた。ひろとは我に返ると「い、いや……」と首を横に振った。事件の知らせで驚いてすっかり弓弦のことを忘れてしまっていたのだ。ひろとのその反応にタツは、顔をしかめると大きくため息を吐いた。
「あのなぁ~~童~………おぬしが一番気にかけなくてはならないのは、事件ではなく彼女なんじゃ。そこを忘れるでない。」
「う……ご、ごめん……」
事件の犯人を早く見つけたい気持ちが逸り、大事なことが忘れそうになる。この事件を解決しようと決めたのは、弓弦に危険が及ばないようにするためだ。
「童、おぬしは見落とすなよ。」
煙管の灰を灰皿に落とし、タツはポツリと呟いた。その静かな言葉と、その言葉の意味が分からずひろとは「え、」と目を丸くした。タツはひろとを見ることなく、灰皿で小さく燻る灰を眺めてから、煙管を簡単に掃除を始めた。
「あの子のあの目は『待っておる目じゃ』。本人にとって無自覚だろうが、おぬしに言ってほしい言葉を待っておる。見落とせば次に自分に来るのは無力感と後悔じゃ。」
「それは──────」
いつも感じてる、という言葉はタツの瞳の奥にあった羨ましそうな目を見て口から出ることはなかった。
「今よりもずっと、『それ』はおぬしの中に傷として残ることになってしまう。そうはなるなよ………しかしなぁ~……おぬしはヘタレじゃからの~~~~……」
困ったようにタツは苦笑を浮かべ、ぼやいた。ひろとは慌てて「ヘタレって言うな!」と顔をしかめた。タツは先ほどの表情をなくし、からからと楽しそうに笑う。そんな彼のことをひろとはしばらく見ていた。どうしても先ほど一瞬だけ見せた憂いだ目が気になってしまった。
タツもそういう時があったのだろうか。
そのことを問おうとひろとが口を開いたその時。突如、旅館の入り口の方が騒がしくなった。会話をしていた二人は一度止め、ドアの方に目を向ける。どうやら何か来客があったようだが時折。不思議そうに問い正す慎介の声が聞こえてくる。
「……なんだろう。ちょっと見てくる。」
タツに一言そう言ってひろとは部屋を出た。タツの使う客室は二階。聞こえてくる声は下の方からだった。昔から父の話し方は大きいため、どこにいるのかはすぐに分かる。
「しかし、突然こんな大人数で来られたら……」
「問題ないので、ひとまずその方の部屋を教えてくれませんか。事情は後でお伝えするので──────」
父の声の後に聞こえた声にひろとは目を丸くして、向かう足を速めた。
旅館の入り口に向かうと、そこには弥平の姿があった。
「や、弥平さん……??」
今まで、蛇草家がこの旅館に来ることはなかった。それなのになぜ、こんなところに?気が付くと、弥平の後ろには他にも複数の人の姿があり、その中には克典の姿もあった。全員和装を身に纏っている。
ざわり、とひろとの心の中に嫌な靄が漂い始めた。
ひろとの存在に弥平は気が付くと、「ちょうど良かった」と慎介の制止も聞かずに旅館の中に足を踏み入れた。
「ひろと君。ここに二日前から泊まっている男の元へ案内してほしいのだが。確か、君が部屋を提供したんだよね?」
「え、え……そうですけど……でも……」
状況を理解出来ず、ひろとが戸惑っていると克典が苛立ったように舌打ちをして頭をかいた。
「良いからさっさとソイツのところに連れて行けっての。」
「克典──────」
「どうかしましたか。」
ひろとの後ろから聞こえた声に、その場の空気が固まった。振り返るとそこには、タツが微笑を浮かべ二階から降りて来ている。気が付くと克典と弥平の後ろにいた付き人達は警戒するようにタツを見ていた。相手が何をしても反応出来ると言いたげに自然な動作で構えている。タツは彼らのその仕草に目を細めた。
弥平は一度右手を持ち上げてそれらを制した。
「部屋に向かう手間が省けて助かりました。『タツ』殿。」
「おや、お名前をご存じでしたか。自己紹介をしていなかったのですが……」
「今更、『外面』をお見せしなくて結構。貴方が普段違う口調で話しているのは気が付いていますので。」
淡白に弥平はタツの言葉を遮る。鋭い言葉にひろととタツは驚いたように目を丸くした。しかし、タツは驚いていた目をすぐに元に戻して「そうか」と微笑んだ。口調が元に戻っていた。
「それは助かる。正直、標準語は苦手での~……それで?本日は儂にどのようなご用件か?」
「単刀直入に言わせてもらおう。私達と一緒に来てもらう──────俺の息子、蛇草靖二郎と水雲孝介を殺した『容疑者』としてな。」
弥平は表情を変えることなく、そう低い声で言い放った。予想外の言葉に「はぁ!?!?」とひろとはギョッと目を丸くして弥平の顔を見た。冗談には聞こえないし、彼の顔を見てもそうは思えない。ほう、とタツは特に驚くこともなく呟いた。
「ま、待ってくれよ!!弥平さん!!いったいどういう……!!」
「部外者は引っ込んでろよ。」
慌てて弥平に言おうとすると、克典に押しのけられるように肩を押された。思わず、睨みつけるように克典を見る。
タツは階段から降りると弥平の元へやって来た。
「殺した容疑者、というが儂にはアリバイがある。この三日間、そこの童とほとんど一緒におった。靖二郎殿と孝介殿を殺す隙は無いじゃろう?」
「それは『通常の人間の犯行ならば』の話だ。呪殺にアリバイは無意味。」
「なるほど」とタツはわざとらしく困ったように笑った。少し離れ、弥平達の後ろにいた慎介は何を二人が言っているのか分からない、と言いたげに右往左往していた。呪殺がどういうものか、分からないのだろう。分かったとしてもすぐに理解することは出来ない。
やはり、弥平も彼らが『呪殺』で殺されたことに気が付いていた。しかし、そんなことよりも疑いをかけられているというのに全く慌てないタツの様子にひろとは不安感を覚えた。普通、ありもしない疑いをかけられたら、人は怒るはずだ。誰かに聞いたことがある。犯人でない者は疑いをかけられたら怒るが、正真正銘の犯人は『笑う』ことがあるのだと。
「ほとんど毎日、貴様はひろと君と一緒にいたと言っているが、では何故。『昨夜水雲神社にいた?』」
弥平の言葉にひろとはえ、と驚く。確か、昨夜のタツは酒に酔って帰ってきた。下戸だったらしく倒れそうだったので自分が部屋に運んだのを、覚えている。
(その前に一人で水雲神社に行っていた?でも、どうして??)
理由を聞きたくてひろとは視線だけをタツに向けるが、彼はひろとを見ることなく表情から笑みを消している。弥平は自分の着物の袖から一つの木箱を取り出すと、タツに見せるように近くのテーブルの上に置いた。テーブルの上に置かれた『それ』を見て、タツは顔をしかめた。
「昨日からつけていたうちの付き人が、森の中で何かしている貴様を見ている。貴様が去った後にその場所を見てみるとこれが出てきた。」
弥平が低い声で『それ』を指差す。つられてひろとが見て、目を丸くした。
それは頭を釘に刺された蛇の死体だった。
「……蛇…………」
その酷い惨状に青ざめたひろとはタツを見た。
「タツ……なんだよ、これ!!」
「呪物じゃよ。」
落ち着いた声色でタツはそう答え、懐から再び煙管を取り出した。「呪物??」とひろとは戸惑う。
「対象を呪い殺す為に使う物だな。」
「そうじゃな……しかし、『それ』をあそこから取り出したのか……」
「やはり知っていたようだ。」
弥平の目が細まる。背後にいた付き人達は構えた。一服してからタツは眉間を掻いた。
「おぬしら、一番大事なことを忘れておらんか?儂はやってはおらんよ。そもそもなぜ、三日前に初めて出会ったばかりの人を殺さなくてはならんのじゃ。」
「それを踏まえてこれから問い詰めていく。『貴様が自由でなければ次の術も使えない』からな。」
タツは渋るように唸った。ひろとは慌てて、自分を抑えていた克典を押しのけて「待ってくれ!!」と弥平に声をかける。
「弥平さん、タツはそんな奴じゃないんだ!むしろ、俺らを守る為に何かわけがあって─────」
「『異形が人を守るはずがない』」
「え─────────?」
弥平の言った言葉の意味が分からなかった。異形がどういうことを言うのかが分からなかったのではなかった。驚いたのは、タツのことを言ったであろうその言葉が信じられなかったのだ。一方のタツは目を丸くして固まっていた。初めて心の底から驚いているようだった。
『異形』?タツは『人間じゃない』????
「え、そ、そんなはず……」
「水雲神社でなんかやってる時。感じ取れた気は人が術を使う時に感じる『霊力』じゃねぇ。てめぇの中に流れているのは『妖力』……『異形や妖が持つ力』だ。てめぇの周囲にあるその靄も蜃気楼。周囲からは自分を『人』だと見えるようにしてんだろ。」
戸惑うひろとを余所に克典はサングラスの縁を押し上げながら、タツを睨みつけた。
「靄みてぇにてめぇを化かす『妖術』を視ることが俺は出来るんでね。」
タツは何も言わなかった。表情を消し、しばらく克典達を見ている。
やがて。
「────────────ハハッ……やはり、『腕が良い』の~」
タツは笑った。
気が付くと彼の身に纏う雰囲気を変化していた。ハッと、我に返ってひろとがタツを見ると彼の見た目にも多少の変化が出ている。初めて出会った時は耳はとがっていなかったはずなのに、横長に細く広がっていた。
その耳を触り、タツは笑みを見せる。「妖か」と弥平は低い声で言った。
妖。一般の中では『妖怪』の名称が馴染みがあるだろう。時に人を脅かし、唆し、そして喰らう異形の隣人。都市の開発によってその存在は幻想となりつつあるが闇に暮らし、人の影として今でもこの世で生きている。
霊は幾度と対峙したことあるが、妖と出会う機会はそうそうない。それをここで見るとは……と弥平は顔をしかめると、タツは目を伏せて静かに答えた。
「その通り。儂は人ではない。かといって、『妖』でもない。」
「………何?」と弥平が顔をしかめた。
「異形のモノであることに間違いはないが、かといって『儂ら』は人を殺すことはしないんじゃよ。」
「……どういう─────────」
「『化け物』の言葉を聞く価値などありません。」
第三者の声に全員がその方向に目を向けた。人が退いたことで出来た道に八重と桜子、そして弓弦と楓が立っていた。「弓弦、」とひろとは思わず彼女に声をかける。弓弦は旅館の物々しい雰囲気に飲まれ、青ざめた顔で弥平達を見ていた。声を発したのは八重だったのだが、そのそばには桜子がおびえたように袖を掴んでいた。化粧で取り繕っているとはいえその顔色もどこか悪い。
「蛇草様。早くそれを連れて『処分』してください。」
「処分って……!!なんだよそれ!!タツが人じゃないとしてもその言い方はっ!!」
あまりの言い方にひろとが怒りをあらわにすると「うるさいわよっ!!」と桜子が八重の前に出た。タツを指差しながらまるで、悲鳴にも近い叫び声を上げる。
「その男が消えれば、平穏が戻るのよ!??!毎日『アイツの亡霊』に怯えなくて良くなるのよ!!!!なんも知らない奴が図々しく意見するんじゃないわ!!!蛇草さん早く連れて行って!!!」
桜子の様子にひろとは何かがおかしい、と顔をしかめる。その目にはひどい怯えがあった。その様子に違和感を持ちつつも、弥平は何も言うことはない。今はその事よりもタツのことを優先しなければならない。しかし、八重や桜子の言葉にすぐにはうなずかなかった。そばでどうでも良さげに一服しているタツを横目に見ながら、弥平は静かに答えた。
「…………もちろん。連れては行きますが、処遇は簡単に決めることは出来ません。相手の素性を明かしてからの方が良いかと。」
「必要ないわよっ!!!!早く!!!」
ヒステリックに叫ぶ桜子を落ち着かせようと、弓弦が慌てて「伯母様、」と腕を抑えた。ヒッ、と桜子は息を詰まらせる。
「さ、触ってんじゃないわよっ!!!!」
「伯母様。落ち着いて───────」
「うるさいっ!!!」と桜子はその手を勢いよく振りほどいた。その拍子で弓弦は尻餅をつき、「お姉ちゃん!!」と楓は慌てて声を上げた。
タツはゆっくりと目を細めた。
「アンタが…………っ、『アンタのクズな親のせいでこうなっているんでしょう!?』私は…………私は悪くないっ!!『悪くなんてない!!』全部………全部アンタのせいじゃないっ!!!!」
桜子の手が振り上げられる。「桜子っ!」と八重は慌てて鋭い声を上げるが、彼女は止まらない。
殴られる、と悟った弓弦は目を閉じてその衝撃に耐えようとしたその時。
振り下ろそうとした桜子の手をタツが掴むと素早く足を払い、桜子を床に叩き抑えたのだ。
キャアッと腕を背中の方で捻り上げられた桜子は悲鳴を上げる。一瞬で彼女の背後に回っていたタツに全員がどよめき、そして警戒が走った。ハッと弥平は先ほどまで彼が立っていた位置を見るも、そこには誰もいない。瞬き一つの間に彼は桜子を叩き抑えたのだ。
タツの突然の行動にひろとは状況を理解出来なかった。いつの間にか桜子が息をするのもやっとなほど押さえつけられていて、周囲の男達は自分と同じように動揺している。タツの表情は前髪で見えなかった。
「テメェ………っ!!」
克典が素早く懐から札を取り出した瞬間、隠れた前髪の隙間から水縹の瞳が一同を射貫いた。射貫かれた瞬間、ひろとのみならず全員の背に悪寒が走った。
『嫌な予感』にしては大きすぎるそれに思わず倒れそうになる。そして、それと同時にふと。最初にタツと出会った時に感じた背筋の寒気を思い出した。八重が弓弦を蔑ろにした途端に感じたモノと今は同じだった。
あの時、あの寒気を出したのはタツだったのだ。
「なにしてんのよ………っ!!はぐささん………!!」
押さえつけられている桜子が息も絶え絶えにそう叫んだ。彼女だけが状況を分かっていない。克典は札を持ったまま動かなかった。いや、動けなかった。弥平も、弓弦もその周りにいた男達も冷や汗を流し、まるで金縛りにあったように一歩も動けずにいた。
今、ここで少しでも動けばこの場にいるひろとと弓弦、楓以外の『全員の首が飛ぶ』。
「─────────フッ」
タツは桜子の腕を掴む手を緩めることなく目を細めて笑った。
「…………『視えた』、か…………それにしてもやはり、咆えるだけの駄犬とは違うな~…………一つだけ言っておこう。儂はおぬしらのような奴らは嫌いでの~貴様らが誰かに命を狙われていようと実のところ『どうとも思わん』。むしろ、死んだって良いと思っておる…………じゃが。」
タツはそこで言葉を止めると、ふっと、肩の力を抜いた。周囲を張り詰めていた氷のような鋭い空気が消える。押さえつけられていた桜子は大きく咳き込んで空気を吸い込んで、突如元に戻った空気に戸惑いつつも、弥平達は大きく息を吐いた。一気に額から汗が流れ出し、何人かは座り込んでしまった。そんな彼らのことなど興味もなく、タツは桜子を見下ろしたまま無気力にゆっくりと手を下ろした。
「じゃが、『お嬢はそれを望んでおらん』。」
どこか寂しげにタツは静かにそう呟いた。それにひろとが目を丸くすると、彼は顔を上げて弥平に微笑みかけた。
「連れて行きたければ連れていけ。やっておらんのだからな。同行に断る理由もない。」
「しかし」とタツは先ほどまでの声色を変化させた。その鋭い目つきに緩んだ気配が再び張り詰める。その目には有無を言わせない気配を漂わせながら、タツは再び声を発する。
「弓弦嬢とそこの童を今後、いっさい傷をつけることは許さん。手を出せば先ほどのことが現実になると思え。」
弥平はタツのその気迫に圧され、顔をしかめてから傍にいた部下に「行くぞ、連れていけ」と呟いた。克典は自分の額に手を当てて困惑の表情を浮かべたまま動かない。
「タ……タツ!」
ひろとが慌てて彼に声をかけると、タツは大丈夫と言うように微笑んだ。それは今まで彼がひろとや弓弦に向けていた雰囲気そのままだった。
「大丈夫じゃよ。おぬしの頼みは必ず守る。」
そう言い残し、タツは弥平達と共に宿を出て行った。呼び止めようとしたひろとの手は、何も掴むことはなく虚しく下ろすことしか出来なかった。
殺気を向けられた時、直感してしまった。
─────────俺はこいつに勝てない。
幼い頃から人には見えないものが見えていた。そして、父や兄にすら視えないものも視えていた。退魔術の訓練はその家系に生まれた者は必ずやる義務がある。自衛のためという表向きのものもあれば、次に父の代を継ぐためというものもある。大体は後者が重宝される。
俺は人よりも視ていたから、術の上達も速かった。修業として父の仕事について行った時も特に問題はない。当主として選ばれなかったことには不満もない。確かに長男が家を継ぐという風習はあるが能力に差があって、俺の方に適性があったとて正直、そんな仕事は怠いだけだ。
何も問題はない。誰にも負けない。そう思っていた自分の概念が、あの瞳で一瞬にして脆いガラスのように砕けた。あの一瞬。あの一瞬で、父と俺の首が同時に飛ぶのを感じ取った。
あの目は、自分の中にあった感情もなにもかも届かない。全部を喰らうことに何の躊躇いもない。自分の中にあるバカみたいな自尊心は、アイツの中にある『何か』と比べることすら出来ない。
何がアイツの中にあるんだ───────────?
