「匂いのない世界」(サンプル)

 大宮そごうにお寿司屋さんあったっけ?

 終業後に駅のホームで開いた端末に表示された通知バナーを、条件反射で非表示の方向に指を滑らせた。ちょうど今、同じアプリのメッセージでゼミの秋季部会に出るのをすっかり忘れていたことに気づき、幹事の先輩へお詫びの作文をしている最中だった。気づいたといってももう五日も前の話で、出欠の管理もされていなかったのだろう、当日個別に連絡がくることもなかった。

 ここまできて今更、何を謝っていいのか分からなかったが、とりあえず予定を一週間勘違いしていたことにして、次の機会があればまたお願いします、今度はお手伝いします、などと言葉を並べておく。

 文末に絵文字や符号がないと嫌味なやつだと思われるのではないかと、本文よりも句点の代わり探しに苦心して文字入力をしていたが、最後に面倒になって、「。」も書かないブツ切りで改行だらけの詫び文を送った。別にいいんだ、ゼミなんて。俺の学科はゼミも卒論も単位を修得できなくても卒業できてしまう変なカリキュラムだから。

 そごうに寿司屋があるか尋ねてきたのは、三十分後に改札外のまめの木なる謎のモニュメント前で待ち合わせをしている三嶋風夏だった。高校を卒業しておそらく一度もまともに話をしていない彼女と、このあと会うことになっている。

《ミシマン、息災か》

唐突に送ったメッセージにはすぐに既読の表示がついた。

《誰よなによ元気だよ、二年半ぶりじゃん。忘れてたでしょばーか》

《むかし、痴情のもつれで学校のロッカーを盛大に蹴った力強い貴方を思い出しました。相変わらずでなによりです》

《ほんとかわいくないよね!》

《会おうか》

《ええ、そうしましょう。日曜なら都合良くってよ》

《十一時に大宮》

《承知》

 こんなフキダシのやりとりをものの三分で済ませたのが先週水曜日のこと。実家を出てそれまでの気の置けないコミュニティから離れてしまったから、自分のことを何も説明しなくても既に知ってもらえているというのはこんなに楽だったのか、と勝手にからだから力が抜ける。

 降車駅までの三区間で、アプリに送られた彼女のトークに既読をつけた。大宮そごうに寿司屋はあります。回らない寿司屋は東口にも数軒あるし、別にそごうにこだわらなくていいのでは? どのみち俺が支払いをすることになるのだし。ああ、俺が金を出すから彼女は価格の見込みがしやすく〝ちょうど良い〟選択肢を提示してきたわけか。そういう気遣いが、制服姿の彼女のままだなとひとり顔を顰める。

 中央北口の自動改札機がIC専用のデザインに変更されていた。流線型の黄緑のフォルムが緩やかにねじれているように見える。カードをかざす読み取り機もやや斜めに傾けられ、往年の叩きつけるようにタッチする時代は終わったのだと妙に感心した。

 吹き抜け中央に立つモニュメントの周りを既に十人余りのひとが囲んでいた。皆うつむいて小さな液晶画面を凝視し、両耳にワイヤレスイヤホンを押し込んでいる。構内は商業施設から漏れ出た強冷風の恩恵で過度に涼しい。暦ばかりが冬へ向かって季節の変遷を忘れた気候は、今も鋭い日差しに多湿をまとっていた。列島沈没、ヒートアイランド、そんなお伽話が廃れて、とっくにおかしくなった国土にしがみつく市民は、まめの木の下でスマホばかり見ている。立っている場所からモニュメントを見上げると、そこへ留まってるはずのうねった造形が、もしかしたらじんわりと動いているのではないかと思い始める。似たような彫刻が、市内の別のところで昔から立っているな。部活の練習でたまたま降車した駅で、可動式の赤いプロぺラがくるくる回るさまが不思議で、しかしどこだか忘れてしまったけれど。

 真上を仰いでしばらくじっとしていると、そこから一歩も動いていないのに肩に何かが二度もぶつかった。何か、というのはもちろん行き交うひとであることには違いないのだが、互いに避けて歩くには十分な空間なのに、ぶつかってしまう、その無関心が、緩やかに心を荒ませる。

「楊ちゃん」

 三度目の肩は、軽く手が置かれてすぐにぱっと離れた。久々に聞いた三嶋の声に安心して、ポケットから手を引き出してスマホの時間を確認する。

「早いな。そごうより早い」

 西口へ向かって先を歩く彼女から靴音がしない。ぺちゃんこのスリッポンに黒のゆったりとした生地のセットアップ、小さな合皮の鞄を手に提げている。高校の頃に怖がって開けずにいたピアスも両耳に揺れていた。

