閑話『タツの呪術珍道中/中編』


 暗闇の中を一人の少女が走っている。

 遠くから、声が聞こえてくる。『たすけて』と叫んでいる。

 その後ろからは、無数の手が、彼女を捕まえようと伸ばしている。


 助けなければ、と彼は思った。

 ここから彼女を、あの手が彼女に触れないように、

 ここから────────────


 ふと、一歩を踏み出した。しかし、踏み出した足が突如。足場をなくして落下した。

 あ、と彼は少女に手を伸ばした。遠ざかっていく姿に、少しでも、少しでも届きたくて。

 名前を呼ぼうとしたその時。


 ぐらり、と身体が傾いてタツはベッドから落下した。


 鈍い音が部屋に響き渡り、タツは顔をしかめる。痛み出す後頭部で目が覚めたタツは、頭をかきながら起き上がった。

「い……たた……やっぱり、洋式の寝具は慣れんの~……」

ベッド脇の棚に置いたモノクル眼鏡に手を伸ばし、タツはそれをつけながらふと黙り込む。

 まさか、あの夢を『また』見てしまうとはな──────

 あの夢を見るのは、タツが『彼女』と出会った最初の日以降だ。それ以降は見ることもなかったが……見てしまった原因は心当たりがある。

 タツは頭をかき、大きくため息を吐くと立ち上がって、ベランダの戸を開いた。まだ、太陽が出ておらず、遠くの方がわずかに白み始めている。ヒヤリと、空気は冷たく吐き出された息は白く宙を漂った。タツは大きく伸びをすると、檜風呂に入れられた温泉に触れた。昨日の温かさがまだ保たれている。

「……ま、一度置いておいて。まずは目的の温泉を堪能するかの~!!檜風呂に、温泉。しかも朝風呂とか贅沢じゃな~~……!『アヤツら』も旅行とかすれば良いのにの~~……そうじゃ、今度。出来るように考えてみるか。うんうん。そうしたら皆、喜ぶじゃろ。儂ってば天才!!」

 上機嫌に風呂の道具を取りに部屋に入ったタツはふと、廊下の方がやけに騒がしいことに気が付いた。ドア越しでも分かる。慎介と使用人の声が響き渡っている。「村の駐在さん呼んで来い、」やら「○○医院の先生は」などと途切れ途切れに聞こえる。早朝にしては物騒な単語にタツはふと気になって、簡単に着替えると廊下から顔を出した。

「駐在さんはもう向かってるのか?」

「あ、は、はい。見つけたのが付き人の方で……」

「そうなると、祭りは……いや、そんなことよりも水雲さん達に話を聞きに行こう。これからのことも話さなきゃならねぇ……」

バタバタと部屋にいるタツのことなど忘れているかのように慌ただしく、慎介は何かを知らせに来た祭り仲間と共に飛び出していった。その顔は戸惑いの色が見える。

 何かあったのだろうか、とタツがわずかに顔をしかめるとふと。宿から出て行った慎介を見送るひろとを見つけた。彼の顔はわずかに青ざめていた。「わっぱぁ~」とタツは声をかけた。ひろとは驚くとタツのいる部屋に顔を向ける。

 ひらひらとタツは手を振った。

「おはよう。やはり、山の気温はいっとう低いの~」

「あ……お、おはよう……ごめん。騒がしかったか??」

「いやいや。少し前に起きたばかりじゃよ。それよりも何かあったのか?」

慎介達の去っていった方向を見ながらタツが何気なく問うと、ひろとは視線をわずかに彷徨わせてから、不安を吐き出すように「その……」と呟いた。

「昨日、蛇草さんちと会っただろ。」

「ん?あぁ、話してはおらんがな。」

昨日のことを思い出しそうになったが、タツは無視をしてそう答える。すると、ひろとが顔をしかめた。落ち着きを取り戻していた顔は再び、青ざめていく。

「その……弓弦の許嫁の……蛇草靖二郎さんが、今朝死んでるのが見つかったって……」

 予想外の言葉にタツはえ、と目を丸くした。












 その現場は、水雲神社の裏手にある森の中だった。森に入って少ししたところに規制線が張られ、思わずひろとと共に訪れたタツは中に入れなかった。幸い、神社からはそのテープが見えないようになっている。ここに観光客が来ても『事件が遭った』と気が付くことはないだろう。開園時間があるまでは神社自体も人の立ち入りを禁止している。

 しかし、今回はそれどころでもなかった。

 それは木に座り込むように倒れていた。着ていた着物にはおびただしい血と泥で汚れてしまっていた。口元にあったほくろは、吐き出された血で見えなくなっていた。服装はもちろん、頭の後ろで縛った髪が山から下りて来た霜によって濡れてしまっている。一見、外傷がないようにも見えたがそれは彼が、『顔を俯かせていたからだろう』

 蛇草靖二郎は片目をえぐり取られた状態で絶命していた。

「こりゃあ、ひどい……」

「いったい誰が、こんなことを……」

現場にやって来た村人達はその惨状に青ざめ、ざわついていた。

「……『蛇』、か……」

 ポツリと、タツは目を丸くしたままそう呟く。誰かに聞かせるわけでもないその独り言を聞いたひろとは、「え、」とタツを見た時。

「せいじろう!!」

 遠くから弥平の声が山に響き渡った。振り返ると、青ざめた弥平や克典が知らせを受け駆けつけていた。その後ろからは八重や、タツは初めて見る桜子の姿もある。ふと、ひろとは「弓弦、」と小さく声を上げた。見てみると彼女も妹の楓と共に現場に来ていた。

 遺体を見た弥平は「な……っ」と目を丸くする。

「な……んだ、これ。」

克典も引いたような顔で亡き兄を見ていた。

「い、いったい何があった……っ」

 説明を求める弥平は、近くにいた付き人に鋭い声をかけた。第一発見者だったのか、付き人は真っ蒼になりながら震える声で説明した。

「昨日の夜からお戻りにならなくて、今朝もお部屋に戻っておりませんでしたから……もしやと、探してみたら……森の奥で座り込んでる靖二郎様を見つけて……」

「確か、昨日。靖二郎さんは弓弦ちゃんに会いに行ったわよねぇ?」

朝だというのに化粧をしっかりとしている桜子が弓弦を見ると、彼女は顔を青ざめながら肩を飛び上がらせて「あ、その……」としどろもどろになった。死体を見るのは初めてのようで具合が悪そうだった。思わず駆け寄りたくなる衝動にひろとは駆られるが、耐える。

 今の自分は『違う』のだから、その資格はない……

「お姉ちゃんは!昨日。靖二郎さんの付き人と一緒に先に帰ってたよ。」

 弓弦の傍にいた楓がはっきりとそう答えた。その表情は不安の色があったが、姉を支える為か。大丈夫だとでも言うように強気に見せている。桜子はフン、と鼻を鳴らして「そう」と呟くと、八重に声をかけた。

「おねぇさん。どうするの?祭りはともかく、あの子のは……」

死体を見たまま、何も言えず八重が顔をしかめたその時。

「祭りは通常通り行うに決まっているだろう。」

 第三者の声に一同は一斉にそちらに顔を向けた。そこには八重と同じくらいの歳の男が歩み寄って来ていた。白髪混じりの短髪、身長は百七十くらいあるタツと比べて高く、大柄だった。日焼けか何かかは分からないが、茶色く固い肌が特徴的である。「あなた、」と八重は表情を険しくさせたまま、その男に振り返った。

 男、水雲孝介は一瞬だけ靖二郎に目を向けてから、有無を言わせない声色で話し続ける。

「婚儀もだ。いつも通りに行う。」

「おい、孝介……っ!」と弥平は思わず孝介の胸ぐらを掴んだ。

「貴様……!正気か!?人が、俺の息子が!!死んでいるんだぞ!!!!それどころじゃないだろう!!!!」

「お前こそ、ここで逃せば『後』がないくせに何を言っているんだか……それとも、一生『生活に苦しんでも良いと』?」

弥平は顔をしかめて、小さく唸る。「そうだぜ~」と後ろにいた克典がのんびりと答えた。

「ここには兄貴の『代わり』はいるんだ。問題ねぇだろ。」

克典のその言葉に、ざわりとひろとの心の中で嫌な予感がした。それはタツと会った時よりも濃く、確証じみている。

 そういう時は間違いなく『当たる』ということを知っている。

(こいつ、まさか……!)

「つまりだ、」と克典は笑みを見せたまま、弓弦に目を向けた。

「今度は俺が、弓弦の婚約者になるってわけだ。」

ひゅ、とひろとは小さく息を吸い込んだ。汗ばむ手のひらを思わず力強く握りしめた。一方、そんなひろとの内面など気にすることなく、孝介は小さく息を吐いた。

「…………お前の息子の方が『物分かり』が良いな。」

「っ、」

 弥平が顔をしかめるも、孝介は涼しい顔で彼を軽く突き飛ばして距離を取る。そして、住人の方に身体を向けた。

「このことは他言無用だ。良いな。」

村人達は互いに顔を見合わせる。戸惑いながらも、小さくうなずいた。ここで肯定しなければどうなるか分かったものではない。ひろとは青ざめた表情で楓と共にいる弓弦を見る。しかし、何もすることが出来ず拳を握り締めていると隣から小さなため息が聞こえてきた。

 ハッと、我に返りひろとは顔を上げる。すると、タツが回れ右をして宿に戻り始めていた。

『……『蛇』、か……』

そう呟いたタツを思い出す。

(あいつなら、もしかしたら────────────)

 結局、その後は遺体は村の病院に運び込まれることになった。死因やら何やらを調べる為だという。息子の無念を晴らしたいのか、弥平も同伴すると克典と共に病院に向かって行った。

「大変なことになっちまったな……」

ぼやく慎介を横に聞きながら、ひろとは弓弦のいた方向に目を向けた。しかし、すでにそこには彼女の姿はなかった。おそらく、妹共に先に屋敷へ戻って行ったのだろう。

 表情を引き締めてからひろとは「先に戻ってる!」と慎介に言うと、宿へ向かって走り出した。向かう場所はもちろん、タツの部屋だ。

 なんとなく、分かる。おそらく彼なら何かを知っているような気がする。

 大急ぎで宿に戻ってきたひろとは荒い息を何とか飲み込むと、部屋のインターフォンを鳴らした。中から心地よい音が響く。反応を待っていると、「開いておるよ」とタツの間延びした声が聞こえてきた。その声は微かに遠い。不思議に思いつつもひろとは中に入った。しかし、部屋の中にはタツはいなかった。