そう、思った時。アイツの目が俺と合った。
星と、月が浮かぶ、『大空』を視た。
近くに少女の姿を見た気がして────────────
『……『視えた』か─────────』
ほんの一瞬のことだった。時間からして数分も立っていない。しかし、体感した『それ』は何十分も長く感じた。ふらつき、額を押さえる。
何が起きたのか分からなかった。しかし。
そう笑った男の言葉に『これ』は俺に視せたモノだ、と理解した。
あの時、視えた光景の理由が分からないままだ。
父は、俺を蚊帳の外に追い出して座敷牢で男との問答が続いている。
俺は何も出来なかった自分の手を見た。
初めて出会ったのは、学校の校庭だった。
秋に入ったばかりで、端っこに置いてあったイチョウの葉は黄色く染まって独特の香りを出していた。
母が亡くなって、しばらくしてからのことだ。小学生の頃のことなので、正直なところ母が亡くなったこともすぐに分からなかった。
だけど、夜になっても、朝になっても母はいなかった。
『おはよう』とも『おやすみ』とも言わず、一人でいることが多くなった。
代わりにいるようになったのは、母のお姉さん。冷たくて、鋭い目をする人。私のことは気味の悪い目で見ていた。嫌われているのだと、知るまでそんなに時間はかからなかった。
その日。授業参観だった。当たり前のように義母の姿はなく、迎えもない。
両親と共に帰っていく同級生達と一緒に門を出たくなくて、しばらくぼんやりと校庭のブランコに座っていた時だった。校庭の隅に一人。誰かが座って何かをしていた。時折、手にしていたそれを空に掲げて納得のいかなそうな顔をしている。
ふと、気になって。私はその子の傍に向かった。後ろから見てみると、片手に持った彫刻刀で何かを彫っている。今思い出せば、それは不格好なものだった。うねるように形造られた木は鱗のようなものがあった。口のように開いたところには牙のようなものもある。
その形はまるで────────────
「『蛇』?」
私の言葉に少年は振り返った。集中していたため、背後から見ている自分に気が付かなったのか、驚いたように目を丸くしている。
「……蛇、好きなの?」
少し顔をしかめて、私はそう少年に問うた。特に何かを思ったわけではない。しかし、母が死んでから誰も自分のことを見てくれず、話も聞いてくれなくなった。だから、『自分はここにいる』と知ってもらいたくて、少年に声をかけたのだと今になって思う。
「私、蛇嫌い。」
母が亡くなったのは、山道。蛇に噛まれてバランスを崩したからだと聞いた。水雲の家は蛇である水神様に仕える神職をしているが、自分は水神様も嫌いだった。
なんで母を殺した『蛇』に仕えなければならないのだ。
そう思いながら、私が呟いた時。少年は不満そうな顔をした。すると。
「これは『蛇』じゃない!!」
そう、怒鳴ったのだ。
突然のことに私はきょとんと目を丸くしていたことだろう。少年は自分の彫った不格好な彫刻を突き出して、口を尖らせた。
「これは『ドラゴン』だし!!!」
「ド……ドラゴン??」
改めて彫刻を見る。確か、ドラゴンとはファンタジーとかでよく見る幻想の生き物だ。羽が生えていて、口から火を出すことの出来る。しかし、少年の手に持つものは羽の部分がなくてどう見てもドラゴンには見えなかった。
「見えないけど……ドラゴンって、羽があるんじゃないの?」
「えぇ~~?お前、知らねぇの?ドラゴンの中にはさ!羽が生えてねぇ奴もいるんだよ!!」
そう言うと少年は持っていた手提げバッグの中から、図書館で借りて来たであろう本を取り出した。とあるページを開き、私に見せてくる。そのページに描かれたドラゴンには、確かに羽は生えていなかった。
「図工の時間、今度の祭りで村のみんなに見せるってことで『水神様』にちなんだ蛇を作ることになったんだけど、蛇。かっこよくねぇじゃん……だから、似てるドラゴンを作ってる!!」
「その割には似てない。」
正直な感想を言うと「う……」と少年は口を尖らした。
「そうなんだよな~~……親父が作ってた奴はなんていうか……今にも『飛びそう!』って感じだったんだけど……俺、あんな風に作れない……」
彫っていたドラゴンの彫刻を空に向け、少年はそうぼやく。彼の父が以前、作っていたものは今にも空を飛びそうなものだったのだろうか。
「でもさ。ドラゴンってさ!すげ~んだ!!口から火を吐くし、空も飛べてどこまでだって行けるんだぜ!!なにより、かっこいいし!!」
「空を………」
私は少年が指差した方を見た。少年は目を輝かせながら、夕日の差す空を見ていた。
「良いな~~……俺さ、ドラゴンの背中に乗ってみたいんだ。背中に乗って、自由に。月を近くから見て、雲の上に行ってみたい!!海とか、いろんな景色を見てみたい。」
「一人で?それってさびしくない?」
「さぁ?分かんね。でも、良いなって思わない?」
振り返った少年のその顔は眩しかった。
空をどこまでも飛ぶドラゴン。
確かにそれは何ものにも縛られてなくて、自由で──────
「─────────良いね。それ。」
「だろ!!?」
「ねぇ、そのドラゴン。出来たらちょうだい!」
「え、」と少年は目を丸くしてから、やがて微笑んでうなずいた。
今でもその不格好な小さな彫刻は自室の抽斗に入っている。少年と出会った時にはまだ未完だったが、今はその額に角と髭が付けられていた。
どうしても心が辛くなった時、悲しくなった時にその彫刻を空に掲げ、大空を飛ぶ夢を見る。
出来ない、と思いながらも夢を見て、そして目を閉じるのだ。
あの日。『自由』と言ってくれた少年と共にドラゴンの背に乗って、空を飛ぶ夢を見る。
懐かしい夢を見た気がして、ひろとは目を開けた。椅子の上で寝落ちしていたことに気が付いて、頭を起こす。変な態勢で寝ていたせいで体中が痛いが、ひろとにはどうでも良かった。顔を上げてみるとそこには今まで自分が彫って来た彫刻や、金細工が置かれていた。父が作っていたのを見て、始めた趣味だ。昔は不格好なものだったが、今では想像通りのものが出来るようになっただろう。しかし、最近は作る気力がなかった。それすら見るのが辛くなって、ひろとは視線を落とす。
タツがいなくなった今。ひろとはどう動けば良いか分からなかった。怪奇や呪いのことに自分は詳しくない。タツと出会う前は自分はそういうのと無縁な生活をしてきたのだ。いや、『知ろうとしなかった』。
(何も出来ねぇな……俺……)
考えれば、自分はほとんどをタツに任せっきりにしていた。自分は何もしなかった。関わろうとしてその実、傍観しようとしていたのだと。今になって気が付いた。
(俺はどうしていつもこうなんだか……)
『おぬしが一番気にかけなくてはならないのは、事件ではなく彼女なんじゃ。そこを忘れるでない。』
ふと、タツの言葉を思い出してひろとは顔を上げた。
『見落とすな』とタツは言っていた。自分達は事件に関わろうとしていたが、本来の目的は弓弦を守ること。自分はそれすらタツに任せていた。自分には彼女と簡単に関われる人間ではない、と気が付いてしまったからだ。
しかし。
「守る方法は……一つじゃない……」
表情を引き締め、ひろとは立ち上がる。そばに投げていた龍のデザインが入ったスカジャンを羽織り、部屋を出る。
確かに、弓弦を守ることも自分はタツに任せていた。しかし、『守りたい』と思ったのは間違いなく自分の意思だった。自分にも何か出来る方法があるはずだ。
幼い頃。とある男が描いた空を飛ぶドラゴンの絵を見て、ドラゴンが好きになった。大空を飛び、何ものにも縛られず鳥のように飛んでいくその姿が絵であったというのにかっこよかった。
誰かに言われることなく、『自分』で飛ぶと決めたからこそ、ドラゴンはどこまでも飛んでいく。
今度は俺が『飛ぶ』と、『進む』と決めなければいつまでも飛べない─────────
人智を超えたモノと出会うことは大いに結構。むしろ、その覚悟は元々持っていたはずだ。ひろとが急ぎ足に二階から降りて、走り出した。
まだ、方法はある。タツは取らず、しかし自分が出来る方法が。
ただ、問題はそいつとどこまでまともに話が出来るかだった。
村を探し回って、しばらくしてからそいつを見つけた。
「あ、いた…………克典ィ~~~!!!!」
喫茶店で顔をしかめ、自分の手を見ていた克典にひろとは大きな声で呼びかけた。克典は我に返ると、走ってきたひろとにギョッと目を丸くする。朝、見た時は和装だったが今はいつもと変わらない服装に戻っていた。サングラスも相変わらずつけている。
「良かった、探してたんだ…………」
「お前、なんでここに……」
荒い息を何とか整えているひろとに若干引きつつ、克典は驚いたようにそう呟いた。
「いつも……ここで、わらび餅食べるって聞いてたから……てか、好きなのか?わらび餅。俺は粉っぽいのは無理なんだけど。」
「そんなことどうでも良いし、誰から聞いたんだよそれ!!ていうか、そもそも何の用だ!!」
テーブルを叩き、克典は不機嫌そうにそう怒鳴る。予想通りの反応に「静かにしろよ、」とひろとはうんざりしながら人差し指を当てた。周囲を歩いていた観光客や店員は不思議そうに自分達を見ている。ただでさえ、克典は悪目立ちする見た目をしているのに、自分まで目立ちたくはない。
「タツは今、どうしてんだ?」
ひろとは克典にそう問うた。彼は顔をしかめ、どうでも良さげに「さぁな」と手を振る。
「あのおっさんのことなんか知るかよ。親父は俺を蚊帳の外にしてんのに……なんだ?なんも出来ねぇくせに一丁前にあのおっさんの無実を証明したいってか??バッカらしい、ドラマの見過ぎじゃねぇの。」
「『なんも出来ねぇから』お前のところに来たんだろうが。」
その言葉に克典は目を丸くしてひろとを見上げた。彼は気まずげに視線を横に逸らして、首筋をかく。
「俺さ。タツと出会って、お前がいつも見てるモノに少し気が付いた。同じものが少し視えるようになった。でも、まだなんも知らないからどうすれば良いか分からない…………アイツと出会って分かったよ。お前さ。口は悪いけど、腕はいいんだって。あの時だって、『部外者』とかどうとか言ってたけど俺が危ない目に遭わないように後ろに置いてたし。」
「キッショ……そんなんじゃねぇし。」
顔をしかめる克典に「うっさいな~~!!」とひろとは睨みつけた。
「とにかく!!俺は!!お前の!!『腕を買っている』!!!!だから、手伝ってほしい!俺が事件に関わるのはタツのためじゃない。あいつの無実を証明するのは『二の次』!俺が本当に守りたいのは別にある。まだ、正直なところタツが犯人にしろ、そうじゃないにしろ。『嫌な予感は消えないんだ』。だから、協力してほしい─────────弓弦を守りたいから。」
はっきりとそう言い放ったひろとに克典は目を丸くして何も言わなかった。彼の目にあった意思はタツの目にあったものと似ているような気がして、しばらく目が離せなかった。
人を怪異から守るのは父からまず最初に教わったことだ。自分の力は私利私欲のために使うのではなく、人のために使う。
自分と周りは違うものだと思っていた。自分の方が上だと思っていた。アイツらの見るものと自分の見ているものは違う。しかし、父は上に立つ者は周囲をまとめ、守る義務があると言っていた。理解は出来なかったが知らぬうちに自分はそれを律儀に守っていたらしい、と克典は思う。そしてふと、自分の手のひらを見た。あの時、あの大空を見せたあの男のことを考える。
その一方で。突然自分の手を見て黙ってしまった克典にひろとは戸惑っていた。てっきり突っぱねられるかと思っていたのだが、気味が悪いほど無反応だったからだ。
「え、えっと………克典さん??」
沈黙に耐えきれず思わずそう声をかけると、彼は大きくため息を吐き、そして同じく盛大な舌打ちをしてから頭をかいた。
「……………言っとくけどな。依頼料はもらうぜ。」
「え、俺そんなに金ないんだけど。」
依頼料という言葉にギョッと目を丸くして、ひろとはそう答える。しかし、彼はどこ吹く風だ。ひろとを指差し、「当たり前だろ」と言う。
「俺らに依頼するってことはそういうことだ。俺は『無償』で手を貸さない。そうすると向こうは付け上がるだけだ。だから、『対価』として貰う。払えねぇってんならこの話は無しだ。どっか行け。」
「──────────分かった。」
表情を引き締めてひろとはうなずいた。恥を忍んで協力を依頼しに来たのだ。今さら躊躇する必要もない。
「いくらぐらい出せば良いんだ?」
克典は自分の顎に手を当て、数回小さく叩いてからふと。「パフェ」と呟いた。え、とひろとはすっとんきょうな声を上げる。
「わらび餅パフェってあるだろ。そこの、デカイ奴。あれを三つ。プラスコーヒーで手を打ってやる。」
ひろとは克典のその真剣な顔と店に書かれたポスターを交互に見た。
「………一応聞くけど、三つともお前が食うんだよな……?」
「当たり前じゃん。」
「甘党なの????」
「いいから頼めよ。話し聞いてやんねぇぞ。」
パフェとコーヒーを注文して、ひろとは克典の前の席に座った。メニュー表に書かれた値段を見て、思わず小さく唸った。
「意外にも高いな…………」
「文句は聞かねぇぞ。いつもはそれの一つ下のサイズを頼んでる。他人の金で食うのってうまいよな。」
「お前なぁ………」
一皿目のパフェを食べながらのんびりと言う克典をひろとはげんなりと見てから、仕方なくお冷を店員に頼んだ。
「……そういえば。孝介さんの死因ってなんだったんだ?」
「表向きは脳卒中とか、クモ膜下出血とかどうとかの病死だが、呪詛の気配が残ってた………間違いなく呪殺だ。飲んでた酒に呪詛が入ってた。」
「『クチの呪詛』………」
タツが言っていた通りだ、とひろとは心の中で思う。その事を克典に伝えると、「それくらい術者はすぐ気づく」と素っ気なく答えた。
呪いは人の情念だという。恨みや嫉妬、憎悪に嫌悪などの負の感情が使われる。その念が強ければ強いほど、影響する呪いの強さも変化する。丑の刻参り等で使われる藁人形の効果が強いのも釘を打ち付ける際に強い人の情念が籠っているかららしい。『良いこと』に籠められた念も同様、まじないと書いて『呪い』となるそうだ。使い方を違えば、毒にも薬にもなるのと同じなのだという。
「あの蛇の呪物?もそういう情念が入ってたのか??」
「まぁな。人に影響を及ぼすでもないし、残っていた残り香も少なかったけどな。それよりも俺の方も聞いて良いか?」
ふと、克典は表情を引き締めてそう切り出した。店員からお冷のおかわりをもらったひろとは不思議そうに振り返る。
「お前、あのおっさんは人を呪い殺すタイプじゃないって言ってたよな。どうしてそう思う?」
「どうしてって……」
ひろとは視線を横に向け、しばらく考え込んだ。どうして、と理由を問われると答えづらい。
「俺はいつも思ってるけど、人は見た目によらねぇ。」
「それ自分が言うんだ……」
「黙って話を聞けや。優しい見た目した奴が実は腹の中は黒かったとかよくある話だし何より。術者にとって『どうやったか』なんてさほど大事なことじゃない。でも、『どうしてやったか』は一番重要な所だ。その『理由』で俺らは人を殺したり、良いことに使ったりする……お前が『そうじゃない』って言うくらいあのおっさんの『それ』を知ってんのか?」
事件の手がかりとして必要なのだろうか、それとも個人的なことなのだろうか。どちらなのかは分からないが、ひろとは少し考え込んでからポケットの中に入れていた封筒を取り出した。タツが昨夜、何十分もかけて悩みながら書いていたものだ。桜子を床に叩き抑えた時に落ちたらしく、旅館にポツリと残っていた。克典はその手紙を手に取ると、中に入っていた手紙を読んだ。
「それ、タツが身内の人に書いてた手紙なんだ………ちょっと読んじゃったんだけど、そういうの書く奴が人を殺したりするかな、とは思う。俺、あいつとはこの数日間一緒にいたから分かるけど、あいつ。のらりくらり会話を避ける時はあるけどあまり嘘は吐かないんだよ。基本、正直に話してくれる。話さないのは、その身内の子のことだけだった……………」
タツにとって、その手紙の子と弓弦には何の関係があるのだろう…………
しかしそれについて考えるのは後だ。ひろとは一度言葉を切るとそれに、と顔を上げた。
「あいつが『その気』になるなら、こんなちまちました方法は取らないはず。克典だってそう思わなかったか??」
克典はしばらく考えてから、その通りだとでも言いたげに不服そうに顔をしかめた。彼の纏う雰囲気は洗練されてはいるが、大胆な所が強い。その気になれば場所など考えず行動をするだろう。ひろとが最初にタツの殺気を感じたあの時と同様に。
克典は読み終えた手紙を封筒に入れ直して、また自分の顎を叩く。考え事をする時の癖なのだろうとひろとは思った。小学校、中学と高校が一緒だったが彼にそういう癖があることは知らなかったので、ひろとは変な感じがした。
「………………………………確か、呪物が見つかったのは、水雲神社の参道から少し離れた所って言ってたな………」
ポツリと克典はそう呟いた。その言葉を聞いて、ひろとは我に返るとすぐに村の全体図を思い起こした。
「参道から少し離れた所って言うと~………」
「山の裏手のハイキングコース付近だ。行ってみるか。」
「え、いや。行ってもいいけどお前、パフェどうす─────ってもう食い終わってる!?」
ひろとはいつの間にか空になっていた三つの容器とコーヒーカップを見て、ギョッと目を丸くする。
驚く彼を余所に克典は席を立って「ばあちゃん勘定~」と呼び掛けていた。
『水神様』の祀られた山の裏手はひそかにハイキングコースとなっている。自然を楽しむために出来たものだったが、場所が曖昧なおかげで町の地図を見ないとそれがあることすら気がつかない者も多いだろう。車で温泉街を通り過ぎて四十分くらいした所にあり、ここまで来ると人通りは極端に少なくなる。山の方になっていくにつれて建物も少なく、見える視界は緑一色になっていった。
克典と共に車に乗ってひろとはハイキングコースのスタート地点から近い公園に車を停めた。黒塗りのいかにも高級そうな車からおそるおそる出てひろとはようやく息を吐く。乗り心地は良かったが心労が大きい。一方の克典は車のトランクから長い筒状のものを取り出すと、肩にかけた。筒の中には何か入っているのか、がチャリ、と音を立てている。かなり大きい。
「何それ?」
思わずそう言うと、克典は「お前には関係ねぇよ。」とぶっきらぼうに突っぱねた。その態度はどうにかなんねぇのか、とひろとが口を尖らせるが、克典はどこ吹く風でサングラスを外した。
(……ここら辺もタツが言ってた『神域』?なのか??)
確かにここに来る道中も霊の姿は少なかったが……
克典はふと、車を運転していた付き人と何かを話すと、ここに残るよう指示を出すようなジェスチャーをしてひろとの元へやって来た。
「あのおっさんの後をつけてた付き人曰く、ここから行った所に川を挟んだ橋があるだろ。その近くにいたらしい。」
「川近く、か………あ、近くに樹齢数百年の杉の木がある。」
スマホでハイキングコースの地図を克典に見せた。「かもな、」と克典は同意して、二人はハイキングコースに足を踏み入れた。あいにくと、空は曇っているため森の中は靄がかかっているかの白く薄ぼんやりとしている。鳥のさえずりはなく、あるのは木々が風に揺れる微かな音だけだった。
克典曰く。永くそこにあるモノには霊的な神秘が宿りやすい。神社の神木やモノに意思が宿ることで有名な『付喪神』も同じようなモノなのだと言う。
「…………それにしても意外だな。」
先を歩く克典にひろとはポツリとそう呟いた。「あ?」と彼は怪訝そうに振り返る。
「協力してくれるのが。てっきり断られるのかと思ってた。」
「……別に。お前みたいな雑魚の為じゃねぇし。」
吐き捨てるようにそう突っぱねて、克典は視線を前に向けると先を歩いて行った。
「じゃあなんだよ。まさか、その…………」
弓弦の為、とか……?
「そういや、お前。あの女のこと好きなんだっけ?」
「ハッ!?!?」
大して興味なさそうに横目で見ながらそう克典は指摘する。ひろとは思わず声を上ずらせた。知らないと思っていたのか、と言いたげに克典はため息を吐いた。周知の事実とは言え、真正面から指摘されると恥ずかしくなってくる。否定する気もないが、ひろとは顔を赤くさせながら視線を逸らした。
「別に、どうも思ってねぇよ。そりゃ、ちょっと美人にはなったな~とは思うけど、相変わらず無口で陰気だし。きっと付き合ったって大した関係にはなんねぇだろ。」
「…………靖二郎さんの次に婚約者になるって決まった時はあんなにノリ気だったくせに。」
「あれはぁ!………………あれはようやく蛇草の家から離れられると思ったから………」
視線を前に向け、今度は気まずげに克典はそう呟いた。意外な言葉にひろとは目を丸くした。
「親父も兄貴も。家にいる奴は俺の眼の能力ばかり見て、『俺』自身を見てくれねぇ……今だって、お役目ごめんになったら、蚊帳の外だ。正直うんざりしてんだよ。まだ、水雲の家の方が俺のことを見てくれるし、気にかけてくれてた…………まぁ、孝介さんが死んだ今、その婚儀もどうなるか分かんないけど。」
首筋をかいて、克典は舌打ちをすると歩みを速めた。さっさと先を行く克典に置いて行かれないようひろとは歩みを進める。その話を聞いて、しばらくひろとは考えていた。何か、彼に言いたいことがあった気がした。弥平のその行動と態度に心当たりがあった気がした。
しばらくしてから、ふと思い出してひろとはあ、と呟いた。
「…………弥平さん。お前に危険な目に遭ってほしくないんじゃねぇか?」
克典は目を丸くして振り返った。我に返って、ひろとは「あ、いや、」と手を振った。
「もしかしたらって思って。ほら……その……」
「───────────────んだそれ。キッショ。」
忌々しそうな顔をして、克典は再び前を向いた。途中、ポツリと「今更親みてぇなことすんのかよ」と呟いた気がしたが、もうこれは彼の中にある問題なのでそれ以上、ひろとは口を出せなかった。克典自身も周囲のことなど忘れて、ひろとが呟いた言葉を心の中で反芻していた。
しばらくなんとも言えない空気が流れていた。現在の道は緩やかなものだったので、歩くのに辛いという感覚はない。
川の音が近くに聞こえ、ひろとと克典は視線を向けた。気が付くと橋が目の前にあり、谷になった下には川が流れている。
「お前さ。『見たことない記憶』って見たことあるか。」
歩みを止め、川を見ていた克典はそんな変なことを聞いてきた。それを聞いた時のひろとの顔は『何言ってんだ、こいつ』と言いたげだっただろう。ひろとに視線を向けた彼の苛立った顔を見れば明らかだった。
「その『何言ってんだこいつ』みてぇな顔すんじゃねぇよ。腹立つな。」
「いや、ごめん……マジで何言ってんだろって思って。記憶って自分の体験したことしか思い出せないだろ。体験してないものは……」
「その『体験したことのないもの』が夢とか、白昼夢とかで見たことねぇかって話。あのおっさんと会って、しばらく一緒にいたんだろ。見たことねぇの?」
一瞬、頭に昨日見た夢を思い出す。葬式の風景で、次の当主を決める時に嫌悪と怒りの表情を向けられていた弓弦によく似た誰か。
『私はここで死んでいく──────』
少女の言っていた言葉が頭に響いた。ひろとは何も言えず、しかし心当たりがあると思っていると「やっぱな~」と克典は頭をかいた。
「俺も視たんだよ。」
「葬式の夢?」
思わずそう問うと、克典は「は?」と首をかしげた。その反応を見るに違うのか、とひろとは少し落胆したが、彼は変な顔をすることなく「お前はそうだったのか」と呟いて自分が視た夢のことを話した。
「俺は空を飛んでた。なんかの背中に乗って、高校生くらいの女と一緒に大空をな。」
「あ……俺の視たものにも女の子出てきた。高校生くらいの……」
「妖とか怪異って、時たまに自分にあった過去を見せに来ることがあるらしい。親父から聞いた話なんだけどよ…………『自分を知ってもらいたい』って言う無意識から見せてくるんだと。霊とかでもたまに見せに来る奴がいる。とはいえ、記憶なんて途中でバイアスがかかるから見る光景は断片的で一瞬。でも、俺は『それ』が気になる。」
克典の言葉にひろとは彼の横顔を見た。人よりも多くのものを見てしまうその瞳はここではない、どこかを見ていた。
視えるということは『気が付くこと』だ。彼は気が付いたそれがどういうことかの結論にたどり着くことはまだ上手くは出来ないが多くのことに気が付く、そして気が付いたそれがどういうことなのかを知ろうとする。
「あのおっさんが見せたモノが。向こうに『見せよう』って意思がないとそういうのは見えない。なんであのおっさんはそれを見せようとしたのか。見せてどうして欲しいのかとか気になる。それは俺ら……『退魔業』をする奴らにとって気に掛けることだろうと思うし。」
だから、『視えてしまう』のだろうな。とひろとはそうぼんやりと思い、その確固たる意思を宿した目を見て思わず微笑んだ。「なんだよ」と克典は途端に不機嫌そうな顔になったが、ひろとは首を振って笑うばかりで何も答えなかった。
「それよりも、ここら辺だったよな?」
橋を渡り終え、ひろとは周囲を見回す。克典は「そうだな」と呟きながらふと、懐から一本の煙草の箱を取り出した。驚いてひろとは目を丸くしながら振り返る。
「え、お前。吸うの?」
「ちげぇよ。これは親父が仕事に使う時に使う奴をパクって来た奴。『人除けの結界』を張るんだよ。これがあると付き人でも来ない。必要ねぇと思うけど一応……」
「結界??」とひろとは目を丸くするが、克典は答えることなく煙草に火をつけて煙を周囲に巻くようにゆっくりと腕を振った。ひろとはとりあえず何も聞くことなく、克典に任せることにした。
克典がつけた煙は、まるで生きているかのように森の中を漂い始めた。周囲を隙間なく。数分もしないうちに薄ぼんやりとしていた空間は余計に白くなっていった。タツのような人ならざるモノもいるのだ。分かっていたことだが、あまりの不思議な現象に煙草の火を消す克典にひろとは思わず声をかけた。
「そういえば、さっき。『退魔業』とかどうとか言ってたけど、それって霊媒師みたいなもの?」
克典は肩にかけていた物を背負い直して、微妙な顔をした。どう言おうか考えているようだった。
「俺らがやってんのが基本霊関係が多いからそう言われてるけど…………怪異や妖。悪霊とかそういったのを退治、封印するのが『退魔師』だ。神社でのお祓いと違って少し安くお祓いが出来るって利点もある。」
「金の話は良いよ……それより、そうなるとタツも……」
退治、封印という言葉にひろとは顔をしかめた。
退魔師にとって怪異、妖は『退治する対象』。言うなら敵のようなものだ。怪異は時に人を襲い、命を奪う。助けることはなく、善性を持つものも少ないだろう。おそらく、現在。座敷牢にとらわれているタツも早く何とかしなければ、八重や桜子の言った言葉通り『処理』されてしまうのだろう。
「とりあえず、『処理』すっかはどうかは置いといて。今はあのおっさんが何してたのか調べるぞ。」
克典の言葉にひろとは我に返った。気を引き締めてうなずいた。気が付くと、少し先に巨大な杉の木がぼんやりと姿を現していた。
しかし、この時の二人は自身の背後から忍び寄る『亡霊』の気配に気が付くことはなかった。
蛇草家の離れにある座敷牢の中は、少しの座布団があるだけで閑散としている。さほど手入れもされていないのか視界の端には蜘蛛の巣もあった。
そこで横に寝っ転がっていたタツは少し唸ってから「あ~~~~~~~」と大の字になる。
「退屈じゃ~~~~………なんか暇を潰せるようなものはないのかの~~??囲碁とか、ゲームとか。本でも良いからなんかないかの~~……退屈すぎて死ぬ!!!」
「お前。自分の状況が分かっていないのか?」
牢の外側にいた弥平は顔をしかめて、そうタツに声をかける。彼をこの牢屋に連れ込んでからというもの、相変わらずの飄々とした危機感のない態度で牢屋生活を満喫しているのだ。タツは大の字になったまま「分かっておるよ~~?」と人差し指を牢の入り口にかけられた南京錠に向けた。その錠は、ぼんやりと不思議な青い光の線が入っている。
通常の人間が見れば、その神秘的な光景に目を丸くすることだろう。ひろとだって同じ反応をする。しかし、この空間にいる弥平もタツも『見慣れたもの』なため、その異常に大した驚きを見せなかった。
人々に秘匿される神秘。それが退魔術、そして妖ならば妖術だ。
「この牢にかけられた結界術のおかげで、儂は妖術が使えないのじゃろう?とはいえ、ちょっとは退屈しのぎになるようなもの置いてくれんか。このまま床にゴロゴロ転がっておったら儂いつか……ほら、あるじゃろ。コロコロする掃除道具。それになってしまう。」
「貴様が話せば、すぐに出してやる。」
「『出して、退治』するんじゃろう?」
にこやかに答えたタツに弥平は目を細める。タツは「冗談じゃよ~~!」と笑って身体を起こした。そのあっけらかんとした態度に苛立ちすら覚えてくる。
妖にとって『退治』というのは『死ぬ』ことを意味する。しかし、タツの見せる笑顔にはそれに対する恐怖はない。人でも妖でもいくら強い意思を持っていようと死にそうになったら人は恐怖する。それが、通常の反応のはずだ。むしろ、怪異の方が自分の感情に素直で、すぐに命乞いをする。
だが、目の前のその笑顔の裏には何も見えない。
「死ぬことに怖くはないのか、か?」
タツの言葉に弥平は「心を読むな」と低い声で言う。妖は時に人の心を覗いてくる。そこに付け込んで祟り、そして呪うモノだった。克典をここに連れてこなかったのは、その心の内に付け込まれないためだ。能力が高いが、本質的には未だ未熟。うかつに退魔業の裏側には来させられない。
一方、そんな弥平の言葉にタツはひらひらと手を振った。
「別に読んでおらんよ。顔を見たら分かる。しかし、そうじゃな~~……別に儂自身、死んでも『代わりはいくらでもいる』。儂一人死んでも何の問題もないんじゃよ。」
気になる言葉に弥平は「なに?」と呟いた。しかし、タツは自分の膝に肘を置き、頬杖をついたまま何も言わない。
「…………お前は何者だ。なぜ、この村に来た。」
「最初に言ったじゃろ~?ただの観光。ここの温泉がたいそう良いと妖仲間聞いて来ただけじゃ。事件だって、元々関わりたくて関わったのではない。童に頼まれたから、仕方なくじゃ。」
「弓弦殿の婚儀を邪魔するためではなく?」
弥平の言葉にタツは黙った。視線だけを彼に向けている。その口元は手によって隠れており、表情はよく分からない。表情の消えた彼の顔を見ながら弥平は静かに呟く。
「どうやらお前は彼女をよく気にかけているようだからな。」
「……だからといって、会って数日しか経っておらん相手の為に人二人も殺さんじゃろう。おぬしは殺すのか?」
微笑を浮かべ、タツはそう問うが弥平は何も言わなかった。自分がその立場になったことを考えたことはない。相手に嫁ぐことになっても自分は悲観しなかった。自分の息子達がどうだかは分からないが、もしそうなった時には相手の話を聞くつもりではあった。靖二郎の時はそうしていた。きっと、この事件が片付いたら克典にも話を聞くだろう。
そんな弥平の心の内をまた読むかのようにタツは「殺さんよなぁ」と呟いて微笑む。
「おぬしは聡明で、冷静な性格をしておる。何より人情に厚い。そういう、おぬしのような人間は好感が持てる……んじゃが、今回の事件に関係のない、答えるに値しないことを答える気にはならんの~」
そう言い放ってタツは再びゴロリ、と横になった。
「貴様の『上』を知ることは今回と関係ないと。」
「無いな。むしろ、『儂ら』は関係ない。それにさっきも言ったであろう。儂はあやつらが死のうがどうとも思わんと。助ける価値もない。殺さんのは儂の身内がそれを嫌うからじゃ。彼女に嫌われたくない。」
「その『身内』というのは弓弦殿のことか?」
弥平の問いにタツは何も答えない。
「お前はなぜ、彼女に気にかける。」
そう問うてもタツは何も言わない。
「…………お前の本当の『主』は何者だ。」
「なぁ、一つ教えてやろうか。」
くるりと、背を向けていたタツが横になった姿勢のまま弥平に身体を向けた。水縹の瞳は少し濁っているように見え、弥平は久しぶりに身体が強張るのを感じ取った。
「『儂ら』が用済みになったらどうなると思う?」
「なに……?」と弥平は顔をしかめる。タツは静かな笑みを見せたままポツリと。
「『火』、じゃよ。」
そう呟いた。その言葉の意味を弥平はすぐに気が付くことは出来なかった。
「儂は殺しはせん。それを彼女は望まない。誰も望んでいない。儂らは『亡霊』に囚われない。囚われず、自由でいたい──────なぁ、弥平殿。気にならんか??」
タツの声は淡々としており、弥平の脳裏にある気が付かなかった『違和感』を揺さぶる。いや、正しいことを言うならば気が付いていながら後回しにしてきた『何か』だ。
「何が、だ。」
そう問うた口調が少し硬かったことに弥平は気が付いただろうか。「ヒントをやろう」とタツは指を弥平に向けた。
「この事件は、確かにおぬしの言うとおり。『誰か』が弓弦嬢に気にかけているからこそ起きている。それは、数十年前に『彼女の亡き母親が関係しておる』んじゃろう。でなければ二人も死なないじゃろうな~…………儂は確かに彼女に甘い所があるじゃろう。だが、所詮は『他人の空似』じゃ…………二人を殺すほどの『想い』を儂は彼女に持ってない。呪術において『どうやったか』は大事ではない。しかし、『どうしてやったか』は明白じゃ─────────では、『誰が?』」
タツは目を細め、表情の強張る弥平をからかうように面白そうに嗤った。
「誰が、『その亡霊に囚われておるんじゃ』?」
樹齢百年を超える杉の木はハイキングコースの道から少し離れたところにある。近くで見ることはなく、遠くから全体が見えるように道が作られているからだった。ひろとと克典は木の板で作られていた道から離れ、少し斜面になっている所を歩いていく。ここは整備されていないので歩きづらくなっていた。
「確か……あのおっさんが立っていたのは、あの木の裏側だ。」
克典の言葉を聞きながらひろとはスマホの地図を開く。まだ辛うじて電波が入っていた。
ハイキングコースは行こうと思えば、神社と合流出来るようになっていた。
「方向的に向こうには神社がある。そんなに参道から離れてないな……」
「山の位置的に『腹社』辺りか。上まで登ってたんだな。でも、変だな。」
顔をしかめて、周囲を見回す克典にひろとは「何が?」と首をかしげた。
「歩いていた時間がおかしいだろ。それほど離れてないとはいえ、ここから宿までかなり時間がかかる。けど、お前の言葉通りならほんの一、二時間しかあのおっさんは外出してない。途中飲みに行ったとしてもどうしても時間が合わない。あのおっさん。どうやってここからここら辺に術をかけて宿まで戻ったんだ……?」
いくら数日の滞在で山道に慣れたといえ、暗闇の中で数分で歩けるはずはないだろう。むしろ、斜面と石や葉っぱ。霜で湿った地面にとらわれて足を滑らせることは十分にありうる。
「まぁ、人外ならどう移動しようが不思議でもねぇけど……」
「そういえば、さっきから気になってたけど克典と弥平さんはタツがここで何かしてたのを直接見たのか?」
スマホを仕舞いながらひろとがそう問うと、案の定。克典は「いや」と首を振った。
「実際に後をつけてたのは、親父の仕事の手伝いとかする付き人って言うか。弟子みてぇな人達だ。でも、そういう生業には多少心得はあるぞ」
克典のその言葉にやっぱり、とひろとは思わず心の中で呟いた。ここに来るまでと、今までの言動から思っていたが、克典と弥平はタツがここで何をしていたのかを本当の意味で見たことはない。人から報告した話を聞いていただけなのだ。そう考えるとふと、タツが宿で顔をしかめて呟いた言葉を思い出した。
『しかし、『それ』をあそこから取り出したのか──────』
あの言葉と表情は『呪いをかける側』から考えるとあまり似合わない台詞のような気がした。
もしかして、『逆』────?
