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 その日を境に、私とクマくんはよりクラスで浮いた存在になった。

 噂が噂を呼び、尾ひれの上に尾ひれが付いて、誰が言い始めたかもわからない作り話が広まっていき、誰も私たちに近寄らなくなった。私はよほどヤバイ奴として語り草になっているようで、時折見ず知らずの同級生から怯えた目を向けられることもあって、いっそすれ違いざまに脅かしたらどうなるんだろうと想像しておかしくなる。

 佐倉さんはしばらく学校を休んでいたが、いつの間にか彼女の席がなくなり、HRで担任から転校したことが告げられた。

 あんなに彼女によって支配されていたクラスも、いざ支配者がいなくなってしまえば、すぐにまた別の子が中心となって何事もなく動き出した。

 おかげで他のみんなは自分の立場を確立するのに必死で私たちに構っている暇などなく、数週間もすると妙な噂も落ち着いていった。そしてクラスの新しいヒエラルキーが固まった頃には、私たちのことは空気のように誰も気にかけなくなっていた。

 廊下で誰かが話していた噂によれば、佐倉さんはクマくんに好意を抱いていたらしい。もしそれが本当なら、彼女があんなにも私に執着してきた理由が何となく理解できた。しかし、所詮は出どころの知れない話なので、彼女がいなくなった今、真相はわからない。

 私とクマくんの関係は以前とさほど変わらず、平穏な日々を過ごしていた。

「クマくんてさ、前よりまた大きくなったよね」

 年末が近づき、冬の寒さが本格的になってきて、セーターで着ぶくれしたクマくんの背中を見てふと彼の成長に気付く。彼は身体の大きさに似合わず寒がりで、今日みたいに寒い日は重ね着のしすぎで分厚い身体が一層厚みを増していた。

「私なんて全然身長伸びないのに、いいなー」

「……毎日牛乳飲んでるからかな」

「いや、牛乳だけでそんな大きくなるんだったら、北海道とか巨人だらけでしょ」

 そんな他愛もないことで笑い合える日々は幸せだったと思う。

 もちろん『創作活動』もずっと続けていた。

 毎日物語を書き溜めては、誰にも読まれないうちにそれを黒く塗り潰していく。相変わらず自己満足でしかない無意味な創作活動はひどく虚しいものだったけれど、それでもやめられないし、やめたくもなかった。

 クマくんとはあのときに創作活動について話したきり、そのことを口にしていない。彼のダンスについても、あれ以来一度も話題に挙げていなかった。そこはお互いが踏み越えてはいけないテリトリーのような気がして、知っていながらあえて話さない関係性が心地よかった。

「……ちょっと、寄り道しても、いい?」

 確かちょうどあの日はクリスマス直前の金曜日で、世間がひどく浮足立っていたのを覚えている。

 二人で一緒に学校から帰っていると、途中でクマくんがそんなことを尋ねてきた。彼からそうやって誘われるなんて珍しいことだったので、私は答えるより先に驚いて彼の顔を覗き込んでしまう。

「……実は、話したいことがあって」

 目を逸らしながら声を震わせて言う彼を見て、どこか期待してしまっている自分がいた。別に彼とそういう関係になりたいわけではないけれど、そういう関係になるなら彼しかいないと思っていた。あるいは、世間のクリスマスムードにほんの少し当てられていた部分もあったのかもしれない。

「いいよ。帰っても暇だし」

 いつも以上に言葉少なな彼に付いていくと、人気の少ない公園に辿り着いた。そこはあの日佐倉さんに呼び出された公園で、確かに彼との思い出の場所でもあったけれど、どうしても嫌な記憶の方が強い。

 人目につかないという意味ではおあつらえ向きだが、ムードがあるというよりは、どんよりとした空気に満ちた不気味さが充満していた。そんなことを思いながら、私は自分が意外とロマンチストな感性を持っていることに気付いて自嘲の笑みが漏れる。

「……石川さん」

 彼は公園の真ん中で立ち止まると、唐突に私の名前を呼んだ。

「なに?」

 私は動揺が表に出ないように気を付けながら、なるべく自然に聞き返す。

「……前にさ、ダンスの話したの覚えてる?」

「え、ああ。うん」

 ところが、思わぬ方向から話が始まって、私は反応が遅れて曖昧な返事をする。てっきり彼もその話はもうしないつもりだと思っていたから意外だった。

「……その、ダンスを見てほしいんだ」

「えっ?」

 そこで私は自分が大きな勘違いをしていたことに気付く。一人で勝手に浮かれていたけれど、全然そういう話ではなかったようだ。私は恥ずかしさで顔が熱くなるのを堪えながら、慌てて頭を切り替えて平静を装う。

「でも、誰にも見せたことないんでしょ?」

「……うん。このまま誰にも見せなくていいと思ってた」

 彼にどういう心の変化があったのかわからない。しかし、彼にとって誰かの前でダンスを踊るのがどれだけ大きなことなのかは容易に想像ができた。きっと彼は今ものすごい覚悟を持ってここへやってきている。