「こっちじゃよ、こっち。」

 ベランダの方から声が聞こえ、ひろとは目を向ける。すると、そこには檜風呂に浸かるタツがいた。わっ!と驚いて、ひろとは反射的に目の前のカーテンを閉めてしまった。

「え~~……別に男同士なんじゃから気にせんでも良いじゃろ~~……」

開いていた窓からタツの困った声が聞こえてくる。ひろとは『それはそう』と思いながらも窓に背をつけながら首に手を当ててしゃがみこんだ。

「髪下ろしたアンタが紛らわしすぎなんだよ……!!それにしても……よくあんなことがあった後でのんびり風呂に入れるな……」

また、棘のある言い方になってしまった気がして、ひろとは自己嫌悪になる。しかし、タツは気にすることなく「良い湯じゃの~~」と上機嫌に言いながら、大きく背筋を伸ばした。

「嫌なことがあったらこうして気分転換しておるんじゃろう~?」

「ま……まぁ、あれは酷かったけど……誰がいったい……」

「あ~……いや、そっちではないが~……ま、良いか。」

 のんびりと湯船に入っていた「それで?」とタツは本題に切り出した。

「何しに儂のところに来たんじゃ、童。ただ、雑談をしに来たわけではないじゃろう?」

分かっているくせに、と言いたくなる気持ちを何となく飲み込む。本当の話、タツは彼が何を言いにやって来たのかは分かっていた。それを察せぬほど、タツは能天気ではない。しかし、わざと切り出さないようにした。

 彼のその言葉にひろとは顔をしかめて、しばらく悩んでから意を決したように話し始めた。

「……アンタ、この事件について何か知ってんじゃないか?」

「……………なんでそう思うんじゃ?」

少し沈黙してから、タツはそう返した。湯船の水がわずかに動く音がする。彼が自分から背を向けたのだとひろとは思った。ベランダの方に少し顔を出して、話を続ける。

「アンタ、靖二郎さんの遺体を見た時……『蛇か』とか、言ってただろ。知っているとまでは行かなくても何か、あの時気が付いたんじゃないか。もし、そうだったら──────」

「もし仮にそうだったとしても。」

ひろとの言葉にタツは言葉ではさんだ。湯船の縁に頭を乗せ、天井を見上げる。

 これが、『彼女』の案件ならば。タツは間違いなく手を貸していただろう。だが。

「儂は関係ない。」

 『彼女』と関わりのないなら、関わる義理はタツにはなかった。そもそも、そこまでタツはお人好しでもない。なにより、タツ自身。彼らと関わることも出来れば避けたいと思うようになっていた。

 それほど、あの家と自分は『息が合わない』。

 一方、タツのその言葉にひろとは「な、」と目を丸くすると、思わずベランダに飛び出した。タツは目線だけをひろとに向けて、その非難の目を受け止めてからひらひらと手を振った。

「儂はこの村にとって余所者じゃろう。この村のことはこの村が何とかする方が良い……幸い、弥平殿がおるじゃろう?彼は『なかなか腕が立つ』。儂が出る必要はない。」

「でも、あの時。誰よりも最初に『何か』に気が付いたのはアンタだ!!」

「まぁ……」とタツはめんどくさそうに視線を横に逸らした。実際、気が付いたといえばそうだし、違うといえば違うという微妙な所ではあるが……

「べ……別に俺は『あの家の為に』、『祭りの為に』、『この村の為に』手伝ってほしいって言ってんじゃねぇ。」

「…………ん??」

ひろとの意外な言葉にきょとんと目を丸くして、タツはようやく彼に顔を向けた。「嫌な予感がするんだ」とひろとは顔をしかめる。

「なんていうか……今回の靖二郎さんのことは『これだけじゃ終わらない』。そんな気がして……」

 そうなったら─────────

 ひろとの脳裏に、あの日。教室の隅で声をかけてきた少女の姿がちらついた。

「そうなったら、もしかしたら弓弦にも危険が及ぶかもしれない!!だから、なるべく早く犯人を見つけて、あいつを安心させたいんだ。だから……!」

 ひろとの言葉にタツは目を丸くしていた。家の為ではない、というなら分かる。数時間しか彼と関わっていないとはいえ、ひろとが弓弦の家を良く思っていないのは分かっていた。しかし、村の為、祭りの為。自分の家族の為でもない。彼女の為という理由で自分に協力を頼んできたのは予想外だった。

 やがてタツはフッと肩を震わせる。しかし、浮かべた笑みはいつもと違った。彼は歯を見せて笑い始めたのだ。

「ハハハ!!そうか、村の為でもなく、家の為でもなく。『好いた女を守る為に』犯人を早く捕まえたいと言うんじゃな!」

ストレートなタツの意訳に図星なのか、ひろとは「えェっ!?」と身体を強張らせた。しかし、否定するのも馬鹿らしく感じて顔を赤くさせながら視線を彷徨わせた。

「…………な、なんだよ……悪いかよ……」

「いいや!!気に入った!!!!」

 湯船から身を乗り出し、タツは表情を輝かせてそう叫んだ。ひろとが驚いていると、タツはにやりと笑みを見せ、自分の腕に頬を乗せる。

「それならば、儂もおぬしに力を貸してやろう。犯人の魔の手から『おぬし自身も守り、弓弦殿も守ってみせよう』。村の為でもなく、家の為でもない。他ならぬ、おぬしの為に、な。」

 タツのその誓いにひろとが固まっていると、「安心せい」と彼はウィンクをした。

「儂は、『守る』ことに関しては他の者と引けを取らんからの。」

 それからタツは朝食を済ませてから、ひろとと共にさっそく外に出ることにした。幸い、祭りの手伝いはそんなにしなくて良いらしく。ひろとは事件の調査に専念することが出来る。

「それで……あの時、何に気が付いたんだ?」

 温泉街を歩きながらひろとは再び、タツにそう問うた。タツは近くの店に出ていた団子を二本注文すると、ひろとに一本差し出しながら「そうじゃな~」と困った顔をした。

「気が付いたといえば、そうじゃし。違うといえばそうじゃし……」

「どっちだよ……」

しぶしぶ受け取り、ひろとは顔をしかめる。

「仕方なかろう?あの時、感じ取れたのは『カス』みたいなものじゃし……」

「カス??」とひろとは首をかしげた。何か、致命的に彼と会話が噛み合っていないような気がした。

 それはタツ自身も気が付いたらしく、「あ~~~」と彼は我に返って視線を横に向けてからふと、何か言いたげにひろとにジッと見始めた。

 そういえば、こやつ『信じとらんタイプ』じゃったの……

「え……なに?」

「いや、それはまぁ。おいおい説明するとして、今はあの時、何があったのかを聞く必要があるの~……まず、この前段階がないとおぬしと話にもならんし。」

「……靖二郎さんの時は境内の中には誰もいなかったって言ってたぞ。人に話を聞こうにも難しいんじゃないか?」

ひろとがそう言うとタツは微笑を浮かべて、「いやいや」と串を振った。

「一人。話を聞くことが出来る者がおる。」

「は、」とひろとは呆けた声を上げる。


 そう。タツの後についていくことで、彼にとって衝撃的な、いや。確実に『日常』からかけ離れることとなるのは、ひろとはこの時。想像することは出来なかった。










 坂道がキツイ、と言って何度か休憩を挟もうとするタツを何とか引っ張り、二人は水雲神社に戻ってきた。朝にここで死体があったとは誰も知らない顔で、境内に並んだ屋台で軽食を買ったり太鼓演奏を聞いて盛り上がっていたりしている。その光景を見たひろとは、楽しい気分よりも恐ろしく感じていた。

 ふと、タツが周囲に目を向けてから神社の裏手の森林に入っていった。靖二郎の遺体が発見された場所だ。「あ、おい。」と慌ててひろとはタツの後を追いかけた。幸いその周辺に規制線が張られているおかげで誰もいない。

「ここで誰の話を聞くってんだよ?」

タツは懐から蝋燭を取り出した。そういえば、先ほど仏用の蝋燭を店で買っていたなとひろとは思い出していると、「のう、童」とタツが話し始めた。ぼんやりと、小さく蝋燭に火が灯った。

 あれ、アイツ。今、火をつけるような動作したか──────?

「おぬしは、妖や幽霊。そう言った怪異の類は見たことはないのか?」

「はぁ?まず、見たことねぇからいるわけないじゃん。」

火から意識を離し、ひろとは顔をしかめた。昔まではそういう幻想の生き物を信じてはいたが、今のひろとはもう成人。そんなものにテンションが上がるような年頃でもない。水神様の逸話だって、そんなに信じている方ではなかった。ひろとのその返答は予想済みだったのか、振り返ったタツは静かに笑みを浮かべた。薄暗い中、蝋燭の火がほのかに彼の顔を照らす。

「じゃあ、『見えれば』いるということなんじゃな?おぬしにとって。」

「え………まぁ、見れたら文句はないけど……それがどうかしたのかよ。今回の靖二郎さんの件と何が─────────」

ひろとが訝しげに首をかしげた時。

 ろうそくの炎の先で、彼は『視た』

「え……そこ…………」

─────────『誰かがいる?』

 ひろとの視線が自分の前に行ったことにフッと、とタツは笑みを見せた。

「『それ』は『見えぬ』のではなく、おぬしが『視ておらん』だけじゃ。彼らはすぐそばに、儂らのすぐ隣に息づいておる。人らしく、そして時に異形らしく。」

 蝋燭の先に人が立っていた。着ていた着物は今日の朝、見たばかりだった。ひろとは『そんなまさか』と思いつつゆっくりと目の前に立つ男の顔を見る。頭の後ろで縛られたやや癖のある髪。眠そうなたれ目と、口元にあるほくろ。

 しかし、服装も含め。その目と口元にはおびただしい血で汚れていた。

「な…………な、なんで……!?」

「やはり『残っておったようじゃの』─────蛇草靖二郎殿。」

タツのその言葉に血で汚れた靖二郎はゆっくりと顔を上げた。片方の目だけ空いた穴に「わっ!?!?」とひろとは顔を青くさせて飛び退く。すかさずタツは彼の手を掴んだ。

「『視えた』ようじゃな~?童。第一関門突破と言う奴じゃ。これで儂も変な気を遣わず対等におぬしと話すことが出来るな。」

「な、なんだよ!!!これ!!!?なんでこんなところに靖二郎さんが……!?!?あの人はっ!!」

「おそらく、無念の念で無意識にここに留まっておった魂。まぁ、俗に言う『幽霊』と言う奴じゃな。」

呑気に答えるタツにひろとは泣き目になりながら悲鳴を上げる。目の前にいる靖二郎から逃げたくて足をばたつかせるが、タツによってしっかりと掴まれているので逃げられない。