ひろとがそう思ったその時。息を吸い込んだ彼の鼻が何かを捉えた。
昔、なんてことない思い出が脳を掠めた。それが何なのか、探そうと「あれ?」と呟いてひろとは顔を上げた。杉の木を見ていた克典は訝しげにひろとに目線を向けた。
「なんだよ。」
「…………墨汁の匂いがする。」
ポツリと呟いたひろとに克典ははぁ?と呆れたように顔をしかめた。同じように息を吸い込んでみるが、土の匂いなどの自然の匂いがするだけでそれ以外は何も感じない。
「なんも匂いしねぇけど……」
「え~~??してたよ。微かだったけど、墨汁とかのあの独特の匂い!!」
「墨汁ってことは……『墨』か?こんな山奥で誰か書道やってんのかよ。変すぎるだろ……人除けの結界とかも張ったんだぞ。」
「でも、こっちからした気がしたんだけど……」
曖昧に呟きながら、匂いの元を探そうとひろとは歩いていく。それに呆れながら克典が仕方なくついて行くとふと、視界の隅に何かを見つけた。
「待て、なんかある。」
「ん?」とひろとは振り返った。克典は地面にしゃがみこみ、杉の木の根が少し飛び出た所を見ている。
何があるのだろうと、ひろとがまじまじ見ようとすると、ぼんやりと赤い何かが書かれていた。
「なんか書いてあるな……でも、ぼんやりしてて分かんない………」
「俺ははっきり見えるぜ。たぶん、怪異の血で書かれてるな。」
血という物騒な言葉にひろとは目を丸くして、克典を見た。克典は木の根の周辺をなぞる。そこに何か描いてあるようだった。
妖や怪異の血は普通の人には見えないが、見えるモノにははっきりと捉えることが出来る。今、克典が見えているのは円形に描かれた何かの図形だった。木の根には何やら小さな穴が開いており、何かを打ち付けているように見える。それを取り囲むようにその図形は描かれていた。
(微かに血に混じってるこれは……妖力だな………あのおっさんのか?)
「何書いてあるんだ??全く分かんない………」
「しっかり見ようとしろよ。」
後ろで右往左往するひろとにうんざりしながらそう突っぱねる。ひろとは一瞬、ムッと顔をしかめてからそれに目を凝らした。すると、先ほどまでぼんやりとしか見えなかったが、図形のような形になっていることに気がついた。
「あ、なんだこれ。絵??」
「魔法陣みてぇなもんだ。でも、なんて描いてあんだ……?独学なのか分かんねぇ…………あ、これ。親父の読んでた本で見たことある奴がある。」
見知ったものを見つけてから克典はそれに集中してしまった。ぶつぶつ呟きながら陣の解析をし始める。手持ち無沙汰になってしまったひろとは顔を上げて周囲を見回した。靄の中は視界が悪く、遠くを歩く人の姿も影のようにぼんやりとしていた。
(……………………あれ?)
ふと、何かがおかしいことに気がついてひろとは目を丸くした。そして、ようやくその違和感の正体に気がつく。
遠くの方で動く影がある。
「……克典。なぁ、」
思わず克典の肩を叩いた。しかし、彼は図形の解析に夢中だった。
円形の線は二重に引かれており、その線の間には何やら文字にも似たものが走り書きされていた。淡くぼんやりと赤い線でそれは描かれている。
「これとこれの組み合わせは見たことある……まさか『封印』か?簡易的な…………封印術式が地面に描かれているってことは………地脈の?あのおっさんがやったのか??なんでだ………?」
「克典。」
「うっせぇな、今解析してんだ。黙ってろよ………もしかして、地脈を通した呪を断つためか………?まさか、あのおっさん…………」
最初からこの呪を止めるためにここに来たのか?
「─────それを俺らが『取り出した?』」
この術は打ち付けられた呪が周囲に影響を及ぼさないために周辺の『地の流れ』を止めるものだ。水と同じように自然の中には『気』という霊力のようなものが流れ、時に変質しながら空間に存在している。
呪の流れを止めるためにここに作られたのだとしたら。
それを取り出すことがどういうことになるのか─────────
「なぁ……なぁ、克典ってば!」
「うっさいな!なんだよ!!」
袖を引っ張り始めたひろとに苛立ち、克典はようやく目を向けた。彼がある一転を見ている。不思議に思って克典は目を向けると、靄の中を歩く人影を見つけた。
周囲には簡易的ではあるが、人避けの結界を張っている。そうそう人が入って来れるはずがないのだが、と思っているとその人影の正体が最初、自分達をここまで送ってきた使用人だと気がついた。しかし、どっちにしろおかしな話だった。
彼には最初。自分達にはついて来なくて良いと言っていたはずだからだ。
「あ?おい。来なくて良いって言っただ……ろ……」
おぼつかない足取りでやって来たその使用人の異様な雰囲気に言葉が止まる。
彼は身体に何かを巻き付けていた。ロープのような太い何かだった。時折、それが蠢くことから生き物であることが分かる。ゆっくりと歩み寄ってきた使用人に克典は「おい……?」と思わず声をかけた。
彼は顔を上げた。
蛇が使用人の目から顔を出し、身体に巻き付いていた。
あまりの異様な光景に「え、」とひろとはすっとんきょうな声を上げる。ゆっくりと使用人は口を開いた。その口からおびただしい血が溢れ、彼の服と地面を濡らす。
「────────ぁ、……………ァァアァアアッ!!!!」
突然、使用人だった何かはそう叫ぶとひろとに手を伸ばして襲いかかってきた。
小さく走った痺れるような感覚にタツはハッと身体を起こした。突如、動き始めたタツに弥平は訝しげに顔をしかめた。
「どうし………」
「『動きがあった』。」
「なに?」と弥平は目を丸くする。タツは檻の中では術を使えないはずだ。檻のそういう術式を弥平はこの檻にかけている。タツは弥平に顔を向けると、檻を掴み顔を近づけた。
「童と克典殿は今、どこにおるんじゃ?動きを儂が感知したと言うことは『童自身にかけていた術式が作動したと言うことじゃ』。あの二人は今どこにおる…………!まさか、儂のおった杉の木の近くか。」
タツのその言葉に弥平はハッと我に返った。タツのいる牢以外にもこの屋敷の中を行き来していたが、未だに自分の息子の姿を見ていない。
「克典ッ!」
甲高い声が響いたと同時に眩い光が放たれ、克典とひろとは顔を覆った。その光で周囲に漂っていた煙が晴れる。我に返ってひろとが顔を上げると、目の前に手のひらに乗るほどの小さな白い龍が使用人に向かって威嚇をしていた。光を真っ正面から受けた怪異は、悲鳴を上げる。
(え、これ─────!?)
「なにボサッとしてんだ!!逃げるぞっ!!!!」
克典の鋭い怒号と共に襟首を引っ張られ、二人は山の斜面を走り出す。時折転けそうになりながらひろとは後ろを振り返った。先ほど自分を助けていた白い龍は、しばらく怪異と対峙していたが鋭い爪によって叩き落とされて儚く霧散した。
「な、なんだよ!アレ!!」
「………間違ってたのは俺らの方だったらしいな!!あのおっさんは呪いが周囲に影響しないように封印しようとしてた!それを俺らがあの場所から取り出したから呪いが発動したんだ!!」
「あの人は!!」
「取り憑かれた!もう死んでる!!」
克典は鋭い声でそう答えると、少し後ろを見て舌打ちをした。猛スピードで怪異はひろと達を追いかけてきていた。その足の速さは人並み外れている。
振り切るのは難しいと感じた克典は応戦することを決め、懐に背中に背負っていた筒状のものをひろとに投げつけた。突然投げ渡され、状況が分からないひろとは「ハァ!?」と声を上げる。
「アホでも出来る組み立て式だ!!作っとけ!!繋がってるワイヤーは下に引っかける所にあるから!!」
「え!?どういうこと!?なにこれ!?」
「良いからさっさとやれ!!死にてぇのか!!」
言われるままにひろとは、慌てて筒の中から折り畳まれていた物を取り出した。嵌め込み式で簡単に組み立てられる。
ワイヤーに繋がった物を一つの棒状にして、最後、棒に繋がっていたワイヤーの余りを一番下の引っかける所につけてから気がついた。
弓だ。
克典は懐から札を取り出すと、地面に投げ放った。投げつけた札はしっかりと地面に貼り付き、異様な光を放った。そこを怪異が踏み越えようとする前に克典は間髪入れずに両手を合わせた。
「──────『雷』!!」
その一声と共に札から稲妻が走り、怪異に直撃した。身体を走る稲妻に怪異は悲鳴を上げる。人智を超えた、非現実的なその光景にひろとは驚く暇がなかった。「弓と入れ物を寄越せ!!」と克典は鋭い声をかけられ、ひろとは慌てて彼に一式を渡す。ひろとは入れ物の中から一本の矢を取り出すと、その先端に札をつけ、弓にセットすると流れるような動作で構え、矢を放った。
放たれたそれは的確に怪異の頭を撃ち抜いた。素早く克典は印を結んだ。怪異の動きを封じていた稲妻の勢いが強まり、怪異の甲高い悲鳴が上がる。
光が弱まって行くと、そこには丸焦げになった怪異の姿があった。
「………やったか……?」
ひろとがポツリと呟くと、怪異は膝から崩れ落ちる。倒したのだと、克典は小さく息を吐いた。しかし。
何かが中で爆発するかのように、突如。怪異の腹が、いや身体が大きく風船のように膨らみ始めた。ギョッと目を丸くして、二人が怪異を見たその時。肉と血を撒き散らして、怪異が爆散すると中から大量な蛇の大群が飛び出して来た。
「なっ───────!!!?」
マズイ、と克典はひろとを後ろに引っ張り、慌てて構え直すが反応が遅れた。
蛇の大群が二人を襲いかかったその時。
「『雷槍』─────────」
その言葉と共に地面を這うように稲妻が走り、蛇達の胴を全て貫いた。蛇が上げないような奇声を上げ、蛇は塵になっていく。ひろとと克典は声が聞こえた方向に顔を向けると、山の斜面の上。そこには慌てて来たのか荒い息を吐いていた弥平が立っていた。刀印を作っていた腕を下ろし、弥平は二人を見ている。
「克典、ひろと君。怪我は。」
斜面を足早に下り、弥平は二人の安否を確認する。いつの間にかそこにいた弥平に二人は呆気に取られて、しばらく何も言えなかった。
三人の間に奇妙な沈黙が流れてしまった。
「……克典。」
弥平が克典に目を向けたまま、再びそう問う。ひろとは克典に目を向けるも彼は呆けた顔をして、固まってしまっていた。仕方なく、ひろとは肘で克典の脇を小突いた。その力が意外にも強く出てしまい、「いて、」と克典はそう呟いてからひろとを睨みつけてきたが、ひろとはそれを視線を逸らして無視した。しばらくひろとを睨んでから息を吐いて、ようやく克典は弥平の問いに答えた。
「…………俺とこいつは、大丈夫。」
「怪我はないんだな?」
念を押すように肩を掴んでそう問うてくる弥平に、克典は顔をしかめて首筋をかいた。
「信用ねぇのかよ。そうだって言って──────」
「そうか……」
大きく息を吐き出して、そう。ポツリと彼は呟いた。それを見て、克典は目を丸くした。
「……良かった」
俯かせた弥平がどんな顔をしていたのか、二人には分からなかった。しかし、何となくひろとは微笑み、克典は、心の底から安心する父の姿を見て。ふと、自分はいつの間にか父の背を気が付かないうちに抜いていたのだと今更のように気が付いた。常日頃、父を見ていたと思っていたが、そんな些細なことにも克典は今まで気が付かなかった。
ふと、弥平の身体がふらついた。「親父!!」と慌てて克典はその身体を支える。大丈夫だ、と言うように彼は手を上げて、小さくうなずいていた。
「大丈夫、あの男……タツ殿の妖術で少し立ち眩みがしただけだ。急にここに飛ばされたからな……耐性がない者は転移した後、少しなるらしい。」
顔に手を当て、弥平は少し疲れたように静かにそう答えた。
「転移術式……あのおっさん、そんなことも……」
「あ、じゃあ。昨日の移動時間の謎って、そういうこと?」
転移術はゲームで言うならワープ機能のようなものだ。特定の場所から別の場所に空間の狭間を使って飛ぶ。タツが一、二時間という短い間で移動した方法が分かり、克典とひろとは顔を見合わせた。突然のワープで酔っていたが、ようやく治まったのか。そうだな、と弥平も顔を上げてそううなずいてから振り返った。先ほど使用人だった怪異が爆散した場所に目を向ける。周囲は少し焦げているもののそれがあるだけで血の痕も飛び散った体の一部もなかった。全て塵のように消えていた。それに良かったと思う反面、ひろとは言葉に出来ないなんとも言えない気持ちになり顔をしかめる。見てみると、弥平も同じ顔をしていた。
「…………あいつはあのおっさんがここで何かしてたのを見てた奴だった。たぶん、取り出した時に呪いが中に入って発動したんだと思う。術者の姿は見えなかった。」
克典がそう言うも弥平は無念そうに顔をしかめたまま何も言わなかった。
一つのことに集中すると、人は他の可能性を簡単に見落とす。『そうだ』という確信は自分の中にあるだけで必ずしもこの時間の中で起きた『真実』だと限らないにも関わらず、人はその認識のまま物事を進めてしまう。あの時、弥平はタツが犯人なのでは、と疑いを持っていた。そのもう一方。『もう一つの可能性』に目を向けず、意識をしたことがなかった。
もし、早い段階で気が付けていれば、こんなことになっていなかったはずだ。と弥平が顔をしかめていると「弥平さん」とひろとが三人の沈黙を破って声をかけた。弥平は視線だけをひろとに向ける。ひろとの弥平を見るその目は力強かった。
「一回。タツと俺で話しをさせてくれませんか。俺なら、何か話してくれるかも。」
「…………確か、君は彼と何かを約束していたな。」
顔を向けた弥平の目は真剣で、鋭かった。しかし、それは信用しないという意味の目ではない。対等に話そうとする人の目だとひろとはふと思った。弥平は今までの認識を一度変え、『もう一つの可能性』に目を向けようとしていた。
「いったいどんな約束をした?」
「…………俺だけじゃない。弓弦のことも『守ってみせる』って……」
「その時。何か対価を求めてきたか。」
「対価?」とひろとは首をかしげた。その反応を見て、克典と弥平はわずかに目を見開く。
(何も求めてなかったのか…………)
人の願いを叶える時。妖はそれ相応の『対価』を求める。寿命や血。自身が人の世に留まれるほどの器や時にその命を求める。悪魔と同じで異形に何かを約束することはよほどのことがない限り……命を捨てる覚悟がない限りしてはいけない禁忌なのだ。
それを、あいつは────────────
『それを彼女は望まない。誰も望んでいない。儂らは『亡霊』に囚われない。囚われず、自由でいたい──────』
牢で呟いていた彼の言葉を弥平は思い出す。しばらく黙ってからやがて、克典に目を向けると弥平の意図を感じ取ったのか、やがて彼は小さくうなずいた。
何も求めず、ただ主の願いを守り続けて関係ないにも関わらずひろとを助ける彼のことが、目の前の青年ならば何か分かるかもしれない。そう思った弥平は「分かった、」と静かにうなずき、ひろとに優しげにそして、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。
「まずは彼に対しての非礼を詫びなければ……それが誰であれ、『話を聞くこと』が大事だと分かっていたのに……」
そう言うと弥平はひろとに身体を向き直り、わずかに頭を下げた。なくなったものはどうにもならない。しかしそれから先をどうするかだ。
「……君と彼のその意思に私達も協力させてほしい。『守るもの』は違えど、根本的なものは君と同じであるはずだから。」
ひろとは目を丸くして、弥平のその言葉を聞く。隣では渋々と言いたげに克典は頭をかいてため息を吐いていた。そんな彼の不貞腐れた顔にふと。ひろとは微笑を浮かべてしまった。
自分の出したこの一歩は確かに大きいはずだ。そんな気がする。
そう思ってひろとは力強くうなずいた。
その後、ひろとと克典は弥平の運転の元、蛇草家に向かうことになった。屋敷に着く頃には遠くの空がオレンジと紫に染まり出し、微かに夕方の時刻を告げる特定の鐘の音が鳴り響いていた。蛇草邸は水雲家ほどではないが、その近くには神社もあった。屋敷の裏にある山を見ながらひろとはしばらく黙っていた。何かを思っていたが、それが何なのか分からず、しかし感じ慣れた感覚だった。
結局それが何なのか分からず、「早くしろよ」と克典に急かされて慌ててひろとは屋敷に足を踏み入れた。屋敷の中に入るのは初めてだった。昔に何回か行事ごとで通りかかることはあれど、屋敷自体は塀で囲まれていたので中がどうなっていたのか覗いたこともない。縁側を歩きながら外の庭を見ると杉の木などの木々がぽつりぽつりと佇んでいる。雅とというか風情がある日本家屋だったが、少し寂しげなようにも見えた。
ふと、通路を歩いていると遠くで複数の使用人が片手に薙刀や槍を持ちながら慌ただしく動いていた。物騒なその光景にひろとは目を丸くする。
「呪詛が次にどこから来るか分かんねぇし、後。親父は気にしてないとは言え、まだあのおっさんを疑ってる奴はいるからな……」
ひろとの内心を読んだように小声で克典がそう呟いた。
「犯人が誰なのか、早いところ見つけないと……」
そうひろとも呟きながら、克典に案内された客間の戸を開けたその時。
「お!!ようやく来たか~!!童~~!!」
拍子抜けする声でタツが片手をひらひらと振りながらそう出迎えてきた。
床に寝そべり、本と饅頭を片手に。
あまりの光景に二人は唖然とする。やがて、一番最初に口を開いたのは克典だった。
「…………くつろぎすぎだろ。さすがに……」
「いや~~~……座敷牢が退屈すぎての~~~~~……あそこ、退屈すぎじゃ。リフォームした方が良いと思うぞ?あと、娯楽が少し欲しい。囲碁とか本とか置いた方が良いと思う!」
「いや、あそこは部屋じゃねぇんから!!」
堪らずそうツッコむ克典にタツは、ニコニコと笑いながら「まぁ、なんじゃ」と身体を起こした。姿勢を正して微笑を浮かべて克典に頭を下げた。
「あの時。童を守ってくれたこと感謝する。いくら、守りが得意とは言え。手の届く範囲には限度があるからの……二人とも無事で良かった。」
克典は鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「そのために俺に『あれ』を視せてきたくせに。」
「ん??『あれ』とはなんじゃ??」
きょとんとタツは首をかしげた。その反応に嘘はなく、あの時。克典が視たものはわざとタツが同情を誘うために視せたのではないと分かり、今度は克典は目を丸くした。
それを横目に見てからひろとはタツの前に腰を下ろして、タツと向かい合った。「なぁ、タツ」と声をかけるとタツはひろとに目を向ける。そして、その真面目な瞳を見て驚いた表情のまま笑みを消した。
ひろとは着ていた上着のポケットから封筒を取り出して差し出した。タツが書いていた『お嬢』に向けた手紙だ。
「これ。落ちてた。」
「あ~……どこに行ったのかと思ってたが、ありがたい。まぁ、結局本当なら今日送ろうと思っておったのだがな……」
ちょっと目を細めてタツは寂しげに手紙をひらひらと振った。その目を見て、ひろとは表情を引き締めると問うた。
「……教えて欲しいことがあるんだけど、タツの大事なその『お嬢』って人は今回の弓弦とどんな関係があるんだ?」
「────────────なぜ?」
静かに、タツは目を細めたまま首をかしげた。
「童が気にする必要はないことじゃろう?」
その雰囲気にひろとは思わず寒気を感じて言い淀む。しかし、旅館で見せたあの寒気と比べるとどうてことはないと、再び姿勢を正した。
「関係あるよ。それがあるからタツは俺達に力を貸してくれた。それがどうしたかが気になる。弓弦と何か関係が──────」
「いくら童とはいえ、『あの子』のことを教えるつもりはない。」
鋭い口調でタツはひろとにそう言い放った。タツは目を細めて、半分ひろとを睨みつけるように見ていた。そこには『絶対に言わない』、『言いたくない』という確固たる意思があった。その気迫に思わずひろとと克典は身体を強張らせる。タツは鋭い目のまま低い声で答えた。
「人との関係には時には踏み込むことも大事じゃが、限度と線引きはしろ。踏み込み過ぎることは褒められることでない。特に儂らのような異形にはなおさらじゃ。知り過ぎればやがてその毒が伝播して病む原因にもなる。何より、儂とおぬしはこの事件が明ければただの他人じゃ。そして、この村とその人々ともな。」
