溶けたチョコレート(改稿・加筆版)
若林亜季
溶けたチョコレート(改稿・加筆版)
芳子は今年三十歳になる。このままでは出産どころか結婚もできないかもしれないと常々思っている。市役所の先輩保健師は半分くらいは結婚している……だろう。なかなか未婚率が高い職場では聞きにくい話題なのだ。大学で同期の友人は、そのまま大学病院に就職したが、約五十パーセントの未婚率らしい。資格を持ち自立しているからだけではなく、どちらの職場も仕事に忙殺されていて、毎日の業務を問題なくこなすことで精いっぱいなのだ。
それに保健師という職業を選択した性格上、夫や子どもの事を心身共に健康に保つ役割である「妻」や「母」としてきちんと対応したいと思っている。だが、芳子は仕事と両立して「妻」や「母」としてきちんと対応できる自信がなく、今一つ結婚に踏み切れないでいた。
大学生の時から九年も付き合っている
そんな結婚への憧れよりも不安が先立っていた時、一幸が自身の三十歳の誕生日にいきなりプロポーズをしてきた。一幸曰く「けじめ」なのだそうだ。
突然のプロポーズに戸惑いはあったが、このまま市役所勤務を続けながら妊娠、出産を行うならば三十代の初めにしないと、自分の体力、気力が持たないだろうとプロポーズを受け入れた。結婚式の日取りは来年の移動先で決めようと、プロポーズを受けた翌月に顔合わせと結納をすることにした。
市の外れの山の中腹にある一幸の実家は地元の旧家と言われていた。そこで執り行われた顔合わせは、親戚や県会議員で議長をしている父親の後援会の方もいて総勢四十名の大宴会となった。
結納は芳子の実家で行われた。狭いので一幸と両親だけを呼んだのだが、建売の六畳の和室は立派な結納の品でほとんど埋まった。会食は近くの料亭にして良かったと思った。会食の際に、結婚式の招待客が総数三百人を超えるかも知れないと言われ、準備だけでも大変そうだと気合を入れなおした。
***
芳子と一幸は同棲はしていない。出かけても旅行の時以外は、少し遅くなっても実家まで一幸は送ってくれる。そんな少しお堅い感じが一幸の誠実さだと好ましく思っていた。それでも婚約してからは偶に一幸のマンションに泊まるようになった。
芳子が風呂に入り、髪を乾かしていると、食事の準備をしてくれていた一幸が聞いてきた。
「なあ、そっちにもインターンシップ受け入れとかやってる?」
「うん。大学の後輩の看護学科の子が来るけど、私の所は健康教室の見学位だから、お世話はあんまりしなくていいよ」
「俺、担当になってさ。議会の説明とか面倒臭い」
「去年も思ったけどさ、大学生ってキラキラしているよね。若さのエネルギーって言うの? 眩しくて、羨ましいな」
「そうか? 交流会も企画任されちゃってさ。若すぎて気を遣うんだよね。何か言うとパワハラとか言われそうで」
「そこ、気を付けてね。一幸、酔うと説教おじさんになるから!」
一幸の作った夕食を食べながら、芳子は説明しなくてもポンポンと続く会話を楽しむ。一幸とだったら、職場の事も理解できるし、協力していい家庭を築けると思って嬉しくなる。
「なに? ニヤニヤして」
「んー? 結婚してもあんまり変わらないって言うのも、逆にいいなって思ったから」
「俺も。芳子といると落ち着くんだよね。仕事から帰ってきた時に、部屋に芳子が居るとホッとする。だてに九年も付き合ってないよね」
「あ、橋本のお義母さんから電話あって、今度おじいちゃんの米寿のお祝いするって。私たちのお祝い何にする?」
芳子はこれからも穏やかな日々が続くことを確信していた。
***
慌ただしく日々は過ぎていく。
二月の議会が終わり、一幸は仕事に余裕が出たようだ。だが、芳子は全国のブロック会議の為の資料作りと、全国生活習慣病予防月間の啓発活動でなかなか会う時間が取れない。日曜日にモールに行くと一幸が言うので、いつものご褒美チョコレートを買ってきてもらうことにした。
芳子は夜、金色に輝く高級ミルクチョコレートを一枚ゆっくり食べることを、自分のご褒美にしているのだ。
月曜日、栄養価や
ガチャン!