「そごうはずっとそこにあるから一番着だよ。へんなの」

 そういう意味ではないのだけど、まあ確かにそごうが俺らと競い合ってデッキの上を走っているのではないのは確かだ。三嶋は間違っていない。訂正しようとした手を下ろし、入口の前でシースルーのエレベーターが上下に行き来しているのを目で追う。さっきのまめの木の時にはなかった、その向こうの晴天も視界に入った。高くなった秋空の青が眩しい。動くモニュメントの名前を思い出そうとして黙っている俺の横で、三嶋は鼻歌に合わせて体を揺らしている。

 

 開店してすぐの、客がひとりも入っていない寿司屋のテーブル席に向かい合って腰を下ろした。給仕された番茶をすぐに飲みたかったのか、三嶋がマスクを顎にずらして噛んでいたガムを吐く。行儀が悪い、と言って指を折りながら耳にかけたゴム紐を外す仕草をすると、こちらの手を借りるつもりで、ん、と目を伏せながらそのまま前へ屈んできた。

 その、にくたらしい睫毛の窈窕。だがしかし、彼女は俺の初恋ではない。

 木板に貼られたメニューを一瞥すると、白い手がすっと伸びる。小袖姿の店員さんに特上握りと熱燗二合、とさらっと注文を告げた。飲酒の予定はなかった、と返すと、形の整った片眉が切り揃えた前髪まで持ち上げられた。

「そうなの? てっきり用があって呼ばれたと思ったんだけど。しかもしらふでは言いづらいようなアレで」

「アレとは」

「うーんしかし、まだ迷うんだけど、私もし楊ちゃんにプロポーズされても、今の今なら断っちゃうかもしれないよ。結婚なんてもちろん考えられないし、決定的に性格の不一致と分かっていても一応それなりに気になる異性だっているし。いずれ楊ちゃんとそうなる究極残念な不時着が選択肢にあるとして、しかし今ではない、たとえその結果、十年遠回りするとしても」

「よく喋るな。そら、酒がきた」

「あっ、手酌しないの」

「煩いな。俺も結婚相手がミシマンしかいないと知った日には、きっと声が震えてこんなまともに会話ができないだろう」

「良かった。意見が合うのは昔から同じ」

「そう、あんたは優しくないけど俺と喧嘩もしない」

 乾杯。空きっ腹に燗酒をちびちび流し込んで、早めの昼にしては過分な特上寿司を待つ。ミシマンは通知でブッと短く鳴動したスマホにむうと顔をしかめ、小さな鞄へ追い返すようにぽいと投げた。店内はカウンター席でも落ち着いた雰囲気のあるつくりだったが、窓がなく、駅前の様相をまったく感じられない。

 話をする前に自分の両手をじっくり眺めてみる。爪を短く切り揃え、ところどころにささくれがある。指は脂肪で膨らんでいなかったが、節張っていて可愛らしいとはとても言えない。手のひらは四角くてやや黄色がかっていた。その手で顔を拭くような仕草で瞼や頬に触れる。想像通りの骨格、配置、肌のかさつき、涙が出そうになる。見た目などどうでも良いと居直って生きているものの、土壇場になって、過去のいずれかの地点で改修できていればこれが何か違った姿形になったのではないかと、ああ、そんなの考えるだけ無駄なのに。

 素材が悪いのは分かったうえでのことですが、俺はおんなになりたいのです。

 一応、細かく言っておくと、性として女になりたいのではなく、そう視認されたい、というか、おんなという属性になりたい。

 困難な説明に挫けそうになり、でももう三嶋は俺が支払うことになる寿司を食ってしまうからな、ここで何も言わずに解散したら飯代の元が取れない。いや、元を取るってなんなの。

 両手を机の下に隠し、覚悟して「女装がしたいです」と告白すると、三嶋は慇懃に「うむ」と返した。

「よく言った。そろそろ頃合いだと思っておったのだ」

「はっや、もう酔ったの」

「酔ってない。酔う時は同時に記憶をなくすから安心して。楊ちゃん、私ずっとこの時を待っていたのかもしれない。なんかすごい嬉しくて手が震える。ああ、楽しみだなぁ! どんなお洋服にする? ちょっときれいめ? あるいはしっかりめ? 髪もかつらじゃ興覚めよね。エクステで襟足伸ばしてセミロングどうかな。まず、二階におりて化粧品見るわ。お手本でフルメイクしてもらって、それ動画撮ろ」

 そうなるともう彼女は寿司どころではなくなり、先ほど放り投げた自分の端末をひっつかむと、憑かれたように検索キーワードをどんどん入力していった。熱中すると周りが見えなくなり、解決するまでそこから動けない。箸が止まりいっこうに食べ進められない寿司を三嶋に勧めると、視線は小さな液晶画面に置いたまま、大仰にもあんと口を開けてきた。

 あほたれミシマン、スマホは左手でいいだろ。箸でつまんで押し込んだ一貫にワサビがたくさん塗られていたのだろう、咀嚼すると彼女は「はあっ」と声を上げ、涙目になる。

 