「そんな言い方……!」とひろとは思わず叫んだ。タツはひろとのその表情に少し顔をしかめた。視線から避けるようにタツは目を閉じた。
「……なにも違わないよ。『儂ら』は……『彼女』はここの住人でもない。知人でもない。無駄な縁は避けたい。それが儂らが……いや『儂がこの世にいる意味』なんじゃからな。だから──────」
言い終わるよりも前に、ひろとは床の畳を力強叩いた。鈍くも、大きな音が出てタツは思わず口を閉ざす。「でもっ」とひろとは呟いた。
「でも、関わったその縁は消えないだろ……!」
俯かせたままひろとは思わずそう吐き出した。「なに?」とタツは目を丸くする。ひろとは顔をしかめたままタツの顔を見た。
「俺とタツが出会って、こうしてる縁は消えないだろ!!」
その言葉にタツは目を丸くした。
「確かにその子のこと気になるよ。どういう子なんだろうって。だから知れれば、『弓弦とその子を無意識に重ねるタツを知れるんじゃないかって』。俺は、タツとこうして関わったから……友達みたいに、一緒にいたから…………」
驚いたようにタツはひろとを見たまま固まった。ひろとのその言葉の意味をタツは考えて、最終的に『彼女』のことではなく、『自分』のことを聞きたいのだと気が付くと「ん???」と戸惑い始めた。今までタツ自身のことを聞きたがる人に彼は会ったことがなかったからだろうか。
知りたいということは悪いことではない。知識は多ければ多いだけ役に立つ。だからタツは知りたがっていた人には最大限、自分の知識の中から知りたいことを話せるだけ話した。呪術のこと、霊のこと、そして怪異や人の心情その他いろいろなこと。
しかし、自分のことを話したことはなかった。話せば、『彼女』の話になる。人は皆、それを聞くために自分達に声をかける。人間はそういう人間だと分かっている。
あの伸ばされた『手』はそういうゲテモノだ。
だが、目の前にいる青年は違った。家柄でも、『彼女』のことでもない。あの時。弓弦を守るためにタツに頼み込んだ時と同じように今、目の前にある一瞬の縁。この数日、関わった大切な縁であり、友でもある『タツ』のことを知りたいと思っている。
ひろとは真っ直ぐな、タツにとって面影を重ねるには十分な目を向けた。少し身体を強張らせて、自分を見るタツを余所にひろとは顔をしかめた。
「その子のこと。話したくないっていうなら言わなくて良いさ。でも、他人とか。関係ないとか言うなよ。俺とタツが出会ったこれは無駄な縁でもな─────────」
「あ~~~~~~~~~!!!もうやめろやめろ!!!分かったからそれ以上言うな!!儂はその『目』に弱いんじゃあ!!!!」
堪らずタツは両手を自分の顔の前で振り回し、ひろとの話を強制的に止めた。その勢いにひろとは思わず驚いて話を止める。タツは顔を腕で隠し、弱々しく嘆いた。そこには先ほどまであった拒絶と固い壁はなくなって、いつものタツの持つ雰囲気に戻っていた。
ふと、気になる言葉があってひろとは首をかしげた。
「……『目』??」
恨めしげにタツは「そうじゃよ」と顔を隠していた腕の隙間からひろとを見た。
「無自覚なら気にせんで良い…………あ~~~………何故、儂はこういう子と縁が強いのかの~~…………もうそういう業か??」
自身の顔に手を当てて、しょんぼりと項垂れるタツをひろとは不思議そうに首をかしげていた。
しかし、やがて。タツはため息を吐きながら顔を上げ、身体をゆらゆらと揺らしながら不貞腐れるように話し始めた。
「儂が『あの子』のことを話したがらんのは、あの子には『こちら側の道』に入って欲しくないからなんじゃよ………」
「こちら側の道って言うと…………退魔の?」
克典が問うとあぁ、とタツはうなずいた。ふっ、と静かな表情を見せタツは視線を横に向ける。どこか遠く、ここではない『彼女』の面影を見つめていた。
すぐに浮かぶのは、あの月の下──────
「…………お嬢の家は名家での。こういう界隈ではそれなりに名の知れておる。とはいえ彼女は、というか『儂ら』はその家と……まぁ、半分くらい縁を切っておる、切りたい状態でな。お嬢に関してはこの道に対しての知識もあまりない………出来ればこのまま。彼女にはこの道に関わらず、平穏で暮らして欲しいんじゃよ…………ここで儂が彼女の名前を出せば、こういう輩はコロッとその縁にすがり付こうとして、嫌でも彼女を表舞台に立たせようとする。ただでさえ、儂はこの一人旅でクロ坊に怒られること確定しておるのにさらに怒られたくないっ!あやつの拳骨、結構痛いんじゃぞ!?知らんだろうけど!!」
克典、というか退魔師全体に向けるようにタツは嫌そうに少し口をへの字にして手を振った。しかし、後半はタツの個人的な愚痴になった気がしてどう反応したら良いか分からず、「お、おぅ……」とひろとと克典は戸惑いつつも、そう答えた。ため息を吐き、タツは膝に頬杖をつく。
「『名』というのは縁の糸よりも固く呪いのように纏わりつく……鎖のようなものじゃ。そして、時に木の根のように、そして水の流れのようにその名は一度聞けば広く、そして早く広がる。何度も言うが儂らは彼女がそれに囚われていて欲しくない……………弓弦嬢も同じようにな。」
「だから……弓弦に気にかけていたのか……」
ひろとのその言葉に「まぁ……それもあるがの……」とタツは静かにそう答えた。その顔にはまだ、何か理由がありそうだったがこれ以上、タツは『彼女』のことを教えてくれないだろうと思った。これ以上、踏み込むこともタツ自身避けたがっているようにも見える。
しばらくタツのその顔を見てから、ひろとは「ねぇ、タツ」とまた口を開いた。
「この事件が終わったらさ。タツのこと教えてよ。その子の話も知らない俺だけなら良いんじゃないか?」
タツがどういう人物なのか。どういう人と関わり、そして思ってきたのか。ひろとは純粋に気になった。弥平や克典と関わって、多くの人間と関わってきて今さらのように気がついた。結局、人との縁は例え細く脆いものだとしても必ずどこかで繋がっていて、そして時に交わっているのだろう。何かがある時、その縁は強く、固いものになる。
だからこそ、その縁が続くようにと願う『祈り』とその縁を怒り、悲しんだことで憎んだ『呪い』が生まれる。
どんな人よりも深く関わってきた『その子』のことを話したくないから、自分のことを話さないというなら全てが終わった後に話を聞こう。ひろとは微笑んだ。
「この事件が終わって、タツと俺が本当にただの『知り合い』になったら、話してくれよ。」
タツはひろとの顔を見て、わずかに目を見開いた。やがて、観念するように両手を小さく上げて、困ったように微苦笑を浮かべる。
「分かった、約束じゃ。解決して……儂がこの村と本当に『他人』となったら、童には話そう。」
やはり、こういう人間には負ける。
そう思ったがタツは口に出すことは出来なかった。言わない代わりに「であれば!」と彼は背筋を伸ばして、切り替えるように笑った。
「であれば、早く事件を終わらせねばの~!童も弓弦嬢をこれ以上不安にさせたくないじゃろうし。」
うん、とひろとが意気込んだタイミングで、ふと。克典が「話して良いか?」と手を上げた。二人の視線は先ほどまで空気を読んで黙っていた克典に向けられた。
克典は真剣な顔でタツと向き合ってから、まず始めに、と頭を下げた。
「今までの無礼講は『家』を代表して俺がお詫びする………それをふまえて、この事件。俺達も協力させて欲しい。礼、対価はいくらでも払うつもりだ。」
「儂らは『対価』を求めんよ。」とタツは答えた。そこには怒りも克典達の心の内を疑うような素振りはなかった。
「ただ、童がこうして結んだ縁、独りでなく皆で進もうとするその意志に儂は『応える』だけじゃからの。」
「………………あ、じゃ、ちょっと教えて欲しいんだけど、いつあの呪物の存在に気がついたんだ?」
タツのその返答に少し呆気に取られつつも、克典は慌てて本題に切り出した。ここの道中、ひろと達が疑問に思っていたことだ。あぁ、あれか。とタツは微笑むと、自分の手を見せながら話し始めた。
「儂の使う妖術は、陰陽五行。それの万物の源となる五つの性質、『木火土金水』に似たのを使うものでな。自然の力を借りることが多い。そういうのもあって自然の『気』の流れに気が付きやすいんじゃよ。」
「風水って奴か。」
陰陽五行。世界が『陰』と『陽』の二つの対立する属性があり、その名前の通り『木、火、土、金、水』という五つの性質の関わりで成立しているという古くからの考えだという。そして、その五つの性質は全てが循環し、段階によって変化するエネルギ―なのだという。呪術、怪異と隣り合わせにあった平安時代で術や暦占はこの考えに基づいていた。それと似たようなものをタツは使えるのだという。他にもタツ曰く、『地水火風空』という五大という五つの元素も使えるとも言っていたが、その頃にはひろとの頭はパンク寸前だった。
「人の作り出す気は自然のものと比べると粗い。昨日、童と一緒に神社に行った時、その作られた呪の『気』を感じ取っての~……地の流れを読み取って、場所を特定したって所じゃ。上手く行けば、呪いを封印して、呪が害のないくらいに自然に還ってから呪詛を送った相手を調べようと思ったんじゃが……まぁ、上手くは行かなかったな~……」
からからと軽い調子で笑うタツに克典は「悪かったな」とわずかに顔をしかめた。タツのその考えも虚しく、蛇草家の人が誤って取り出してしまい、そのせいで呪いが発動。人が一人また死んでしまった。
責めているわけじゃない、と伝えるようにタツは「気にせんでいい」と手を振る。
「それに、このまま後手に回り続けるつもりもない。」
その言葉に克典とひろとは驚いたように目を丸くした。
「え……どういうこと?」
恐る恐るひろとがそう聞くと、タツは人差し指を立てて微苦笑を浮かべた。
「犯人として儂が捕まっていて、何なら『処理』されかけている。おそらく今、犯人にとって今のこの状況が一番の『好都合』。おそらくまた、混乱と油断してる今を使って攻めてくるじゃろう……あやつの本当の狙いは蛇草家ではなく、水雲家のようじゃからな。」
ざわり、とひろとの胸の中に嫌な予感が滲み出る。驚いた様子から二人は再び、表情を引き締めた。
タツは真剣な眼差しに戻し、自分の顎に手を当てる。
「一件目から犯人の本命は水雲家の人間だったんじゃろう。しかし、最初。神社内で術を使おうとしたら、気を感じ取れる靖二郎に感付かれてしまった。彼が殺された理由はそれがあり得る。でなければ、二件目の孝介殿が殺された時にあんな分かりやすく、安直な術をかけたりはせん。本当なら一番最初に孝介殿を殺すつもりじゃったはずじゃ。」
「兄貴が殺されたのは、ただ巻き込まれただけってことか………」
術に感付かれてしまい、犯人は急遽、組んだ術を使って口封じのために靖二郎を殺した。その事実に忌々しげに克典は膝の上に置いていた拳を握り締める。タツも克典の苦しげな表情からその内面を感じ取って「そうじゃな」と静かにうなずいた。
「水雲家が狙われてるってことは、弓弦も狙われるってこと?」
「いや、犯人は弓弦嬢を狙うことはない。」
ひろとのその問いにタツは表情を変えることなくそう答え、手を合わせて考え込む姿勢になった。彼女が家の者から水雲家でないと言われているにしても、水雲家の彼女を『狙わない』と即答するタツに克典とひろとは訝しげに顔をしかめた。
「なぜ、そう言える?」
「……さぁ~?そこは分からん。」
少し視線をそらして、タツはそう軽く答えた。その反応にひろとはわずかに顔をしかめた。この数日、一緒に接してきて分かったタツの『知らなくていい』と自分達の身を案じる無意識の反応を見せたからだ。
何か、まだ。事件のことで話したくないことがあるのだろうか……
「しかし、彼女に関係しているのは確かじゃ。そこが犯人の『どうしてやったか』に繋がる。じゃから!──────ここで犯人を捕まえる。」
顔を上げ、タツは人差し指を立てた。
「え……捕まえるって……どうやって??」
戸惑うひろとのその反応が嬉しいのか、彼はにこりと笑みを見せた。
「実は、この部屋に来る前に屋敷のいくつかに探知用の結界を張っておいたんじゃよ~」
「「は???!」」
一番初めに驚いたのは克典だった。それもそうだろう。水雲神社の違和感に気が付けた靖二郎のように何年も暮らしていた慣れ親しんだ空気に違う『気』が紛れ込んでいれば、大抵の術者は気が付ける。しかし、屋敷内を歩いている時にそう言った違和感のある場所は感じ取れなかった。この屋敷を歩いている時、屋敷の空気はいつもと変わらず、『全く異変に気が付かなった』。
(このおっさんの術式が、空間に馴染むのが速いってことだ……でもいつの間に……?!いくら他の奴らの腕が低かろうが、術をかけようとする素振りがあればわずかな動きと妖力で気が付くはず……)
驚いて言葉が出てこないでいる克典にタツは心底嬉しそうな、誇らしげな顔を見せて立てていた人差し指を自分の顔に近づけた。
「そりゃあ、儂は『最優』じゃし!!あと、儂の分身を使って屋敷内を見てみたら、数刻前に水雲家が客間に向かうのを確認した。なぜ、彼女らがここに来たのかは分からんが、異常な警戒態勢なのはそういうことじゃろう?敵もそれが分かっているなら、可能性は十分にありうる。」
「弥平さんは、八重さん達に聞きたいことがあるって言ってた。だから、タツへの話は俺達に任せたんだ。」
ひろとのその言葉に、タツは「なるほどな」と弥平の真面目な顔を思い出しながらうなずいた。
『正面切って確かめる』気か……
「タツ?」とひろとは首をかしげた。タツはフッと笑って、再び手を合わせて虚空、そこにあるはずのない盤上。そこに並べられた駒を見つめる。
盤上の上に並んだ駒は自陣のしか分からない。相手がどう攻めてくるかは分からない。しかし、だからどうしたとタツは考える。荒い術式でありながら人の混乱を使い、上手い具合に姿をくらませる。あの時、孝介を大衆の目の前で殺したのは分かりやすく言うなら『捕まえられるものなら捕まえてみろ』という相手からの正式な宣戦布告。布告した相手は蛇草家ではないだろう。影で何かと術を邪魔し、そして探ってくる『タツへの布告だ』。
「敵が外から呪詛を送り込んでくるなら、屋敷内に張り巡らされた探知用結界が反応して儂に連絡が行く。何より、周囲には儂の分身体もおるから何かあっても『一回だけ』なら敵に攻撃を入れられて、被害は抑えられるはずじゃ……とはいえ、過信も出来ないがの。」
「一回だけ……あ、あの時。俺を助けてくれた奴?」
タツの微笑みに気付かなかったひろとが、ふと。怪異に襲われた時のことを思い出しそう答えた。怪異に襲われた時、小さな龍が強い光と共にひろとを守った。あれがなければ、克典は術を構えることなく、ひろとは殺されていただろう。最悪、取り憑かれていた可能性だってある。パッと、表情を元に戻し、タツはうなずいた。
「そうそう!攻撃力は低いが、下級程度ならあの光で払い除けることは出来るんじゃ。しかし、事前にこうして準備しても、付け焼き刃。やはり儂自身が対峙しない限りは、被害は増え続ける一方じゃろう………………儂の『意味』としてもいつまでもそのままにはしておく訳なかろう。」
目を細め、そう答えるタツの雰囲気に二人は無意識に寒気を感じた。来る戦に向けた目だったのだが、その瞳の裏。そこに映る空気は何かが違った。
何なのかは分からないが、とにかく異質で。その瞳を見てタツが『人ではない』と気づくには十分なものだった。
静かにタツは笑う。
彼は売られた喧嘩は買う主義だった。
「さぁ、どう攻めてくる。」
昔、この村は『こちら』側との深く関わりがあった術者達が暮らしていた場所だという。その術師としての才能がなく、諦めた者は村の下の方へ降り、商業を営み始めた。一方、血に恵まれた者は『術者』として神聖な山の近くでその力をさらに高めていった。
いくら、術者として諦めたとはいえ。元々は皆同じ。だから、家に仕舞われていたかつての文献を読めばそういう村の隠れた歴史を知ることが出来、術に関する記述もある。
準備は万全だった。そのために数年前から術式について知らべ、ものに出来るようにしてきた。後、出来ることは一つだけだ。
屋敷の裏手にある山からそれを見下ろし、『無駄だ』と一人呟く。
もう、計画は最終段階に入っていて、後は術を発動させるだけ。そうすれば、全て。生きている全て『薙ぎ払われる』。
もう勝負の土台につくこともない。
お前の負けは、最初から決まっていたのだ。
蛇草家の客間には八重と桜子がいた。数時間前に弥平に『事件のことでお伝えしたいことがある』と言われて呼び出されたのだ。やはり、犯人だと思われているタツが捕まり祓われるという事実に安心しているのかここ数日と比べると桜子の顔色は幾分か良くなっていた。
「……それで?なぜ、ここに私達を呼び出したのかしら。」
八重が部屋にやって来た弥平に向かって鋭い口調で問うた。気が緩んでいる桜子とは違い、警戒心を持った瞳は、まるで刃か針のようだと弥平は感じつつも弥平は表情を変えることなく、席につく。
「事件のことでしょう。犯人は捕まり、私達に害はなくなったはず。」
「まるで、自分達が恨みを買う心当たりがあるようだな。」
弥平の静かな言葉に八重の目が細まった。その言葉で、弥平がただの『報告』で自分達を集めたのではないのだと察したようだった。
事態が何かおかしいことに気が付いたのか、桜子の顔が曇っていく。
「ちょっと……蛇草さん。何を言って……」
「先ほど、あの男が話しまして…………数十年前の『水雲雫殿の事件が関係している』と。」
そう呟くと、八重と桜子の纏う雰囲気が途端に変わった。驚きから怯えへ変わったことを確認すると、弥平は改めて姿勢を正した。
「……話していただけるか。数十年前。彼女の身に何があったのか。」
「犯人は捕まった。そいつに聞けばいい話ではないかしら?」
「聞いてもそれ以外は知らぬ存ぜぬの一点張りだった。奴は傀儡。本命は別にいるということになる。」
表情を変えることなく、弥平がそんな嘘をついて情報を吐き出させようとする。
八重は忌々しげに顔をしかめるだけで、何も言わない。
「確か、彼女は数十年前に崖から落ち亡くなった。それが犯人の『理由』だったとしたら?」
「あの時は、ただの事故になったのよ!!?」
「『事故になった』」
弥平のその言葉に桜子はハッと目を丸くすると、顔を青ざめさせた。視線だけを弥平は桜子に向けて、その顔色を見てからふと、視線を落とした。
「……現在、弓弦殿と楓殿をこの場に呼ばなかったのは、子供の身で聞くにはあまりにも酷な話だと思ったからだ。正直な話、『ただの事故』なら良かったんだが……」
どうやらそうでもないらしい、と弥平は呟いて八重に向ける目付きを強めた。
「あの事故は本当にただの事故だったのか?」
「化け物の甘言に惑わされるとは……蛇草家の能力も地に落ちましたね。」
弥平の目を睨み返すように八重は顔を向けると、低い声でそう答えた。
「甘言に惑わされたのではない。客観的に考えて『別の可能性』を見ているだけだ。なぜ、数十年前の事件について何も話したがらない?なにもやましいことがおありで?」
「あ、あるわけ……」
「桜子は黙ってなさい、」と八重の鋭い声が飛んで、桜子は肩を飛び上がらせた。再び震えだす手を桜子は握り締める。怯える桜子を余所に八重は、怒りをわずかに滲ませながらはっきりと答えた。その姿は、やはり孝介の妻と言われるだけあった。
「あの事故はもう終わったこと。第三者、ましてや赤の他人が詮索する必要もない。」
「何度も言うが、この事件はすでに三人も人が死んでいる。一人は息子の靖二郎。二人は貴方の夫である孝介。三人目は我が使用人だ……呪術おいてどうやったか、犯人が誰なのかなぞ、大した問題ではない。しかし、『どうしてやったか』は最も注視されることだ。彼女のことを知ることで、大元に繋がる『何か』が手に入る。自分の身が可愛いというのであれば、話した方が得ではないのか?」
弥平はそこで言葉を止めると、八重を睨んだ。
「それでもまだ。はぐらかすつもりか。」
弥平の瞳に圧され、八重は顔をしかめる。
脳裏には数十年前。雫が亡くなった日が自然と思い起こされる。あの時、あの場にいたのは八重と桜子だった。
崖から落ちていく瞬間を見ていた。声を上げるよりも前に鈍い音が小さく響いていた。下を覗いた時には全てが手遅れだった。