何故かチェーンまでしている。何も考えずインターホンを鳴らす。途端にバタバタと慌てた一幸がチェーンの隙間から青ざめた顔を覗かせた。二月だと言うのにパンツだけをはいている。いつもは夏でも必ず肌着とパジャマを着て寝ているのに。
芳子は一幸の浮気疑惑に激高した。一幸の誠実さが好きだったのに、なかなかスケジュールが合わない週末や、マンションへの訪問を断る口実が全て浮気をするためだったのかと疑念が募る。
興奮しているのに、頭の芯は冴え冴えとして、九年分の想いが一瞬で崩れ去った。もう一幸に依存している自分も、忙しすぎる仕事も、どこまで積めば良いのか分からなくなったキャリアも、全部いらない。
今はこの裏切り行為の正確な記録が必要だと思った。
芳子は満面の笑みで迎え撃つ。
「おはよう。お弁当作ってきたんだ。朝ごはんもあるから開けて」
「あっ、ありがとう。でも、もう出るから後で取りに来るよ。朝早めに行って資料作ろうと思ってたからさ」
「庁舎、まだ暖房入ってないから寒いよ。あ、頼んでたチョコは?」
「俺が取ってくるから、待ってて」
なぜか再度ガチャンとドアが閉められ鍵が掛けられる。これは、黒だな。九年間そんな事全くなかったのに。知らなかっただけなのだろうか。とりあえず相手を確認してやる。ここは四階。外部への逃走は無いだろう。
バタバタとしたあわただしさが中から聞こえてくる。芳子はほとんど取った事のない有休を課長にどう連絡するか、頭を巡らせていた。今日は内勤の日だ。窓口業務は芳子が抜けても大丈夫だろう。課長にはとりあえずメールして、後で電話しよう。一幸は十分近くもかかって玄関から十歩もない冷蔵庫からチョコを取ってきたらしい。
「チョコ、ありがとう」
渡されたチョコレートを芳子はビジネスバッグに無造作に突っ込んだ。
「ほら、もう行こう!」
急いでスーツに着替えた一幸がアパートから芳子を押すようにして出てきた瞬間、芳子は一幸の脇から滑り込み、寝室まで走った。そして直行した小さなゴミ箱にかぶせたビニール袋を確保した。気持ち悪いので、いつも持ち歩いているエチケット袋に保管する。
「な、なにしてる?」
「え? 浮気の証拠集めですけど? お相手の方はどこに?」
芳子は一幸を無視して探す。平然とした態度をとっているが、心臓がドキドキと脈打っている。息が浅くなり、呼吸の回数が上がっている。過呼吸になりそうだ。
マンションは1LDKだ。クローゼットに居ないなら、トイレか風呂場だろう。トイレが使用中になっている。一幸が必死に止めようとしたが、そこには二十歳になったばかりの様な女の子が怯えた顔で荷物をもって立っていた。
こんな若い子! すっぴんが眩しい。肌も張りがあって隈やシミ一つもない。長身で痩せぎすな芳子と違って、ぴったりとしたセーターから小柄なのにグラマーな事がわかる。流行の髪型と髪色。きれいなネイルにまつ毛にはエクステ、ヘーゼルナッツ色のカラコン。清潔だったらいいと、ひっつめ髪にしている芳子と何もかもが違った。だけど芳子は平気な顔をする。負けられない! 一幸などくれてやる。だが、私が勝者になるのだ!
