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 どうやらクラスのはぐれもの二人がつるむ姿はずいぶんと目立ったようで、周囲からは奇異なものを見る目に晒されていた。しかし、もはや守るべき世間体を失っていた私にはどうでもよかったし、クマくんは気にしないどころか、そんな視線に気付いてもいないみたいだった。

 佐倉さんは私がクマくんと一緒にいるようになってから、ちょっかいを出してこなくなった。

 彼女は明らかにクマくんを避けていた。二人でいるときは遠目からこちらを不機嫌そうに睨むだけで、決して近付こうとしなかった。どうやら彼女はクマくんと同じ小学校だったようなので、例の噂が関係していたのかもしれない。

 虫よけのように使うのは申し訳ないと思いつつも、私は彼女の気配を感じる度に、さりげなくクマくんの近くへ逃げた。しばらくすると彼女も飽きたのか、視線も感じることも少なくなっていった。

 完全に学校社会から孤立し、クマくん以外とはほとんど関わらないこの生活は正直かなり気が楽だった。確かにふと不安が襲ってくることはあったものの、それはほとんど発作みたいなもので、何度か経験するうちに慣れてきて、自分の中で上手く消化できるようになった。

 変に取り繕う必要もなく、空気を読んだり、思ってもないことを口にする必要もない。むしろ、これまでの方がよっぽど無理をし続けて『普通』になろうとしていた。

 そういう中で、私は学校でもひそかに『創作活動』を行うようになった。たぶんクマくんとの平穏な日々で気が緩んでいた。社会との関わりが絶たれたことで、周囲の目というものが認識できなくなっていた部分もあったと思う。

 授業に飽きて手持無沙汰になったときは、別のノートを開いてそこに自分だけの物語を書き溜めていった。

 どうしても物語を書くのには時間がかかるから、本当は塗り潰すところが一番気持ちいいのに、そこまで辿り着くのはかなり大変だった。だから学校で書き進めておけると作業ペースが上がり、今までの倍近い頻度で塗り潰しの作業を行うことができた。

 そんなわけで私は充実感に満たされていて、ある種気が緩んでいた部分もあった。ずっと周囲の目を気にして生きてきたのに、クマくんに感化されてすっかり周りが見えなくなっていたような気がする。

「……ない」 

 その瞬間、長らく微睡んでいた夢から覚めたみたいに、浮かれ気分が消えて血の気が引いていった。楽しかったここ数週間の日々が一気に崩れ落ちると、見ないふりをしてぼやかしていた現実が鮮明に私の視界へと飛び込んでくる。

 あのときと同じだった。鞄の奥にしまってあったはずのノートがなくなっている。

 今日は午前中の授業で一度出して、その後はずっと鞄の中に入れっぱなしだったはずだ。

 午後は休み時間も含めてほとんど席を立っていない。おそらくクマくんと中庭でお昼ご飯を食べている間に盗られたのだろう。

 もしかしたら自分の勘違いかもしれないと考えて、中のものをすべて取り出して一つずつ確認していく。授業が終わり、教室の束縛から解放されたクラスメイトたちが立てる落ち着きのない音がひどく耳障りだった。

 何度確認しても、確かにあったはずのノートがなくなっていた。代わりに見つかったのは、ノートの切れ端に書かれた一枚の手紙だけだった。

『放課後、一人で〇△公園に来い』

 差出人も宛名もなかったが、佐倉さんが私に当てたものだというのはすぐにわかった。こんな脅迫めいたことをする人間は彼女しかいない。

私のことなんてもうすっかり忘れて眼中にないと思っていたけれど、どうやら彼女は一度狙った獲物は逃がさない執念深い人間だったらしい。あるいは、気まぐれで逸れていた彼女のスコープが再び私に向いただけだろうか。

いずれにしても、束の間の平穏はもう許されないようだった。

 その手紙から視線を上げると、ちょうど沈みかかる太陽の光が窓を貫いて、嫌がらせのように私の目を突き刺した。いつの間にか教室からは誰もいなくなっていて、騒がしい声の代わりに管楽器の単調な音色が聞こえる。

