第6話 「俺と婚約しませんか」
「ええええ? そんなことを言いに来たの、その女」
――その日の夜。女学校時代の友人、
「桜、声が大きいわ。あと、『その女』という言い方はちょっと。――早矢さんの妹さんだし」
思わず席から身を乗り出すと、カウンダ―の中にいる友人の口を押えた。
ここは桜が女将を務める小料理屋だ。
桜は綾子の女学校時代の友人で、学校を卒業してすぐに料亭を営む男性と結婚。念願かなって昨年、自分が女将を務める小料理屋「さくら」を開店した。ちょうど詰め所から自宅への帰路の途中にあり、夜遅くまでやっているので、仕事が遅くなる時は、この店で食事を食べるのが習慣になっている。
「だって綾子。あなたの婚約者を奪っておいて、そんなことをわざわざ言いに来るなんて、おかしいわよ? 怒らなかったの? 言い返さなかったの?」
「怒る……というより、驚いてしまって、言葉が出なかったわ」
なんと返事するか思案している間に、華さんは『正式な招待状は後日お送りしますね』と微笑んで執務室を去って行ってしまったのだ。
どう返すのが適切だったのかいまだに思い出して悩んでいる。
「綾子、それは怒ってもいいところよ。私だったら頬の一つでもはたいてしまっているかもしれないわ」
桜は腕組みをして、語気を強めた。
そんな友人に目を細めた。
私は感情を
「ありがとう。桜」
「何のお礼?」
桜はきょとんと首を傾げた。
「それより、どうするのよ。その婚約披露宴とやら、行くの?」
「正式な招待状が来るなら、行かないわけにはいかないわね」
肩をすくめた。
華さんの家――間宮家は生命力を司る家紋【
家紋を持つ家同士は昔から繋がりを大切にする。
正式に宴の招待状が届いたのならば、顔を出すのが礼儀だ。
「家紋持ちの家は面倒よねえ。私は家を出られて良かったわ……」
桜は感慨深そうに呟いた。
彼女の生家も家紋持ちの家だった。しかし、桜は家紋を持たずに生まれたため、女学校卒業後早々に家を出され、奉公先の料理屋の料理人である夫と結婚した。
「こんなこと、あなたの前でごめんなさい」
言ってから、桜ははっとしたように口を押えた。
「いいのよ。面倒なのは事実だから」
苦笑した。家紋を身に受け継いで生まれること――それは「家」を継いでいかねばならない義務を持つこと意味する。家紋を持つものは、その家紋をさらに子孫につなげていくために、家紋が遺伝しやすい、相性の良い家紋を持つ者と親の命令で結婚するのが通常だ。そして、子どもを持つことが最優先されるため、子どもができなければ、側室として妻を複数持つこともよくある。反対に、夫に種がなければ、別の者との間に子どもを持つことも。
私のお父様お母様・藤宮 武と静江の間には、私以後なかなか子どもができなかった。
そのため、お祖母様はお母様に、お父様以外の男性を
(――お父様とお母様は、とても仲の良い夫婦だったわ)
家紋を持つ者は、それを継承する子孫を残すことが最優先。
その考えを優先すべきであれば、母は別の男性を男妾として迎えるべきだったのかもしれないが、それを断って、母は父とずっと二人でいることを望んだ。――それは、私の理想とする夫婦像でもある。
(親が結婚相手を決めるといっても、お父さまとお母さまのような夫婦になれる人と結婚したいと思うのは贅沢かしら。――今まで結婚の話は先延ばしにしてきたけれど)
もう25歳、いいかげん腹をくくって結婚相手を決めなければならない。
修介さんには婚約破棄されてしまったが、次の婚約相手を決めるためにも、他の家紋持ちの家系との家同士の関係は良好にしておかねばならないだろう。だから、婚約披露宴などの
「誰か一緒に行く相手、いるの?」
桜の問いかけに綾子は「うーん」と唸った。
正式な宴であれば、学校を卒業した後の一定以上の年齢なら男女そろって参加するのが通例だ。結婚していれば夫婦で、結婚前でも家紋持ちの家であれば、婚約者がいるのが普通であるから、一般的には婚約者と参加する。