赤い血が岩を染めていた。
「わ、悪くない……」
ポツリと桜子は呟いた。我に返り、八重は桜子に顔を向ける。顔を青ざめながら「だってそうでしょ!?」と八重を見た。
「私は、私達はただ……おどかそうとって思っただけじゃない!?」
「桜子……!!」
「だって!!アイツが!!!アイツが調子乗っているから……っ!!私にはないものを嬉しそうに言うから!!ちょっとおどかそうと思っただけで!!私達は悪くなんてない!!勝手に落ちたのはアイツの方よ!!!!元々、何も出来なかったくせに!!!それなのに、それなのに……!私が……私が『先』だったのに……!!!!それなのに……っ!!!死んでからもこうして……!!!!私達がなにしたって言うのよッ!!」
自分の頭を抱え、悲痛に叫ぶ桜子の姿に八重は顔をしかめた。もう、彼女に『何も話すな』ということは出来なかった。
こんな姿にさせたかったわけではないのに……
それが非道だと言われても、罵られても八重は耐えることが出来る。最終的に『全てが消えてしまえば』問題はない。過去は術者としての家系ではあったが、年月を経て、その才は失われていった。こうして村で権力を維持していたのは他から手に入れた能力のおかげでしかない。水雲の家は見鬼の能力はない。だから、蛇草家の能力を手に入れようとした。
それは他でもない妹を、守ろうと──────
「どうやら、事情があるようだな。」
手に入れようとしていたその力が、やがて自分や妹の『刃』になるとはいつ想像が出来ただろう。
自分が本当に守ろうとしていたのは何だったのだろうか。妹か、それとも自分の地位か。その本心を考えたくなくて、八重は弥平の変わることない表情を見た。しかし、彼はもう八重を見ておらず、何かを確信した目を向けたまま床を見て「桜子殿、」と怯える彼女に静かに声をかけた。
「いったい何があったのか話して─────────」
しかし、弥平は問いかけることは出来なかった。
問うよりも先に突如、外の方で絶叫が響いたからだ。
弥平が八重達を問い詰めていたその数分前。屋敷内を警備していた一人の男が、視界の隅で何かが動いたのを気がついた。不思議に思い、立ち止まると近くにいた同僚が「どうかしたのか?」と振り返る。
「今……何かいなかったか?」
「猫だろう。ここら辺、野良猫がよく勝手に横断するし。」
弥平からの指示で術者達は屋敷内の警備に当たっていたのだが、目の前の同僚はやる気のなさげだった。いくら呪を使った殺人犯を捕まえるとはいえ、この警備はいささか大袈裟なような気がしているのだ。
一件目も二件目も大抵の術者ならば気がつけるほどの簡単な術式だ。これほど厳重にせずとも素人が作った術ならば何かある前に気がつけるはずだと思っていた。
しかし、同僚のその言葉に男は曖昧は反応をしながら庭に降り立つ。「お~い」と同僚はめんどくさそうに呼びかける。軽くそれを無視して、茂みをかき分けて動いたものの正体を探した。横目に見たそれが、どうしても猫のようには見えなかったからだ。
しばらく庭を見渡していたが、結局見つからず。男は諦めて頭をかきながら戻ってきた。縁側に腰かけていた同僚はため息を吐いた
「だから言ったろ~?猫だってどうせ。」
「えぇ………猫っぽくなかったけどなぁ………」
茂みの方に目を向けながらそう男はぼやいた。
そんな彼らの後ろから忍び寄る影に二人は気がつかない。
「警戒しすぎなんだよ。ド素人がやった術に対してさ~」
「万が一ってことあるだろ~?」
ゆっくりと、影は草をかき分けて行く。音もなく、静かに。
気が付くと、周囲にも同じような影が地を這っていたが、誰一人それに気が付くことがなかった。タツの術式にも反応せず、屋敷内に入り込んでいた。いや、『入り込んだ』は間違いだろう。元々からその影達は『そこにいた』。
その影は空間に溶け込んだ一種の生き物だった。人間でない、自然の中を生きてきた動物は天敵から生き抜くために気配を隠す才能に長けている。それは死した後も同じだ。
感知できる者はごくわずかだ。それが日常的に見ないモノならばなおさら。
「逆に猫じゃなかったらなんなんだよ。」
ふと、そう同僚が尋ねると男は庭の方を少し見ながら、先ほど自分が見たモノの姿を思い出す。
「え?あ~~~……なんか動き的になんだけど……なんか紐みたいな奴でさ~……あのシルエットは猫というより───────────────『蛇』?」
男がポツリと呟いたその時。
肉が潰れる音と共に男の姿が消えた。
「………………………え?」
突如、『何か』に圧し潰され肉塊に変わった知人の姿に思考がついて行けず、同僚だった男は呆けた声を上げた。飛び散った血が数滴、男の頬にかかるが彼は驚きでそれにすら気が付かなかった。
ふと、暗闇の中から何かが引きずられる低い音が聞こえてくる。ゆっくりとそこへ目を向けると灯りのない暗闇から小さな光が見えた。
血のように赤く、刃のように細まった二つの『眼』が男を捉える。
その目に呼応するように暗闇の中から無数の眼が現れ始めた。
「──────あ…………あぁぁァアァァッ!!!!!」
ようやく状況を理解して悲鳴を上げながら男は立ち上がり、逃げようとしたその次の瞬間。
影から飛び出して来た一体の巨大な蛇が、屋敷の通路を噛み砕いた。
階下から聞こえた轟音と響き渡る衝撃に部屋にいたひろととタツ、そして克典は目を丸くした。
「え。な、なんだ??」
地震かな、と思いながらひろとは思わず天井を見る。「……まさかっ、」とタツだけは素早く立ち上がり、窓を開けて外を見た。外からは使用人達の混乱と絶叫が響き渡っていた。異常な空気を感じ取ったのか、克典とひろとは表情を強張らせる。しかし。いったい何があった、とタツに問うことはなかった。何が起きたのかはさすがに一目瞭然だからだ。
風と共に流れ込んだはっきりと感じ取れる『気』にタツは顔をしかめた。
「『すでに術式を屋敷内に仕込んでおったとはな』!!」
暇つぶしとして置いていた将棋盤を飛び越えて、タツは廊下に出て走り始めた。「タツ!!」と慌てて廊下に顔を出し、ひろとは叫ぶ。どこへ行くつもなのか、呪詛が襲い掛かってくる中で、向かう場所は、一つしかない。この場で一番呪の気配が強い方向、本体へと通じる大元だ。そう予想を立ててから走って行ったタツの方向を見て、ひろとと克典はハッと気が付いた。
その方角には、弥平が八重と桜子を呼んだ客間がある。犯人の狙いが『水雲家』であるというタツの言葉が脳裏に浮かび上がり、ほとんど反射的に二人も走り出してタツを追いかけた。
「つっても、今まで呪詛の気配はしなかったぞ!?いったいいつから……っ!!」
慌てて走っていくタツを追いかけた克典は思わずそう叫んだ。
おそらく。タツが探知用の結界を張るよりも前に相手はこの屋敷に術式を組み込み、頃合いを見て発動させたのだろう。タツの組んでいたものは、敵がその結界を越えなければ『来た』と探知することは出来ない。弥平達が事件を調べれば、いつか必ず水雲家から話を聞きに行くと向こうはすでに予想がついていたのだ。しかしいくら蛇草家が落ちぶれてきたと言われているとはいえ、実力は本物。呪詛の気配を気が付けない腕ではない。タツは他者の腕に対する目利きに自信のあると自負していた。
誰も感知出来なかったこの事態にどういうことかと、タツが顔をしかめたその時。
二階の窓から影が差した。
三人の視線が窓に向けられる。
術者ならば、霊力。怪異、妖ならば妖力が高まる満月。その月明かりに照らされた巨大な『蛇』が、三人を睨んでいた。
「え─────────」
「童共!!下がっていろ!!!」
少し後ろを走っていた克典を突き飛ばし、タツは右手を前に出したその直後。何かが崩れるような轟音と衝撃が通路に襲い掛かる。克典に巻き込まれるように突き飛ばされて尻もちをついたひろとは顔を上げた。先ほどとは違い、豹変した光景が広がる。
半壊し、半分以上外になってしまった通路にタツは手を前に出した状態で蛇と対峙していた。その表情は冷静だった。突如、突っこんで来た蛇はタツの少し手前で頭を押し付けるように止まっていた。
いや、正確には『止まらされていた』と答えた方が正しいだろうか。
蛇自身。前に進もうとしながらも、目の前に何か透明な壁が出来ているかのようにそこから先へ行くことが出来ていなかった。
「タツ……!!」
「大丈夫じゃ。これくらいならば儂の『結界』で何とかなる。」
落ち着いた声でそう答え、タツは差し出していた手を後ろに引く。小さく吐き出した息と共に再び前に突き出した時、拡張された空気の壁……『結界』が蛇を外へ弾き出した。奇声を上げながら蛇は大きく身体をうねらせる。
「──────属性は『土』。」
ポツリとタツは呟き、両手を前に出す。そして、再び迫り来る蛇に慌てることなく前に出していた手を握りしめた。
「対抗するは『木』じゃな──────!」
タツが握りしめた手に応えるように、庭に生えていた木々の枝が突如、異様に伸びて蛇の身体を四方から突き刺した。宙に縦に磔にされた蛇は叫び声を上げた。流れるように起きたその出来事がまるで、一種の芸術作品のようにも見えてしまい、ひろとと克典は呆気に取られながら突き刺された蛇を見ていた。一方、見惚れる二人を余所に蛇は叫び声を上げるとぐったりを首を下に倒して灰となっていった。
木火土金水の五行には、順番に生み出されて相乗効果を生む『五行相生』と互いに対立して滅ぼすという『五行相克』というものがある。五行相生は木は燃えることで火を多く生み、火は燃えると土になる。土を彫れば金になり、金属の表面には冷やされた空気が水を生み出す。そしてその水が再び植物や木などを育てるといった円状に巡る『正』の流れだ。逆に五行相克はその反対の流れ。木は土の栄養を吸い、土は水を吸う。水は火を消す。火は金属や鉄を溶かし、鉄で作られた道具で木が切られる。戦闘ゲームでよくある属性相性などならば、分かりやすいだろう。
相生が封印などで使い、場を良い方面に変えるのであれば。相克はタツが攻撃で使う戦闘方法になる。
「少々、手荒ではあったが怪我はなかったか?童共。」
木材の散らばる通路に立ちながら、タツがそう二人に微笑む。慌てて我に返り、ひろとはうなずきながら立ち上がった。
「あ、ありがとう。タツ。」
「動物は生きておる時から気配を消す才に長けておるからの~……おそらくその特性を使ったんじゃろう。」
ふと、タツは顔をしかめて小さく舌打ちをすると屋敷の奥の方に目を向けた。
「どうし──────」
「一人。『間に合わなかったか』。」
思わず克典とひろとは息を飲んだ。それがどういう意味なのか、分からない二人ではない。
そして、タツがその言葉を呟いたその数分前。八重達の部屋でも叫び声と轟音が響き渡っていた。問い正そうと思っていた弥平は異様に変質した『気』の流れを感じ、反射的に立ち上がった。それと同時に屋敷内では悲鳴と絶叫が響き渡る。
「いったい何が──────!?」
「ここから動くな!!おい、何があった!!」
八重達に鋭い声で制してから弥平は廊下に待機させていた数名の術者に声をかけようとした。しかし、部屋の外に出たがそこには誰もいなかった。
いくら緊急事態とはいえ、勝手にいなくなる部下ではない。突如、人が消えた通路に弥平が戸惑ってると「はぐささま……」とかすれた声が聞こえてきた。隣を見てみると、廊下の曲がり角に倒れて、自分に手を伸ばす部下の姿があった。
「な…………」
「た……たすけ──────」
言い終わるよりも前に、曲がり角の先へ部下は引きずられていく。悲鳴が響かせながら姿が消えた部下はやがて、何かが砕ける音と共に血潮に変化した。弥平がそれに目を丸くしていると、背後から忍び寄って来た蛇が彼に襲い掛かった。
振り向き様に弥平は術を展開させる。刀印の指先から放たれた稲妻は、蛇の口内を通して頭蓋を打ち抜いた。突如、現れた怪異に八重と桜子は悲鳴を上げた。素早く部屋の襖の前に札を貼り、簡易的な結界を作った。自身は身を守ることが出来るが、退魔術を持たない水雲家は成す術がない。敵の狙いが水雲家なのは弥平も薄々予想がついていた。
「部屋から出るな!!」
赤黒い泥のような血を吐き散らしながら蛇は床に倒れる。しかし、克典の時のようなことがある。部屋の前には結界を張ったので、ひとまずは外からの呪詛の侵入は防げるはずだ。次に来る第二陣に警戒していると、ふいに背後から悲鳴が聞こえた。
なに、と弥平が振り返るとなんとそこにはいつの間にか小さな蛇が何匹も桜子に噛みついていた。
「なっ……!?」
外から侵入出来ないように結界を張り、そしてそれは正しく作動しているはず。
ふと。弥平は部屋の中に飛び散っていた血に気がついた。蛇の頭を撃ち抜いた時に飛んだものだ。普通ならば怪異の血は、死んだ時に一緒に塵になって消えるはず──────
しゅる、と紐のように血がうねったことに気がついた弥平は、慌ててその血に札を張りつけた。結界が張られる前に部屋に入った血に含まれた呪詛は、焼かれる音と共に消滅する。弥平は同時に桜子の元へ駆けるも、無数の蛇にパニックになった桜子は悲鳴を上げながらベランダの方へ飛び出していた。
「しょうこ───────!!」
「ダメだ!!やめろ!!」
慌てて桜子に手を伸ばす八重を遮り、距離を取る。桜子が外へ出たその時。階下から現れた巨大な蛇が床ごと飲み込んだ。
八重の絶叫と共に蛇は瓦礫を噛み砕いた。その口の間から赤い液体が溢れ、雨のように地に降り注ぐ。顔をしかめて弥平は見ると、術を展開させ、雷の槍を蛇に放った。しかし、放たれた数本の雷槍に気がついた蛇は、素早く身を翻してそれを避ける。
(速い…………っ)
ふと、蛇が避けた拍子にその尾が部屋に向かって叩きつけられようとしていた。あの尾が当たればこの屋敷はほぼ抉り取られ、最悪崩壊したっておかしくはない。今から退いても、尾の範囲から逃れることは難しいだろう。何より、桜子のことがあったせいか。八重は放心したまま一歩も動けなくなっていた。
逃げても間に合わない───────
異様にゆっくりと振り下ろされる尾を弥平が見ていた時。
「失礼!」
突如、弥平の後ろから飛び込んできたタツが両手を広げ、一歩。力強く床を叩いた。それと同時に振り下ろされた尾は『何か』にぶつかり、弾かれた。タツが部屋に入った時に展開されてた結界が屋敷ごと覆ったのだ。尾がぶつかったところの空間は大きく波打つ。その衝撃の大きさにタツは思わず「うおっ!!ギリギリじゃな!?」と目を丸くした。
「タツ──────!?」
「おそらくアレが元凶に近い奴じゃ!!逃がすでないぞ!!!!」
驚く弥平を無視して、タツは両手を合わせて地面に手をつける。周囲の気が揺れ動き、タツの妖力に反応して木々の葉が刃のように蛇に向かって発射された。蛇は悲鳴を上げながら屋敷内を暴れ回った。その度に結界が大きく揺れる。ぶつかる個所にタツは腕を持ち上げて土の壁を作り、結界が簡単に破れないよう補助をするが、その土も蛇の体当たりで簡単に崩れてしまった。
その力の強さはこの屋敷内にいる他の蛇より大きく、妖力も大きく違う。月の影響も相まって、結界の維持に専念しなければ破られる。
(しかしまさか、これほど──────────)
タツが思わず口元を釣り上げた時。
「おっさん!!しゃがめッ!!!!」
背後から聞こえた声にタツは我に返り、反射的にしゃがみ込むと同時に術を展開させた。木々の槍は致命傷とは行かないが、蛇の胴体を貫いた。後ろにいた弥平も声の主の意図が分かったのか、素早く印を結ぶと蛇に壊されることなく、屋敷内に組んでいたまだ生きている術を発動させた。庭に置かれていた灯篭が礎として、四方に陣を描き、暴れようとする蛇の動きを強制的に封じた。
部屋の入り口で弓を構えていた克典は、動かない蛇の眉間に向けて矢を放った。
退魔の効果を乗せた矢は弾かれることも、逸れることもなく克典が狙っていた位置へ吸い込まれるように撃ち込まれた。
撃ち込まれた所から雷が走り、蛇は爆散した。散り散りと灰になっていく。爆散した後も何も起きないことを克典と弥平は確認してから小さく息を吐いた。
「あ~~~……今の奴を捕えれば術者本人に辿り着けたのにの~~~……」
タツだけ少し不満げに口を尖らした。仕方ないだろ、と克典は弓を下ろして顔をしかめた。
「死にかけてたんだぞ。命を守る為に仕方ないだろうが……それよりも他の蛇はどうしたんだ。」
克典の問いにタツは自分の頭の横に指を当てると、「大丈夫じゃ」と微笑んだ。
「他の雑魚は儂の分身体が祓ったようじゃ。とはいえ。被害は甚大なものにはなってしまった……儂には修復機能はないしの~……記鬼坊なら『消せる』が……」
「問題ない。まだ残っている者がいるならば急いで次の二陣に備えるか、怪我人の手当てに向かわせる。」
「良ければ、儂の分身体をいくつか貸そう。応急処置程度なら出来る。」
タツのその言葉に弥平が「なに?」と訝しげに顔をしかめて振り返った。タツは自身の髪の毛を数本抜くと、息を吹きかけた。宙を舞う白髪は一匹の龍に変化する。その龍達は、克典がひろとと共に怪異に襲われた際に身を守ってくれた龍だと気が付いて克典は目を丸くした。
あの龍は、タツの髪の毛から出来たものだったのだ。
「ついこの間。怪我人の手当てをアレにお願いしたことがあるのでな。今ならまだ間に合うはずじゃ。とはいえ、あくまで治癒能力を上げるだけ。一気に完治させてしまうと体力の方を持って行かれて死ぬかもしれんから、止血程度しか出来ん。」
「いや。それだけでも大変助かる……」
去っていく龍の姿を見ながら、弥平は当主の安否を確認してきた部下に医者と怪我人の手当てをするように指示を出して戸惑いながらタツを見た。
「それにしても貴殿はいったい何者なんだ……」
「ただ。こういうやり方に柔軟なだけじゃよ。」
「『最優』なんでな!」とタツはお茶目に笑った。その姿に呆気に取られながらも弥平は、「感謝する」と礼を呟いて怪我人の治療と被害状況の確認のために屋敷の方へ向かって行った。それを見送ってからふと、タツは周囲を見回した。
「あれ??童はどうしたんじゃ??」
そういえば、克典と共にいたはずのひろとの姿がない。屋敷の中の気配を探るもそれらしい気配も感じ取れなった。それに気が付いたタツは弓を片付けている克典に目を向けた。
「あぁ……あいつは弓弦の奴を見に行った。『嫌な予感がするから』って。」
「なに?」とタツは顔をしかめる。
「『嫌な予感がする』と言っておったのか?」
「あ?あぁ……って言っても、弓弦はこの屋敷にはいないって伝えて──────」
「本当にそう言っておったんじゃな??童が本当にそう言った??」
真剣な顔で詰め寄るタツに克典はどうしたんだ、と言うように思わず顔をしかめる。そして、ふと思い出した。
ひろとは昔から『嫌な予感』に敏感だった。小さい頃、公園とかで木登りしてると「そこ嫌な感じするからやめた方が良い」と彼が忠告してきたことがある。その時は特に聞くことなく木登りをしたのだが、その忠告のすぐ後。手についた木の枝が突如折れて、落下したことがあったのを克典は思い出した。
「童は『第六感』が他よりも鋭い。むしろその才のおかげで霊も視えるようになった可能性だってある。名状しがたい感覚。未来視……いや、この場合危機察知能力じゃろう。あやつが『嫌な予感がする』と言ったらそれは間違いがない。」
ひろとは自身の身に起こることには鈍感だ。しかし、人に起こることにはまず『間違えることなく当たる』。
この屋敷ではなく、『弓弦の身で嫌なものを感じた』。
それが何を意味するのか。
「まさか…………ッ!?」
ハッと目を丸くして、克典が気が付くよりも先にタツは外へ飛び出した。半壊したベランダから落ちないように器用に屋敷の屋根に飛び乗ると、屋敷の周辺の家々を見回した。
「克典殿!弓弦嬢の家はどっちにある!!」
「屋敷から一時の方向にあるはずだ!!でも、敵はもう倒してあるし……弓弦の奴は狙わないんじゃないのか!?」
「いや、この屋敷には『楓嬢もいない』!!!!」
タツの鋭い声に克典は我に返る。
犯人は水雲家に強い憎悪がある。しかし、それは弓弦嬢にだけはない。だから彼女にだけは危害を加えるつもりはないのだ。それは、言い換えるならば『弓弦以外はどうなったって構わない』と言うことになる。
殺す対象には弓弦の妹、水雲楓も入っている─────────!!