「まぁまぁ、そう怖がってやるでない……何より、害はないから大丈夫じゃよ。」

「害がないとか、あるとか以前に目の間に目のない血まみれの奴がいたら普通に怖い!!!!!逆になんでお前は平気なんだよ!!!!!」

「そりゃあ、儂は彼らを常に見ておるし……」

当たり前のことを言うかのようにタツは困った顔をした。「え、」とひろとは思わず逃げようとする動きを止め、目を丸くする。

「昨日も何回か。とはいえ、全部が全部こんなグロテスクではないがの~……おそらく、今の彼は死んだばかりじゃから肉体の時の状態がまだ抜けないんじゃろう。霊とはいえ、元は『人間』。恨みを拗らせておる奴とは違い、化け物ではないんじゃ。だから、怖がらず。普通に。まずは話を聞くことが大事なんじゃよ。」

そう言うと、ひろとから手を離した。

「何もかも生者の都合で決めることは傲慢じゃしの……さて、失礼したの。靖二郎殿。」

 タツは蝋燭の前に立つ靖二郎に声をかけた。靖二郎はタツに目を向けた。とはいえ、片目が無いのである方の目で見る形になるのだが。

「儂らがここに来たのは、おぬしが死んだ時の話を聞きたくて来たんじゃ。何があったか話していただけないか?……何もすべてとは言えぬが、おぬしのその無念。少しでも晴れるよう儂らは尽力を尽くしたい。」

靖二郎はしばらく無言でタツを見つめてから、ゆっくりと口を動かして何かを話し始めた。タツの手元にあった蝋燭が不自然に大きく揺れる。一瞬だけそれにひろとは驚いたが、『霊は元は人なのだ』というタツの言葉を思い出した。死人に口無しという言葉がある。生きている人間は死んでしまった彼らの言葉を聞くことは出来ない。霊が何を話しているのか、ひろとにも分かりやすいように彼は蝋燭を買い、簡易的な降霊術をしたのだろう。

 霊の声は炎を通さないと意思が伝わらない。姿も視えないことには、感じ取れないことにはそこに本人がいるなんて誰にも分からない。だからこそ。こうして、何かを分かってもらいたくて霊は留まり続けるのだろう。誰にも聞いてもらえないということはどれほど悲しいことか。靖二郎の姿は怖いが、そう考えると先ほどまでひろとの中にあった恐怖心は少し薄らいでいった。

 ひろとは波長が合わなかったのか。依然として、靖二郎が何を言っているのかは分からなかったが、タツは靖二郎の言葉に時折、相づちを打っていた。

「……なんて言ってんのか、分かんの?」

「まぁの~……どうやら、昨日の夜。靖二郎殿はこの辺りから嫌な気配がして探りを入れたようじゃが、その時に殺されてしもうたみたいじゃ。蛇草家は代々そういう霊媒師の家系。こちら側とも関わりが深かったようで、怪奇の気配を感じ取れていたんじゃな……………じゃが、姿とかをしっかり見ることは出来なかったらしい。死ぬ前に一瞬だけ見えたのは─────────『蛇』。」

『蛇』という単語にひろとはドキリとする。蛇はこの村にとって関わりが深すぎる。

 ふと、靖二郎は聞いた情報を整理しているタツを見てから、何かを呟いた。「え、」とタツは目を丸くした。

 タツが声をかける前に靖二郎はタツの隣に立っているひろとに顔を向ける。ひろとが不思議に思っていると彼は一礼して、まるで煙のように姿を消した。

「あ、あれ……消えた……??」

「どうやら、儂らにこの事件を託して還ったようじゃの……」

蝋燭を見ながらタツはポツリと呟いた。蝋が解けた蝋燭の火はいつの間にか消えていた。『還った』。それはおそらくあの世へだろうか、とひろとが思っているとタツがひろとに目を向けて微笑んだ。

「弓弦殿を頼みます、と言われてしまった。」

ひろとはわずかに目を丸くして、タツを見る。靖二郎とひろとはそれほど会話をしたことはない。むしろ、ひろとは彼女のことがあってからあまり近寄りがたく感じていた。だから、タツや自分に託したその意味をひろとはどうしても考えずにはいられなかった。あっさりしている人と言っても良いが、自分よりも間違いなく靖二郎は大人だった。

 タツはもう用は済んだらしく、蝋燭を袖に入れると境内の方へ歩き出す。ひろとは自然と手を合わせていた。もうここに靖二郎の姿がなくとも、少しでも彼の気持ちが晴れるようにと祈りながら、そして自身の決意を再確認しながら。

「……タツってあぁいうのいつも見てんの?」

 境内の端で焼きそばを買って食べていたタツに向かってひろとは思わず、そう問うていた。戻ってくると境内の中はさらに人が増えていた。とはいえ、半透明の人と本物の人と半々の状態である。半透明の彼らは楽しげに祭りの演舞を見ていたり、屋台を見ていたり、人と何も変わらない。彼らが霊だとひろとはすぐに気が付いたが、いきなり増えた人の数に思わず酔いそうになる。

「まぁの。生まれた時から見えておるし、時に関わったりしている。最近はとんとやってはおらんがな~」

「…………昨日、ほとんど一緒にいたけど全然分かんなかった………」

「視える人だと言った時の周りの反応など、どんなものか簡単に想像出来るじゃろう~?だから、言うのが面倒なだけじゃよ。」

くすくすと笑うタツを横目に見ながら、「そりゃそうか……」とポツリと呟いた。『幽霊が視えるようになった!』と騒いだところで、そして会話をしたところで周囲の人間は奇異な目で自分を見るだろう。

 ならば出来るだけ『普通』として生きることが賢い生き方なのだ。

「…………………ところでさ。これ、見えなくなる方法とか知らない????」

目の前を行き来する霊の集団をげんなりした顔で見ながら、ひろとはタツに問うた。

 普通、非日常に関わった時。大概の人はその現象にすんなり受け入れることはあまり出来ない。

(頑迷な奴じゃと思っておったが、受け入れると案外あっさり受け入れられるんじゃな……)

意外そうにひろとを見ていると「なんだよ?」とひろとは訝しげに首をかしげた。

「いや……なに。今のおぬしは無意識に『視ようと意識している』だけじゃよ。『見える』ということは『気付く』ということ。儂とこうして関わったことで今までおぬしが気が付かなかったことに気付けたということじゃ。今日、霊が多いのは仕方がない。日本人は昔から祭り好きじゃからな~……慣れれば、視る時と視ない時の意識の使い分けが出来るようになるじゃろう。」

 それに、とタツはそこで言葉を切って浮かべていた笑顔を消した。

「靖二郎殿を殺した犯人を捕まえるのであれば、視えておった方が良いしの。」

人混みを見ないように座り込んでいたひろとは、タツのその言葉に目を丸くして思わず立ち上がった。

「殺した……誰かが意図的にやったってことか?」

「あぁ、野生の動物じゃない。おそらく、靖二郎殿は何もかによって『呪殺』された、と儂は考えておる。」

境内を歩き始めたタツの横を歩きながら「じゅさつ?」とひろとは繰り返す。人の行きかう境内の少し先はやはり人通りは少なく、日の光が木々の間に温かく射し込んでいる。タツは指を動かしながら、「あぁ」とうなずいた。動かしていた指が文字を書いていると気が付いたのは少ししてからだ。

「呪いに殺すと書いて、『呪殺』じゃ。時に童、おぬしは日本の三大憑き物が何か知っておるか?」

「え……三大つきもの……?い、いや。分かんない。ていうかなんだよ、それ。」

「先ほど境内におった霊とは違い。人に取り憑いて離れぬ邪悪な霊のことじゃよ。この日本には古今東西、『触れぬ方が良い』と言い伝われておるのが多々あるんじゃよ。分かりやすいものじゃと、日本三大怨霊かの~……菅原道真や平将門。崇徳天皇とか全部は知らずとも多少名前は聞いたことあるじゃろう?」

「まぁ……菅原道真とかは授業とか……修学旅行とかで聞いたことはあるよ。学問の神様、なんだよな。」

「そうそう。彼らは今でも供養がされ続けておる。とはいえ。供養がされぬ前は街に雷を落とし、悪霊を振りまくことはいつものことじゃったらしい。恐ろしいものというのは簡単に触れてはならん。だからこそ人々は鎮魂をする……さて、話は戻すが『日本三大憑き物』というのは、動物霊や生霊、物の怪のことじゃ。その筆頭には『狐』、『犬』、そして『蛇』がおる。狐は特に有名じゃが、犬じゃったら『犬神』とかか。」

 犬神とは人為的に作られた呪いだ。生きた犬を首から上を出した状態で土に埋め、餓死するまでそのまま放置する。その後、その犬の首を斬り落として呪詛に使うものなのだという。使われた犬の恨みが強ければ強いほど、呪いは強くなる。

「『呪』を使えば、必ずその仕打ちが自分に返ってくる。元も子もない話なのじゃが、誰かを恨むということは目の前を盲目にさせる………靖二郎殿のあの遺体を見る限り、今回の犯人もそれほど強い恨みがあるのじゃろう。」

「でも、どうしてその呪いが『蛇』なんだろう……他にもあるだろ?その……人を呪う方法は。それなのに、水神様に関係ある蛇を使うなんて…………」

わずかに顔をしかめるひろとに「分からん」とタツは呟いて、足を止めた。遠くの方には小さな鳥居と社が見えた。

 それは、山全体が境内となっている水雲神社の三番目の神社だ。

「じゃから、『水神様』の話を調べようと思ってな。」

 少し赤茶けた鳥居を抜けると、タツは周囲を見回した。ひろとも思わず、タツと同じように境内を見た。木々の隙間。その奥の方にその小さい社はあった。杉の木や山肌に覆われるようにして苔の生えた茶色の社だ。一番山の下の方にあった神社よりも小さく。どちらかと言うと、家のようにも見える。

 ひろとはこの場所自体、始めてくる場所ではないはずなのに、意外なことにあまりにもこの場所が始めてくるような感覚になっていた。なぜだろうと少し考えて、やがてここは『静かすぎる』ということに気が付いた。四番目の神社には大勢の人と霊がいた。しかし、ここには人はおろか、霊自体もいないのだ。そのことにひろとが不思議思いつつも驚いていると、タツは周囲を見てから社の近くに建てられていた案内板に目を向けた。

「この場所に霊がいないのは、手入れのされた神聖な場所という証拠じゃろう。さて……?ここの社の名前は………」

案内板を見てからタツは困ったように眉を八の字にした。

「のう、童~……ここ、なんと呼ぶんじゃ??名前自体は読めるんじゃが、この漢字のままじゃと──────」

我に返って、タツの言う文字を言おうとした時。

「その漢字の読み方で間違ってませんよ。」

 一人の少女がそう、横からタツに声をかけてきた。あ、とひろとは目を丸くしてその少女を見る。緩めにウェーブの入った短い髪に、星形の付いたピン留めをつけた彼女は今朝も見たばかりの弓弦の妹、楓だった。昨日は着物姿だったが、今日は巫女衣装になっている。