修介さんと婚約するまでは婚約者のいなかった綾子は、今まで披露宴などは1人で参加してきたのだが。……さすがに今回は。
「――1人で参加するのは
桜が気持ちを代弁してくれて、私は頷いた。
「……そうなのよ」
桜は意外そうな表情になった。
「怒ってるの? ――綾子って全然怒らないから、『気にしないで、1人で行く』って言うかと思ったわ」
「怒っているわけではないけれど……、気にしていないわけでは、ないのよ」
さすがに私も正式な婚約者に婚約破棄の前に別の女性と付き合われて、その女性から「お相手がいれば」と煽られて何も感じないわけではない。1人で参加して、修介さんや華さんに「思った通り」という顔をされるのは嫌な気持ちがする。
「誰か紹介しようか?」
「ありがとう。――でも婚約者以外の男性と参加するわけにもいかないし……」
桜の提案に申し訳なく首を振った。
婚約者以外の男性と正式な宴に参加したら、変な噂になってしまうだろう。
桜は「残念ねえ」とぼやいた
「――家紋にこだわらなければ、あなたを紹介してくれっていう人、たくさんいるのよ」
「そんなわけないでしょう、私なんか。――でも、ありがとう」
肩をすくめると桜に微笑んだ。
防衛部隊で妖と戦っていたら、あっという間に25歳になってしまった。
世間であれば、とうに結婚して子どもがいる年齢だ。
妖との戦闘はできても、華さんのようにかわいらしいところがあるわけでもない自分を紹介してくれという男性がそんなにいるとは思えないが、そう言ってくれる友人の言葉は嬉しかった。
「――卑屈なのはあなたの悪いところよ、綾子」
桜は困ったような顔をした。
「――やっぱり、結婚相手は、家紋がないとだめなの?」
「そうね。――私は藤宮家の戸主だし」
頷いた。
父と母から引き継いだ藤宮家を守りたいという気持ちは強かったし、今まで家紋を継ぎ、家を継ぐという考え方しかしたことがなかったので、それ以外の生き方は考えつかなかった。
そのとき。
後ろの席から、聞き覚えのある声がした。
「隊長」
振り返ると、私の参番隊の今年の新入隊員――鈴原くんの姿があった。
「鈴原くん? どうしてここにいるんですか?」
「あら、鈴原さんって、綾子の隊の隊員さんだったの?」
綾子の驚いた声と同時に、桜は親し気に彰吾に問いかけた。それを聞いて綾子はまた驚いた。
「桜、鈴原くんのこと知ってるの?」
「常連さんよ。あなたとはいつも来る日が違うけれど」
鈴原くんは私たちに笑いかけた。
「最初は寮仲間に連れてきてもらったんですけど。食事は美味しいし、雰囲気も落ち着いてるし、たまに夜ひとりで来るんです。寮の夕食も飽きちゃうんで」
「そうなの」
私は家が詰め所に近いので、直接通っているが、隊員の多くは有事の際にすぐ駆け付けられるように詰め所内に併設された寮で暮らしてる。家庭がある者は、一定期間ごとに寮に滞在する形で勤務するが、新入隊員でまだ未婚の鈴原くんは完全に寮に住み込みをしている。食堂があり食事は出るが、騒がしいため、ひとりになりたい場合は外で食事をとる者も多い。
「それで」
鈴原くんは真面目な表情で改まって、私を見つめた。思わず背を正す。
「盗み聞きするつもりはなかったんですが、お二人のお話が聞こえてしまって」
「え?」
私は固まった。参番隊を任される隊長として、私的な部分は勤務中見せないようにしてきたつもりだったのが、友人と情けない話をしているところを聞かれてしまって気恥ずかしさに思考が停止する。
そんな私をじっと見て、鈴原くんはさらに思考が停止するようなことを言った。
「隊長――俺と婚約しませんか」
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