8
「お疲れ様です」
定時のチャイムが鳴り始めたタイミングで、私はすぐさまパソコンをシャットダウンする。今日やるべきことは早めに終わっていたので、最後の三十分が長くて眠気が抑え切れなかった。同期が画面とにらめっこをしながら頭を抱えているのを横目に、私は欠伸を噛み締めながらオフィスを後にする。
今日は金曜日なので、街には早くも酔っぱらったサラリーマンたちが跋扈していた。週末がクリスマスなこともあってか、腕を組んで楽しげに歩く小綺麗な恰好のカップルの姿も散見される。
そういう人たちをすり抜けるように上手く躱して、私は足早に駅の方へと向かっていく。
電車を何本か乗り継いで、昔住んでいた地元の辺りまでやってきた。高校を卒業したあとに実家も引っ越してしまったので、ここへ来るのはずいぶん久しぶりだった。駅前が再開発されていて、今風のおしゃれな商業施設ができているのを見て時の流れを感じた。
騒がしい商店街を抜け、路地へ入ると急に人気がなくなる。街灯も疎らでさびれた雰囲気が漂っていた。私が住んでいた頃はもっと活気があったような気がするけれど、それは私自身がまだ若かったからかもしれない。途中で見覚えのある制服を着た女の子たちとすれ違い、懐かしい気持ちになった。
しばらく閑静な住宅街を進んでいくと、十字路の角にぽつんと古びた喫茶店が現れる。そこは高校生の頃によく勉強しにやってきていたお店だった。コーヒーが驚くほど安く、潰れないのか不安になるほどお客さんもいないので、学生が勉強をするのにはもってこいだったのだ。
少しずれた鞄を肩にかけ直し、私は木製の重たい扉を押し開ける。カラカラと優しいベルの音が鳴って、落ち着いたコーヒーの香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。
店内をぐるりと見回すと、やはり彼は先にやってきていて、窓際の席に背中を丸めて座っていた。
「久しぶり」
「……あ、うん。久しぶり」
「何か頼んだ? 私はとりあえずコーヒーでいいや」
「……じゃあ、僕もそれで」
こうしてクマくんと会うのは、中学生のとき以来だった。
あの日、二人だけの発表会をしたあと、彼は私に何も言わないまま学校を去っていってしまった。あとから聞いた話によると、親の仕事の都合で急遽海外に行くことになったんだとか。
当時はずいぶん彼に対しての怒りもあったし、結局自分は彼にとってその程度の相手だったのかと悲しくなった。しかし、あれから十年以上も経って大人になり、今は彼がそれを言い出せなかった気持ちもわかる。
あの頃に比べると、彼はさらに体が大きくなっている気がした。古びた革張りのソファーも、彩度の薄い花柄のコーヒーカップも、彼には小さすぎて巨人が人間の世界に迷い込んだような不自然さがあった。
クマくんと再会したのは本当に偶然だった。一週間ほど前、会社帰りに都心の駅を人ゴミに苛立ちながら歩いていると、東京の雑踏の中でも目を引くほどの大きな体躯を見つけた。
「クマくん……?」
ぬぼっとした頼りないその後ろ姿は、何年経っても見間違えるはずはなかった。私は人の流れを押しのけて彼に近付くと、やっとの思いでその袖口を掴んで名前を呼んだ。
「……石川さん? どうして……」
「いや、どうしてって、こっちのセリフでしょ」
通路の真ん中で立ち止まる私たちを周囲の人間が邪魔そうに見やりながら通り過ぎていく。しかし、彼はそんなことはまるで気付いていない様子で、私を呆然と見つめて立ち尽くしていた。
その日は運悪く私の方に予定があったので、改めて別日に会おうということになって、連絡先を交換した。そうして今日ここで待ち合わせをしていたというわけだ。
いざ十数年ぶりに彼を目の前にすると、何を話したらいいかわからなかった。彼も同じ気持ちなのか、そわそわした様子で目をきょろきょろさせながら俯いている。
いよいよ気まずい沈黙に耐え兼ねて、私は意を決して口を開く。
「ねえ」
彼はびくりと身体を震わせて、丸い目をこちらに向けた。
「クマくんはまだ踊ってるの?」
私は彼に尋ねる。それはずっと聞きたかったことだった。
「うん。石川さん以外にはまだ誰にも見せてないけど」
「そっか」
「石川さんはまだ物語を書いてるの?」
「うん、書いてるよ。私もクマくん以外には聞いてもらったことないけど」
止まっていた時間を巻き戻すのには、そのやり取りだけで十分だった。私も彼も大人になってずいぶん変わってしまったかもしれないけど、二人を繋いでいた大切な部分はあの頃のままだと証明してくれていた。
「ごめん」
昔話をたくさんして、お互いの知らないこれまでのことを話して、店員さんがラストオーダーの確認に来たところで、彼は唐突に謝罪を口にした。
ただ一言震える声で謝ると、彼は苦しそうな顔で視線を落とす。本当は最後に少し怒ってやるつもりだったのだけど、こんな顔をされたら許さないわけにもいかず、ずるい人だなと思った。
「じゃあさ、またダンス見せてよ」
仕方なく、私はそう言って仲直りを提案する。すると彼はつぶらな瞳を潤ませながら小さく頷いた。
「うん。石川さんになら」
どうしたってその答えが嬉しくて、私はクマくんには敵わないのだと悟った。
「それで、私の考えた話も聞いて」
「うん。僕なんかでよければ」
その夜、家に帰って久しぶりに中学生のときのノートを開いた。丁寧に黒く塗り潰されたページの中に、一体何が書いてあったのか思い出すことはできない。それでもあのとき心にしまった物語は、今も私の中に残っている。
あれから『普通』のふりは上手くなった。生きづらいと思いつつも、大人になったように振る舞って、それなりにちゃんとやれていると思う。
でも本を焼いたあの日に生まれた「ずれ」を捨て去ることはないだろう。
それは今の私にとって、とても大切な『宝物』だから。
私だけの宝物 紙野 七 @exoticpenguin
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