x=vt(ただし、xを精神年齢、vを心の速度、tを実年齢とする)
二兎
x=20
精神年齢。今まさにこの文章をしたためた私の年代を基準として述べるのであれば、これは学術的な用語ではない。過去には発達心理学などの分野において大真面目に用いられていたが、それでは発達の多様性をカバーできなかったのだ。我々の時代においては眉唾物のIQテストやあくまで雑談の種になる程度の16性格診断に登場する響きはそれらしい言葉と同じように、エンタメに用いられるだけの俗な単語である。
これから切り取られるのは、そんな精神年齢という言葉が再び学術的に正統性を持った単語として扱われ、人々を規定するようになった世界。そんな世界での、異なる心の速度を持った二人がすれ違っていく一瞬。
精神年齢は定量化できるようになった。脳というカラクリの謎は部分的に解明された。ヒトは個人の脳に情報が与えられたときにどの程度複雑な信号の受け渡しによってそれを処理しているのかを測ることができるようになった。その信号の受け渡しの複雑さと精神年齢──コミュニケーションにおいて出力、理解することのできるコンテクストの複雑さや、集団を円滑に運営するために譲歩、交渉できる能力など──にはかなり強い正の相関を持つことも発見された。これらの事実に基づいた実験の結果、”年齢”によって居住区画を分割することによって社会はおよそ完璧といってよいバランスで回るようになった。それまでに比べ生産性は劇的に増加。また、導入以前のデータこそ記録されていないため正確な数値ではないものの、制度の導入で精神の発達にも効果的な影響が出ることが認められており、そのスピードは導入以前の1.5倍にも上るとされている。
「なんて、だーれも文句のつけようのない素晴らしい世界でございますことで」
少年は退屈そうな表情でページをめくる。居住エリア20-2、昼下がりの河川敷。相変わらず周囲の同僚よりも早く割り当てられた業務を終え、ほかに何をするでもなく黄昏ていた。
「どうせまた次の検査が来たら、昇齢するんだろうな」
「頼んでもないのに」
特段強い不満があるわけではない。実際、彼の周囲には彼と同じ程度の複雑さを持ったコミュニケーションができる相手がいた。彼の知るところではなかったが、身体年齢のみを参照して基本的に一律の進度で教育を施し社会を運営する前時代のシステムにおいては、おそらく彼は現在よりはるかに苦痛を伴う生涯を送っていたであろうことも理解していた。
(……けど)
彼の精神の発達速度は並一通りではなかった。一律で満3歳以上の全国民に実施される昇齢適格検査において個々人に大きな差が出るのはあくまで初計測時の”年齢”と、幼少期や思春期にあたる時期の発達速度。少なくとも成長率においては”年齢”が20歳以上になると基本的にどんな人物においても変わらないペースになるとされている。
「いくら会話の程度が同じくらいだからって言ったって」
「分かるぜ。もともと仲いい奴らのところにすぐ打ち解けて話せるわけじゃないよな。よっと」
当然のように隣に座るよくわからない男。
「……誰?」
「誰でもいいだろ、近くに住んでるナイスガイさ」
冗談にしてももう少しなかったものだろうか。
はっきり言ってナイスガイとは程遠いその男は、目的も何も分かったものではないその男を警戒する少年をの様子もお構いなしといったふうにシャボン玉のセットを取り出す。
「何?」
「もう少し長めの文で会話してほしいなぁ。おじさん傷ついちゃうよ」
この居住地区には似合わないカラフルな泡が飛ぶ。
「前時代的だね。身齢に関わる言葉、あんまり使わないほうがいいと思うよ」
「おっと、これは失敬」
「じゃあ……そうだな、これきりにするから、最期に一度だけ前時代的な物言いを許してくれないか」
「キミ、いくつだ。あぁ。もちろん君たちの言う、その……身齢のほうで」
「10歳」
外見からうすうす察してはいたようだが、その答えは男の予想を大きく下回っていたようだ。目を丸くして豪快に笑って。
「あっはっは。そりゃずいぶん。居住年齢の二分の一か。どおりで苦労するもんだ」
「おじさんの四分の一だ」
嘘だろ。
「ちょっと待ってくれ。違う。いや、違いはしないが。そう、あからさまにドン引きされると、いくらなんでも傷つく」
「……おっ、ちょっと笑ってくれたな。笑わせたというより笑われた感じがするが、警戒が解けたならまあいいさ」
男はシャボン玉のストローを一つ手渡す。特に断る理由もなかったので受け取ることにした。
「ま、そういうわけで、仕事の内容もずっと変わってないからさ。慣れたもんでもう時間が余る余る」
「てなわけで、ここが俺の癒しのスポットなんだよね。暇だからさ」
