淵瀬このや ワンライ集

淵瀬 このや

さいご (お題「朝」「不意打ち」「後悔」)

 パツン。

 照明を点ける音がして、目が覚めた。まだゆるく微睡んだまま掛布団を引き上げて、ごろり寝返りをうてば、くつくつと喉の奥で笑うような声が後ろから聴こえる。


「まだ眠い? ふふ、可愛いなあ本当」


 彼女は僕に覆いかぶさるようにして、額に小さな音を立ててキスをした。うっすら目を開ければちょうど照明の光は彼女に隠れて、彼女の何もつけていない身体の輪郭を淡く輝かせていた。


「おはようハニー、体調はどう? 昨晩は無理させたからさ」

「……それ、僕が言いたかったんだけどなあ……」


 掠れた声を出せば、恋人はけらけらと声を立てて笑った。いつもなくのはそっちのくせに、彼女が回復の早い体力バカなせいで、朝はまるで真逆のような構図になることだけが、この恋人との生活における唯一の不満だった。


「朝ごはんつくるけど、何がいい? というかお腹空いてる?」

「……正直そこまで空いてないな、君は?」

「うーん、私も。じゃあフルーツでも剥こうか、林檎があったはずだから」


 やったー、と力なく言えば、彼女は少し微笑んでキッチンへ向かう。僕はその横顔を遠くに見ながら、意味もなく手元の赤いリボンを揺らしていた。彼女は一瞬こちらを見て、ふと笑いながらこう言った。


「ねえ、もし今日が最期の日だったらどうする?」

「どうしたんだい、いきなり」


 彼女は再び手元に目線を落とし、剥いた林檎を皿に乗せて持ってきた。ベッドの最後テーブルに置くと、彼女は次に僕の両手にゆるく結ばれたリボンをほどく。いつもの朝のルーティン。僕は彼女の頬に触れると、そっと唇に触れるだけのキスを落とした。彼女にとってそれは不意打ちだったようで、大きな目を零れそうなくらい真ん丸にして頬を染めるので、僕は思わず吹き出してしまった。恋人なのに、毎日しているのに、彼女は僕が愛を向けると驚いたような顔をする。いい加減慣れてほしいものだ。


「まあ、もし今日が僕にとって最期の日なら、もちろん君と過ごすに決まっているよ」

「……どこにいても?」

「どこにいたって。会いに来るよ。まあ、僕は君から離れるつもりなんて毛頭ないんだけどね」


 僕はこの両手首を縛っていた赤いリボンを手に取ってサラサラと振ってみせた。それでも彼女は浮かない顔で、そっと目を伏せて立ち上がる。洗濯籠を取りにいったようだ、そういえば昨日の夜に、朝には洗濯が終わってるように予約したって言ってたっけ。本当はその不安そうに揺らぐ背を追いかけて抱きしめたかったけれど、それは両足首のリボンが邪魔をした。僕は大人しく彼女が剥いてくれた林檎を手に取る。蜜が多く少し柔らかいそれは、シャクとも音もたてず歯を飲み込んでいく。


「……ねえ、遊びをしようよ。今日が地球最後の日だと思って過ごすの」


 戻ってきた彼女は洗濯物でいっぱいの籠を抱えて、また僕に笑いかけた。


「昔、一緒に動画で見たじゃん? 直径四百キロメートルの隕石が地球に落ちたらって。あんな感じを想定してさ。そしたら、君は今日をどう過ごす?」


 僕はその動画を思い返した。記憶は曖昧だ、YouTubeなんてしばらく見ていない。だが、確かよくドリフの音楽をつけられてミームとして使われている映像の元ネタだった気がする。


「隕石とか、正直あんまりピンと来ないけど……。そしたら間違いなく今日が地球最後の日だろうね」


 僕は動画で見た、あの巻き上げられる地殻を思い出した。それはどうにも現実味がないので、僕は笑って彼女を見上げる。


「じゃあ、後悔することのないように、全部を君を愛することに使わないと。ねえ、ほらほらもう、洗濯籠なんて放ってさ、早く僕のそばに来てよ」


 僕はぐぐっと両腕を広げるけれど、彼女は困ったような顔をして僕の足元に近寄り、そしてそこにあったリボンをしゅると解いた。しかしそれに困惑したのは僕のほうだ。


「どうして……?」

「ねえ、君から預かってた君のスマホも返すよ。地球最後の日だよ、後悔しないように、好きな人と連絡とったほうがいいだろうから」


 何なら、会いに行ったっていいんだ、リボンは解いたから。そう力なく言って彼女はスマホを差し出してくる。付き合ってからしばらくしたあと、僕が彼女とこの家に住むようになったときに、他の誰とも連絡なんてとってほしくないと言うから預けたスマホだ。それを受け取った僕は、けれどそのまま放り投げた。


「え、どうして?」

「だって、いらないもん。僕には君さえいてくれたらいいんだよ、何度も言ってるけれど」


 ほら、そんなのいいから早く僕の腕の中に来てよ、と僕は再び腕を広げるのに、彼女はまたそれを無視して、今度は長らく使っていないために埃をかぶっているテレビを点けた。しばらくのノイズのあと、それはニュース番組を映し出した。まず目を引いたのは、大きくL字型に書かれた「隕石接近! 一時間後」の文字。アナウンサーたちが、中でわあわあと喚いていた。


「……すごいね、これも『遊び』?」

「……違う、違うよ。これは本当のことなの」


 予想だにしなかった事実に、しばらく声が出せなかった。ようやく状況を理解した僕に、彼女はぽろぽろと泣きながら「ごめん、ごめん」と繰り返していた。抱きしめたくて、僕はベッドから降りて彼女に駆け寄ろうとする。けれど、これも長らく使っていなかった脚はすっかり筋力が落ちて、すぐよろけてしまった。慌てて僕を支える彼女を抱きしめて、その背を擦る。


「ふふ、やっとこっち来てくれた」

「……ごめんなさい……、黙ってたのも、君をここにずっと監禁していたのも」


 隕石来ること、昨日にはわかっていたの。しゃくりあげる彼女は長い間ベッドの上から動かなかった僕よりずっと細くて、すっかり弱くなっている僕の力でも壊せてしまいそうなほどだった。


「怖かったの、君がどこかにいってしまうんじゃないかって。本当に世界が終わるなら、私のもとから離れてしまうんじゃないかって。離れていけないくらいまで黙っていれば、どこにも行かないだろうって。本当にごめんなさい」

「……馬鹿だなあ。そんなに怯えなくても、僕は離れたりなんてしないのに」


 もう少しだけ抱きしめる腕に力を込めれば、彼女のしゃくりあげる声が大きくなる。


「なんで、なんで好きでいてくれるの、こんな私のことなんか。本当は、後悔してるんじゃないの、こんな子と付き合わなきゃよかったって、ずっと」

「……君は、そう思ってるの?」

「思うわけない、思うわけないよ。だって好きだもの」

「僕だって好きだよ、だから一緒にいたい、僕が選んだことなんだ。どうしたらわかってくれる……?」


 それでも、彼女はなんで、どうしてと腕の中で繰り返していた。その言葉の繰り返しに、僕まで泣きそうになる。

 どうしてこんなに好きなのに、伝わらないんだろう。

 きちんと伝えられていなかったのだろうかという後悔が、頭の中を埋めて。彼女の「どうして」という言葉と共鳴して、いつまでも胸の中に、渦巻いていた。

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