静脈の白雪

@stein0

第1話

嗚咽が体内をうねり、鼓膜を劈く。洗面所の鏡に映る自分の顔に目をやると、随分とひどい顔をしているのが分かる。口元からはよだれが汚らしく垂れ、息も絶え絶えに「はあ、はあ」と苦しげな吐息を繰り返している。しばらくしてようやく呼吸が整い、そっと視線を下に落とすと、吐瀉物が排水口へと流れ落ちていくのが見えた。食事もろくに摂っていないので、ほとんど胃酸ばかりだ。腕時計を見ると午後七時過ぎを示している。高級料理店の雰囲気に、まるで不釣り合いな自分がそこにいる。


私は四十二歳。かつては医者だった。名家である四条家の生まれで、家族からの圧力も強く、長年にわたり結婚を急かされ続けている。先ほども、母親に紹介された女性と食事を共にしようとしたが、どうしても無理だった。「これ以上四条家に恥をかかせるつもりか」と父の声が脳裏で響き、再び胃が痛くなる。


「よし」と小さく呟き、持参したハンカチで口元を拭う。そして、重い足取りで席に戻った。


「大丈夫ですか、洋二さん? 顔色がすぐれないようですが」


紹介された女性──確か牧野清美さんという──は心配そうにこちらを見つめている。清美さんは非常に美しく、口紅の光沢が大人の色気を醸し出していた。年齢は三十五と聞いていたが、実際にはもっと若々しく見える。


「すみません、縁談の場になるとどうも体調が悪くなるようで…」


「そうなんですか。どうしてか、理由を聞いても大丈夫ですか?」


彼女の問いかけに、一拍置いてから「はい」と頷き、今にも消え入りそうな声で話し始めた。


私はかつて、妻がいた。高校の天文学部で知り合い、互いに好意を抱いていた。けれど、妻は平凡な家系の出身で、慢性的な持病を抱えていた。彼女はしばしば体調が悪くなり、日常生活にも支障を来していた。四条家は私たちの交際に猛反対したが、諦めきれなかった私は、有名大学を卒業し医師免許を取得すれば交際を許してもらえるように家族を説得した。もともと勉強は得意ではなかったため苦労したが、死に物狂いで国立大学の医学部を卒業し、医師免許を取得したことで、家族もついに反対をやめた。医師として安定した生活を送る中で、私たちは交際を続け、ついには結婚に至った。


しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。妻の体調が再び悪化し、会話もままならない状態となり、寝たきりの生活が続いた。彼女はただ苦しみ、「生きたい、生きたい」と紡ぐかすかな言葉を、私は何度聞いただろうか。最愛の人を救う力もなく、ただ眺めているだけの時間──それこそが、地獄だった。


ある日、私は塩化カリウムを静脈注射し、妻の命を奪った。その記憶は断片的で、彼女の最期の顔すら思い出せない。いや、正確には覚えているのだろうが、防衛本能が働き、思い出せないようになっているだけだ。耳元で「遺族がどうのこうの」「被害者の意思がどうのこうの」と周囲の声が飛び交っていたこと、それくらいしか覚えていない。


殺人罪で起訴され、懲役五年の有罪判決を受けた。世間では安楽死事件として扱われていたようだが、私にとってはただの殺人だった。妻は一度も「死にたい」と言わなかった。彼女は地獄の中でさえ「生きたい」と願い続けていた。それを、私はこの手で踏みにじったのだ。


刑期を終えた後、医師免許を剥奪され、私は四条家の仕事を手伝うようになった。家族からは「一族の恥」と罵られ、どこにも居場所がなかった。結婚相手としても忌避される存在となり、家のために縁談が進められていたが、私には恋愛も結婚もできない。女性と向き合うと、妻のことを思い出し、猛烈な吐き気が襲ってくるからだ。


「だから、私は未だに縁談ができないのです」


私の話を静かに聞いていた清美さんが、口を開いた。


「辛い過去をお持ちだったんですね。無理する必要はありません。私も似たような家庭環境で育ちましたから、そのお気持ちは分かります」


彼女の表情には、同情とも共感とも言えない、穏やかさが滲んでいた。私は息をついた。これで今日は何事もなく過ぎ去り、また無価値な日常に戻るだろうと感じた。だが、「あの…」と清美さんが続けた。