芳子は今までで一番いい笑顔を作り、言った。
「一幸。ご紹介してくれる? どういったお知り合いなのかなって。私達、九年も一緒にいて、一幸の御親戚の方も地元のお友達も大体知っているのに、この子のこと私知らないから」
「あの、勘弁してくれないか? 彼女は飲み過ぎて具合が悪くなって、泊めただけだよ」
「あなた、お名前は?」
「そんな、問い詰めなくたっていいじゃないか」
「一幸には聞いてない!」
芳子は怯えている様子の女の子に、さあ言えとばかりの笑顔を向ける。
「か、佳澄です」
「そう。身分証明書見せて。未成年だったら犯罪になっちゃうから」
芳子は右手を差し出し、催促する。
「そこまでする必要無いじゃないか! 俺を信じてくれないのか? 九年も一緒にいて、結納まで済ませてるんだぞ! もう帰ってもらうから」
そう言うと一幸は佳澄の手を取って玄関に行こうとする。
「待って!」
強い口調で呼びかけると、二人は顔を上げた。
カシャリ。芳子が佳澄に向けたスマホのシャッター音が響く。
「まて、待て。写真まで撮って何に使うんだ!」
「じゃあ、正直に話して」
芳子はダイニングの椅子に二人を座らせ、自分はテーブルをはさみ対面に座る。
「はあ……彼女は岩崎さん。インターンシップの時に来てた子。大学のゼミの後輩なんだ。市役所から内定もらったからって相談に乗ってたんだ。それで俺が、酒でも飲みながら話そうって店に誘って、そしたら彼女酒に弱くて、具合が悪くなって危ないから泊めたんだ」
「そうなの?」
芳子は佳澄に尋ねる。
「はい。インターンシップの時にお世話になってて、親身になって聞いていただいたので、今回も相談させてもらいました」
大学生か。一幸の事が更に汚らしく思えた。若い子が良いなんてオジサン丸出しじゃないか。
「じゃあ、なんで最初からそう言わないの? 寒いのにパンツしかはいてないし、いつもはかけないチェーンまでして、浮気を疑われてもしょうがないでしょ?」
「何にもないよ。何疑ってんの? 俺が信じられないのか?」
少し強めに反論する一幸。
どんな理論なんだろう。何をもってこの状況で疑わない、信じられる要素があると言うのだろうか。情に訴えるつもりなのだろうか。芳子はそんなモノには流されない。こちらは学生の時から、エビデンス、エビデンスと言われて育った保健師だ。客観的事実から、真実を導き出すのは得意なのだ。
「では、この寝室のゴミ箱の中身は何ですか?」
エチケット袋から取り出したビニール袋を広げると、丸められたティッシュと使用済み避妊具が数個あった。それだけでも負けた気がした。芳子とはレスではないが、毎回一回だけなのに。
「なっ! そ、それは俺が自己処理したときに使用したんだ。そんなゴミ、早く捨ててくれ!」
「では、佳澄さんとは使用していないと?」
「そうだよ! もういいか? くだらない事で遅刻したくない!」
芳子は仕事用のビジネスバッグを探る。あった。以前インフルエンザの検査を説明する時に使用したサンプル。芳子は、鞄から取り出した滅菌パックに入った長い綿棒を二人に見せる。
「じゃあ、佳澄さん。あなたの頬の粘膜を少し頂戴。しかるべきところに提出し、DNA検査をさせていただきます」
佳澄はすっかり怯えた様子だ。一幸も青ざめてきている。
「あなた自身の潔白を証明する為に必要なんですよ。責めているんじゃありません。ちょっと拭うだけです。痛くはありませんよ。できないと言われたら浮気を疑います」
一幸は真っ青になって急遽、謝罪に転じる。
「すまない! 俺も彼女も一時の気の迷いなんだ」
二人は息もぴったりに頭を下げて謝罪する。
「佳澄ちゃんとは、一昨年のインターンシップで知り合ったんだ。時々ご飯に連れて行っただけだよ」
「いつから深い仲になったの?」
一幸には聞いていないと、体を佳澄に向けて問いただした。佳澄は、少し沈黙した後話し出した。