「尾に社って書いて『尾社』。この上にある二つの社も上から『頭社』、『腹社』ってなってます。」

「頭に腹……それに尾となると、ここら辺一帯は水神様の身体ということかの?」

タツの言葉に楓は「うん!」と元気よくうなずいた。弓弦とは違い、日の光のように明るく『陽』の気が強かった。

「話によると、ここら辺からは水神様の身体の一部になっているらしくて、それにちなんだ名前になっているんです…………………確か、お兄さん。昨日、お姉ちゃんと一緒にいた人ですよね?昨日はお姉ちゃんを助けてくれてありがとうございます。そこにいるひろとお兄ちゃんはヘタレなんだから……」

「誰がヘタレだよ!!!!俺の方が年上なのに相変わらずちょくちょくからかいやがって……」

顔をしかめてひろとが楓を睨むと、「本当のことじゃん」と彼女は口を尖らせた。タツは思わずくすくすと笑ってしまいひろとに睨まれた。

 タツはしばらく笑っていたが、やがて楓の方に向き直る。

「いやいや……昨日も言ったが、助けられたのは私の─────」

「昨日のお姉ちゃんを見てたらすぐに分かります。なんかお姉ちゃんが困ってて、お兄さんが助けてくれたんだって………」

そこまで言うと楓は困ったような顔を見せたまま、目を伏せた。

「あの家で、お姉ちゃんの味方でいてくれる人………あまりいないから………」

不甲斐なさそうに呟いた楓は、自分の手を握り締める力を無意識に強めていた。ひろとは何も言えず、黙ってしまう。しかしタツは、楓のその様子に少し驚いたのか。きょとん、と目を見開いてからやがて微笑を浮かべた。

「………確かにあの時。儂はおぬしの姉君を助けた形にはなったんじゃろうが…………彼女にとって、おぬし自身の方が少なくとも儂よりは支えになっておると思うぞ?」

先ほどまであった他人行儀のような。よそよそしかった雰囲気が消え、優しげにタツはそう答える。その微笑に楓は目を丸くしてから照れるように「えへへ」と頬をかいた。

「だったらいいなぁ~………私、お姉ちゃん好きだからさ!!なんならそこにいるヘタレお兄ちゃんよりも大好きだしっ!!」

ニッと笑う楓にひろとは慌てて「ヘタレって言うな!!」と顔をしかめた。そんなひろとにタツがまたくすくすと笑っていると、社の方から楓の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。この二日間ですっかり聞き慣れてしまった弓弦の声だった。見てみると、楓と同じように巫女衣装を着ていた弓弦がいた。彼女もタツとひろとに気がつき、微笑むと頭をわずかに下げた。

「タツさん、それにひろとも来てたんだ。」

「具合は………大丈夫なのか?」

ひろとが思わず問うと、弓弦は少し驚いた顔をしてからうん、と小さくうなずいた。顔色はまだ悪そうだったため、心配させまいと取り繕っているようにもタツには感じたが、口に出すのは止めておいた。一瞬だけひろとの方を見るが、彼もそれ以上何も言えなくなってしまっている。『ヘタレ』と言う楓の言葉に間違いはない気がした。思わずため息を吐きそうになった。タツの顔が気になり、ひろとは「なに、」と見る。

 タツとひろとの視線でのやり取りに気が付かない弓弦は、不安そうな顔をわずかに見せながら楓に向き直った。

「掃除まだ終わっていないのにどこにもいないから、心配したじゃない……」

「どうしたの?蛇でも出たの~?」

楓の茶化すような言葉にひろとは「え、」と身体を強張らせた。あの事件が、誰かの手によってわざと行われたことも、それが『蛇』と関係があることも彼女達はほとんど知らないはずだ。どうしてその話題が出たんだ、とひろとが思っていると弓弦は少し頬をむくれさせる。その表情でこれがただの談笑なのだと気が付いた。

「出てはないけど……でも、ここら辺出るから楓がいないと私、上の社まで行けない……」

「相変わらず蛇が苦手なんだから~」

困ったように笑うものの。姉に頼られるのが嬉しいのか、楓は笑顔で参道の方へ戻って行った。

 ホッと安心したように息を吐いた弓弦の顔を見たタツは思わず、声をかけていた。

「良ければ、儂らも一緒に行っても良いか?」

驚いたように三人はタツの顔を見た。

「いやなに。年寄りのお節介じゃよ。女子二人だけというのも心配じゃし、この上の社も見てみたいからの~……掃除の邪魔はせん。心配ないというなら──────」

「大丈夫ですよ~!!良かったらこの神社の案内の続きします!!ね、お姉ちゃんも良いよね?」

楓がそう弓弦を見ると、弓弦も笑顔でうなずいた。タツ自身、どこか不思議な雰囲気を纏った男ではあるが、なぜかそれほど危険だというほどの警戒心を感じることはなかった。むしろ、好印象がある。

 それが、彼の身に纏う人懐っこい雰囲気のせいなのか顔立ちの良い笑顔のせいなのか、ひろとには分からなかった。

(何より………なんだろう、こいつ……時々だけど……)

ふと、自分を見上げるひろとの視線に気が付いて不思議そうに首をかしげた。

「どうかしたか?童。」

「なんつーか……あんた、弓弦に甘いよな。」

「……なんじゃ?嫉妬か??」

ニヤニヤと笑うタツに「ちっげーよ!!」とひろとは顔を赤くさせて叫んだ。その声が大きかったのか、不思議そうに弓弦は振り返って首をかしげる。楓も振り返ったが、何の話をしているのか察したのかタツと同じようにニヤリと笑って弓弦に声をかけた。先を歩いて行く二人の後ろ姿をひろとは気まずげに見ていると「安心せい」とタツは先ほどのからかうような口調から落ち着いた声色に戻ってそう呟いた。

「おぬしの恋路を邪魔するつもりはないよ。何より、儂には『そういう』のはとんと分からん。」

思わずジトッとタツを見上げてから、思わず固まってしまった。彼は愛おしいものを見るように目を細めていたが、その視線の先が弓弦でも楓でもなかった気がした。

「儂には『そういう感情』は不要ゆえにな。愛しむことはあれど、そこに『恋』という感情はないんじゃよ……これから先、知ろうとも思わん。いや、思えん。」

「……じゃあ、なんで弓弦に……?」

先を歩くタツの背にひろとは思わず、そう問いかけるとタツは数歩。先を歩いてからしばらく黙り込んだ。

 確かにひろとの言う通りだった。自分は彼女に異様に肩入れしている。

 『そうしなければ』、と思ってしまっている。

「─────────さぁの~」

 本当は分かっている。気が付いているのに、タツはそれを言うことはなくのんびりと返して歩き出した。その後ろ姿をひろとは驚いたように目を丸くして見送っていた。

 初めてタツは何も話さなかった。そう感じたのだ。







 一番上の社、『頭社』にやって来るとタツは辺りを見回した。山肌を背に建てられている社は道中見た『尾』や『腹』よりも大きめである。一番下の社は新しさがあったので、最近になって造られたのだろうと、苔に覆われた荘厳な社を見るとそう思えてしまう。この山には、まるでとぐろを巻くように『水神様』が鎮座しているのだと楓は楽しげに表情を輝かせながら説明した。何となく、ひろとは周囲を見回してみるがそこにはやはり霊はいない。何ならその『水神様』の姿も見えなかった。

 社の方に赴き、一連の参拝を終えてからタツは振り返る。

「近くに川があるのかの?時折、木々の隙間から聞こえてくるんじゃが……」

「え?あ、はい。よく分かりましたね~!この神社の少し離れたところに川があって、『水神様』がこの山でとぐろ巻いてから川に変化したっていう噂があるんですよ。温泉とかはまた違くて──────」

楓の説明にタツは興味深そうに相づちを打っていた。元々、そういう地方の言い伝えなどを聞くのが好きなようだった。ここに訪れた本来の目的を忘れているのでは、とひろとがため息を吐いて、二人のやり取りを見ているとふと。「ひろと」と弓弦に声をかけられた。

 完全に気が抜けていたひろとは、思わず肩を飛び上がらせてしまう。よくよく考えてみると、この数日はタツや誰かと一緒にいたが、こうして弓弦と一対一で話すことは本当に久しぶりだった。「どうした?」と問う声も出ず、なんと言ったら良いか分からなかったが、ふと。弓弦の不安そうな顔で自分を見ていることに気が付いた。

「……ど、どうした?」

「今日、どうして神社に来たのかなって思って……」

「あ……えっと、それは……」

やはり、今日こうして神社に来たのはただのタツの観光の付き添いではないと感ずいたようだった。弓弦は昔からそういうのに敏感だった。しかし、理由が言いづらい。タツの方に目を向けるも、彼はすっかり楓との会話に夢中になってしまっている。どう言おうかしどろもどろになっていると、そんなひろとの様子を見た弓弦は箒を持つ手をわずかに握りしめて視線を落とした。

「ひろと。神社の方に行きたがらないって聞いてたし……」

「それは──────」

言いかけて、止めた。また、言えない言葉にひろとは顔をしかめる。

 神社に行くことを嫌っていたのは、ただの自分のわがままだ。そして彼女を見たくなかったからだ。水雲家の女性は代々、成人すると神職に携わっているどこかへ嫁ぐか、婿入りをする。それがひろとは見たくなかったのだ。

「……私、何かした?」

 不安そうに尋ねてきた弓弦にひろとは「え、」と顔を上げた。彼女は視線を横にずらし、気まずそうに顔をしかめていた。その表情は家で楓以外の身内と接する時の表情と一緒だった。

「終業式から、ひろと……私を避けてる気がして……何か怒らせるような悪いことしたかなって……」

そう呟く弓弦にひろとは「違う」と慌てて弓弦の言葉をふさいだ。

「あ、えっと……その、今日来たのは……」

気まずそうにひろとは頭をかいてから、タツや楓には聞こえない小さな声で話し始めた。

「今朝。靖二郎さんのことがあっただろ。そのことであそこのタツが気になったみたいで……一緒に調査してんだ。」

少し誤魔化した気がしたが、事件が気になったということに関しては嘘は言っていない。弓弦は少し驚いたように目を丸くしていた。

「あ、あと……最近ここに来てなかったのは、『あれ』を作ってて……」

「まだ作ってるんだ。」

 不安そうだった表情からわずかに明るくさせて、弓弦はひろとに顔を近づけた。思わず身体をのけ反らせ、ひろとは目を丸くした。弓弦の香りが近くで感じ、思わずひろとの体温は上がる。

「ね、今度はどんなのを作ってるの?また、見に行っても良い?」

「あ……えっと……っ」

「『あれ』とはなんじゃ??」

ふと、横からタツが笑顔で声をかけてきてひろとは思わず悲鳴を上げてしまった。思わず殴りかかろうとしてしまった衝動を何とか堪える。一方のタツの方は特に気にすることなく、弓弦に笑顔を向けていた。

