6

「……よかった。目が覚めたんだね」

「クマくん……?」

 重たい瞼を上げて目を開くと、見慣れた頼りない笑顔が視界に飛び込んできた。

 頭痛で判然としない意識のまま何とか上半身を起こす。するとお腹に破裂するような痛みを感じて思わず鈍い声が漏れる。

「そっか、私……」

 少しずつ意識がはっきりとしてきて、自分の状況を思い出した。確か佐倉さんに掴みかかったあと、思いっきりお腹を殴られて、どうやらそのまま気絶してしまっていたようだ。

「え、なんでクマくんがいるの?」

 そこで改めて私はその疑問に立ち戻る。

「……いや、その、偶然通りかかったら、石川さんが倒れてて」

「嘘でしょ」

 目をきょろきょろさせて挙動不審に答えるクマくんは明らかに嘘を吐いていた。追及しようと真面目な顔で問い詰めるけれど、あまりにわかりやすすぎるのが滑稽で、それが彼の人柄を表している感じがしてつい笑ってしまった。

「もしかして、ずっと見てた?」

「……う、うん」

「学校から後を付けてきてたんだ。全然気付かなかった」

「……ちょっと、心配だったから」

 私が深刻そうな顔で帰り道とは違う方向に歩いていくのを見て、彼は心配になってこっそり付いてきていたらしい。あの一部始終を全部見られていたと思うと恥ずかしかった。

「あれ、その傷……」

 ばつが悪そうに顔を背ける彼の頬に、切り傷ができていることに気付く。血が滴っているのを無理矢理拭ったのか、赤黒い痕が頬にべったりと張り付いていた。

「殴られたの……?」

「……ま、まあ」

「うそ、大丈夫?」

 クマくんは私が殴られたのを見て、咄嗟に飛び出して助けようとしてくれたのだと言う。それで取り巻きの男子たちに見つかって、苛立っていた彼らに殴りかかられた。しかし、焦ったクマくんは無我夢中腕を振り回しているうちに、いつの間にかその場には私以外誰も残っていなかった。

「すご! それって勝ったってことじゃん! クマくんってやっぱ見た目通り強いんだね」

「……別に、そういうわけじゃないよ。きっとまぐれで手が当たったりしたんだと思う。喧嘩なんて初めてだったし、すごく怖かった」

 よく見ると、クマくんの手はまだ震えていた。

 喧嘩をするのが初めてだというなら、あの友達を病院送りにしたという噂はやはり嘘だったのだろうか。少し気になったけれど、流石に本人に聞く気にはなれなかった。

「……それより、石川さんの方がすごいよ」

「え、私?」

「……だって、あんな風に自分の大切な物のために戦えるのは、石川さんは強い人だからだよ。かっこよかったし、羨ましい」

「そんな、ただカッとなってただけだよ……。アドレナリンってやつ? むしろ普段あんなことは絶対言えないから、あのときだけ爆発したんだと思う」

 身体の痛みはあったけれど、正直言って心はかなりすっきりしていた。佐倉さんたちのおかげで、人生をかけて溜まっていた膿を全部吐き出すことができたような気がする。

「せっかくだから、少し私の話を聞いてくれる?」

 どうせ中途半端に知られてしまったのだから、クマくんにはきちんと話しておくことにした。私がやっている『創作活動』のことと、それに付随する私のこれまでのことを。彼になら話してもいいと思ったし、きっと彼ならちゃんと聞いてくれると思った。

 幼い頃に好きだった絵本の話から、本を燃やした日のこと、そして最近の創作活動のことまで、一つずつ思い出しながら話していった。

 たぶんひどく冗長で、つまらない自分語りだった。特に過去のことはできるだけ思い出さないようにしていたから、話が行ったり来たりして、言葉に詰まることもあって、さぞ聞きづらかったことだろう。

 それでもクマくんは黙って最後まで聞いてくれた。わかったようなことを言うわけでもなく、かと言って興味がなさそうにするわけでもなく、真摯に私に向き合って、抱えていた荷物を下ろしていく作業を手伝ってくれた。

「ごめんね。長々と話しちゃって」

 すべてを話し終えた頃には辺りはすっかり真っ暗になってしまっていた。唯一電灯に照らされてぼんやりと光る時計を見ると、時刻はもう二十時を回っている。

 少しだけ深く息を吸って、白い息を吐く。ついこの間まで身を焼くような暑さに辟易としていたはずなのに、いつの間にか冬の気配が静かな夜を満たしている。もう一度大きく息を吸い込むと、ひんやりと澄んだ空気が身体の内側を優しくなぞった。