 当然、私にはその呼び出しに応じないという選択肢はなかった。ノートは一度見られているし、どんなに馬鹿にされようとも別に構わない。

 しかし、あのノートの中身が、まだ塗り潰していない物語たちが、私以外の人間のものになることが許容できなかった。あみちゃんに私の本を汚されたあの日のことが胸の奥を締め付ける。

「……あれ、石川さん帰らないの?」

 しばらくその場から動けずにいると、教室の扉が開いてクマくんが入ってきた。彼は日直だったから、日誌を職員室まで届けに行っていたようだ。

「そうだね。早く帰らなきゃ」

 私はクマくんの言葉で意識を取り戻し、机の上に散らばった荷物を慌ててまとめる。不自然な私の態度にクマくんは何か言いたげだったが、私は逃げるようにして教室を後にした。

 指定された〇△公園は街のはずれにあるさびれた公園だった。

 年季の入った薄暗い団地を抜けて、どことなく寂しげな住宅街の路地を進んでいくと、大きな木々に覆われて黒い影に覆われた公園が見えてくる。

 離れたところから見ると、まるでその部分だけ彩度の設定を誤ってしまったみたいに黒ずんでいる。入口を囲う灰色の塀には色褪せた落書きが何層にも塗り重ねられていて、その奥には錆だらけの遊具が音もなく佇む。風に乗って運ばれてくる土の臭いだけが唯一私に温度を感じさせてくれた。

「あはは! マジかよ!」

 そんな不気味な雰囲気を物ともせずに、中からは下品な笑い声が聞こえてきた。きっとそこに彼女たちがいるのだろう。私は躊躇しかけた足を踏みしめて、公園の中へと入っていく。

「うわ、来たよ」

 案の定、私を待っていたのは佐倉さんだった。彼女は私を見るなり、顔を歪めて溜め息を吐く。自分から呼んでおいてずいぶんな反応だなと思った。

「確かにヤバそう。サイコパス感バリバリじゃん」

「でしょー。キレたら何するかわかんないから気を付けてね」

「ひえーこっわ」

「いざとなったら任せて。俺、空手青帯だから」

「青ってなんだよ、わかりづらいわ!」

 彼女はいつもの取り巻きの子に加えて、知らない男子二人を携えていた。制服の胸元に付いたピンの色を見るに、どうやら彼らは同じ学校の先輩らしい。派手な髪色とすすけた肌、そして耳や指には安物のアクセサリーが鈍く光っていて、お世辞にも行儀がいい生徒とは言えない見た目だった。