「ひろと、昔から彫刻とか工芸品とか作るのが趣味なんです。すごく上手なんですよ。」

「ほ~……それは一度見てみたいの~!」

タツも興味津々にひろとを見る。とっさの言い訳とはいえ、ひろとは気まずげに頭をかいて「こ、今度な」と呟いた。先ほどまでの不安そうな顔はいくらか消え、楽しみなことが一つ増えたと嬉しそうに弓弦はうなずいた。その笑顔にひろとは安心したように微笑む。

「それにしても……靖二郎さんのこと。調べてくれているんだ。」

ふと、タツとひろとを見ながら弓弦はそう呟いた。どういう誤魔化し方をしたのかは何とか分かるが、タツは何も言わなかった。逆にその視線が気になってしまったが、ひろとは咳ばらいをして「まぁな」とうなずく。

「俺の方もなんか嫌な予感がしたからな……」

「ひろとは昔からそういうのがあったよね。」

「直感が鋭いということか?」

何かが気になったのか、タツがそう首をかしげると弓弦は「はい」とうなずいた。

「昔からひろとはそういう予感が鋭いんです。それで何回か助けて貰ったこともあって……」

「『第六感』という奴か……」

ふむ、とタツは手を口元に当ててそう小さく呟いた。呟いたその言葉が気になり、首をかしげるがタツはそれ以上何も言うことはなかった。弓弦の方も表情を少し引き締める。

「今回もそういう予感があったんだ……気をつける。ひろとも気をつけてね……」

心配そうに自分を見る彼女にひろとは「あぁ」とうなずいた。靖二郎に言われたことを思い出して、ひろとは手を握りしめた。

 何かあっても俺らが守るから、思わずそう言いかけたその時。

「掃除は終わったのか。」

 社の後ろの方から聞こえた声にひろとと弓弦は驚いて振り返った。そこには孝介と弥平、そして克典の姿があった。克典の方は朝までつけていたサングラスを珍しく取っている。父の姿に先ほどまで柔らかかった弓弦の表情がとたんに強張った。

「あと、もう少しで終わります。」

「このくらい二十分くらいで終わらなくてどうする………喋る価値すらない者に媚びを売り、油を売っている暇があるのなら仕事に集中しろ。それしか貴様のいる価値はないのだからな。」

孝介の低い声に楓は顔をしかめて黙り込んだ。誰のことを言われているのかすぐに分かった。弓弦自身、それが癖となっているのか。反論することもなく「はい……」と静かに答える。

 村の長を務めている彼の言葉に反論出来る者はほとんどいなかった。言い返した者がいれば後々どうなるかをひろと達は知っている。タツは知らないが、ありもしない悪評で追い出させるように村から孤立する者も少なくはなかった。はたから見れば『おかしい』話だ。しかし、誰もその事すら進言する者はいない。

 唯一、口を出せた者は孝介の横にいた弥平だけだろう。

「孝介。客人のいる前でそこまで言うことないだろう。」

「なに……?」

顔をしかめ、孝介は振り返る。弥平はふと視線を少し離れた先にいたタツに向けた。境内の外にある木々を見ていたタツはお、と小さく呟く。すっかり彼の存在を忘れていたひろとは、いつの間にか少し離れたところにいたタツに驚きつつも振り返った。

「そんなことよりも、水神様の祀られたところを見せろ。」

「図々しく命令するな。」

「靖二郎を襲った怪異を知るきっかけになるかもしれないんだぞ。お前にとってどうでも良いことだとしても、俺には関係ある……ここら辺には何やら変な『気』がする。」

はっきりと言う弥平に舌打ちをして、孝介は「さっさと掃除を終わらせろ」と冷たく弓弦に言い、ひろとを一瞬だけ睨みつけてから境内の奥の方、社の裏手の方へ向かって行った。あの奥は洞窟になっており、その奥に水神様が祀られているであろう所があるのだろう。そんな話を昔、弓弦から聞いたことはあったがひろとは入ったことはなかった。

 去っていく孝介の背を見て、弥平はため息を吐くと弓弦に苦笑を見せた。

「すまないな……アイツはいつもあんなで直そうともしない。自分の娘だというのに……」

「あ……いえ……」

私の方も悪いですから、と言いかけたが弓弦は何も言えず口を閉じた。その視線は少しだけひろとの方に向いている。弓弦は昔から何かあったら自分のせいにする癖があった。それは、彼女の育った家庭が原因だったり、幼少期の記憶のせいだったりとするがその度にひろとに怒られた記憶を唐突に思い出したのだ。

 弓弦の顔色を見て、弥平が少し安心するように微笑んでから「親父」と近くにいた克典が、懐に入れていたサングラスを着け直しながら気だるげに声をかけた。

「くだらねぇことやってんじゃねぇよ。雑魚に構ってる暇なんかねぇだろ。」

「克典、」と弥平は顔をしかめた。しかし、そんな彼は父に対して態度をすぐに変えることもなく、ひろとを見ると鼻を鳴らした。

「生まれが違うんだ。本来なら、テメェはここに来る価値すらねぇんだぜ?」

「……この神社が誰のものか、なんてないだろ。ここはこの村のもので、俺達を守ってくれる大事なものだ。」

克典の態度が気に食わず、思わずひろとはそう言い返す。あ?と克典が顔をしかめた時、「克典」と再び弥平が低い声で制した。克典は舌打ちをして、手を振ると孝介の向かった社の方へ歩き出す。彼のあの態度にはいつも苦労しているのか、弥平はため息を吐き「すまないな」とひろとに声をかける。靖二郎によく似た表情だった。

「悪い奴ではないんだが……優秀すぎるせいもあってか、自尊心が大きすぎる。他者も大事にするべきだとは思うんだがな。何より君の前でもあの態度は……」

弓弦を見て、弥平がそう呟いた。

「私はまだ、あの人を『お兄ちゃん』とは認めてないですから。」

不機嫌そうに鼻を鳴らして、楓はそっぽを向くと弥平も「あとでこちらの方でも言っておこう」と苦笑を浮かべた。

 しかし、ふと。近くにいたタツに目を向けて首をかしげた。

「ところで貴殿はなぜ、こんなところに?何か気になるものでもありましたかな。」

ひろとは驚いてタツを見る。なぜ、ここでタツに声をかけたのか分からなかったからだ。今、思い返せば弥平の視線は最初から弓弦にもひろとにも向けれることはなくタツの方に向いており、まるで最初から彼と話すことが目的だったようにも感じる。

 しかし、タツは動揺を見せることなく「いや、なに」と微笑んだ。

「観光ついでにそこの少年と来ただけですよ。昔からこういう地方の逸話を聞くのが好きなので。」

「……ずいぶんと気配を消すのがお上手で。」

弥平の言葉にタツは目を閉じると「まぁ……」と肩を軽くすくめてみせた。気が付くと言葉遣いは標準語になっている。

「家の事情に赤の他人。ましてや、余所者が首を突っ込むのは野暮でしょう。生憎と、この見た目のおかげで空気に溶け込むは昔から得意な方でして。」

自分の奇異な見た目を見せるように両手を広げながら、タツがそう答えると弥平は少し目を細めてから「なるほど。」とうなずいた。

「それが何か?」

その問いに弥平はしばらく黙ってからいや、と首を振った。

「てっきりあなたも、と思ったのですが……………何もないのなら大丈夫です。しかし、ここら辺は怪しい奴がいるかもしれないので気をつけて下さい。君達もな。」

ひろと達に微笑を見せてそう言うと、弥平はタツに一礼して社の方へ向かって行った。なぜだか分からないが緊張感が走り、ひろとは汗ばんでいた手を開いて大きく息を吐く。楓と弓弦も同じように胸を撫で下ろしていた。

「…………今回は弥平殿に助けられてしもうたの~」

苦笑を浮かべ、タツは一同に声をかけた。なんと答えたら良いか分からず、ひろとは曖昧に答えてタツを見上げた。

「弥平さん、苦手なのか?」

少し会話を聞いて分かったことだが、タツが標準語で他者と話す時は、その人に好感を持っているか、親しみを持っているかで分けられているように感じた。

 タツはひろとのその問いになぜそんなことを問うて来たのか分からないようで、「いや?」と不思議そうに首をかしげた。それがなんとも、ひろとには言葉にはしづらいがわざとらしい気がした。

「この見た目でこの喋り方は変じゃろう?それ相応の対応をしておるんじゃよ。」

自身の胸に手を当て、自信満々に言うタツを「本当かよ」と疑うように思わず睨みつけるように見てしまった。タツはそう言うが、どちらかというと胡散臭さが増している気がする。しかし、彼はどこ吹く風でニコニコと笑っていた。

「………ていうか、あの人に事件のこと話さなくて良いのか?」

去っていく弥平の背を見ながら、ひろとは首をかしげた。

 蛇草家は代々霊媒師やら退魔業やらを営んでいる。当初、そんなオカルトをひろとはそんなに信じていなかったが、霊が視えるようになってからは、彼らがそれを生業にしていてもおかしくはないと思えてしまう。

「言わずとも、彼らも気がついているじゃろう。彼らは『腕が良い』………特に克典殿であったかの。彼はなかなか優秀なようじゃな~………靖二郎殿より上ではないかの。」

「え?あのサングラスかけたチャラい奴が??」

「『眼鏡』をかけておるからじゃよ。」

 タツは自身の目元にあるモノクル眼鏡を指差しながら笑った。

「おそらく、彼は霊媒師として。何より『術者』としてここにおる誰よりも優秀じゃろう。家柄、そして『兄弟』という立ち位置がなければ、彼の方が蛇草家の当主になっていたっておかしくはない……しかし、それゆえ『視えすぎてしまう』」

「視えすぎる?」

「霊や異形のモノを、じゃよ。『見鬼』とも言う。もしや克典殿は幼い頃から眼鏡やらコンタクトやらしておらんかったか?おそらく自身で調整するのが出来ぬほど、彼の力が強すぎるということじゃ。じゃから、他のもので見える視界を調節しておるのじゃろう。さっきまで眼鏡をかけておらんかったのは、ここが神の神聖な領域だからじゃ。霊がおらんからの~……おぬしもこの場所を『静かだ』と思ったじゃろう?」

タツの笑みを見て、ひろとは目を丸くした。ふと、小学校の頃の克典を思い出してみると確かに彼は現在つけているサングラスの代わりに眼鏡を着けていた。その見た目に反して、あのような尊大な態度だったため『見た目と真逆だな』と愚痴っていたこともある。

(……でも、そういうことだったのか。昔は、苦労のなさそうとか、いろいろ思ったけど視えるものが広がると知らなかったことが多かったんだって今更思うな……………あれ?)