慌てて克典も屋敷の屋根によじ登った。一時の方向は住宅が密集しており、豪邸とはいえ、どれが水雲の家なのか分からない。
「儂はクロ坊みたいに遠くまで見えないんじゃよな~~!!夜目もそんなに効かんし!!せめて、呪の気配が視えれば……!!!」
次は手遅れにさせてなるものか、と顔をしかめて、家々を見るタツを見て克典は目を細めた。
『視る』ことに意識を集中させ、他はシャッドダウンさせる。月明かりも、家々の灯りも全て見えなくなる。この状態にすることは今までなかった。長く使い過ぎると目が疲れて酔うような感覚になってしまうのだ。小さい頃はよくこの状態になって、まともに動けなかったことがある。そうならないように術で細工したサングラスをつけているのだが躊躇っている暇はなかった。
他の景色は色褪せて白黒のようになり、視えるのは異形の気配だけになる。
ふと、一角の家に赤黒い線が走ったのが『視えた』
「いたぞ!!!!小さいけど、『視つけた』!!!!」
「『呪の色』は!?」
呪の気配が色で見えることを知っていることに克典は一瞬だけ驚いたが、彼が『気』を感じ取る時もこうして見ているのだと気が付く。
「赤だ!!」
「先ほどの元凶の一部か……!爆散の時にどさくさに紛れて逃げたか。さすがの眼じゃな!!」
タツはそう叫ぶと、克典の肩に手を置き「その場所を見ていろ!」と叫ぶと空いていた手で刀印を作った。
いったいなにを、と問うよりも先にぐらり、と視界が回り、風と共に景色が横に薙ぐように変化していった。
ぱきり、と不快な音が聞こえて、夕飯の準備をしようとしていた弓弦は「え、」と目を丸くして振り返った。見てみるとかつて、ひろとから貰った不格好な彫刻にヒビが入っていた。
「あ……やだ。どうしよう…………」
慌てて彫刻を持ち上げ、弓弦は眉をひそめる。それと同時にふと、心の中に靄のように不安が漂ってきた。思わず窓の外の月を見上げる。雲もない晴れた夜空には満月が光り輝いていた。
母達は数時間前に蛇草家に向かって以降。帰って来ていない。
(……ひろと……)
ポツリと、知人の名を呼んでヒビの入った彫刻を握りしめたその時。玄関のインターフォンが突如鳴り出し、弓弦は肩を飛び上がらせた。
どうしたんだろう、と思わず警戒すると訪問者も慌てているのか。インターフォンは何度も押されて鳴り止むことがなかった。とりあえず玄関へ向かうとドアの向こうから「弓弦!!弓弦いるか!?」と聞き慣れた声が聞こえて弓弦は慌ててドアに駆け寄った。
開けると飛び込んできたのはひろとだった。
「あ、あれ??ひろと?どうしたの??」
彼がこの家を訪れることはなかった。来たのは今日が初めてなのではないだろうか、と弓弦が思っているのを余所にひろとは息を切らしながら叫んだ。
「楓は!?楓は今何してる!?」
「え、楓は今部屋で─────────」
勉強しているはず……弓弦が楓がいる部屋に顔を向けたその時。二階から何か物が倒れるような大きな物音と、悲鳴が聞こえてきた。楓の悲鳴だと二人が気が付いた瞬間にひろとが走り出していた。二階へ駆け上がると、廊下の奥。吹き飛んだ襖の上に倒れていた楓が目に入った。
「かえでっ!!!!」
ひろとの後を追いかけてきた弓弦が、倒れた妹の姿に悲鳴を上げる。慌てて駆け寄ろうとした時、部屋の中から身長以上はありそうな蛇が顔を出して来た。倒れる楓に牙を見せ、噛みつこうとするよりも前に。反射的に走っていたひろとは手にしていた、弓弦の家の玄関に置いていた傘で蛇の胴体を突いた。
鉄製の傘の先端が胴体を突き、蛇はその痛みで声を上げる。大きさに差があるので、完全に距離を取らせることは出来ないが、一瞬の隙をついてひろとは楓を抱えて走り出した。「逃げろ!!」と弓弦に叫ぶも、弓弦はひろとと妹が心配でなかなか動くことが出来なかった。
ふと、態勢を立て直した蛇の瞳がひろとに向いた。そこに宿った殺気に弓弦は「ひろと!!」と叫んだ。ハッと気が付いた時には、蛇が自分に向かって襲い掛かっていた。
「っ─────────!!」
反射的にひろとが楓を庇うように屈んだその時。突如、蛇の横から光の線が伸び、蛇の首と胴体を捕えて部屋の中に引き寄せられた。
遠退いた気配にえ、と呟くよりも前に部屋の中に転移していたタツが、自身の指先から出した光の縄を掴むと思い切り怪異を引き寄せ、蛇の顎に向かって掌底突きを繰り出した。手加減されることなく打ち込まれた突きに一度、引き寄せられた蛇は、ひろとの頭上を通り過ぎ、再び庭に向かって窓ガラスと壁と共に大きく吹き飛んだ。
「……あ、しまった。力を出し過ぎてしまった……」
ふと我に返ってタツはあっけらかんと呟いた。
「──────え!?!?こっわ!!!?」
蛇は動けずに痙攣していた。唖然とその光景を見たひろとはようやく状況を理解してギョッと目を丸くするとそう叫ぶ。見てみるとタツの傍らにいた克典が具合の悪そうな顔をしながらもひろとに駆け寄って来た。
「おい、楓の怪我は!!」
慌ててひろとは自分が抱えた楓に目を向ける。弓弦も慌てて楓の名前を呼びながら駆け寄って来た。先ほどの衝撃音のせいだろうか。楓は顔をしかめると小さく呻いた。目立った傷はない。
「怪我はないよ。大丈夫だ。気を失っているだけ……」
弓弦は大きく息を吐いて、震える手で楓の手を握った。術で蛇を捕えていたタツは、ようやくひろと達の元へ駆け寄ってくると、手をかざして怪我等々の状況を確認した。しかし、ひろとの言う通り。怪我がないことを感じて不思議に思いながらも安堵の息を吐いた。
「楓嬢に怪我はないようじゃな。良かった……」
「タツの分身体のおかげだろ?」
思わずひろとがそう問うと、タツは「いや、」と不甲斐なさそうに首を横に振った。
「情けないことじゃが油断しておってな……彼女に分身体をつけるのを忘れておった……怪我がなかったのは本当に運が良かった……」
すまんな、とタツは楓の頭を軽く二回、叩いた。しかし、とタツは無傷な楓に目を向ける。運が良く攻撃が直撃しても怪我をしていなかったとはいえ。かすり傷くらいはつくはずだ。それなのに、全くの無傷なのは不自然だった。
(何かが結界のように守ったのか……?よくよく見れば何か『気』が──────)
誰も気が付かないような微小な『気』の気配にタツが訝しげに目を細めた時。ふと、隣にいた克典が突如倒れてしまった。「克典!?」と慌ててひろとは克典の身体をゆするも気を失っているのか、小さく呻くだけで反応はない。我に返ったタツは克典に手を当てた。手からぼんやりとした白い光が、克典の身体を照らすと、蒼白だった彼の顔が落ち着いて来た。妖術で応急処置をしたのだ。
「大丈夫じゃ。おそらく、先ほど『眼』の力を最大限に使ったからじゃろう。おまけに転移もしたから……しばらくは動けんはずじゃ。さて…………」
タツは庭に倒れて暴れる蛇を見下ろし、小さく息を吐いた。蛇は逃げようともがいているが、檻のように周囲を取り囲んだ透明な壁にぶつかって出られないでいる。
楓と克典を一度、弓弦に任せたひろとはタツの元へ駆け寄るとおそるおそる声をかけた。
「捕まえたは良いけど、この後どうするんだ?」
「この呪を送り込んだ奴を特定するんじゃが…………童。」
ふと、タツはひろとに顔を向けた。ひろとが見ていた横顔は前髪で隠れて見えなかったが、顔を向けた際に見た彼の真剣なその眼差しにひろとは思わず身体を強張らせた。
「ここから先は関わらない方が幸せなのかもしれんぞ?それでも行くか?」
彼の中にある覚悟へもう一度、タツは問いかける。きっと、ここで『行かない』と選択しても彼は呆れも怒りもしないだろう。むしろ、そっちの方が良いと笑うだろう。言ってしまえばその選択を逆に望んでいるはずだ。
自分の身を『守る』には、時には見て見ぬふりも大切なのだろう。
しかし、だからといってひろとは退けなかった。
「───────あぁ、行く!!」
表情を引き締めてひろとはうなずく。彼がそう答えることを分かっていたのか。タツはフッと微笑を浮かべると、「分かった」とうなずいて蛇と向き直った。空間を撫でるような優しい手つきで指先を持ち上げると、暴れていた蛇は何かに固定されるように動きを止めた。
「では、術者の顔を拝むとするか!!」
笑みを見せ、タツは持ち上げた手を勢いよく叩いた。途端に周囲の壁から稲妻が走り、蛇が悲鳴を上げながら霧散する。しかし、塵となったそれは消えることなく塊のようになって風と共に宙を流れて行った。どこかに向かっているようにも見え、ひろとが驚いているとタツは「行くぞ、」とその靄を追いかけた。ひろとと慌ててタツの後を追いかける。ふと、現実で想像出来なかった出来事に驚いて動けないでいる弓弦に目を向けて叫んだ。
「弓弦、今すぐ蛇草さんに連絡してそこに避難しとけ!!あそこなら安全だから!!」
「え、で……でも、ひろとは……!?」
「俺はタツといるから大丈夫だから!!」
そう言い放ち、弓弦が呼び止める声を聞くことなくひろとはタツの後を追いかけた。消えていった彼の背を見ながら弓弦は手に持ったままだった欠けた彫刻を握りしめた。
自分達に向けられた呪詛を送り主に返すという呪詛返しというものがある。これは呪から回避する方法の一つでもあり、術者を特定出来る方法でもあった。その術をしたタツはひろとと共に蛇草邸の裏山を走っていた。時刻はすでに午後七時を過ぎており、周囲の家々は家に灯りを灯らせ、ごく普通の日常を送り続けている。しかし、観光地にもなっている温泉街は未だに飲み屋を梯子する観光客や夜の水雲神社を見ようと賑わっていた。それを見ると、蛇草邸が神社から、ましてや温泉街から離れて良かったと思う。
祭り会場の方向からは微かに聞こえる祭囃子の音を聞きながら、そんなことを思っていたひろとは参道から少し離れた道を見た。昼間に克典とやって来たハイキングコースのもう一つの入り口だった。
「呪はこの先に行った……で良いのか?タツ。」
ひろとは荒い息でよろよろと階段を上ってくるタツに、そう問うた。一番に走り出したのはタツであるのに、本人が運動が苦手なせいでなんとも情けない感じがした。
「そう、じゃの………それより、少し休みたいんじゃが……」
「んなこと言ってられないよ!!ほら、行くぞ!」
唸るタツを叱咤しながら、ひろとがハイキングコースに足を踏み入れた時。
遠くの方で絶叫が聞こえてきた。
「え…………」
「呪が主の元に返ったんじゃ。」
ひろとの肩に手を置いて姿勢を正したタツは、表情を引き締めると声のした方向に向かって行った。もう走ることがないのは、術者本人が近くにいて、逃げることはしないということが分かっているからだろうか。
ひろとは思わず周囲に目を向ける。絶叫は、祭囃子と人々の声によってかき消されて聞こえていなかったようだった。
街灯はなく、月明かりのみで二人は下っていく。歩きながらひろとの心の中には嫌な予感が漂っていた。それに身体も反応しているのか、心臓が速く脈打っている気がして自然と呼吸を整えている。本当にタツの言う通り『知ってはならない』ことに自分は踏み込もうとしているんだ、と感じた。しかし、タツはもうそんなひろとには目を向けなかった。ひろと自体も足を止めることなくタツを追いかける。
ふと、遠くの方。克典と共に来た杉の木の下で誰かが呻いていることに気が付いた。自身の腕を押さえ、地面に膝をついている。その姿を見下ろしながらタツは落ち着いた声色で話しかけた。
「焼けるような痛みがあるじゃろう。それが、おぬしの腹の中に溜まっておった『怒り』と『殺意』じゃよ。」
術者はタツを睨みつける。上げた顔が木々の隙間から漏れ出た月明かりに照らされ、それを見たひろとは「え、」と目を丸くした。
どうして彼がこんなことをしたのか、という混乱と、そこから導き出される『答え』に気が付いていながら現実拒否をする寒気を感じた。
絶句するひろとを余所に、すでに気が付いていたのか。タツは特に驚くことなく顎を引いて、術者の視線を受け止めた。
「ようやく見つけたの…………木島晴哉殿。」
よろめきながら立ち上がった晴哉は「『ようやく見つけた』?」と鼻で笑った。その顔にはいつもひろとやタツなど、多くの人が見ていた優しげな顔立ちはなかった。
「それにしちゃあ、俺が犯人だって分かってたような顔してんな……?」
「木島のおっちゃん?ど、どうして……」
掠れた声でひろとは、晴哉に問いかけるが彼は何も答えない。視線はタツに向けたままで、ひろとは自分はここにいないのではないか、と思わず錯覚しそうになる。普段の彼は、水雲家とも友好的で、楓や弓弦にはいつも優しく声をかけていた。そんな彼が、三人も。ましてや、優しく接していた楓も殺そうとしたとは信じられなかった。晴哉の視線を受け止めたタツは、「まぁな」と静かに答えて腕を入れていない着物の袖を揺らしながら、晴哉の元へ歩み寄った。
杉の木に寄りかかり、晴哉はポツリと問うた。
「……いつから気が付いていた。」
「最初から。」
タツはポツリと答えた。
「最初から気が付いておったよ。おぬしの腹の内側にある黒いモノにはな。とはいえ、そういうのを視るのはざらであったし、特に気にはしとらんかった……しかしな~おぬし。『慣れ過ぎなんじゃよ』。儂らの視ておる世界にな。」
怪異、妖術、霊術の世界は本来。秘匿されるべき裏の世界。理解すら難しい神秘の領域だ。初めてその領域を見た者はひろとと同じように必ず驚くことは常だった。しかし、晴哉の前でその界隈の話をした時、彼は話したタツが驚くほど平然としていた。戸惑う感情の波も、何も見せることはなかった。
唯一タツが見えた波は晴哉の心の中、水雲家の話をした時にその奥底にとぐろを巻いた『憎悪』がうごめいただけだったのだ。
「おぬし、この界隈に多少心得があったんじゃな。いつ、術を学んだ?」
「この村は大昔、そういう術者が一斉に集っていた場所だ……」
額に汗を浮かび上がらせ、息も絶え絶えに晴哉は答えた。
「才能がない奴は村の下に下りて行ったが、それでもあきらめ切れねぇ奴は下った後も鍛錬してたんだろうよ。家の蔵から見つかった書物から見つけたものだ……」
「そういう術ばかりを集めていたということはおぬしの先祖もさぞ『アレ』な性格であったようじゃな。」
「余所者が知ったような口を……」
「確かに儂はこの村とは全く関係ない赤の他人。しかし、いくら儂とて。おぬしがなぜ、水雲家を襲ったのかは分かるよ。」
怒りの目を向ける晴哉に冷めた目を向けたままタツはそう言い放った。ひろとはタツの背を見る。そうだ、どうして彼が八重達を襲ったのか。
術者にとって、どうやったかは重要じゃない。しかし、どうしてやったのかは明白で、そしてそこには何の複雑なものもない単純なものだ。呪の仕組みが『人の情念』であるのならば、彼が水雲家を襲った理由はただ一つ。
「弓弦嬢の実の母、水雲雫殿を殺した水雲家への復讐じゃろう?おぬしが愛した……たった一人の女が。八重殿と桜子殿に殺されたことがお主は許せなかったんじゃないのかの。」
タツの言葉が一瞬だけ理解が出来ず「え、」とひろとは目を丸くする。晴哉は顔をしかめた。否定もせず、肯定もしなかった。しかし、何も話さないということはそれがどういう意味なのかを分かっているのと同時に、わざわざ言う必要もないことだと思っているということだ。
弓弦の母を愛していた?晴哉が??
本当は頭の中では分かっていたはずなのに、混乱と戸惑いで上手く思考がまとまらなかった。無意識にその事実から目を伏せたくなる。
「雫殿は『誰かか分からぬ者と関係を持った』…………その『誰か』は、おぬしであったんじゃろう?木島殿。」
「…………え、じゃ、じゃあ。待てよタツ!それじゃあ、まさかっ──────!!」
堪らず話を遮り、ひろとはタツの顔を晴哉の顔を交互に見た。ひろとが気が付いた真実にタツは小さくうなずいたのを見て、ひろとは思わずよろめいた。
「な……なんで……」
何も言うことが出来ず、しかし。晴哉にそう問うことをひろとは止められなかった。
晴哉は少し地面を俯かせてから、やがて笑い始めた。溜まっていた何かが吐き出されるように、栓が外れて晴哉はしばらく笑い続けてから、「あぁ、そうだよ」と静かに呟く。再び顔を上げると泣きそうに顔を歪めてタツを見た。
「愛してた。俺は。俺達は………………でも、彼女は俺が向けられる村の目を気にして、『罵倒されるのは自分だけで良い』って言って。家には俺とのことを言わなかった。その時から連絡は簡単に取れなくなったけど、それでも繋がっているって。彼女は言ってたんだ…………それなのに、ある日。崖に落ちたって……」
彼女の死体が未だ残った現場を見た時。思わず吐きそうになった。心の奥底から泣き叫び、名前を呼びたいと思った衝動に駆られた。
あの一帯には最初から蛇の目撃情報はなかった。家の一部には『自殺したんじゃないか』と変な憶測を言う奴もいた。幼い子供を抱えて生活をし続けることに疲れたんだろう、と確信もないくせに無責任に言う奴らの言葉を聞いて、殴りたい衝動にも駆られた。今思えば、あの時から晴哉の中にあった『怒り』は形を作り始めていたのかもしれない。
晴哉は知っていた。彼女がどれほど強いのか。二人で抱え込むことも出来た。それでも、一人で抱えると決めた彼女の強さを知っていた。だから、そんな。自殺をするような奴じゃないと、証明したくて、自分が納得したくて。
「蔵にあった書物には、その場に起きたことを断片的だが土地の記憶を視ることが出来るのがあった。」
「それで視たんじゃな。」
「あぁ……アイツらが、雫を殺した瞬間をな。」
会話までは分からなかった。しかし、視えたその場の記憶は間違いがなかった。
怒号を雫に吐き捨てる桜子の姿。怒りがヒートアップしたのか、彼女は雫を押し飛ばした。
押された反動で、雫はバランスを崩した。八重が慌てて声をかけるのが目に見える。
晴哉は思わず、崖下へ引っ張られていく彼女に手を伸ばした。
しかし記憶の彼女の手は晴哉の手をすり抜け、崖下へ落ちて行った。
その後、水雲家は自分達の家柄を守るためだけにその事件を『事故』として隠した。かつてはその才があったとしても今は術者として力もない。ただ『神社に仕える』ってだけであそこに留まり続けている権力だけの底辺一族は、あろうことかさらに『視える』者に事実を気づかれないために──────彼女の霊すらも消そうとした。
その事実に気が付いた時。無意識に渦巻いていたその怒りが形を成した。
「今日の為に、アイツらを殺したいがために術を鍛練してきた。それで才能のある奴らを出し抜いた……………笑っちまう話だ。」
笑う晴哉を静かな目で見てから、タツは憐憫の念を込めて小さく息を吐いた。先祖にはなかったとしても晴哉には術師の才能があったのだろう。時を経て、まるで生まれ変わりのように『天才』とまで言われる才を持つ者はたまに現れる。しかし、彼はその才を人のために使うどころか。その憎悪のために、人を殺すために使ったことにタツは顔をしかめた。
「………別に笑えんよ。おぬしが才を無駄にしただけじゃ。」
「人でもないバケモノに言われたくはねぇな。」
そう晴哉は吐き捨てるも、タツは特に気にすることはない。見ていられず、ひろとは視線を反らした。その時、ふと。心の中に悲しみよりも、自分でも気が付かないほどの小さな靄がかかるのを感じた。
何か気になる。しかし、それがなんなのか。ひろとには分からなかった。
「どちらにせよ………おぬしはもう敗けじゃ。術は使えんだろう?呪いを受けた傷は、治るまでに時間がかかる………今、解呪をするから───────」
「『敗け』?」
晴哉が静かな笑みを見せた。パキリ、と彼の身体から何か小さな音が聞こえてきて、タツは晴哉に歩み寄ろうとしていた足を止める。
彼の身に纏われていた雰囲気が再び、変化し始める。
「おい………………?」
まさか、腕も使えない状態で術を使うつもりかとタツは訝しげに晴哉に声をかけた時。彼の首筋にあった『何か』が月明かりに照らされ、光った。
その『何か』は晴哉の肌を覆うように変質していく。それはまるで鎧を纏うようだった。
「敗けたのはアンタらの方だ───────俺が呪詛返しに遭うことを予想してなかったと思ってるのか?」
タツを見るその瞳が、爬虫類のように、赤く細まったのに気が付いたタツは目を見開いた。
しまった─────────っ!!
「童!!!!」
表情を一変させ、タツはそばにいたひろとに身体を向けて叫んだ。ひろとはえ、と声を上げる暇もなかった。
次の瞬間には衝撃と轟音に視界が回り、
気が付くとタツに抱えられて空を飛んでいた。
森の木々が下に見えることから、自分はずいぶん高い所まで飛んだのだと分かる。耳を掠める風の音は強く、周囲の音が聞き取りにくくなる。しかし、音が聞こえずともその下に広がった別の光景を見たひろとは思わず青ざめた。
まず、最初に目に入ったのは目から血の涙を流した巨大な人の顔だった。身に覚えのある顔は、孝介と桜子、そして今日殺されていた蛇草家の使用人達。
「…………『呪』を取り込んだか……」
苦々しくタツはそう呟いた。誰に聞こえるわけでもない嘆き声を上げたその亡霊達はその顔を地から這いあがった巨大な蛇の口によって飲み込まれる。その顔の中には嗤う晴哉の顔もあった。殺した者達の無念と恨み、悲しみを全て喰らった呪いは土地の霊脈を使って自身の形を作る。
一つの生き物として、怪物として存在する。
黒いうろこ覆われたそれは闇夜に浮かび上がる。歪な音を立てて、それの身体が四つに割れた。開いた赤黒い瞳に射貫かれ、その全体像を見てからひろとは『そういえば、こういう化け物いたっけ』と他人事のように思ってしまった。大昔にいた頭が八つもある巨大な怪物。今、目の前にいるモノは四つだがだからといって圧倒されないわけがない。
宙でタツ達を睨む『それ』は───────────────
「────────────『蛇』だ。」
甲高い声を上げ、 一頭の蛇の頭がタツに襲い掛かった。
「童!しっかり掴まっておれ!!」
俵担ぎにしていたひろとにタツはそう声をかけると、迫り来る蛇に向かって結界をぶつけた。しかし。ぶつかったと同時にタツとひろとは何かが割れる音とその衝撃波で吹き飛ばされた。激しく動く景色に悲鳴を上げながら、ひろとはタツの着物の裾を掴む。
(今の結界を破るのか──────!!)
タツは顔をしかめ、空中で態勢を整えると妖術を展開させる。周辺の木々がざわめき、一斉に草木についていた葉の波が蛇に衝突した。しかし、効果は今一つであり、大したダメージの入っていないことが身震いする蛇の姿を見て分かる。
宙を飛び、タツは蛇の背後に回り込むとその後を追いかけ、噛みつこうと蛇は襲いかかる。光球を作り出したタツはそれを発射させながら、降下した。襲いかかる蛇に当たり、轟音を響かせる。
妖力の高まる日である満月であることも影響しているのだろうが、蛇の力は蛇草家で祓ったモノよりも何倍もの力があり、妖であるならば上級に匹敵する。開けた場所に降り立つと、ひろとを下ろしタツは素早く周辺地帯に人払いの術式を展開させて、次の攻撃に備えた。周囲に目を向けると、草木が異様な動きをしていた。何かが迫って来ているのは分かる。月明かりで明るかった視界が途端に薄暗い空間に戻り、ひろとは戸惑ったようにタツの険しい顔を見た。
「え、なに、どうし……」
「儂のそばを離れるなよ!」
短くそう言い放ってタツは、音のする方に向かって手を前に突き出した。それと同時に木々の間から襲いかかった一つの蛇が、タツの結界に激しくぶつかり、大きな音を立てる。その衝撃に一歩押されるがタツはなんとか耐える。
タツの持つ最大出力で展開された結界が張られた空間は大きく歪み、波打つ。「タツッ!!」とひろとは反射的に叫んだが、結界の維持に集中しているため答える暇がない。
ふと、歪んで波打つ空間の端が、ビシリ、と音を立てて亀裂が走った。
(『今の儂』では、太刀打ち出来んか……………!)
最大強度の結界を破る。この怪異も持つ憎悪や怒りの情念が『タツよりも強い』ということになる。思わず笑みをタツは見せた。
ここまで追い詰められるのは久々だ、と。タツが浮かべた笑みが狂気的だったことに、ひろとは気がついていない。
タツはさらに結界を展開させた。一つの結界の上からまたさらに結界を張る、二重結界だ。しかし、強度がこれよりも上げられない以上、何重にも張ったとしても破られるのは時間の問題だろう。
タツは『最優』だと自負しているが、かといって『万能』ではない。
力を込めていたタツの手が耐えきれず、鮮血が迸る。しかしで、痛みを感じていないのか。タツは「ハハ……ッ」と小さく嗤うだけだった。彼の手から止めどなく流れる血を見て、ひろとは自分がタツの足枷になってると顔をしかめる。おそらく自分がここにいなければ、タツはこの怪異と一対一で倒すだろう。『ひろと達を守る』ということが彼が何よりも重要視すること。それを守るために太刀打ちが出来ないのではないか……?
なんとか出来ないか、と思っていたその時。ふと、周囲から香る不自然な臭いにひろとは気が付いた。
木のような、どこかで嗅いだことのある匂い。しかし、常日頃、日常的に嗅ぐものではないのだが、ひろとはつい最近この匂いを嗅いだ
日中も嗅いだ、『墨の匂い』がした。
どうしてまたこの匂いが?とひろとが戸惑っていると、タツとせめぎ合っていた蛇が言葉を発した。その声は様々な声が混ざっていたが、晴哉の声に近かった。
「キさマ──────本当二『妖』か?」
晴哉の言葉にタツは目を細めた。
「…………最初に儂は正直に答えたぞ。『『儂ら』は妖であって、妖ではない』とな……我が主のために存在する守り人じゃ。」
タツの腕は血みどろになってた。滴る血の量が多くなるにつれて、周囲の墨の匂いも強くなっていく。それでもタツは表情を変えることなく、地面を力強く踏んだ。結界外の地面が円柱に盛り上がって飛び出すと、蛇の顔に向かって殴りつけた。一瞬だけ距離が離れ、攻防戦が止まる。
ここから攻戦に入る──────!