「……今年の市役所の一次試験の前にお会いしてから、その……」
芳子は嫉妬で苦しくなった。一幸も忙しいと言いながら、こんな可愛い子と二人で食事を楽しんでたなんてそれだけでも嫌な気持ちになる。それに、一次試験があった八月と言えばプロポーズをした月ではないか! 最悪だ! こんな道徳観のない子は公務員に向かないと思う。それを言うなら一幸もだが。
「同じ職場で私とも顔を合わせるかもしれないのよ。あなた嫌じゃない?」
「市役所辞退しないといけないのでしょうか? でも私、凄く頑張って市役所から内定もらったんです。ウチは母子家庭で、大学も奨学金返済しないといけなくて……」
「内定取り消しを希望したりしないよな? 佳澄ちゃんの家庭は大変なんだ。佳澄ちゃんはやっと親孝行できるって喜んでいたんだ。今回の事は本当に魔が差しただけなんだ!」
「じゃあ、佳澄さんは私たちが婚約中であることも、私が一幸と同じ職場だって事も知ってたの?」
ギリと睨みつけ返事を促す。否とは言わせないと目力を込める。ますます怯え、芳子と距離を取ろうと少しのけぞって一幸にすがろうとしている。
「……はい。知ってました。ごめんなさい……」
はい! 言質取りました!
芳子はスーツの胸ポケットに入れたボイスレコーダーを取り出し机の上に置いた。会議用の高性能ペン型ボイスレコーダーだ。こうなるかと外で待っている時にスイッチを入れておいたのだ。
「私はあなたにも慰謝料を請求いたします」
「そんな! 私、お金ありません。母もこんな事知ったら倒れてしまいます。お願いします。もうかず君とは会いません」
「いくら何でも酷いじゃないか! こんな卑怯な手を使って!」
「じゃあ、一幸は卑怯じゃないの? 九年間も付き合って結納まで交わしてるのよ。大学生と浮気して許されると思ってるの? 相手に嘘までつかせて、恥ずかしくは無いの? あ、私が脅迫した事になったら嫌だから、今から弁護士さんの所に相談に行ってくるね。お二人も私と直接交渉するの嫌でしょ? 弁護士さんを立てた方が良いと思うよ。佳澄さんもお金がなかったら大人の人に相談してね。あ、これ、お弁当。二人分あるからお二人でどうぞ!」
芳子は弁当をグイと一幸に押し付け、鞄を抱き、部屋を出た。始終冷静だと芳子は思っていたが、靴を履いたままだった。
いつもダイニングでは一幸と並んで座っていたが、今日は反対側の椅子に座った。ファンヒーターの熱が直接当たっていたのだろう、机の横に置いていたビジネスバッグが熱い位だ。中のチョコレートは無事だろうか。自宅に帰ったら冷蔵庫で冷やそう。
自宅に戻ると、十時からパートに行く予定の母と、先日定年退職し家事を勉強中の父と、大学院生の一番下の弟が台所でコーヒーを飲んでいた。家族の注目を集めながらも、何も言わず冷蔵庫のドアポケットにチョコレートの箱を押し込む。
「姉ちゃん。仕事は?」
弟が聞いてきた。這ってでも仕事に行くような芳子だ。本日の朝食が豪華だったのも、芳子が婚約者の一幸に弁当を作ったからだと家族は知っている。体調不良で帰宅したとは考えられない。ドカリと椅子に乱暴に座る。家族が、さあ、話せと言った目で見てくるので答える。
「仕事は休んだ。一幸のアパート行ったら、浮気相手がいた。大学生だった。私と正反対の可愛い女の子。一時の気の迷いと言われたけど、九年分裏切られた気がしてもう無理……顔も見たくないから仕事も辞める」
「……そうか。お前がしたいようにしていいぞ。お前がどうしてほしいか言えるようになったらお父さんに言いなさい。向こうに話を付けに行くから」
お父さん、男前。いつもはお母さんの尻に敷かれているのに。
真面目だけが取柄で出世もしないしカッコいいイケオジでもないけど、結婚生活で相手に誠実な事は、すべての信頼関係の根本になっているのだと芳子は改めて父母を見て感じた。