ひろとはふと、弓弦や楓と楽しげに談笑するタツを見た。

 そういえば、克典はここに来るまではサングラスを外していた。しかし、途中。彼はサングラスを着け直していたのを思い出したのだ。











 屋敷に戻った時、「何か視えたのか」と父が声をかけてきた。舌打ちしかけたが、それをすることはなく眼鏡の縁を押し上げた。そうしないと不機嫌そうな自分の目を見られるような気がした。

「いや?変なモンは何も見えなかったぜ。『水神様』は関係ねぇだろ。」

「そうじゃない。あの『男』についてだ。」

弥平は目を細める。あの男。おそらく神社で出会った鎧塚ひろとが『タツ』と呼んでいた白髪の男だろう。昨日、出会った時から弥平は彼が気になっていたのは克典も気が付いていた。いくら、父達が自分の変化に気が付かないとしても、克典は彼らの変化に気が付けないほど馬鹿ではない。

「……『なんも見えなかったよ』。逆に気味悪いくらいにな。これを着けてないとあのおっさんの姿すら見えなかった。」

サングラスを手に取って、克典がそう答えると「そうか」と呟いて弥平は去って行った。姿が廊下の奥に消えてから、克典は舌打ちをする。

 父は昔からあの様子だった。兄である靖二郎には甘いのに、自分には無関心。いや、その言い方には少し誤りがある。無関心というわけではない。しかし、家の者は皆、自分のこの見鬼の才にしか興味がない。

(『落ちぶれ』一家が……いつかこんな家から離れてやる……まだ、水雲の家の方が俺を見てくれてる。)

 克典が来るその日を静かに待ちわびている一方で、弥平は急ぎ足で廊下を進んでいた。頬の傷のおかげで、ただでさえ怖がられるような顔だと言うのに難しい顔をしているので、横を通り過ぎようとしていた使用人達は皆、表情を強張らせて廊下の端に寄った。

 部屋に戻るとそのまま鏡を見て、顔をしかめる。

「………やはり、何も映らないか………」

鏡はモヤがかかっているかのように曇っていた。それは弥平の姿も、そして周囲の家具達も映すことはない。

 この世には常人では理解が出来ないモノが多く存在している。それに『気づける』か『気づけないか』で見える視界は大きく違い、住む世界も大きく変化する。分かりやすい例は霊や妖などと言った怪異、呪詛の類いだ。それに気付いている者は、やがて必然的に弥平達のような者達に出逢う。

(あの男もその道に精通した者だろう……あの目はそう言う『眼』だ。どちらにせよ、なかなかの手練れだな。『何も見えなさすぎる』…………この男はいったい…………まさか、孝介からの手の者じゃないだろうな……)

 知人の顔を思い浮かべ、弥平は『アイツはやりかねない』と思う。学生の頃からの彼を自分は知っている。自分に有利なことを先に優先し、他はどうなろうと構わないという自己中心的な性格。それは代々から受け継がれてきた時代遅れの風習、その認識によるものだろう。この村で彼に意見を言う者はすっかりいなくなってしまった。それは諦観というのもあるが、それをしたことによって、村から消された人がいるからだ。

 誰だって、自分の身が可愛い。しかし、弥平は違った。唯一孝介に意見を言える彼だが、孝介との仲は良いわけではない。むしろ悪い方だろう。こうして彼に嫌がらせを受けてもなお、意見を言い続けるのは、少しでも変わってもらいたいという諦めきれないものがあるからだ。

(アイツの好きにはさせない……元々、婚儀も『最初から克典目当て』だ……克典を正式に手に入れるつもりだった。まさか、邪魔だからと………)

そう考えて、顔をしかめる。もしそうならば、一線を越えてしまっている。いや、昔から超えてしまっていたのかもしれない。気が付かなかった自分も同罪だ。

 弥平は近くのテーブルに置かれた写真を見た。そこには数十年前に亡くなった妻の写真があった。傍らには同じく死んだ靖二郎の幼少期の姿が写っている。母の腹部に手を当て、不思議そうな顔をしている。

 守らなければ。その息子が家を離れることを望んでいることに気が付かずとも、弥平は写真の入った額縁を撫でた。その時、ふと。廊下の奥の方から何やら声が聞こえてきた。不思議に思い、弥平は鏡に布をかけてから廊下へ出る。見てみると曲がり角の先で八重と桜子が出来るだけ周囲に聞こえない小さな声で話し込んでいた。

「………んで、今更……なのがっ?!」

「知らな………手紙の……しは……」

「──────『手紙』がどうかしましたか?」

思わず弥平が声をかけると、八重と桜子は大きく肩を飛び上がらせた。特に桜子の驚き具合は大きく、化粧をしていても分かるほど顔色が悪かった。

 八重は桜子の顔を見て言うべきか言わないべきか悩む仕草を見せた。弥平が桜子の手元を見るとそこには一枚の封筒と便箋が握り締められている。

「それは?」

弥平が問うと八重は「それが……」と話し出す。桜子の手元にあった手紙を取ろうとすると、彼女は少し抵抗する仕草を見せた。しかし、八重の鋭い視線に圧されて手紙を手放す。何かに怯えるように桜子は自分の腕に爪を立て、視線を逸らす。

「こんなものが、ポストに入ってたのを使用人が見つけて……」

彼女のその態度が気になっていたが、八重に意識を戻して弥平はくしゃくしゃになっていた手紙を受け取る。

 開いて、その手紙の内容を見てから弥平は再び顔をしかめた。


『 これで終わると思うな。次はお前達の番だ。 』


 そこには手書きの文字でそう書かれていた。












 ふと、外を見てみるとすでに日は落ち、遠くの方は赤紫色に変化していた。四時半だというのに日が落ちるのが早いのは冬特有のことだろう。何よりここは山に囲まれているので、日が落ちればすぐに日陰に覆われる。タツの部屋の掃除を終えたひろとは、ソファに腰をかけ広間に置かれたテレビをつけた。昼頃から流れるサスペンスドラマが映し出される。見た時間のせいか、もう解決編に入っていた。

(今回のこの事件もこんくらいあっさり終われば良いのに……)

そんなことを他人事のように思ってしまう。思ったより事件は進まなそうだ。まず、事件の規模がこのドラマのようにはいかない。心霊や怪奇と言った、人間には理解しにくいことも関係している。そうなれば、トリックもへったくれもないだろう。常人には理解できない方法で、人離れした方法で事件が起こされているのだ。

 何より、神社から帰った後、良い情報があったのかとタツに問うてみても、タツは「さぁの~~」とはぐらかしてばかりだ。本当に分かっているのかどうか、怪しくなってくる。

(ていうか、苦手なのは分かるけどやっぱり蛇草さんちと協力した方が良いんじゃねぇか??その方が弓弦も守れるし……でも、タツは極力関わりたくなさそうだったし……でも、なんで??)

 腕を組んで、ひろとが唸っていると入り口の方から「お~~~い!!誰かいるか~~??」と声が聞こえてきた。慌てて我に返り、ひろとは返事をする。一瞬だけ父の声かと思ったが、すぐに違うと気が付いた。彼らは今日、祭りの役員の人達と共に飲み会に出ている。

 店は閉めているのに誰だろうと、入り口の方に向かうとなんとそこには木島晴哉がいた。

「あれ、木島のおっちゃん!どうしたの??」

驚いてひろとがそう声を上げると、お、と晴哉は笑顔を見せた。

「良かった良かった。あの兄ちゃんいるか??」

「兄ちゃんって……もしかしてタツのこと?」

ひろとがそう言うと晴哉は「そうそう!」とうなずいて、手にしていた紙袋を見せた。そこには晴哉の経営している饅頭屋のロゴが入っていた。

「ほら、昨日。饅頭届けるって言ったろ?それなのに朝、来てみたらいねぇしさ~~……おかげで一日中、探し回っちまった。」

「あ……ごめん、行き違いになってたのか……いや。朝、少しの間はいたんだけどほら……あんなことがあったから……」

ひろとの言葉に晴哉は「あぁ……」と視線を横に逸らして顔をしかめた。それが何かはすぐに分かったのだ。噂話が早いのは村ならではの特徴である。

「他の奴らからちょこっと聞いたよ……弓弦ちゃんは大丈夫だったか?」

「あ、まぁ……元気に見せてるって感じだった。」

昼間の弓弦の姿を思い出し、ひろとも晴哉と同じように顔をしかめた。あの後、タツとの会話に盛り上がりつつ、掃除を終わらせた彼女達の表情はどこか明るかった。弓弦もタツの話が面白かったのか先ほどまでも暗い顔を忘れて楽しげに笑っていた。

 自分は、タツのように彼女をあんな風に笑顔にすることは出来ない。

「そういや、タツの兄ちゃんは今何してんだ??」

晴哉の言葉に我に返り、ひろとは「あぁ~……」と曖昧に返事をしてタツの部屋に目を向けた。戻って来てから彼はずっと部屋に籠りっぱなしだった。

 晴哉とひろとが向かうと、彼は机に身体を向け万年筆を片手に何かを考え込んでいた。その顔は難しく。時折、額を万年筆で軽く叩いて机の上に置かれた紙に何かを書いていく。

「……実は帰って来てからずっとあの調子なんだ……声をかけても気が付いてなくて……」

何度か顔を出しに行ったが、ずっと話さずにあの調子のタツに正直居づらくて広間に来たと言っても良い。

「何書いてんだろうな……気になるから、こっそり後ろから見てみねぇか?」

「え、なんでだよ。邪魔しない方が良いって。」

「ラブレターとかだったら面白いだろ!?」

目を輝かせて、晴哉が部屋に入った。止めた方が良いとも思ったが、タツが何を書いているのか気にならないというわけではない。好奇心でひろとも晴哉と一緒にタツの後ろに回り込んだ時。タツがペンを置いて、二人に顔を向けた。

「どうかしたのかの~?二人とも。」

「「うっわ!!?」」

晴哉とひろとは同時に肩を飛び上がらせた。どうやら、ずいぶん前から晴哉の気配にも気が付いていたようで、タツは特に驚くことはなかった。

 タツは二人にくすくすと笑っていた。その様子に晴哉は苦笑を浮かべて頭をかく。

「なんだ、兄ちゃん……気が付いてたのか……」

「入り口でそんなに騒がれておったらの~~」

「何書いてたの?もしかして、靖二郎さんのことまとめているのか?」

え、と晴哉は驚いたようにひろとに目を向けた。靖二郎の事件を調べているということに驚いたようだった。その一方で、タツは「いや?」とのんびりと答えて万年筆をくるくると回す。正直やめて欲しいところだったが、インクが飛び散ることなど彼は気にしていないようだった。

「儂の身内に手紙を書いておるんじゃよ。」

意外な言葉にひろとは「みうち?」と初めて聞く単語のような発言をした。タツはあまり自分のことを話そうとはしない。する必要がないからと離さないのも分かるがそのせいでまるで彼自体が、怪奇現象のように見えてしまう。