タツが素早く術を周囲に張り巡らしたその時。
タツの横。その地中から突如、蛇が飛び出しタツの脇腹を抉り取ったのだ。
「タツっ!!!!!」
目の前で飛び散る欠片を見て、ひろとは叫んだ。腹部を半分以上、抉り取られている。明らかに致命傷だ。
タツは何が起きたのか分からない、と言いたげに目を丸くしていた。バランスを保てず、膝をつく。抉り取られていない片手を地面につき、タツは流れていく血を見つめていた。ここで即死しないのは、彼が人ではないからだろうか。そんなタツの姿を嘲笑うように蛇は血に染まった口元を吊り上げて甲高い笑い声を上げて、再び結界に身体をぶつけた。
「ハハハハハハッ!!バケモノにもなれなイ出来損ない!!そんなノしかつかえネェ術師もトんダ『無能』だな!?!!」
晴哉の嘲笑にざわり、とタツの周りの空気が動いた気がした。突き刺すような、鋭くも冷たいそれに晴哉自身は気がつかない。
「オレはキサマらとは違う!!!!!」
嗤う晴哉の声が森に響く一方で、感じたそれがなんなのか。ひろとがタツを見たその瞬間。
トンッ、と軽い衝撃がしてひろとは後ろに押された。
「え、───────」
不意打ちに反応が出来ず、ひろとの身体はぐらりと傾く。押したのは紛れもなくタツだった。少し距離は離れていたが、妖術でひろとの身体を押したのだ。つい、ひろとはタツの顔を見る。先ほどの驚いた表情とは違い、いつもの見ていたあの優しげな顔だった。
どうした、と聞くことはなかった。口を開くよりも前にタツの目の前にあった結界が、蛇の猛攻に耐えられず大きな音を立てて割れた。
「タ─────────────」
巨大な蛇の口がタツに覆い被さる。スローモーションのようにゆっくりと見えて、ひろとは手を伸ばした。
タツは微笑み、そして。
「うまく逃げろよ。ひろと。」
肉が噛み砕かれる音と共に消えたタツを見ながら、ひろとは斜面から落下した。
『来い、────────────────、』
声、が聴こえた。
自分の『名』を、喚ぶ声だ。
生きようと踠き、立ち上がる。
魂の声だ。
いつの頃だったかはよく覚えていない。
ふと、その男のことを思い出した。なぜ思い出したんだろうと考えると、そういえばあの人からも墨の匂いがしていたな、ということを思い出した。
その人は、仕事で来ていた気がする。どんな仕事をしていたのかは、当時の俺にはよく覚えていないが『仕事』以外は宿の部屋で筆を持ち、絵を描いていた。何を書いているのかと聞けば、その男は快く見せてくれた。翼のない、角の生えた蛇のような生き物。
『これはね。龍だよ。』
微笑を浮かべて、男はそう答える。龍、分かりやすいものは『ドラゴン』だろうか。
『私達の家は、絵を描かずにはいられない家なんだ。それは呪いみたいなものだが、私は別に嫌いじゃない…………この性でさえ呪いだと言われても。この絵に救われる人は少なくともきっといて、『祝福』になる。』
ふと、男は祭り会場の方へ目を向けた。遠くでは祭囃子と人々の掛け声が聞こえてくる。ふと男は今、描いている絵の前に置いてあったとぐろを巻いて眠る蛇の絵を見て、目を細めた。
『この村の蛇は、かつて。悪いことをしたんだろうね……だから、彼を封じた人はこの祭りを作った。人々の生活、笑いの絶えない平穏な、ごくありふれた空気…………永い永い時をかけて。嘘の信仰をしてででもそうして蛇の心にあった悲しみも、怒りも浄化しようとしたんだろうな……』
私に出来ることは、その悲しみが少しでも減るように、この絵と共に願うことだね……と男は呟いた。
祀られた、いや。封じられた蛇がさびしくないようにと。
願い、絵を描く。
すらすらと描き上げられた龍が、なぜか印象に残っていて。俺は暇つぶしとして描いたその絵を「ほしい!」と強請った。傍らにいた父は驚き、なぜか慌てて宥めようとしたがその男は嫌な顔をすることなく、龍の絵をくれた。
ふと。入り口にいた一人の使用人が、部屋の入口に立っていた。
『──────神』様。そろそろお時間です──────』
『そうか……最後に蛇草さん達に挨拶に行かないとな。』
俺が持っていた絵以外を片付け、彼は立ち上がる。
『この龍が、君の生きる道を守り続けてくれますように─────────』
頭を撫で、男は笑った。目元の笑い皺が濃くなった気がした。その顔はよく覚えていないが、白髪混じりに笑うその顔はどこかの誰かに似ていた気がした。
あ、そうだ──────
──────彼の笑った顔は、タツに似ているんだ。
気が付くと、いつもの家にいた。しかし父の姿もなく、あの男の姿もない。世界は静寂に包まれていて、まだ自分は『帰って来ていない』のだと思う。
『帰って来ていない』?どういうことだ??
「いつまでヒトの腹の上で寝ているつもりだ?」
ふと、声が聞こえてひろとは振り返った。宿の広間に置かれたソファには、着物を着たあの日の男がいた。白髪混じりで目元には笑い皺がある、タツにどこか似た名前も覚えていない男。記憶中にいたあの男は笑っていたが、目の前にいる『誰か』は表情を変えることなくジッと、ひろとを見ていた。
どうしてこんなところに彼がいるんだろうと戸惑っていると、目の前の男はひろとの瞳に映った自分の姿に「ふむ」と呟いた。
「お前には私はそう映っているのか。」
「え…………えぇ……まぁ……」
戸惑いつつ、ひろとはそう答えて周囲を見回した。ここはどこだろう。現実でないことは何となくぼんやりとした感覚で分かる。
「あの……」
「人は、私を見たい姿で見る。時には、自分達が愛した者の姿。時には私がかつて喰らった者の姿で。またある時は、私の記憶に刻まれた、最期……刀で切り刻んだある男の姿で…………しかし、『龍』に『蛇』か……天と地の差があるな。そこに至ることなど、もう出来ないというのに。」
懐かしそうに、男はテーブルの上に置かれた一枚の絵に目を向けた。あの日。ひろとが男から貰った一枚の絵だ。
あの絵は今、どこにあるのだろう。
「……なりたかったんですか?……龍に。」
思わずそう問うていたら、男は初めて微笑んだ。優しげな、しかし哀愁を漂わせた顔だった。
「昔は、な……しかし、ソラから落とされた。神々の身勝手な理由で蛇にも龍にも成れなかった……私は何もかも恨んで呪っていた。この世の全てが憎かった。アイツらが作ったこの世界などどうでもなれと、呪いを吐き続けた。だが……………ある日。一人の旅の剣士に頭と腹。三等分にされて殺された。今思えば、あれは見事な太刀だったが当時の私にはそんなことを考える暇もなかった。惨めな生の、惨めな最期だった。何のために生まれ、そして生きて来たのか分からなかった…………」
そこで男は言葉を切る。気が付くと、その男の姿は変化していた。白髪もなくなり美しい黒髪に変化しており、見た目の二十代ほどに若返っている。これで驚かないのは、ここが現実でないからと分かっているからだろうか、それともその非日常に慣れてしまったからだろうか。臙脂色の目を開き、男は話し続けた。
「しばらくして。剣士が去った後、一人の僧侶が私を供養した。死体を埋め、社を建て、嘘の伝承を村人に話して信仰させた……最初は何をしてるんだと思ったものだよ。だが、日々の中で起きた些細な日常を話す人間の話が、次第に面白くて。もっと聞きたいと思うようになった。温かな話や、悲しい話。いろいろな話はどれも『天』にいた時には聴こえなかったものだ…………」
自分勝手な話だろう、と男は笑った。
聞こえなかった。聞こうとしていなかったくせに、ふと聞いたらもっと聞きたいと思った。
人々のその話を聞いて続きの人生を想像して、夢に見るのだ。悲しい話があったら、少しでもそれが無くなるようにと願っていた。
「…………もう、恨んでいないんですか?」
その問いに男は何も言わなかった。視線を向けることなく、何かを思い出させるように目を閉じる。姿はひろとの知る元の姿に戻っていた。
「今では、村人の声は私の癒しだ。その声を聞きながら、時に願いながら私は眠る…………夢を見続ける…………もう飛べなかったとしても、夢の中では空を飛ぶことは出来る。」
そうじゃないか?と問う男にひろとは小さくうなずいた。笑う男の姿を見て、自分がかけた問いの答えを聞かなくても良くなった。もう、彼は誰も恨んでいない。人々の平穏を子守歌に眠り続けるのだろう。
「少しの間であるなら、力を貸そう。」
ポツリと呟いた男の言葉にひろとは「え、」と顔を上げた。気が付くと、周囲の景色は朝日が射し込むように白くなっていく。
「使う時は願え。どうしたいのか、何をしたいのか…………何、今までたった一人で掃除をしてくれた人の子への礼をしたかった────────────」
ただそれだけだ、と男は笑った。そして、伝えて欲しいと次第に薄れて行く男は、最後の言葉をかけた。
あなたは、多くの人に愛されていると────────────
我に返ってひろとは目を開けた。まず、目に入ったのは木々の隙間から空に浮かんだ満月。
「…………は、」
何が起きたとひろとは慌てて身体を起こす。ずきり、と痛みが走り思わず、ひろとは頭を押さえた。身体の状態を見ると、額が切れて血を流していた。しかし、軽傷なので特に問題はないと勝手に判断する。その他にも特に目立った怪我はなく衣服が泥で汚れているだけに留まっている。
あれから何分時間が経ったのだろう。あの蛇の怪異はどうしたのだろう。深く考える暇はなかった。考えなくても分かっていたからひろとは立ち上がり、顔を引き締めた。周囲を見回すと辺りはとても静かで、あの蛇はいないことは簡単に分かった。斜面から落ちた自分が、生きていると思わずに放っておいたのだろう。
なら、今。あの怪異はどこへ向かっているのか。向かう場所があるとすれば、最初から殺そうとしていた水雲家か。
それか、血肉を求めて祭り会場に向かうかだ。
「……させない……!」
足に力を込め、ひろとは斜面を走った。
現在地は『腹社』。祭り会場までは普通に歩いて降りても二十分以上はかかるはずだ。
人の制止を聞かず、弓弦は境内を駆け上がっていた。屋敷を飛び出して来た時、何人かの使用人が止めようと追いかけたが、祭りを見にやって来た人の波で見失い、不覚にもはぐれてしまったようで弓弦の名を呼ぶ声はもう聞こえてこなかった。
弓弦は尾社に辿り着いたところで一度立ち止まり、周囲を見回した。人の姿はないのは分かっていたが、思わず大きな声で知人達の名前を叫んだ。
「ひろと~~~!!タツさ~~~ん!!」
境内の中はシン、と静まり返っていて叫んだ自分の声が異様なほど響く。周囲を見回してから、弓弦はふと、境内が静かすぎることに気が付いた。いくら、ここが山の上にあるとはいえ、訪れる参拝者は数人ほどいることは日頃境内を掃除していた弓弦は知っていた。
(え…………なんだろう……何かが……)
何かが変。そう思った瞬間、突如吹いた冷気が首筋を撫でて弓弦は肩を飛び上がらせた。反射的にその方向に目を向けるも、案の定何もいない。
そう、誰もいないはずだ。
上着もほとんど羽織らずに走って来たせいか、それとも『もっと別のものなのか』。理由も分からない寒気に弓弦が腕を擦ったその時。背後の方から何かが引きずられる音が響いた。静寂の空間の中で始めた聞こえた音にびくりと震えたが、振り返られなかった。
この音は聞いたことがある。家で、楓が襲われた時に聞いた音と『同じ』だ。
空気を切り裂くような、静かな声が聞こえる。無意識に呼吸が荒くなっていたが、それに気が付かない弓弦は恐る恐る振り返った。
血のように赤い、瞳をした巨大な蛇がそこに佇んでいた。
蛇だ。
あの時、母の命を奪った蛇が、今度は自分を喰らおうと────────────
「─────────ゆずる!!!!!!」
蛇の牙が弓弦に噛み付くよりも前に、茂みから出てきたひろとが彼女の身体を抱えて転がった。蛇の牙が石畳を砕き、破壊音が響き渡る。弓弦が驚いて自分を庇ったひろとを見てみると、彼の身体は山の斜面から落ちた時よりも汚れており、木の枝や葉っぱを纏わりつかせていてさらにひどい状態になっていた。
斜面から落ちてきた後。意地で山を走り、全力疾走で尾社までショートカットしてきたのだ。
ズダボロのひろとの姿に若干引きつつ、弓弦は彼の額から血が流れていることに気が付いた。
「ひろ……」
「怪我は!?怪我はしてねぇな!?てか、なんでこんなとこにいんだ!!蛇草さんのとこにいろって言っただろ!!?」
慌てて身体を起こしてそう叫ぶとギョッと目を丸くした。弓弦が泣いていた。
「え、あ??」
突如、泣き始めた弓弦にひろとは身体を強張らせた。初めて彼女の泣き顔を見てひろとはおろおろと両手を振り回した。
「え、え??なに、どうし……」
「じぶんが……」
長く、泣くことを忘れていたのに。弓弦の目からは涙が止めどなく落ちて行く。自分の身体を支えるひろとの腕を掴みながら弓弦は、自分のことを顧みない知人に向かって堪らず泣き叫んだ。
「自分の方が!!自分の方がぼろぼろなのに…………!」
他人の心配しないで、という言葉を言い切ることが出来なかった。ただ、弓弦は助けてくれた彼の安心感と恐怖で泣くことしか出来なかった。
一方、泣かせてしまった張本人はどうしたら良いか分からず、「えぇ……」と戸惑っていると背後から瓦礫の落ちる音が聞こえてきて我に返った。振り返ると蛇が赤い瞳をひろとに向けて睨みつけていた。
「コゾウ……!邪魔をスルナぁッ!!!!」
「あ?……………あんた……自分の大事なものが何なのか、それが無くなったからって!!今!!自分がしようとしたことが分かってんのか!?」
弓弦を庇うように後ろにしながら、ひろとは怒りと共に負けじと睨み返す。
本当なら、俺じゃなくたって良かった。泣く彼女を支えるのは、たった一人の、彼女を大事思ってくれる人で良かった。
『家族』で良かったじゃないか。
そう思えてきたら、ひろとは無性に腹が立ってきた。
「あんたの目の前で殺そうとした!!こいつは!!あんたが大事に想っていた人の!!大事なもんだったんだぞ!!!!」
蛇は甲高い声を上げて、ひろとと弓弦に襲い掛かる。しかし、自然とひろとはその状況に戸惑うことも慌てることもなかった。それよりも山から転がり落ちた時に見たあの夢を思い出す。
『使う時は願え─────────』
今、願う。
力を貸してくれ、と。
目の前で勘違いしているバカに向かって、一発殴ってやりたい─────────!!
そう蛇を睨みつけたと同時に突如、地面が強く光り輝いた。ひろとが驚くのも束の間、空間を照らしたその光の粒子は何かの姿を形作ると襲い掛かって来た怪異を叩き弾いた。驚いた二人は顔を上げ、その光の姿を見る。
灰色が混じった白いうろこを纏った蛇の尾が怪異を弾き飛ばしていた。
しかし、土地に残っていた力が少なかったのか。蛇の尾はその攻撃を繰り出しただけで、紐がほどけるように力を失って消えていった。ひろとはそれ以上は求めることなく素早く思考を巡らせ、どうここから逃げるかの算段をする。そばの森に弓弦と逃げれば、木々で視界が遮られて逃げ切れるだろうか。しかし、弓弦がどこまで走れるかは分からない。隠れれば何とかなるだろうか。怪異の敵意は自分に向いている。
どうにかしなければ。タツがいない今、死んでしまった今、
彼女を守れるのは─────────
「ほ~?やはり。儂よりも先にここの神が、弓弦嬢とおぬしらを守っておったようじゃな~」
ひょこっ、と男がひろとの背後から顔を出して来てあっけらかんと答えた。
「……………………ハ?」
予想もしていなかった人物の登場に、ひろとは後ろを振り返った。すっとんきょうな声を出して、彼は自分の後ろに立っていた男に目を向ける。
白い長髪を肩辺りに緩めに縛り、水縹の瞳にはモノクル眼鏡がかけられていた。その表情は、その姿は数十分前に見ていた顔と何も変わらない。唯一違う所があるとすれば、最後に会っていた時は着物姿なだけのはずだったのに、今はその上に羽織りを羽織っていることだろうか。ひろとの視線に気が付き、男は「ん?」と微笑んだ。
案の定、怪異も驚いたようにその男、タツの姿を見ていた。それもそうだろう。彼は先ほど、『自分の腹の中に消えていたはずなのだから』。腹を抉り取られて、立っていられなかったはずだ。即死したっておかしくない致命傷の傷を受け、血を流していたはずだ。肉を噛み砕いた感触も覚えている。
それなのに、なぜ。『この男が生きている』……!?
「────────────え??」
「うん??どうした?童??」
ひろとの呆けた顔が面白いのか、タツがわざとらしく首をかしげる。ニヤニヤと笑うその姿に怒りを感じていたはずなのに、混乱のせいでひろとの頭には何も浮かばなかった。ひろとと共にいた弓弦は、先ほどまで彼の身にあったことを知らないのでなぜ、ひろとが戸惑っているのか逆に理解が出来ずきょとんとしている。
「え???……え?た、タツ???え?????」
なんでここにいんの、このヒト。
「んふふふ…………いや、すまん。予想通りの反応してくれてめっちゃ面白い。」
自身の口元に手を当て、くすくすとタツは笑った。その身体からは墨の匂いはしなかった。笑う彼のその姿にひろとはようやく、おかしな空気から我に返り、目の前に立つタツが自分の危機感から見た幻覚でないと気が付いた。
「……えぇ!?なんでここにいんの!?」
ギョッと、ひろとが改めてタツを指差すとタツは堪え切れずに爆笑した。
「言ったであろ~~?儂は『最優』じゃからな。先んじていろいろ対策しておったのじゃよ~……あの場におった儂が『本物』なわけなかろう?」
自身の胸に手を当て、得意げにふふん、とタツは鼻を鳴らした。その姿はまるで、サプライズに成功した人を想像させられる。しかし、タツの言葉に理解が追い付かずひろとは目を白黒にさせていた。
『本物でない』って────────────?
その言葉の意味を聞こうとするよりも前に、ゆらりと怪異が殺気と共に立ち上がった。
なぜ、目の前で殺した男がいるのかは分からない。しかし、邪魔をするというなら怪異のすることは何度だって同じだった。タツの結界を破る自信がある。能力は怪異の方が高いのだから、なんの問題もないはずだ。甲高い声を共に今度は三人ごと呑み込もうと襲い掛かる。我に返ったひろとが慌てて弓弦を守るように抱えたその直後。
「─────あ~~~~………………うっさ。」
笑みを消したタツが冷めた顔で、手を前にかざした。すると、ひろとを囲むようにドーム状の結界が展開され、蛇の牙を受け止めた。
「え……!?」
最後に会った時、蛇の攻撃に耐えきれず簡単に砕けていたはずの結界は、甲高い音を立てるだけで壊れることなく分厚い壁となって攻撃を防いでいた。立ち上がったタツはひろと達の前に出ると静かな瞳を見せたまま、戸惑う怪異に微笑んだ。
しかし、微笑んだその瞳は先ほどひろとに向けたもののとは大きく違っていたのに気が付いていたのは、今。彼と向かい合っている怪異だけだ。
「言っておくが、今の儂は。『あれ』とはまた一味違うぞ?」
こういう使い方も出来る、とタツはかざしていた指を軽く横に振るった。それと同時に横から結界が叩きつけられ、蛇の巨大な身体が森の方で投げ飛ばされていった。
「な…………!?」
森の方へ吹き飛ばされた怪異を見ながら、ひろとが目を丸くしていると「童」とタツがわずかに振り返った。我に返り、ひろとはタツの顔を見る。
全てを終わらせるという意思を宿したタツは、静かな微笑を浮かべていた。
「おぬしは弓弦嬢についておれ。今、片付けてくるのでな。」
「…………あぁ……気をつけて…………!」
ひろとの言葉にタツは小さくうなずいてから、飛翔した。白い髪が月明かりに照らされて星のように光り輝くその姿をひろとと弓弦は見届けた。自分達に出来ることはもうない。
出来るのは、大切な人の傍らにいるだけだ。
空を飛んでいたタツは、態勢を変えると空中で止まり、空から眼前で自身を睨みつける蛇を見下ろした。横殴りで展開された結界によって吹き飛ばされた彼は、木々をなぎ倒しながら森の中に落ちていた。
「取り込んだ呪が多すぎて上手く動けておらんな~……図体ばかりがデカい。」
小さく鼻で笑ってみせると、蛇はうなり声を上げてタツを睨みつけていた。その怒りと憎悪に応えるように蛇の周囲に黒い靄が集まっていき、怪異の姿がまた一段と大きく変化した。この山で起きた事故や災害に巻き込まれながらも、水神様の神性に抑えられて表に出ることがなかったモノ達の嘆き全てを取り込んで怪異は力を増やしていく。しかし、そんな彼の姿を見てもタツは特に表情を変えることはなかった。
「貴様ァ…………!!ナゼ!!なぜ生きて!!!?」
「呪の取り込みすぎでおぬし、人だった頃の記憶などほとんどなかろう?そんなカスな頭になぜいちいち理由を説明せねばならんのじゃ。」
めんどくさ、と冷めた顔で肩をすくめてから、タツはゆっくりと両手を持ち上げた。
明確な、殺意と共にタツの術式が動く。それは地を、空間を揺らす。彼の身に纏う空気の変化に怪異は困惑した。
今、自分の目の前にいるこの男は、先ほどまで見てきた男なのか?いや、そもそもいつオレはこの男と出会っていたのだろう。どうして、『殺さなければ』と思っていたのだろう。
遠くから轟音が聞こえてきた。それが何なのか、理解するよりも前にタツが言葉を繋いだ。
「儂の『分身』を喰うた礼じゃ。手加減することなく、全身全霊でおぬしの相手をしてやろう。呪術において、もっとも優劣を分けるのは地の霊脈をいかに使えるかじゃ。さぁ─────────おぬしは『どちら』じゃろうなぁ?」
轟音が近くなって来た。音の方向に顔を向ける。
一頭の龍がそこにはいた。
タツの妖術によって作られた水の龍が、大きく空を飛ぶと蛇に向かって落下してくる。巨大な水の塊は固さを持って、怪異の身体を打ち付けた。龍は、飛沫を上げて雨のように降り注ぐ。タツは素早く降下すると、両手を広げた。降り注いだ水が葉と共に集まり、空気と共にタツの手の中で渦巻く。
蛇は、身に纏った靄を小さな蛇の形にするとタツに向かって発射した。しかし、タツは結界を部分的に展開させながら、手に渦巻いていた空気の刃を投げつけ、難なく切り刻む。踊るように空間を飛びながら、タツは様々な妖術を駆使して怪異と対峙する。自分へ襲いかかる蛇の群れは彼の周囲を飛ぶ風の刃で切られ、傷一つつけることなく霧散していった。迫り来る巨大な蛇の頭は土の壁を作り、避け際にその首に刃を走らせる。
確実にタツの方が圧していた。
五行相生は戦闘術式には向かないが、それを展開し、気を循環させることで攻撃に使用する気の力をさらに強める。要するに自分自身にもバフをかけることが出来る。
しかしこれは本来、タツ自身の消費する妖力が大きいため、基本は使われない。そもそも、『本体のタツ』がこうして現世に出ること自体。本来ならば出来ないのだ。
「………『無能』と愚弄した術者によって作られた、妖でもない─────『絵』に圧される気分というのはどういうものじゃ?」
「ん?」と微笑むタツの声は、氷のように冷たかった。旅館で弥平達に向けていた殺気を放ち続けている。
明らかに彼は『怒っていた』。
蛇の身体を作っていた靄が血のように流れ、宙へ消えていく。しかし、目だけは依然とタツを睨み付けていた怪異を一瞥して、彼はゆっくりと手を持ち上げた。円を描くように空間を撫でたその手のひらから光源体を作り出す。その大きさは先ほど、自分に撃ってきたものよりも大きい。
一発でも当たれば致命傷だ、と直感したのか。蛇は周囲に漂っていた怨念を一つにまとめて迎え撃とうとする。
タツは手のひらから作り出した光を四つに分ける。手を上にかざし、光に照らされて姿は陰る。しかし、細めた水色の瞳は強い意思を宿したままだった。
「『本物の妖』であるならば、これくらいのものも凌いでみせよ。」
静かにそう言い放ち、空に向けていた手をタツは振り下ろした。
蛇の怨念の塊とタツの放った破邪の光線が、ぶつかり合い空気を揺らす。轟音が鳴り響き、風が吹き荒れた。砂嵐に顔をしかめつつ、ひろとは顔を上げて勝敗を見た。
タツの光線によって、蛇の四つの頭は放たれた怨念の塊ごと見事。撃ち抜かれていた。
蛇は悲鳴を上げ、灰となりながら崩れ落ちていく。最後までタツの身体には傷一つなかった。風に少し羽織りと髪が揺れるのみ、静かに宙に浮かんでいた。
吐き出された白く小さな息は静かに宙に消えていった。
部屋の中を珍しく掃除していたひろとは、物置の奥にあったそれに「あ、」と声を上げた。その額にはガーゼが貼られていた。
「あった……」