「どうして……」

「石川さんに見てもらえたら、ちょっとだけ前に進めるかもしれないって思ったんだ」

 彼は拳をぎゅっと握りしめて言う。

「クマくんはすごいね」

 いつの間にか、私は彼と一緒にいることで、彼と秘密を共有することで、自分の息苦しさを誤魔化すようになっていた。でもそれは麻酔で感覚を鈍らせているようなもので、苦しみの根本が解決したわけではない。

 本当はどこかで向き合わなければいけないことはわかっていた。『創作活動』を続けるにしろ、いつかそれをやめるにしろ、覚悟を持って自分の生き方を選ばなければいけない。

 彼は私の前で踊ることで、自分にとってダンスがどういう意味を持つものなのかを見つけようとしているのだろう。自分の中の何かを変えるために。

「じゃあさ、私の話も聞いてくれる? ずっと書き溜めてある物語がたくさんあるんだ」

 それはあれこれ考えるよりも先に、自然と口から出た言葉だった。たぶん私もずっと心の中でそうしたいと思っていて、あとは一歩足を前に出すきっかけを探していただけだった。

「もちろん。僕なんかでよければ」

 こうして私たちは閑散とした薄暗い公園で、二人だけの発表会を始めた。

「……下手くそでも笑わないでね」

 まずはクマくんの番から。

 自信なさげに背中を丸めて歩いていき、私から少し離れた位置で立ち止まった。

 ちょうど世界が夜に切り替わって、重たい瞼を持ち上げるようにちかちかと明滅を繰り返しながら点いた電灯が、スポットライトのように彼を照らす。唯一の観客である私は、ステージの上で大きく息を吸う彼の姿をまばたきもせずに見つめていた。


 そして、一瞬彼の身体がぴたりと動きを止めたかと思うと、唐突にダンスが始まる。


 あえて言葉を選ばずに言うのであれば、彼のダンスはとても下手くそだった。

 ダンスのことなどまるでわからないし、真剣に鑑賞したこともない私でも、間違いなくそのダンスが下手だということは確信を持って言える。

 大きく硬い彼の身体はダンスに必要な柔軟性が致命的に欠如していた。噛み合わせの悪い歯車のように一つ一つの動作が分断されていて、そのぎこちなさのせいで全体に流れが感じられない。

 身体の使い方はダイナミックで迫力があるのだが、元々彼の身体が大きすぎるせいで、もはやその動きに恐怖や威圧感を覚える。ダンスを見ているというよりは、猛獣が暴れ回る姿を見ているような感覚に近かった。

 それでも私は彼のダンスから一瞬たりとも目が離せなかった。

 自分の全身全霊を込めて、とにかく必死中に何かを表現しようとする彼の姿は、何よりも美しく輝いて見えた。

「……ありがとう」

 踊り終えたクマくんは、汗だくで息を切らしながら、少し恥ずかしそうに笑った。特に私から感想を聞こうとはせず、だから私も余計なことは言わなかった。

「なんか、緊張するね」

 今度は私の番になって、二人で公園の隅にあるベンチに座った。私は緊張を紛らわすためにわざと冗談っぽく言う。

「もう塗り潰しちゃったあとだから、思い出しながら話すね。聞きづらかったらごめん」

 私は誰にも見つからないようにこの世界から消したまま、ずっと自分の心の中にしまっておいた物語を掘り起こしていく。最初は思い出すことに精一杯で、詰まりながら話していたけれど、次第にぼんやりとしていた物語が鮮明になっていき、まるで最近の出来事を語るようにすらすらと言葉が湧き出てきた。

 と言っても、お話としてはひどく陳腐で、構成はちぐはぐで、表現は拙いものだったと思う。そんな下手くそな私の物語を、クマくんは静かに聞き入ってくれていた。

「ありがとう。何だかすっきりした気がする」

 私も自分の物語が面白かったかどうかは聞かなかった。聞くのが怖かったというのもあるし、きっと聞いても彼は答えに困るだろうと思ったから。

「……僕も、これでわだかまりがなくなった」

 何だかそれ以上話をするのは照れ臭い気がして、秘密の発表会を終えるとすぐに公園を出て帰路に着いた。

 私は家に帰っても興奮が冷めず、溢れ出るこの言葉にできない感情を垂れ流しにするのがもったいない気がして、夜通しノートに向かってペンを動かし続けた。次から次へと書きたい言葉が頭に浮かび、文字に起こすまでのタイムラグがもどかしいほどだった。

 気付けば机の上に突っ伏したまま朝になっていて、ごみ収集車のエンジン音で目を覚ます。寝不足で頭が重く、ベッドに横たわって二度寝したい気分だったが、今日ずる休みをしたらクマくんに申し訳ない気がして仕方なく学校へ向かった。

 騒がしい教室に入っていくと、いつもは早く来ているはずのクマくんの姿がなかった。もしかしたら彼も夜更かしをしてしまったのだろうか。万が一、彼がずる休みをしたら、明日文句を言ってやろうと思う。

 しかし、結局その日は午後の授業が終わってもクマくんは学校に来なかった。

 私は窓際の彼の席に目をやる。彼の大きな身体がない分、壁が取り壊されたようにぽっかりとその場所が空いているせいで、窓の先に見える外の景色が嫌に広く感じられた。

 そして、次の日も、その次の日も、彼が学校に来ることはなかった。

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