第2話 帰宅
「お姉さま、早かったですね!」
家の門を入ると妹の
「ええ……、ただいま」
ぼーっと気の抜けた声で返事をすると、足元で丸くなった武蔵の茶色い毛をぽふぽふと撫でた。佳世は何か面白い話を期待するような、きらきらとした瞳で私に聞く。
佳世は10歳。色恋の話にも興味を持つ年頃で、私に婚約者ができたと聞いた時は飛び跳ねて「どんな人か」と聞いてきた。
「修介さんとのお食事、楽しかったですか? ――?」
そこで着物に茶色い染みができていることに気づいたのか、首を傾げた。
「お姉さま! 着物が……」
「――うっかり飲み物をこぼしてしまったの。それで帰って来たのよ」
佳代を心配させないように、いつものような落ち着いた様子を取り戻すと微笑んだ。
何かを察知した武蔵が「くぅーん」と鳴いて、佳世の着物の裾を「あっちへ行こう」と言うように引っ張った。
「本当にいい子ね、武蔵は」
そう呟いて、愛犬の背を撫でると、そのまま、自室に戻る。
***
「はぁ」と小さくため息を吐いてから、鏡に映る自分の姿を見つめた。
母の形見である藤の花があしらわれた華やかな薄紅色の着物には、珈琲の茶色い染みが広がっていた。――久しぶりに修介に呼び出されたからと、浮き足立った気持ちでこの着物を着こんだ自分が馬鹿みたいだ。
私は自分の責務は藤宮家を存続させることであると認識しているし、藤宮家の家紋を継ぐ戸主である以上、決められた相手と結婚するのは当然だ。そもそも家同士が決めた婚約者である修介さんに対して明確な恋愛感情を持っていたわけではない。
――それでも今日の修介さんとの食事を、楽しみにしていたのだけれど。
25歳。たいていの家紋を持つ家の娘は女学校を卒業すればすぐに結婚することが多いので、結婚をするには遅い年齢だ。これまで防衛隊の任務に明け暮れていて、男性と出かける機会などなかった。そんな中、婚約が決まった修介さんと何度か食事を共にして、自分の気持ちを馬鹿正直に表に表す、自分とは正反対の彼との会話を新鮮で楽しく感じていた。――だから、今日、修介さんに久しぶりに「喫茶店に来てくれ」と呼び出されて、多少浮かれた気持ちになっていたのだった。
『何でもひとりでできる女って嫌いなんだよね』
修介の言葉が頭の中で繰り返される。
(私はそういう風に見えるのかしらね……?)
防衛隊の参番隊隊長を最年少で任された女性――という肩書から、そう思われたのだろうか。弱音を吐いたことは1度もないが、決して自分は強い人間ではないと思う。
確かに、人を頼ることは苦手だ。
できる限りのことは1人でこなしてきた。
けれどそれは「なんでもひとりでできる」というわけではない。
ひとりでやらねばいけないと思うから、何とかこなしてきたのだ。
「――それを『嫌い』と言われてしまったら、どうすればいいのかしら」
鏡を見ながら
その時バタバタと速足で廊下をこちらへ向かってくる足音がした。
「綾子! 佳世から聞きましたよ。どういうことですか? お母様の大事な着物に染みをつけて帰ってくるなんて!」
大きな声で叫んで入ってきたのは、お祖母様。
「――申し訳ありません、お
本当に申し訳なさそうな表情を作ってから、綾子はそう言った。
お祖母様は着物についた染みを見つけると「まあ!」と大袈裟に口を押えた。
「飲み物をこぼすなんて。あなたは全く、女性らしさに欠けて。防衛隊の仕事なんか続けているからですよ」
そう言いながら、着物を脱がせる。
「せっかくお食事に誘われたのに、途中で抜けて帰ってくるなんて。あとで、ようく修介さんに謝っておくのですよ。――
「申し訳ありません」と私は小さく繰り返す。
祖母に対しては、何を言っても無駄だからだ。
修介の家――神宮寺家から、婚約破棄の正式通知が来たらどんな反応を示すだろうか。
(お祖母様、寝込むかもしれないわね)
修介は、なかなか結婚しようとしない私にしびれを切らしたお祖母様が、
(お祖母様に申し訳ないわ)
ため息を吐いた。
お祖母様はかわいそうな人だ。
最愛の一人娘であるお母様不名誉な形で亡くし、さらそのに彼女を殺したのは、娘の入り婿――お父さまなのだから。
(そしてその原因を作ったのは、私)
10年前――妹の佳世が生まれた年。お母さま――藤宮
妖とは、人間の恐怖の感情を餌とする、どこからともなく生まれる、実態のない怪異である。物や動物を依り代として取り憑くことで、実体を持つ。依り代となる対象により、さまざまな姿をとるが、特に人にとり憑いた場合は「鬼」と呼ぶことが多い。妖力という、様々な特殊能力を使い人を襲う。
人間を実際に「食べ物」として食べるものもいるが、それは、食料として人間を食べるわけではなく、食べられる瞬間の人間の恐怖の感情を喰らっているのだ。性格は残忍で残虐。恐怖の感情を増大させるため、できる限りの残虐性で人間に害をなす恐ろしい存在だ。
佳世が生まれた年――私は妖に憑かれて鬼になりかける「
お祖母様は、私を結婚させ、子どもを早く産ませることで失った家族を取り戻したいのだろうと思う。
お祖母様は、私が防衛隊に入隊することに、大反対していた。
娘・婿に引き続き、孫娘まで妖と関わらせて失いたくないと思ったのだと思う。
家紋持ちの一族からは、誰かしらかを防衛隊に入れなければならないという暗黙の了解が世間にはある。しかし、一族に入隊対象となるような年齢の男子がいない場合・子どもが1人しかいないなどで家を継ぐ者が少ない場合は、入隊しない場合の方が多い。私は女だし、藤宮家には私とまだ小さい佳世しかいないから、本来なら入隊しない方が自然なのだけれど。
それでも私は防衛隊に入ることを選んだ。
優しくて、頼りがいのあったお父様。その尊敬する父は鬼になったお母様をその手で殺めてまで、東都を妖から守ろうとした。お父様が担っていた東都を妖から守るという使命を自分も引き継ぎたかった。
――それをお祖母様に説明したところで、理解してもらえないだろうことはわかっている。
「あなたはだらしがない」
「静江には似ても似つかない」
くどくど言葉を続けるお祖母様に、私は「申し訳ありません」と繰り返した。
祖母がこんなふうになってしまったのも、もとはいえば妖に取り入られてしまった自分の弱さが原因なのだから。
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