ポツリと呟き、ひろとは手にしていたそれを見る。長い年月のおかげで少し色褪せてしまった紙に描かれた一匹の龍の絵。あの日、名も知らない男にもらったものだ。
ひろとはそれに何か思うわけでもなく、しばらく眺めてからテーブルの上に置いた。後で額縁とか探して来ようと思っていると、「ごめんください」と旅館の入り口から声が聞こえた。花のような、柔らかな声は弓弦の声だ。
慌てて入り口に向かうと、入り口に立って旅館の中を見回していた弓弦は、ひろとの姿を見て表情を明るくさせた。
「ごめんね、突然来ちゃって……これ。お見舞いの。頭の傷……大丈夫?」
「え、あ……!そんなの良いのに。」と言いつつ、ひろとは弓弦の手にしていた紙袋を受け取った。中には茶菓子類が入っている。
ふと、弓弦はひろとのホコリだらけの姿を見て不思議そうに首をかしげた。
「あ、ごめん……何かしてた?」
「え?あぁ、部屋の掃除。ちょっと探してたものがあってさ………」
今、ちょうど終わったとこと笑ってひろとは弓弦と共に宿を出た。少し前まではすっかり大賑わいだった通りは、観光客こそいれど静かになっていた。通りの端からは温泉の湯気が立ち昇り、湯の花が流れていく。
ふと、通りを歩いていた観光客が「えぇ~!?」と落胆を混じらせた声を上げたのを聞いた。
「祭り、今やってないんですか~?」
「そうなんだよ~……一昨日まではやってたんだけどねぇ。神社の裏の方で土砂崩れがあった~とかで危ないから今、中止してんの。」
「神社も参拝出来ないんですか……」
「そうだねぇ……ごめんね、せっかく来てくれたのに。」
「いえいえ~!温泉も入れるから────」
何気なく、その方向に目を向けていたひろとは小さく息を吐いてジャケットのポケットに手を入れた。
「……蛇草さんちに引き取られることになったんだって?」
通りの雑貨店に立ち寄ってから、ひろとは思わず弓弦にそう声をかけた。店に並んだ観光客向けのかんざしを見ていた弓弦は「うん、」とわずかに目を伏せてうなずいた。
「縁談はなくなったけど落ち着くまでしばらくは楓も一緒にいることになったんだ。」
「八重さん……どう?」
言いにくかったが、そう聞いてみると弓弦は悲しげな苦笑を浮かべて曖昧な返事をした。この様子だとあまり良い話は聞けなさそうだと判断して、ひろとは「そっか」と呟き、弓弦が見ていたかんざしを手に取った。彼女が何かを言う前に会計を済ませてしまう。
あの怪異事件から二日経った。祭りは一度中止し、水雲神社も関係者以外立ち入り禁止となっている。タツの術によって山の裏手はほとんど半壊状態になっていた。『土砂崩れ』と誤魔化したのは、蛇草家だろう。
あの日以降。犯人の攻撃から唯一生き残った八重は事件のショックからか。ほとんど喋らなくなり、誰かの助けがないと生活するのも難しいらしい。心のない人形のようだ、と弥平が言っていたのをひろとは思い出す。怪異は確かに倒されてこれ以上、人が死ぬことはないだろう。しかし、ひろとの心には靄が漂い続けていた。いつもある『嫌な予感』ではない。これは不甲斐なさだった。
もっと、他に出来たことはあったのではないか。そうすれば、晴哉も呪いに呑まれることなく八重もこうなることはなかったんじゃないか、と。
タツならどうにか出来たのだろうか。
彼はあの日以降、ひろと達の前に姿を見せていない。
そんなことを考えながら、ひろとはいや、と首を振る。靄を払いのけ、ひろとは心の中で呟いた。
(今さら考えたって、どうしようもないだろ…………でも……………)
もしかしたら、彼女を支えることが出来たかもしれない人を思い出しながらひろとは振り返った。
弓弦は不思議そうに首をかしげた。そんな彼女にひろとは先ほど買った物をぶっきらぼうに渡して思わず首筋をかく。
「あの、さ。これから先。なんか困ったこととか…………辛いことがあったら言えよ。今度は…………ちゃんと話し。聞くから。」
彼女の憂いを含んだような目が、わずかに見開かれた。
自分勝手な話ではあるが、彼女を支える人は自分でなくて良いと思っていた。楓含め、彼女を愛している人はこの村で大勢いる。しかし、あの事件で、彼女の中で自分の存在がどれほど大きかったのか。本当に今更な話であるがそれに気が付いたような気がする。
出来れば、この縁をなくしたくないと思ったのだ。
「それでさ、もし。辛いなってことがあったら、『逃げたくなったら』言ってよ………………俺も一緒にいるから。」
彼女の泣いた顔は出来れば、見たくない。
心の中にあったことを今度こそ、誤魔化すことなくひろとは彼女に伝えると弓弦はしばらく目をめ丸くしてから少し泣きそうな顔をして「うん」と笑顔でうなずいた。大事に想ってくれる人が、隣にいてくれる。これからも近くにいるというただそれだけで弓弦には嬉しかった。ひろとも彼女の流した涙が、『悲しい』というものでないのが分かっていたので、静かに微笑を浮かべてジャケットのポケットに手を入れたその時。
「…………あ~~~……やっぱり!!呪術よりも儂!!こーいうのが大好き!」
突如、久しぶりに聞く声にギョッと肩を飛び上がらせて、ひろとと弓弦はその方向に目を向けた。近くの足湯には白髪の男、タツが膝に頬杖をついて満面の笑みでひろと達を見ていた。あの時に着ていた羽織姿のままだった。二日前から安否を心配していた男の意外な登場に「なっ!?」とひろとは飛び退いて目を丸くした。
「いや~~~~~~~いいのぉ~~青春しておるな~~!!もう、見てるこっちがにっこにこする!!儂の身内にはこういうのがないから!!もう!!あ!良かったらそっち系の呪いとかかけようかの!?」
「うっさいな!!下世話ジジィ!!!!」
身体を揺らすタツにひろとは顔を赤くさせてそう叫んでから、「そうじゃなくて!!」と慌てて首を横に振りタツに駆け寄った。思わず肩を掴んで、前後に揺さぶりながら幻覚でないことを確認する。一方で身体を大きく揺さぶられてタツは変な声を上げていた。
「ほ、本物だ……」
「ははは~!正真正銘のタツじぃじゃよ~~」
「今までどこにいたんだよ!?あれ以降、突然いなくなったから心配したんだぞ!?!」
足湯から出たタツは、足を拭きながら軽い調子で笑った。
「いや~……あの時、というか今もそうじゃが『儂自身』が出てしまったのでな~……お嬢のことが心配で一旦、帰っておったんじゃよ。『儂』はお嬢の霊力を大半使って現界するゆえにな………呼び出すと霊力切れで倒れてしまうんじゃ。そうなると、二日三日は起きてこない。今日、来たのはお嬢の霊力がある程度まで回復したから護衛はいらんと判断して来たんじゃ………………第一、儂。宿泊費払っとらんし、荷物もそのまま放って来てしまったし、土産も置いてきたし………」
タツの言葉にそれもそうだ、と納得こそしたがひろとには前半の言葉がどういう意味なのか分からなかった。しかし、はい、これ宿泊費。と笑みを浮かべてタツに思考を遮られ、問うことは出来なかった。渋々タツの懐から出された封筒を受け取ると、タツはようやく立ち上がる。
「あとはそうじゃなぁ~……ここの神に挨拶をせねば、と思うてな。儂がここに来る前から童と弓弦殿を護っておったしの。神社は今、出入りは?」
神社の方へ目線を向け、タツがそう問うと傍らにいた弓弦が口を開いた。
「今は閉鎖してますけど……境内の中はなんともないから特別に………」
「お、それは有難い。では、もろもろの荷物をまとめて行こうとするかの………おぬし達も聞きたいことがあるようじゃし。」
そう呟いて、微笑むタツの姿にひろとは目を丸くした。弓弦と目を合わせてから、二人は緩く結った白髪を揺らして歩き始めるタツの後を追いかけた。
まだ、ひろととの約束を果たしていなかった。
道中、いろいろな店に立ち寄りながらひろと達は水雲神社へと向かうこととなった。
「いやぁ~事件のせいでたいした観光が出来んかったからの~!」
「その割りには夜に飲みに行ってたくせに………」
楽しげに射的屋から出てきたタツにひろとは思わずそうぼやいた。しかし、これが最後だとなると、自分のやるせなさも混ざってひどく寂しさを感じてしまう。
ふと、タツがいない間に起きたことをひろとは話すことにした。八重のその後の話、弓弦と楓の話等々。裏山が半壊状態になったと伝えると、タツは申し訳なさそうに頬をかいて苦笑を浮かべた。
「それは本当、申し訳ない……言い訳にはなってしまうんじゃがつい、あやつの言葉に腹が立っての~……手加減出来んかったんじゃよ~……」
「『腹が立った』?」
気になる言葉にひろとはタツの顔を見た。タツは苦笑してうなずくと、腕を組んでわざとらしく怒る仕草をしてみせた。
「『儂ら』は人ではない。かといって『妖』でない半端者でな。それに何か言われようとも事実であるのだからなんとも思わん。しかし……………お嬢を『無能』呼びすることは見逃せなかった。」
『バケモノにもなれなイ出来損ない!!そんなノしかつかえネェ術師もトんダ『無能』だな!?!!』
あの時、怪異の嘲笑を思い出してひろとはあ、と呟く。そういえばあの時。タツが殺気を放って怪異を睨んでいたような気がする。今はこうして軽くなっているが、あの時は相当激怒していたのではないか、とひろとは心の中で呟いた。
ふと、タツは視線を遠くに向けた。
「………祖父が亡くなった頃であったか…………彼女が儂を呼んだのは……………昨日のような眩しいほどの満月の日じゃった。月が満ちる日は霊力も妖力も高まりやすい。しかし、だからといって『上級クラス』の妖を呼ぶことは大抵の術者には出来んことなんじゃよ…………それは、彼女の持つその能力が他の術師よりも優れているということじゃ。」
タツはどこか、懐かしそうに。しかし寂しそうに呟いた。身に纏うその雰囲気が、いつもと違っていたような気がしてひろとは思わず顔をしかめる。数日前まであった明るさや元気が今のタツにはないような気がしたのだ。
心配の念を向けるひろとに目を向けることなく、タツはあの時のことを思い出していた。
その日はよく覚えている。己が生まれた日。あの日見た月が、なぜかどの月よりも美しかったのを覚えている。
『──────────助けて下さい』
泣きながら自分に願う少女の姿を思い浮かべる。その手元には濡れて、シワだらけになった一枚の紙、龍が描かれたタツ『本体』があった。
自身を愚弄されることはどうでも良い。周りがなんと言おうと、自身が妖でないことは間違いない。タツのみならず彼の同胞達の血は墨の香りがし、肉は紙の味がする。それがタツ達の正体だ。いくら空を飛ぶ、かの上級妖怪に成れなくても良かった。
しかし、最高傑作である己を創った『主を愚弄することは許さない』。
「あのようなクズ相手にお嬢の────我が主が儂に込めた『意志』を呑ませやしない。とはいえ、今回ばかりは童と弓弦殿の持つ人脈に助けられてばかりじゃったな~………人との繋がりというのはこれほど強いものなんじゃな~…………」
「なぁ、タツ…………なんかあったのか?」
タツの様子を心配して、ひろとは思わずそう問うていた。前髪で隠れた顔は見えにくく、表情はひろとからは見えなかったが立ち止まったタツの言葉を待っていた。傍らにいた弓弦も彼が空元気で話している気が付いていて、心配そうにしているのを察して、タツはフッと微笑んだ。あの事件の後、タツの方でもいろいろなことがあった。不在時には気が付かなかった彼の暮らす家で起きたこれまでの出来事を思い起こしながら思わず目を閉じる。
そう思う資格も理由も本当はない。しかし、どうしても悲観せずにはいられなかったのだ。今まで自分達はしてきたことは無駄ではなかったのかもしれない。しかし、『結局はそうなってしまうのだな』という諦めがあって。どうすることも出来なくて、しばらく心の中はしんみりと湿っていた。
(『運命』というのは……なかなか、変えられないのじゃな…………)
「タツ?」
訝しげに首をかしげるひろとを見る。目の前にいる少年、少女達は纏う雰囲気が似ていたとしても『彼女』ではない。と区切りをつけてタツは「いや、」とわずかに顔を俯かせた。
「儂も………………『儂ら』も今まで目を背けてきた『縁』と向き合わねば。と思っただけじゃよ……これは儂らの問題じゃ。童の縁に何の影響もないさ。」
それよりも、と顔を上げてタツはようやく、いつも通りの笑顔を見せるとひろとに顔を近づけた。
「改めてじゃが、おぬし達には礼を言わねばならんの。観光諸々、おぬし達が捨てなかった……これまでの『縁』のおかげじゃ。」
頭を下げるタツに「……本当かな……」とひろとは視線をそらして、顔をしかめる。弓弦の母のことや晴哉のことがあって、タツの礼を素直に喜べなかった。
「もっと他に出来たことがあんじゃねぇかな……とは思うんだよな。おっちゃんとか……」
「…………人の身で、怪異でもそうじゃが……出来ることは限られておる。全部が全部、すくい取ることは出来んよ。一つに固執すれば、その情念がやがてあやつのような呪を生むことになる。」
「まぁ、悩み続けることは悪いことでもないがの」と微笑を浮かべた。
彼の恨みを晴らすことはとっくの前から出来なかったのだと分かっていても、それでもこの事態になってしまう前に話しを聞いていたら少しは違っていたのではないかと、どうしても思えずにはいられなくてひろとは思わず彼の顔を見ると、タツは微笑を浮かべたまま、通りを行き交う人々を見ていた。
「問題はその悩んだ先。それ全部を踏まえて『どう生きていくか』じゃろう。生きていれば、間違いも失敗もある。悲しみや憎しみ、悪意も当然のように生まれる。それを自覚して、そして『どう生きていくか』を決めるのはその人自身で、そうと決めてもその生き方が上手く行くとは限らない。どうして上手く行かないんだ、とそれでまた悩み、悲しむこともあろう。時にそれを呪うこともあるかもしれん………じゃがな、童。」
タツはそこで言葉を切ると、再び優しげに微笑んで目を向けた。優しげな水色の瞳がひろとの目をまっすぐに見つめる。
「上手く行く生き方が出来ずとも、おぬしはもう気がつけておるよ………『おぬしが独りでない』ということはな。」
弓弦とひろとに目を向けて、タツは笑った。ひろとは目を丸くして、思わず彼女と顔を見合わせる。
「『誰かと知らず知らずのうちに繋がっている』というのは、大きなものじゃ。知らず知らずのうちにそれで救われて、時に前へ進むことも出来る。苦しかったことも悲しかったこともその人と『普通に』話し合える。時に同じように悲しんでくれたり、怒ってくれたり。共感したり、助言をくれたり……………そういう友との縁は大事にしておいた方が良い。気がつけたのなら、なおさら……………儂は今回、それに気がつけた………………それに!おぬし達が捨てなかった、捨て切らなかったその『繋がり』がなければもしかしたら、今回の事件はより酷いものになっておったかもしれんしの。もしかしたら、この村の住人全て蛇の腹の中だったかもしれんし!」
にこり、と笑ってそう言うタツに、目を丸くしていたひろとは、ようやく。吸った息と共に苦笑を見せて「それ笑えないな」と答えた。
するとふと、弓弦が「あの、」と口を開いた。不思議そうにタツとひろとは彼女へ目を向ける。弓弦はタツを見ながら、おそるおそる話し始めた。
「ひろとから話を聞いて、気になってたんですけど………どうしてタツさんは私達を助けてくれたんですか?」
ひろとからの頼みとはいえ、なぜ。彼は弓弦に気にかけていたのだろう。ひろとも気になっていたその疑問に、タツは笑みを浮かべたまま固まった。ひろとから問われることは予想していたがまさか、弓弦から問われるとは思っていなかったようだ。
「私はあなたに何か……出来たって訳じゃないのに…………」
「………そう………じゃの~………袖すり合うも多生の縁、というものがあるじゃろう?それと同じじゃよ………………というのは、まぁ。建前じゃが………」
ようやく歯切れ悪くそう答えて、タツは眉を八の字にした。しばらく、自分の中で言葉を探してから彼は小さく息を吐いた。
「半分は儂の自己満足じゃよ。昔、儂が初めて呼ばれた時、儂は彼女を助けることが出来なかった。」
「え、」
再び歩き始めた彼の背中を追いながらひろとはどういうことか、と首をかしげた。
「結果的に『家』と交流が断てたとしてもそれは停滞で、本当の意味で『縁切り』が出来なかった。彼女はこれから先。『家』で何かがあっても目を背けることなく、立ち向かうことを決めた。それならばそれで良い。しかし、本当の所は……………」
逃げて欲しかった、と静かに答えたタツの言葉にひろとはあの時見た夢を思い出した。誰一人、自分を案じてくれる人はおらず。怒りと嫌悪に満ちた痛い視線を受け止め続けていた少女に自分は『ここじゃないどこかへ行こう』と言葉を投げかけていた。
タツも同じだったのか───────
「怪異との繋がりも、家柄やあやつらが吐いた呪いに囚われることなく。ここではない………儂らでもない。『彼女自身』を大事にしてくれる人のところで。ただただ平穏に、穏やかな日々を生きて欲しかった…………………儂はな。間に合わなかったんじゃよ…………だから、お嬢に似た弓弦殿を見て、そうなって欲しくないと思っての。勝手なお節介をかけてしまった。」
そうタツは弓弦に微笑むと再び歩き始めた。
タツの寄り道を挟みながら三人がようやく水雲神社に辿り着くと、そこに見慣れた人物がいた。
「あれ、克典と弥平さん?」
ひろとの声に気がついて、克典と弥平が顔を向けた。相変わらず克典は洋装を着ていて、弥平は和装だ。あの事件の後、倒れていた克典の顔色が元に戻っていたのにとりあえず安堵する一方で。当の本人はタツを見て「あ、」と顔をしかめていた。
「おっさん、今までどこにいやがったんだよ……」
「まぁ、ちょっと所用があっての~!おぬし達も無事なようで良かった良かった!!」
からからと笑うタツに克典は「何が、」と余計に顔をしかめた。その顔から滲み出る疲労にある程度察したとはいえ、ひろとは思わず弥平に顔を向ける。
「……一応聞くんですけど、どうしてここに?」
「山の被害状況の確認に水神様へ礼をとな。市民に危険がなさそうなら数日後から祭りを再開させようかと思ってる。」
「祭り、やるんですか。」
「最後の祭りのシメをな。慎介殿達から『せめてそれだけは』と頼まれたんだ。」
「あ~~………確かに。親父。あれには一番力入れてるからなぁ………」
祭りの最後は、巨大な白蛇の模型を大人数で動かして境内を踊る演舞だ。他の地区では龍の模型を使うことが一般的なのだと言うが、ひろと達の村では龍を蛇に代えて行われていた。そのリーダーとなっていたのが、ひろとの父、慎介である。
「私もあれを楽しみにしてるところもあったからな。出来る限り希望に答えようとこうして来たわけだ。」
「どこぞの誰かのせいで結果的に仕事が増えまくったけどな………」
克典がため息混じりにタツを見た。タツは両手を顔の横で合わせて「それについてはホントにゴメン、」とあざとく舌を出した。
「儂の方もそのことについてはクロ坊にさんっざん怒られたからの~………本当、あやつの拳骨って痛い…………」
自分の頭を少し撫でて、分かりやすくへこんだ顔をするタツに克典は「いや、自業自得だろ」と突っぱねた。
社に向かうまでの道中で、タツは話せる範囲のことだけを話していった。自分の正体は話すことなく、彼が大切に想う『お嬢』との些細な日常の話や自分が怒られた出来事を話して「これは儂悪くないじゃろ!」と意見を聞いては弥平や克典に一蹴されていた。元々、誰かと何かを話すのが好きなようで、話している間は先ほどまで見せていた寂しげな雰囲気も、哀愁の漂わせた雰囲気も何もなかった。どこまでも楽しそうで、そしてどこまでも幸せそうだった。弥平はタツに深く聞くことはしなかった。
どちらにしても、彼との付き合いは今日までだからと、分かっているからだろう。
ようやく頭社まで辿り着き、全員は手を合わせる。タツから聞いた話によると、あの事件の夜に突如現れた灰色混じりの蛇の尾はこの神社で祀られている水神様だと言われた。楓が怪異に吹き飛ばされても無傷だったのは、水神様から受けていた加護のようなもので守られたからだという。なぜ助けてくれたんだろうと、弓弦が不思議そうに首をかしげた。母が死んだ原因が蛇でないとしても、神に仕える気など全くなかった。静かにそう呟いた彼女にタツも弥平も微笑を浮かべて。「日頃、まっすぐ生きてきたということじゃよ」と言うだけだった。ひろともそれ以上聞くことなく、ただ、あの日の感謝を伝えた。これほど長く手を合わせたのは初めてな気がした。
参拝を終わらせると、ようやく「さて」とタツは息を吐いた。その顔は、晴れやかであり、もう心残りのないと言いたげであった。別れの時だと全員が気が付いた。
「行くのか?」
思わずひろとが問うとタツは「あぁ」とうなずいて、人差し指を振る。その指先から薄い膜のような光の粉が現れ、タツの周りに降り注いだ。その粉を不思議そうに見ていると、克典の目がわずかに細まった。術式のせいでタツの姿が見えにくいのか、サングラスをかけ始める。
「儂は妖でないからな。『本当の姿』であると普通の人にも見えてしまうんじゃよ。だから、こうして目隠しの術をかけねば……実は今日ここに来たのは、本当に突然でな。また、こっそり家を出たから急いで帰らねばならん。お嬢が『寝ておる』今は、儂が出ても問題はないから今日くらいしか使えん手じゃがクロ坊に怒られたくないしの~…………克典殿の様子を見る限り、上手く術は出来ておるようじゃな」
克典の様子を見て、タツはふふ、と笑う。周囲を舞う光の粉はやがて、地面に落ちてほのかにタツを照らしていく。
周囲に貼られた術式が完成する前に「タツ、」とひろとは声をかけていた。タツは不思議そうに彼に目を向ける。彼が去る前にどうしても聞きたいことがあった。この道中、彼にとって幸福なことをたくさん聞いて来た。だからこそ、聞きたかった。
「タツは………後悔してる?その子を……『助けられなかった自分に』」
タツの目がわずかに見開かれた。しばらく呼吸も忘れてひろとを見ていたが、やがて。フッと微笑を浮かべ、優しげに目を細めた。
間に合わなかった。逃がすことが出来なかった。
「─────────いや、」
とはいえ、諦めたわけでもないのだ。
なんせ、自分の『在り方』は一つじゃない。
「確かに後悔はあるし、悔いもある。しかしな。儂の力が自分の為でなく、『周りの人の為だけだったとしても』、儂は彼女のその意思を悲観はせんよ。憐れみもな…………あの子がそうと決めたのなら壊れぬように、立ち上がれるように守るだけじゃ。そして、儂はそんな彼女を心の底から誇りに思っておる─────────それに、言うたであろう?」
そう言うとタツは姿勢を正した。その佇まいは騎士のようにも見えてしまう。
「儂は、『護る』ことに関して他と引けはとらんとな。」
おそらくきっと。彼はこれから先、『お嬢』が望むのなら遠くへ逃げることも、周囲を傷付けることも躊躇いはしないのだろう。しかし、そうしないのは。タツが大切に想う彼女の在り方がそうさせるのだろう。
「────そっか。」
ひろとは微笑んで、タツの言葉にそううなずく。そうじゃよ、とタツはうなずいて一同に目を向けた。タツの周りの光は強く光り始める。
「では、改めて!!弥平殿に克典殿と弓弦殿。そして童……ではなく、ひろと。祭りは最後まで見れんかったが、この数日。世話になったの!!」
「タツも!!ありがとう!!助けてくれて、守ってくれて!!……元気で!!」
そう叫んだひろとの言葉はこの場にいる全員が思っていたことだろう。
何も言わない全員にタツは笑って、そしてゆっくりと手を広げた。その瞬間。光と共に大きな風が吹き、同時に大きな音が響き渡った。突如吹き荒れた強風に思わず、目を閉じていたひろと達は慌てて目を開ける。彼の立っていた場所は、木の葉が舞っているだけで誰もいなかった。
ふと。鈴の音のような、風を切るような音が聞こえて全員の視線は空に向けられた。あ、と克典と弓弦は驚いたように目を丸くする。快晴の空、太陽に照らされ眩しく輝く『それ』に弥平は小さく息を吐いていた。
ひろともしばらく宙を旋回する『それ』に目を奪われてから思わず笑みを見せた。
幼い頃に見たあの絵を自然と思い出される『それ』は───────
「─────────龍だ。」
彼方へ翔んでいく白龍の姿を見て、ポツリとそう呟いた。
そして、舞台は再び。
一人の男と少女との『縁』へと導かれる────────────
了
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