「キミも同じと見た。もっともその様子を見るにキミの場合はすぐここからいなくなってしまうんだろうけどな」
男はずいぶんと喋るのが好きだったようだ。
「別に癒しスポットなら、程よく距離取っていつも通り一人でシャボン玉吹かしてたらよかったんじゃないの」
「そりゃキミ、一人より二人のほうが楽しいに決まってるじゃないか。俺だって一人になりたくてなってるわけじゃないさ。ほかのヤツらはまだ働いているしな」
「そんなに仕事が早く終わっているならさっさと昇齢するんじゃないの」
「ずいぶん質問が増えてきたじゃないか。興味を持ってくれてるなら嬉しいね」
「ま、さっきも言ってるけど慣れてるだけだからね。別に仕事ができるからって昇齢検査に通るわけでもないよ」
「そういうもんなんだ」
「そういうもんだよ」
……というか、そういえば。
「シャボン玉なんてどこで手に入れたのさ。このへんで売ってるお店ないでしょ」
「まぁ、売ってないさ。でも、別に売ってるところに行けばいいだけだろう?」
「それって、エリアで言うとどの辺?」
「コレ買ったのはエリア10くらいだったかな」
「……周りの目とか気にならなかったの」
「まぁ、そりゃキツかったさ。でもこういうのって年齢関係ないと思うんだよなぁ」
彼は手を止めることなく相変わらずシャボン玉を吹かしている。
「もしかしてキミ、こういう遊びには疎いのかい?」
言われてみればどの年齢だった間も相応の遊びをしたことがなかった。かなりのペースで飛び級続きで──加えてそういった遊びができるくらいに周囲になじむ前に──昇齢してきたためである。
「……まぁ」
「ふぅん」
彼は少し考えた様子で。
「そうだな。それならいい提案をしようか」
「俺の遊び相手になってくれないか」
「やっぱり人間ってのは遊び心がないとダメなんだよ。子供なら子供らしくのびのび遊んで、そうやって生きていく力ってやつを身に着けていかなきゃならないと思うんだな」
「まぁ、実際ほとんどの人間は多少のずれこそあれど、この制度が導入される前に心配されてたよりはずっとそういうものは健全に回っている。おもちゃ売り場が初等の居住エリアに偏っている今でさえな」
「だから、キミは外れ値なんだ。当たり前の輪から外れてしまった、想定外の人間」
「だからさ、次の昇齢検査がやってきておじさんが取り残されるまで一緒に遊んでくれないか?」
ごもっともらしい理由を丁寧に並び立てる彼。しかし、人がこうやって交渉するときに相手にその理由を長々と述べる時というのは。
「おじさんが遊び相手欲しいだけでしょ」
「……まぁ、そうともいう」
こうして彼らの奇妙な関係は動き出すこととなった。
「や、今日もお疲れさま。今日はバトルホビーだ」
「エリアは?」
「……毎回それ聞かなきゃダメか?や、まぁ、どこで買ってきたかと聞かれると第10くらいなんだけど」
ここに住む人間がこういったおもちゃを買いに行くのはやはりそれなりに苦痛なうようだ。それ以上この話を広げるのもさすがにかわいそうだと感じて、少年はおとなしく説明を聞くようにした。
「まぁ、自由に組み替えて遊べるコマ、って感じだな。ナメてかかると結構奥深いぞ」
──まんまとハマってしまった。
「これで30勝12敗だな」
「……おかしい」
「おかしくはないさ。こっちは遊び相手ができるまで一人でいろいろ組んで回して研究してたんだからな」
「…………」
「視線が痛いなぁ」
とはいえ。
「まぁ、でも、確かに、楽しい」
「これが……販売されてるエリアが限られてるのが不思議なくらい」
「ま、都合がいいから、かな」
「ほら、社会ってそれそのものが一体の生き物みたいなところがあるからさ」
「一つ一つの細胞の調子が悪かったり、死んでしまうことをいちいち気に留めているリソースはないんだろうな。そいつを生き永らえるためには」
「雑に分けるといろいろ楽なんだよ。それが全員を完璧にカバーできる完璧な分け方でなくてもね」
「じゃあ、」
言いたいことを引き継ぐように彼はその少年の言葉に被せて喋り始める。
「まぁ、悲しいけどそういうことだよ。キミもうすうす気づいているんだろうね」
「切り捨てられた側なんだ」
「もちろん、なじめないうちにどんどん上らされていくエスカレーターの上にいるキミだって」
「ずうっとおんなじ場所に取り残されて、痛い視線に晒されて買ってくるものの中にしか娯楽を見つけられない僕だってね」
「だから、せめて楽しもう。はぐれもの同士見つけ合えた記念、ってことで。キミが行ってしまうまではさ」
業務連絡以外などのまともなコミュニケーションを多くとってこなかった彼には、どんな顔をすればいいのかも、気の利いた返事もさっぱりわからなかった。