 そんな彼に『文通をする相手がいる』という事実にひろとは驚きを隠せなかった。ひろとのその表情にタツは心外な、と言いたげに口を尖らせてから、便箋をひろと達に見せてゆったりとそれを左右に振る。何か文字が書かれていたが、何が書かれているのか分からなかった。

「本当ならば二日くらいで帰るつもりじゃったからの~……しかし、今回の件で少しかかりそうだと思って、心配させぬよう手紙を書くんじゃよ。自業自得とは言え、『お嬢』は心配症じゃからの…………」

「お嬢って。なんだいその子、兄ちゃんの彼女か?!」

好奇心で晴哉が手紙を見ようとすると、タツはひらりとそれを頭上に掲げた。

「彼女ではないよ。高校生じゃし。まぁ~~……遠い、親戚?ってとこかの~~」

「なんで疑問形??」

「……あんた、本来の目的忘れてないよな……」

晴哉とお茶を飲むタツを見て、ひろとは腕を組んだ。ひろととタツの本来の目的。それはもちろん、事件の解明と『弓弦を守る』ことだ。

 顔をしかめるひろとをタツは横目で見ると、「忘れておらんよ~~」とテーブルの上に顎を乗せて手をひらひらと振った。

「特に弓弦嬢は現在も『進行形』じゃ。」

「え?どういうこと??」

「いくら事件の調査でこうしてあちこち歩きまわっておっても、弓弦嬢の傍におれんのではもしもの時に彼女を守れんじゃろう?じゃから、もしもの為の『保険』を彼女にかけておる。もし、仮に彼女を襲う者がおっても『一回だけ』なら大丈夫じゃ。そして、その保険も。発動すれば儂に知らせが来るようになっておる。そんなに心配せずとも大丈夫じゃよ。童~」

ニコニコと笑う彼の姿にひろとはなんとも言えぬ苛立ちを感じたが、言葉に出来なかった。かろうじて「童って呼ぶな」しか言えなかった。

 ふと、話を聞いていた晴哉が不思議そうに首をかしげた。

「なんだ?君ら、靖二郎さんの事件を調べてるのかよ。」

「え、あ……まぁ……」

「童がどうしても気になっておるみたいじゃからの~……ま、一番気にしているのは弓弦嬢のことじゃけどな。」

ペンを走らせながらそういうタツに『余計なこと言うなよ』と睨みつける。しかし、晴哉は特にからかうことも笑うこともしなかった。へぇ、と言いながらせんべいを頬張っていた。昔から晴哉はそう言う所があり、何かと周囲にすぐに心の内を気づかれてからかわれてしまうひろとにはありがたい存在だった。

「んで?なんか分かったの~?探偵諸君。」

晴哉のその問いになんと答えたら良いか分からず、ひろとがタツを見ると彼はペンを置き、キャップをつけた万年筆をくるくる回す。それは話すことをもったいぶっているようだったが、話す言葉を探しているようだった。

「『水神様』の祟りという線も考えたが、あの神社にはそういった『穢れ』は感じ取れんかったしの……」

「穢れ?」とひろとは淹れたお茶を飲みながら、席につく。タツはうなずくと左右の人差し指を立てた。

「怨念、嫉妬。そういう負の感情が溜まり、周囲の空気が悪くなることじゃよ。人のみに限らず、その土地にもそういうエネルギーが溜まることがままある。ガチめの心霊スポットや禁足地はそういうのがよくあるんじゃが、あの場所は霊があまり寄らぬ至って神聖な場所じゃったから、『水神様』は関係ないじゃろう…………そうなると、靖二郎殿を殺したのはまた別の者。」

「やっぱり、当初の予想通り第三者による『呪殺』……」

ひろとの結論にタツは立てていた指を折り曲げてうなずいた。

「おそらく。何者かが、何かの理由で『憎い』と思い、呪詛を送り込んだ。そうでなければ、あんな腹から食われて目を食い破られたりはせん。送り込んだ呪詛が『蛇』なのは、水神様と蛇草の家に関連付けさせるため。分かりやすく言えば、皮肉まじりの当てつけじゃろうな……………とにかく。これからは、靖二郎殿に限らずなんじゃが蛇草家がどこかから恨みをもらっておった線を考えた方が良いじゃろうな~」

「それだったら、やっぱ……孝介さんちじゃねぇかなぁ……」

「え?」

 ポツリと呟いた晴哉の言葉にひろとは目を丸くした。なぜ、自身の子供が婚約関係のある家に孝介が恨みを持つのだろうか。どちらかと言うと、孝介の身勝手な行いに弥平が恨みを持つ方がしっくりくる気がした。晴哉はテーブルの上に肘をつき、わずかに身を乗り出しながら小声で話し始める。

「弥平さんち、実は商売が上手く行ってなかったみてぇんだよ。」

「商売って言うと、霊媒師のかの?」

「あぁ……でも、それは孝介さんが裏で手回しっつーか。弥平さんちの悪い噂を流しているからって話だ。前々から意見言ってくる弥平さんに良い気はしてなかったみたいで……弥平さんちの借金の肩代わりっていう体で決まった今回の婚儀も本当なら克典君の方をもらうはずだったらしい。」

「克典を??なんで??」

ひろとが驚くと「見鬼の才じゃろう」とタツが付け足した。見鬼、先ほどタツが言っていた霊や怪奇を視る力のことだ。克典は蛇草の家でその能力が特に秀でている。おそらく見えたばかりのひろとよりも多くの視えてしまう。

 てっきり弓弦が蛇草の家に嫁ぐのだと思っていたが、どうやら本当のところは蛇草家が水雲家に嫁ぐということだ。混乱して、ひろとが唸りながら情報を整理している様を晴哉は苦笑しながら見ながら手でバツ印を作った。

「けど、弥平さんはそれを断った。」

「なるほどな~……しかし、孝介殿は『何を』視たがったのかの……」

ペンを置き封筒に手紙を仕舞いながら、タツは他人事のように呟く。万年筆を袖に入れ、タツは考え込む。

「克典殿の見鬼の才を欲しがるということは、それを必要となる時があるということじゃ。仮に彼が犯人だったとしたらじゃが、靖二郎殿を殺してまで克典殿を自分のものにしようとした……なぜ、必要なのじゃろうな?」

「さぁ……誰かの『霊』を視たいんじゃねぇか?」

頬をかいて、晴哉もひろとと同じように首をかしげるとタツは「そうじゃの~」と曖昧な返事をしてお手上げとでもいうように、テーブルの上に頭を乗せて口を尖らせた。タツの話を聞き終えてから先ほど、推理ドラマのようにはいかないと言ったが、それは誤りだったなとひろとは思う。

 怪奇が関わっているせいもあるから簡単に行かないと思っていたが、呪いも怪奇も全て『人の情』に繋がっている。誰かが何かあり、どういう理由があってか怒り恨み嘆いている。それが恨みという呪いで犯行に及んでいる。方法が常人の範疇で起こっていないということだけだ。結局は様々な原因で引き起こされている。

(でも、その原因が多すぎてこんがらがってくるな……)

ひろとが頭を押さえて唸っていると「そういえば、」とタツは視線を横に向けながらぼんやりと呟いた。一度、考えることを止めてひろとはタツの顔を見る。

「どうして、水雲の家は弓弦嬢に対して『あんな感じ』なんじゃ?」

 雑談でもするようにのんびりと聞かれ、すっかり気の抜いていたひろとはギョッと身体を強張らせた。晴哉も目を丸くしてタツを見ている。独り言だったのか、タツは思わず目を細めて『しまった』という顔になる。すぐに「いや、」と呟いていつもの微笑を浮かべると身体を起こす。

「失言じゃった。言いたくないのなら別に──────」

「そ!……れは……たぶん、弓弦が『水雲の家』生まれじゃないからだと思う……」

声を上ずらせてしまったが、ひろとは少し言い淀んでからタツの問いにそう返す。タツが目を丸くするのを見て、思わずひろとは自分の言った言葉に心が痛むのを感じた。言い方が悪かった自分を叱る。

 弓弦は間違いなく水雲の家の人間だ。血だってそれが流れているだろう。しかし、それは半分だけだ。

「弓弦ちゃん。実は父親が分かんねぇんだよ。誰なのかもな。」

「それはもしや…………」

何かを言いかけたが、タツは何も言うことはなかった。なんと言ったら良いか分からないのか、ひろとの代わりに話し始めた晴哉も顔をしかめたまま話し続ける。

「それに弓弦の本当の母親は、八重さんじゃない。『水雲雫』さんだ。水雲家は八重さん、桜子さん、そして雫さんの三姉妹で孝介さんは蛇草家と同じ入り婿だ。本当なら二十歳過ぎになると嫁入りをしたり、入り婿したりすんだけど……雫さんはどこの誰なのかも分からない相手と関係持っちまった。妊娠が分かった時、それはそれは大騒ぎだったんだぜ?」

 伝統や正規な関係を重視する水雲家にとって、弓弦の実母がしたことは絶縁をされてもおかしくないだろう。一時期は『お前は水雲の家じゃない』と罵られたこともあったらしい。

「……今、その雫殿は?」

タツがそう問うと晴哉は懐から煙草を取り出した。

「亡くなっちまった……山で足を滑らせてな。」

一口吸ってから晴哉は手元に灰皿を寄せると、その当時のことを淡々と話し始める。

 その事故が起きた日のことは、ひろともよく覚えていた。場所は参道から少し外れた山の中で、崖下だった。そばには川が流れていて、大きな岩も目立つ。弓弦の母、雫は崖から落ちた後、その中にあった岩に頭をぶつけて亡くなっていた。その現場を見た八重達は絶句し、騒然となっていた。その時、弓弦は幼いせいもあってか。よく分かっていない顔をしていた。

 実の母親が亡くなり、弓弦は八重に引き取られた。しかし、彼女の生まれの影響か。八重のみならず水雲の家は彼女を他人のように扱うようになったのだ。唯一、接した方を変えなかったのは楓だろう。彼女は生まれがどうであれ、弓弦を『唯一の姉』として好意的だ。

「─────それは……ずいぶん酷な話をさせてしまったの~………」

すまないとタツは目を閉じ、ゆっくりと頭を下げた。彼のその態度に煙草から口を離して「気にすんなよ」と晴哉は笑った。

「みんな。自分の中で区切りは………つけれてんだ。あの人も、みんなに好かれてた人だったから…………」

灰皿に煙草を置いてそう寂しげに言う晴哉をタツはしばらく黙って見ていた。













 森の中を一人の男が歩いていた。これが少し離れた場所ならば、参道に出れるだろうが男はそこに行くわけにはいかなかった。出来るだけ人目につかない方が良い。

 男の歩く道は、動物が長い間通り続けて出来た獣道。手入れはされてないので、いくら山道に慣れた人であろうと気をつけないと急な坂に足を滑らせる可能性がある。普通の人ならば暗闇のおかげで足元がおぼつかなくなってしまうだろう。しかし、男は平然と歩いておりその表情や息は落ち着いている。