「実は私の親戚にも同じような事件で亡くなった方がいるんです。よければ、その方のお名前を教えていただけませんか?」


「本当ですか? 妻の名前は木崎栞です」


その名前を聞いて、清美さんは一瞬、目を見開いた。


「やはり、栞ちゃんの旦那さんだったんですね」


驚きで体が固まった。清美さんが「栞ちゃん」と呼んでいるということは、生前の妻と親しかったのだろう。罪悪感が胸の奥から湧き上がる。


「親戚の方とは知らず、失礼しました。本当に、栞さんのことは申し訳ありませんでした」


深々と頭を下げる私に、清美さんは柔らかな声で「顔を上げてください」と言った。


「狡い人ですね。こんなふうに謝られたら、ぶつけたい感情も消えてしまいますよ」


彼女は少し寂しげに微笑んだ。


「怒らないんですか?」


恐る恐る尋ねると、清美さんは静かに答えた。


「何も感じないわけではありませんよ。生きたいと願っていた栞ちゃんの思いを無視したのですから。でも、私も彼女の立場を思うと、ただ責めることはできません。」


清美さんは続ける。「ところで、栞ちゃんの日記を覚えていますか?」


「ええ、覚えています。ですが、生前の彼女は私には見せてくれませんでした」


「読んでみたいとは思いませんか?」


私は息を呑む。


「それができるんですか?」


「分かりません。ただ、栞ちゃんのお父様に頼んでみれば、見せてもらえるかもしれません。もしよければ、私もご一緒します。」


彼女のその言葉に、私の心は揺れた。裁判以来、私は妻の両親に会っていない。私は妻を殺めた張本人だ。いっそのこと彼らに罵倒される方が楽だと思っていた。しかし、それを望むのは自分勝手な逃避でしかないのではないか──ふと、そんな考えが浮かんだ。


「このまま時間に任せて忘却を待つのも良いかもしれません。でも、今でも栞さんのことを昨日のように思い出すなら、過去と向き合うべきではないでしょうか」


妻の墓参りは一度もしていない。薄情だろうか。妻の前でどんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか、私には分からない。妻の死を思い返すたび、呼吸が苦しくなる。いや、あの日以来、私は一度も本当の意味で息ができていない。私の中で、彼女を失ったその日から呼吸は止まっていたのだ。


胸いっぱいに息を吸い込みたい──そんなささやかな願望が、ふと心の奥から湧き上がる。失った妻の痛みも悲しみも、過去もすべて抱きしめて、一歩を踏み出してもいいのだろうか。


「会いに…行きます」


そう呟くと、清美さんは優しく「はい」と答えた。


後日、私は清美さんと共に、妻の両親が住む東京のマンションに向かっていた。冷たい空気が肌を刺し、街は冬の静寂に包まれている。清美さんの足音を追うように、私は緊張で汗ばんだ手をポケットに押し込んだ。