それから、少年にとってはそれなりに悪くない時間が流れ続けた。相変わらず周囲になじむことができなくても、こんな相手がいるだけ随分救いになっていた。
それでも。
「明日、昇齢検査だね」
「そうだなぁ。ま、相変わらずおじさんはここに残ることになるんだろうけどなぁ」
「僕は、どうせまた2,3エリアくらい飛ばされたところに行かされるんだろうな」
シャボン玉。この奇妙な関係の始まりにあったもの。彼らは胸をよぎる別れの予感とそれまでの出来事への追憶とともに、あの日のようにシャボン玉を吹かしていた。
「ねぇ」
「何だい」
「前言ってたこと……社会を生かすために個人を置き去りにしなくちゃいけないっていうの。納得はできるんだ」
「でも、わからない」
「じゃあ、切り離された僕らはどうやって生きていけばいいのか」
「社会が僕らみたいなのを想定した設計をしていないなら」
「生きていく場所がずっと僕をはじき続けるなら、どうやって生きていけばいいんだよ」
「こんなことなら知りたくなかった。僕が近づけなかったみんながこんなものをあたりまえに触れられる人生を送っていたなんて、僕だってそれに触れたら当たり前に楽しく思えるなんて、それにようやく触れられた奇跡が終わろうとしている、今のこんな気持ちなんて!」
シャボン玉を吹かすことも忘れて、これで最後とも言わんばかりに彼は自らの気持ちをぶちまけていた。
「……あぁ、そうだな」
「……そうだよ。どれだけ世界が正しくなって不幸な奴を減らせるキレイな形になったとしても、どこまで行っても俺たちは仕組みからハジかれた割を食うやつらを生んで、あろうことか目を向けることすらもなく無神経に世界を回していくんだ」
「じゃあしょうがないって、みんながニコニコしてるから黙って僕だけ受け入れろってのかよ!」
足りない背丈を背伸びで補って、男の胸ぐらを掴む。
「逆だよ」
「受け入れるな」
「オマエ以外の全員が、オマエが割食って生きていることを気づきもせずに受け入れて生きているこの世界で」
「オマエだけは、オマエの不遇を叫び続けろ」
「トントン拍子で昇齢を続ければ、いつかそのうち偉くなるだろ。35以上のエリアには社会のシステムにそれなりに口出せる職もあると聞く」
「俺には無理だった。どれだけ声を上げようとも、届くとこまで登れないんじゃ意味がなかった」
「いままでいろいろ子供っぽい夢見せてやったからよ、恩返しだと思って、こんなくたびれて錆びた大人の夢、叶えてくれよ」
同じ場所で出会って、同じような不遇にいたとは言っても、彼と少年の間ではそんなものに苦しんできた時間にははるかに差があることは明白だった。思わず胸ぐらを掴んでいた手を放し、返事も返せないままに頷く。
「人の人生一生呪うってのも荷が重いからね、やってくれとは言わないよ」
「ただ」
「せめて、何も気づかずに見過ごす奴にはなってほしくないんだ」
「世界の姿を見つめて見つめ続けて、そのうえでどうありたいかを決めるのは君自身だ」
昇齢診断の日。
「や」
「……どうも」
「うーん、今回もダメだったなぁ。せめて1年は進めるとエリアが離れなくて嬉しかったんだけど」
「……僕は1年飛ばしだった」
「そうか。あんまりエリア違いが頻繁に会ってると社会運営局から言われるもんなぁ、めったには会えなくなるね」
「お互い難儀なもんだね」
「……そうだね」
「まぁ、楽しくやれよ」
「僕が楽しかったのは、一緒に遊べてたからだよ」
「やり方は教えたさ。痛い視線に耐えて楽しいもの買ってみたり、ね。向こうで一緒になった誰かを誘ってみても楽しいかもな」
「……まぁ、考えとく」
「ていうか、そっちはどうなのさ」
「どうって言われても、まぁこうやって過ごした時間だけは長いもんで、慣れてるよ。元に戻るだけだ」
「……いつか、変えてみせるよ」
「気持ちは嬉しいけど、やりたいように生きなよ」
「こういうことが、やりたいんだよ」
「……そっか」
「そう」
「それじゃ、行かなくちゃ」
そうして少年は列車に向かう。その時、
「ほら」
男は少年にそれを投げた。シャボン玉のセットだ。
「選別さ。大事にしろよ」
「……うん」
速度違いの心がすれ違っていく。何をするでもなくしばらく黄昏ていると、男は列車が高等エリアの方角へと向かうのを目にした。彼を乗せた電車だろう。
「寂しくなるな。ま、元気でやれよ」
シャボン玉のセットを取り出し、吹かしてみる。離れていく車窓からも見えるように。見送るために振り続ける手のように、戦うことを決めた、彼へ向けた狼煙のように。
x=vt(ただし、xを精神年齢、vを心の速度、tを実年齢とする) 二兎 @yushi1666
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