「……そうか、応急処置とはいえ『何とかなったか』。いやはや、おぬしに多少の機能を乗せておいてよかった。」

 誰に言うわけでもなく、けれど何かに語り掛けながら話していた男は微笑を浮かべる。

「とはいえ、『破られた』……か。まぁ、それは後で儂が直すとしてそれよりも一度、戻っておくれ。おそらく、これから儂の方も長丁場になりそうじゃ……『もしも』の時の為に負担は減らしておかねばの~……何、彼女には言わんで良いじゃろう。後でまた手紙を送る。」

 ふと、ぼんやりと周囲が青白く光り始めた。男が見上げると木々の隙間から月が顔を覗かせていた。

 満月に近い形をしている。

「───────────さて、と。」

 男はそう呟くと周囲を見回す。川を流れる水の音が近くに聞こえる。おそらく数歩先に行った斜面の下が川なのだろう。我ながらこの村の地形を覚えるほど、ここを歩き回りそして滞在しているのだと実感した。

 元々、この村に来たのは『ついで』だった。その前にも何件か温泉巡りをしており、評判の良いこの村に最後辿りついた。長く滞在するつもりもなく、一泊二日程度。『頼まれた』として放っておくことだって出来る。しかし、こうして放っておかないのは彼らの『あの目』に負けたからだろう。

 自分達はあの『決意を宿した真っ直ぐな瞳』に弱い。

(そういう巡り合わせ、か…………)

 そんなことを頭の片隅に考えながら彼はゆっくりとしゃがみ込んだ。避けたかったこととはいえ。『頼まれた』以上、尽力を尽くすのが彼がモットー。今回もそこにきちんとあるかを確認しに来たのだ。

「『仕込みは上々』………じゃな。」

男、タツはポツリと呟いて目を細める。湿った雑草をかき分けた先。木の根に張り付けるように釘で頭を打ち付けられた蛇の死骸がそこにはあった。














 誰かが、泣いている。

 その声を聞いた時、一瞬俺の頭の中に浮かんだのは弓弦だった。彼女の泣き方と似ていたからだ。

 弓弦?と俺は声のする方に顔を向けると、そこはなぜか葬式場だった。辺り一面。線香の香りがしており、念仏と木魚の音が響き渡っている。参列者は皆、喪服を身に纏っている。

 雨が降っていた。夢にしては縁起でもないな、と思っていると場面が変わった。

 葬式が終わり、居間に親戚一同が集められている。

 部屋の隅には少女が一人。黒猫を抱えていた。

『それでは、』

 声が聞こえ、俺は顔を向ける。スーツ姿の男が一枚の紙を持っている。

『次の───家当主様をお伝えします。』

 男のその一声で、突如。少女以外の人々の顔に鬼の面が付けられた。憎悪と怒りの視線を俺に向け始めたのだ。いや、正しくは俺の後ろにいた少女に向けられているのだろう。

『コイツに任せるのか?』

『いくら、前当主の孫だからと……』

『いや、『前前当主』だろ。あの娘の親が……』

『そんなことどうでも良いだろ。それよりもあの小娘が?』

『今まで大して使えないくせに』

 少女の抱えていた黒猫が唸り声を上げる。

『そもそも、今までも本家にいなかったくせして今更戻ってくるつもりか。』

『使えないくせに』

『役立たずの落ちこぼれが』

 あぁ、ここから。彼女を逃げさせなければ。

 視線を受けながら、俺はそう思う。

 おそらく、これは『俺』の感情じゃないのだろう。でも、俺の頭の中に誰かの子が聞こえ来て、俺もそうしなければと思ってしまう。

 似ていたからだ。彼女に。

 俺は後ろに座る少女に声をかけた。

「逃げようよ。ここじゃないどっかに──────」

少女はポツリと呟いた。

「─────────『どこ』に?」

 聞き馴染んだ声に俺は目を丸くした。顔を上げた少女の顔は弓弦だった。

「どこに行くの?」

「────────────ぁ、」

気が付くと黒猫はいなかった。背後から忍び寄る無数の手が、弓弦に伸ばされていく。

 俺が何も言えないでいると弓弦は目を伏せて顔をしかめた。その頬には涙が伝っていく。

「どこに行っても何も変わらないじゃない。人はみんな、私を見てくれない。誰も気が付いてくれないじゃない……あなただって……」

弓弦は俺を睨みつけた。

「どこに行っても変わらないなら、私はどこにも行かない。私は────────『一生ここで死んでいく』。」







 「ひろと?」と声が遠くから聞こえて、ひろとは目を開けた。その顔を覗き込むように弓弦の顔があった。ハーフアップにしていた髪は下ろされ、わずかに湿ってた。うっわ、と慌ててひろとは飛び退いた。

「あ、あれ……!?ゆず……」

「ごめんね?温泉借りてたから……上がったこと伝えようと思って……」

タオルを見せながらそう弓弦が言うと、視線を後ろに向けた。女湯からは楓がタオルを片手に出て来ていた所だった。

 そういえば。夜にタツや晴哉が出て行った後に『温泉に入りたい!』と突然、楓達がやって来たことを思い出した。特に断る理由もなかったし、浴場の掃除は毎日の日課だったので誰かが入ってもすぐに湯を張ることが出来た。ので、特に断ることなく彼らを招いたのだ。ひろとはため息を吐くと顔に手を置いた。しかしふと、その額がわずかに湿っていることに気が付いた。弓弦に起こされる前の夢をひろとは思い出す。

(……あの夢……)

 夢にしては鮮明で、重苦しかった。まるで不甲斐ない自分を責めている夢に見えたがどちらかと言うと、『記憶』を映像で見せられている感覚に近い気がした。

(でも、いったい誰が…………『誰』??)

 そう思っていると、弓弦が心配そうにひろとを見ていることに気が付いた。慌ててひろとは顔を上げると「大丈夫だよ」と弓弦に笑みを見せた。

「本当?うなされてたけど……疲れてる?その……事件のことで……」

「いや。本当に大丈夫だって!ちょっと体勢が悪かっただけ。それよりも今から帰るんだろ、途中まで送ってくよ。」

「あ、いや……大丈夫──────」

「ありがと~~!!ひろとお兄ちゃん!!」

弓弦が断るよりも先に楓が笑顔でそう答えると、帰り支度を始めた。ひろとも苦笑を浮かべて、軽く身支度を始める。この時期は特に山の気温が下がるので、いつもよりも厚着した。そういえば、タツは昼間と変わらない服装で出て行ったことを思い出したが、大丈夫だろうかと思いながらスマホだけをポケットに入れて弓弦達のところに戻ってくると、申し訳なさそうな顔をしていた弓弦に笑う。

「気にすんなって。何より、まだ……捕まってないから危ないだろ。」

「うん……ありがとう……」

 軽く戸締りをして、ひろとは思わず空を見上げた。きっと、都会までとはいかないだろうがそれでも通りの灯りによって星は見えにくかった。通りの灯りが消えたらはっきり見えるようになるだろう。曇り空の間からぼんやりと光る月が小さく見えた。ひろとは白い息を吐き出し、二人を連れて歩き始める。楓はひろとや弓弦の少し前を上機嫌にくるくると回りながら歩いていた。危ないよ~、と言う弓弦にひろとは苦笑を浮かべる。そんな彼の姿を横目に見て、弓弦はふと視線を落とす。

「……事件。どう?」

ひろとは弓弦を見た。

 怪奇が関係する事件のことを話すことは難しかった。なんせ、常人には『ファンタジーか?』と笑われたっておかしくないことが起きているのだ。どう説明すれば良いか分からず、ひろとは「ぼちぼち?」と疑問形で返しながら頬をかいた。

「タツならなんか気が付いてっとは思うんだけど……アイツ。変なところでぼかすんだよ。分かってることがあったら言ってくれてもいいのにさ。そもそも頼んだのは俺の方なのに……全部アイツ一人で何とかしようとしてる気がする……」

「たぶん。ひろとにも危ない目に遭ってほしくないからじゃない?」

「え、」とひろとは目を丸くした。そして、ふと。朝、タツが言った言葉を思い出した。


 『おぬし自身も守り、弓弦殿も守ってみせよう』─────────


(タツの守る対象には、自分も入ってる?)

 あの時、ひろとの中に『自分の安全』のことは入ってなかった。弓弦の安全しか考えてなかったが、彼は最初から二人を守るつもりだったのだと今更、気が付いてひろとは黙ってしまった。弓弦は心配そうに顔をしかめた。

「もしそうなら、私。少し分かる気がする……ひろと、勘が鋭いけどそれ『自分』には使えないじゃない?だから、もし仮に自分に危ない目に遭いそうになってもそれを予知できない…………私、嫌だよ。もし、ひろとが危ない目に遭って大怪我したりしたら…………私だけじゃない。ひろとのお父さんだって悲しくなると思う。それは嫌……それに楓以外で大切な人がいなくなったら私…………」

ひろとは弓弦を見た。弓弦の表情はマフラーに埋もれた髪に隠れてしまい、よく見えない。その言葉の意味を問うことが出来ず、ひろとは頭をかきながらうなずいた。自分のヘタレさに自己嫌悪になっていく。しかし、頭を振ってそれを一時的に消すと「大丈夫だって!!」と弓弦に向き直った。

「アイツなら、早く犯人を捕まえて弓弦達を守ってくれる!!なんとなく頼りになりそうだし………!!」

弓弦の目の前に拳を付き出しながら、自分に言い聞かせるようにそう言う。それを見て、弓弦は「確かに」と笑った。沈んでいた彼女に笑顔が戻り、ひろとは微笑んだその時。

 鋭い風が通りを吹き抜けた。

 道行く人々は突如吹いた強風に悲鳴を上げ、「さっむ~~い!」と笑いながら再び歩き始める。楓と弓弦も乱れた髪を直しながら笑った。しかし、ひろとは違った。

 風が吹いて来た山の方を見ながら思わず顔をしかめる。冷気が身体に染み渡るかのように風と共に嫌な予感を感じたのだ。

 そしてそれが、当たってしまうと知るのは次の日のことだった。














 呪っていた。

 この村。そして、未だに呑気に暮らし続けている人々。その全てを恨んでいた。

 長い間、溜め続けていたその恨みはとぐろを巻く蛇のようだった。

 もう少しだ、と内心で思いつつ上手くいかない事態に苛立ちを感じる。あと少し。もう少しで復讐が成就されるというのに、上手く術は動かない。

「『天迷々、地迷々。吾時を識らず────』」

 呪を呟き、印を組む。多生の問題はあれど辞めることは出来ない。というかするつもりもない。

 奴らを殺さなければ。数十年前の『彼女』の無念を晴らさなければ。




 そうでもしなければ、『彼女』を愛した─────その面影を遺したあの子を救うことは出来ないからだ。







『続』


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