「……実は」

 しばらく黙っていたクマくんが何かを言おうとして、喉から上手く声が出ずに咳払いをした。そして改めて意を決したような緊張の面持ちで、ゆっくりと彼も自分のことを語り出した。

「実は、僕、ダンスが好きなんだ」

「ダンス……?」

 あまりに予想していなかった言葉が飛び出してきて、私は思わず聞き返してしまう。

「うん。小さい頃にテレビでコンテンポラリーダンスを見て、身体の全部を使って何かを表現するのがかっこよくて憧れたんだ。最初は見様見真似でダンスの練習をするようになって、それからずっと家で誰にも見つからないようにこっそり踊ってた」

 申し訳ないけれど、私は彼が踊っている姿をまるで想像できなかった。まじまじと彼の全身を眺めてみても、その大きくて硬い岩のような身体がしなやかに動く様を頭の中に描けない。

「……似合わないよね」

 私の視線に気付いた彼は、恥ずかしそうにはにかんで言う。

「自分でもそう思う。実際、全然上手く踊れなかったしね。でもそんなのはどうでもよかったんだ。自分が踊りたくて、その気持ちを満たすために踊ってた。それだけで十分だった」

「そんなある日、小学校の体育の授業でダンスをやることになった。クラスのみんなで流行りの曲に乗せたダンスを練習して、それを体育祭で披露する。僕はとても嬉しかった。確かに一人でも楽しかったけど、みんなで踊れたらもっと楽しいだろうと思ったから。実際に練習が始まる前から、家で事前に練習をして、やる気満々で授業に臨んだ」

「それがよくなかったんだと思う。変に気合いが入っちゃってたというか、一人で勝手に浮足立ってた」

「その日は何度目かの練習の日で、すっかり振り付けを覚えていた僕はだんだんと楽しくなってきていた。だからできるだけ大きく身体を動かして、指の先まで気持ちを込めるように踊ろうと思ったんだ。でも、そのときの僕は自分が踊ることに夢中になりすぎて、周りが全く見えてなかった」


 ――きゃあッ!


 クマくんが勢いよく広げた手が、隣にいた女子の顔に思い切りぶつかって、その子は吹き飛ばされるように後ろへ倒れ込んだ。

 ダンスを綺麗に見せるために均等な感覚で並んでいたから、大きすぎる彼は自分の領域からはみ出していた。しかしそのことに気付かず、自分の身体の大きさも把握できていなかった彼は、振り付けを優先して隣の子を突き飛ばしてしまった。

「彼女は足を骨折してしまって、しばらく入院することになった。せっかく練習していたのに、そのせいで体育祭には出られなかった。彼女はすぐに許してくれたけど、僕は申し訳なさでいっぱいだった。僕なんかにダンスは向いてないんだって、調子に乗るんじゃなかったって、虚しくて仕方なかった」

 クマくんの話を聞きながら、やっぱり彼は誰かに暴力を振るったことなどなかったんだと、関係のないことを考えてしまっていた。きっとこの話に尾ひれがついて、今の妙な噂に発展したのだろう。その怪我をした女の子は可哀想だけれど、私は彼が想像通りの人だったことに少し安心した。

「クマくんは悪くないよ。単なる事故でしょ?」

「そうだけど、そうじゃないんだ。きっと身の丈に合わないことをした罰だったんだよ」

 彼はひどく自罰的に自分自身を戒めているようだった。そういう苦しみを抱えていたからこそ、私は彼に惹かれたのかもしれない。

「それからはダンスに憧れるのはやめた。たまにどうしても踊りたくなったときだけ、夜中に近くの公園に行って、少しだけ踊るようにしてるんだ。恥ずかしいから誰にも見せたことはないけどね」

「なんか、似てたんだね」

「……うん。僕もそう思った」

 自分と同じような呪いに苛まれる人が目の前にいるのを知って、私は何だか安堵していた。確かに『普通』ではないけれど、それは必ずしも孤独であることと等価ではなかった。

 もちろんお互いの悩みを本質的に理解できたわけではない。彼にとって踊りがどれだけ大切かは私にはわからないし、私が物語を独占する気持ちは彼に理解できないと思う。

 それでもこの苦悩を吐露して受け止めてもらえたことは、ほんの少しだけ存在を世界に認められたような気がした。

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