「芳子ちゃん……」
気遣わし気な母はソワソワと芳子の周りを回っている。芳子は幼少時からしっかり者で、甘えるのが下手なのだ。嫌な事や悲しい事があるとしばらく部屋に閉じこもり、自分で気持ちを切り替えてから出てくる、手のかからない子だった。心配症の母は手や口を出し過ぎないようにいつもセーブしてくれていた。
芳子は母の手を取り、二十何年振りかに母の腰に抱き着いてみた。母の温かさと懐かしい匂いが芳子を包み込み、心の奥底から安心感が湧き上がってきた。こんなに癒されるなら、もっと沢山甘えておけばよかったと後悔した。母は芳子らしくない突然の行動に驚いたようだったが、優しく頭を撫でてくれた。その手の温もりに、涙が溢れだした。家族の前で声を出して泣くのは、記憶にある限り初めてのことだった。母の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らしながら、芳子は自分の感情を開放していった。母は何も言わず、ただそっと抱きしめ続けてくれた。
「そんな奴、結婚前に分かってよかったじゃないか! 姉ちゃんは悪くない!」
いつもなら甘えん坊の末の弟が涙を流しながら怒ってくれていた。
小一時間で芳子は家族から十分な愛情を感じて気持ちを切り替える事ができていた。もう元には戻らないのだ。前に進む決心をした。
「お父さん。お母さん。心配かけてごめん。もう、大丈夫! 私、今から弁護士さんの所に行ってくる。できるだけ慰謝料ぶんどってくる! 仕事辞めて、新しい事をはじめる。四月に辞められるように調整してくるね」
まだ心配げに見上げてくる弟の頭をグシャグシャと撫で、にっこり笑って見せる。
芳子は証拠の入った鞄を握りしめ、仕事を通して知り合った弁護士の所に行く準備をする。その前に、課長に電話して仕事を辞めることを伝えなければ。
さあ、忙しくなるぞ! 仕事だと思うとウンザリしていたのに、今はやる気に満ちている。
浮気や婚約解消については弁護士に丸投げした。証拠もそろっているし、相手側も裁判はしたくないので慰謝料は一幸から百万円、佳澄からは十万円が早々に支払われた。佳澄の分は一幸が払ったのかもしれない。結納金は返却しなくて良いそうだ。正直、弁護士費用と精神的苦痛を合わせれば少ないと思うが、相手の反省を促すための措置だと思っている。多分、一幸の百万円は新居の準備金だったと思う。新しい方を見つける為に、また貯蓄に励んでほしいと思う。
職場で一幸が話しかけたそうにしているが、芳子は完全に無視している。弁護士を入れての取り決めで芳子との接触禁止を誓約事項に記載しているのだ。
ただ、関係が良かった橋本家の方々の謝罪と復縁の懇願の電話にはグッときてしまった。しかし、「自分の性格上許せそうにない。、醜い嫉妬を繰り返し一幸を苦しめそうだ。このまま結婚しても離婚するのが目に見えている」と復縁をお断りした。
保健師の先輩方には「せっかくのキャリアが」と残念がられたが、庁舎に流れている「婚約破棄」の噂を知っているからか、強くは引き止められることは無かった。
***
実家の冷蔵庫を開けると目の端に某有名チョコレート店の箱が見えた。ここ最近は心身共に忙し過ぎて、好物のチョコレートの存在さえも忘れていた。
ゴールドに輝く高級感漂う箱を開けると、芳子の好物のミルクチョコレートがずらりと並んでいる。包み紙を剥がすと、ぐにゃりとゆがんだロゴが見えた。いつもなら綺麗なキャラメル色だが、表面に白い斑点ができている。一度溶けたからだろう。食べてみるが滑らかさは消え、口の中がザラザラする。風味も損なわれていて、はっきり言って美味しくない。かと言って、もったいなくて捨てられない。