「んーで、なんだっけ?」

 男子の片方が私のノートを手に持ち、トントンと自分の肩を叩く。

「……あの、返してください」

 私は震える声を振り絞って言う。

「あーそうそう。これね。いや、俺は全然いいと思うよ? こういうの、若気の至りっていうの? 誰しもが通る道っしょ」

 彼はパラパラとノートを捲りながら、こちらを煽るような言葉を投げかけてきた。そして適当なところでノートを開くと、中にある私の大切な文章を大袈裟な声で読み上げる。

「『海風の香りが吹き抜ける真っ白い石造りの街並み。時の流れを失ったような静寂の……』」

「やめて!」

 ほとんど条件反射のように、私は叫び声を上げた。

「ほんとにキレた」

「ウケる」

「ね? いつも何しても無反応な癖に、このノートにだけ異常に反応するの。そんなに恥ずかしいならこんなキモいことやめればいいのに」

 佐倉さんたちは私の反応を面白がっていた。

きっともうノートのことは諦めて、無視してしまえばすぐに彼女たちも飽きるだろう。しかし、どうしても私はノートを手放すことができなかった。

 それどころか、私はどんどんと身体が熱くなるのを感じた。今まで呑み込んできた色んな理不尽に対しての怒りが湧き上がってきて抑え切れなくなる。

 私は誰にも迷惑をかけていないじゃないか。本に火を付けるのはいけないことだから、あの日からそれを我慢して、一人でずっと無意味な創作活動を続けてきたのだ。

 一体、何がいけないというのだろう。

「私、佐倉さんに何かしたかな。怒らせるようなことした? 気に入らない態度を取った? もしそうなら謝る。別にあなたに反抗する気なんて全くない」

 一歩ずつ佐倉さんたちの方へ近付きながら、私は何も考えずに頭に浮かんだ言葉を吐き出していく。とにかくもう自分を抑えておくことができなかった。

「それでも気持ちが収まらないっていうなら仕方ない。どんなに嫌がらせをされても、罵倒されても、殴られても構わないよ」

 ノートを持った男子の目の前に詰め寄ると、右手を突き出す。

「でも、それだけは返して」

 彼はこちらの勢いに気圧されたように、身体をのけぞって後ずさりする。私は彼を逃がすまいと、真っ直ぐ視線を向けた。

「チッ」

 すると、横から露骨な舌打ちが聞こえた。そして、佐倉さんが溜め息混じりに口を開く。

「ムカつくのよ」

 その声は何も取り繕っていない、荒々しいものだった。

「あなたを見てるとイライラする。私だけが不幸ですみたいな顔して、達観してる感じで周りを見下してさ。あなたが不幸なのはあなたのせいでしょ。そういう被害妄想女が一番嫌いなの。その割に、男を利用して影に隠れて、そういうしたたかさが気持ち悪い」

 彼女はノートをひったくると、そのまま強引に引きちぎってページを破いた。

「こんなものを書いて孤独ぶってるのも本当に気持ち悪い。ただのコミュ障のくせに。大体、なんであなたなんか……」

 ばらけたノートがゆっくりと地面に向かって落ちていくのを視界の隅に捉えながら、私はほとんど無意識に、彼女の頬を思い切り叩いた。

 咄嗟に頬を押さえた彼女は、目を丸くして私の方に向き直る。

「私がどれだけ……!」

 何故か被害者のような目でこちらを見るその怯えた顔が許せなくて、私はもう一度殴りかかろうと彼女の方へと近付く。

「おいおい、ちょっと! 暴力はやめよう! な?」

「そうだよ! 悪かった、俺たちもからかいすぎたよ」

「邪魔しないで!」

 彼女を押し倒して馬乗りになった私を、男子二人が羽交い絞めにして抑え込もうとする。私はそれを振り払おうと無我夢中で抵抗しながら、飛び出しそうなほど見開いた目で彼女を睨み付ける。

「あんたたちみたいに、何もせずのうのうと自分勝手に生きられるならどれだけよかったか! 私はずっと息苦しくて、必死に息が吸える場所を探してるだけなのに! そんな小さい居場所まで奪わないで!」

 大声で喉がはち切れそうになる。それでも私は叫び続けた。

「ねえ、なんで駄目なの? みんなと違うことをしちゃいけないの? どうしてみんなと同じふりをしなきゃいけないの?」

 それはあの日の私が口に出せなかった言葉だった。ずっと喉の奥に引っかかって取れなかった言葉だった。

 きっと私はそれを吐き出すのが怖かった。自分が普通じゃないと、普通になれないと認めてしまうことになるような気がしたから。

「あーもう! うるっせえなあ!」

 耳元で大きな声が聞こえたかと思うと、次の瞬間、お腹に激しい痛みが走って、せり上がってきた胃液が口腔内を焼いた。全身の筋肉が強張って自重を支えられなくなり、そのまま一気に力が抜けてその場に倒れ込む。

「調子乗んなよ、マジで」

 頭上から吐き捨てるような罵倒が聞こえる。しかし、意識がぼんやりとして上手く聞き取れない。

 ――私って、ダサいなあ……。

 白く霞んだ視界の中で、急に恥ずかしさが襲ってきた。あんな恨み言を佐倉さんに言っても意味はない。ただの八つ当たりでしかなかった。

 ちょうど公園を囲う木々の隙間を縫って、沈みかけた夕日が差し込んできた。暗い空を赤々と照らすその光があの日の炎の色と重なって、いっそこのまま全部燃えてしまえばいいのにと、そんな不幸ぶったことを考えてしまった。

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