「着きました」


清美さんはマンションのオートロックの前で立ち止まり、部屋番号を押す。


「はい、木崎です」


年老いた男性の声が応えた。妻のお父様だ。喉が乾き、緊張が一気に高まる。


「先日ご連絡しました、牧野清美です。今日は洋二さんをお連れしました」


「清美ちゃんか。さあ、入って」


オートロックが解除され、私たちはエレベーターで部屋へと向かった。インターホンを押すと、ドアが軋むような音を立てて開く。出迎えてくれたのは、妻のお父様だった。


「お久しぶりです。長い間ご挨拶もせず、申し訳ございませんでした」


私は深く頭を下げた。数秒の静寂が訪れる。お父様はしばらく私を見つめていたが、ふっと息をついて言った。


「まあ、まずは上がりなさい」


そう促され、私と清美さんは「お邪魔します」と小声で挨拶をし、彼の後を追った。部屋には簡素な家具が並び、静かで落ち着いた雰囲気が漂っていた。


「どうぞ、二人とも座りなさい」


「失礼します」


お父様はコーヒーを二つ持ってきて、私たちに差し出した。私は手に取って一口飲む。少し苦いが、どこか懐かしい味だ。


「お父様、私が砂糖を三つ入れるのを覚えていてくださったんですね」


数年前、まだ挨拶に伺っていた頃のことを思い出す。ブラックコーヒーが苦手な私に、彼は砂糖を三つ出してくれていた。時間が経っても、その記憶を覚えていてくれたのだ。


「大したことはないよ。この歳になると、そんな些細なことが頭に残るんだ」


お父様は少し微笑んだが、その後すぐに真剣な表情になった。


「それで、栞の日記を見たいとのことだが、その前に少し話をさせてほしい」


私は緊張して小さく頷く。時計の秒針が「カチ、カチ」と音を刻むのがやけに大きく聞こえる。


「清美ちゃんから君のことを聞いたよ。どうやら、今も栞のことを忘れられないようだね」


コーヒーで温まったはずの手が再び震える。私は目を伏せた。


「私の妻も半年前に亡くなってね。この家もまるで時間が止まったようだ。でも、積もる埃や、日々の小さな変化が、確かに時間が過ぎていることを教えてくれるんだよ」


お父様は静かに続けた。


「親しい人を亡くすことの痛みは、私たちが生きる代償だと、そう思うんだ。君もまだ生きようとしている。それなら、その痛みを背負うこともまた、君の責任だ」


お父様の言葉に、私は唇を噛んだ。


「でも、私は栞さんの死を悼む資格はありません。私は彼女を殺め、生きたいと願う意志を踏みにじり、遺族に深い悲しみを与えました。そんな私が、どうして前を向けるでしょうか」


もし、彼女が自然な死を迎えていたなら、私は心から彼女の死を悼むことができただろう。だが、自らの選択で彼女の命を奪った以上、私にはその資格がないと感じていた。


すると、お父様は深く頷きながら言葉を続けた。


「確かに、君がしたことは悪いことかもしれない。しかし、それは他人から見た評価だ。栞が生きたいと願っていたのは確かだが、彼女の本心が、君の行為をどう思ったかは誰にも分からない。もしも君が、栞を救うために選んだ道だったのなら、その結果を信じるしかないのではないか?」


彼の言葉は、私の心を突き動かした。


「君が感じている罪悪感は、もしかしたら栞を愛していた証かもしれない。ならば、彼女を幸せにできたと信じ、前に進むことが、君の責任だろう」


もしも確かな答えがあったならば、私は反省し、次に進むことができただろう。だが、妻の幸不幸は分からない。分からないからこそ、お父様の言葉に従い、曖昧なまま生きるしかないのだろう。


「強く生きなさい」


お父様は私を見つめて言った。その言葉に私は「はい」と応え、彼は小さく頷いて栞の部屋へと案内した。


栞の部屋に入り、私は日記を手に取った。そのページには、私に向けた不満や愚痴、冷めた愛情が綴られていた。そして、不倫までしていたかのような言葉が、いたずらな文字で記されていた。


しかし、これらが彼女の本心ではないことを、私はすぐに理解できた。体が動かない状態で、不倫などできるはずがない。それは、私を気遣って書かれたものであり、もう時期亡くなる彼女の精一杯の思いやりだった。


私は静かに笑った。日記に刻まれた言葉が、逆に私への深い愛情を感じさせ、心を温めた。


冬の街を歩き、私は栞の眠る場所へと向かっていた。冷たい空気が頬を刺すが、その冷たさが心地よかった。


「久しぶりだね、栞」


お香を焚き、白い菊を添える。かじかむ手をポケットにしまい、妻の墓前に立つ。


「遅くなってごめんね。きっと怒っているだろう。それでも、これでも私なりに精一杯、ここまで生きてきたんだよ」


君を不幸にしたのではないかという不安が、今も消えずに心の奥を這い回る。それはまるで腹の中で蠢く虫のように、絶えず私を蝕む存在だ。だが、それでも私は君の前で微かに笑う。君を幸せにできたと信じることでしか、私は前に進めないのだから。


「君をこの手で奪った痛みさえも、私は愛して生きていく。だから、どうか許してほしい」


息を吸い込む。


「この痛みと共に生きることが、君を愛し続ける証なんだ」


冷たく鋭い空気が肺に染み渡る。凍てつく冬の息吹を、その痛みさえも抱きしめるように、私はゆっくりと吸い込む。


そのとき、頬に冷たいものが触れた。空を見上げると、白い雪が静かに降り始めている。あまりに劇的な演出に、思わずひとりで笑ってしまう。こんなキザな言葉を吐く男を包むには、これ以上ないほど似合いの白い雪だろう。


「変わらないこの世界で、あたかも何かが変わったかのように生きてみようと思う。君はここにいないけれど、君を想い続ける私がいる。だから…」


だから、どうか安らかにおやすみ、私の白雪よ。

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