「こんなになると知ってたら二十枚入りじゃなくても良かったかな。まあ、一幸に買ってもらった『ご褒美チョコレート』だけど、チョコレートには罪は無いよね」
芳子はひとりごちる。
「そうだ。ホットチョコレートにして、みんなで飲もう」
三月も終わりだがまだまだ寒い。レンジで溶かしている間に居間に家族を呼ぶ。今日は芳子を心配して他県に就職している弟も帰ってきている。炬燵を皆で囲み、ホットチョコレートをちびちび飲んだ。あんなに不味かったのに美味しくなった。まるで別のチョコレートの様だと思った。
***
来館者に退館のアナウンスが鳴っている。
「橋本先輩。一緒に帰りましょう」
髪色を暗くした佳澄が一幸に手を振っている。周りを見回した一幸は困り顔で対応する。廊下の隅に呼び、小声で話す。
「岩崎さん。僕たちの事、噂になっているんだ。芳子が辞めた原因がインターンシップの大学生と関係を持ったと知られたらまずいんだよ」
「えー? そんなの橋本先輩と私がお付き合いして結婚したら、パワハラやセクハラには当たらないんじゃないですか?」
「は?」
「私、芳子さんが提出した音声データや私に送られた内容証明書、橋本先輩が私を誘っているメールも全部保管してるんです。私と浮気した事、必要ならどこに提出したら良いんですかね?」
「何で……」
「全部、橋本先輩から誘われているんですよ。私が本命なんでしょ? もし私の方がもて遊ばれたんだったら、どうしようかな。もしかして私、強要されたのかも。どうしても市役所に就職したかったから、我慢していたのかもしれないって思い出しそうです」
職場に合うようにナチュラルメイクに見えるが作りこまれたその顔は、まだ少しあどけなさを残していて無垢に見える。
一幸は躾に厳しい旧家に育った。長男として旧家を守って、いずれ父親の地盤を引き継いで県会議員に立候補した時に、支えられる女性を探した。少し気は強いが、常識人で努力家で知的で誠実な芳子と九年付き合って婚約した。芳子は祖父母や両親、後援会の方々からも気にいられていた。
一幸は芳子以外の女性との経験が無かった。結婚前にちょっとだけ他の女性とも交際してみたかった。そんな時、インターンシップに来た佳澄がとても魅力的に見えたのは本当だ。色々なしがらみを抜きにしたら、可愛くてグラマーな女性が好みだった。だから、自分には九年付き合った彼女がいて結納を交わしたが、君の様に可愛い子がいるなら早まったとメールのやり取りを始めた。
もし、インターンシップの大学生に性的関係を強要したとなると新聞沙汰だ。父親にも迷惑がかかるかもしれない。データがあるなら何年経っても証明できる。最悪、市役所に居られなくなるかもしれない。
「私、モールに新しくできたパスタ屋さんに行きたいです」
「ああ。少し待っていて。準備してくる」
もう佳澄には一生頭が上がらないだろう。
あのモールには、芳子の「ご褒美チョコレート」の店がある。一日一枚をゆっくり味わう、とろけるような笑顔を見せる芳子との穏やかな日々を思い出して一幸は深く後悔した。
***
四月、新しい季節が訪れ、芳子は全ての事から解放されフリーになった。仕事も、恋愛も。三十歳にもなって、何の肩書も無い。
慰謝料も入ったので、先週から英会話教室に週5で通っている。以前から興味があった海外で看護師になるという夢を現実にするために一歩を踏み出したのだ。
今月のご褒美チョコレートは自分で買った。今日も豊かな風味と滑らかなくちどけで最高だ。今日一日、生きているだけでも素晴らしい。ご褒美に値する一日だ。
溶けたチョコレートはもう食べたくない。でも、リクルートスーツの眩しい新入社員を見かけると、あのザラリとした感触を思い出す。
溶けたチョコレート(改稿・加筆版) 若林亜季 @mizutaki0215
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