 自分の家に帰宅するのにこんなに緊張するのはまったくばかな話だと思うけれど、エレベーターを待つ間になるほどこれが、噂の膝が笑うというやつですか、とひとり感心して唸り声をあげた。

 心臓はずっとぱんぱんに膨れていて、ちゃんと収縮しているのかも分からないくらい詰まって喉まで迫り上がってきている。駅で別れた三嶋から連絡が来ている気がするし、そう思って気晴らしにスマホを見た時になにも新着がないのがもう耐えられなさそうだったので、結局端末はポケットにしまったままだ。

 部屋のドアを開ける前、電気のメーターを見上げて確認する。大学に入ってはじめの夏にやっていた飛び込みの新聞の試読営業で、メーターが回っていると在宅の可能性が高いから何度かインターホンを鳴らしてみるのが良い、という結構強引な手法を先輩から教えられていた。銀色の円盤が左から右へ、左から右へ、ぬるぬると滑っている。同居の兄が在宅と知り、鍵穴に挿したディンプルキーの音を立てないようにゆっくりと回した。

 家に入ると玄関の灯りがついていて、リビング前のドアの磨りガラスに人影が映っている。靴を脱ぐ時に手に提げていた紙袋がかさかさと音を立てた。子どもの頃に夜中こっそり家を抜け出してひとりコンビニへ行った極限の集中力を思い出し、息を止めて焦らず、しかし素早く自室へ滑り込む。気づかれなかった、たぶん大丈夫だ。この先気配を察知して彼がこちらへ向かってきても、ドアを閉ざしたまま扉越しに会話をすればいい。

 大学へ進学するタイミングで、県南にひとり暮らしをしていた兄のところへ行きたい、と言い出したのは俺だった。両親は賛成とも反対ともいえない顔をして、結局諾否を明言されないのをいいことに、さっさと荷造りしてスーツケースひとつで実家を出た。高校に入ってからはあまり兄と会話をしなくなっていたけれど、彼の部屋へ転がりこんでからのここのところはそれなりにうまくいっていると思う。兄もまだ扶養家族である俺の分で実家から家賃の折半が入金されるのをやや頼りにしていたし、暇な学生が気が向いたときに洗濯や掃除をすること、夏の暑い日に帰宅すれば居室がエアコンで既に快適になっていることを喜んでいた。

 喜んでほしくてここで暮らし始めた、という下心が俺にはある。どんなふうに表現すればいいのか分からないが、おそらくそれは小さい時に彼の後ろをついて回って遊んだり菓子を買ったりした時間、兄に褒められて何か役に立っているのだと誇らしくなるのと同じ気持ちになりたいのだと思う。すぐ泣く弱虫の俺と、めったに怒らない代わりに我を忘れてはしゃぐこともなかった兄は、くっついたところから引きはがせば、今はまったく別種の人間だった。

 部屋の電気を消したまま、鞄の中の荷物と紙袋を手早く片づける。クローゼットの中に入るものはそのまま押しこみ、勉強机の上にある汗拭きシートを一枚引き出す。窓際にある姿見を使おうとして、表面に積もった埃が気になった。ティッシュでそれを落そうともう一度勉強机の方へ振り返った時、部屋のドアがこつこつとノックされる。

「さっき帰ったの」

 咄嗟にうなづいたが、声が出ていないので兄には伝わらない。片手でこぶしを作ると、何にも使われていないティッシュが湿って丸くなった。

「外で飯食ってきた? こっちまだ作ってないけど」

 食ってない、でも今日は要らないよ。三嶋と遊んで喋りすぎた。声は掠れてるし息を吸いすぎて少しふらふらしてる。

「なに、顔出さないで。気分じゃないだけ?」

 部屋から返事も物音もしないので、彼が焦れて語気を強くしているのが伝わった。今の俺はこんなありさまだが、やはり何を差し置いてもまず、兄の機嫌を損ねるのがものすごく怖い。

 ドアのそばで何でもないからと返事をすると、「なんだやっぱりそこにいるのか」と凄まれた。

「出てこいって言ってんの」

「……いい、少し昼寝したい」

「やめろそれでまた昼と夜ひっくり返るから。動画観たいの? 外出てってやろうか」

 彼が動画を観ると言ったのは、つまり成人向けのサイトで自慰のために視聴するそういうもののことを指す。イヤホンを使えば自室で観るのに不自由はないが、きっとそれは、最中に気にせず声を出したり部屋を汚さないための工夫を施していいと彼に気遣われているのだと分かると、がっとのぼせて顔が熱くなった。ここへ住み始めてから彼が部屋にいる時間にそういうことはほとんどしていない。いや、一度だけ、スリルを楽しむためにやったことはあったかも、いや、二度か三度。

 再び口をつぐみ、息をするのも音を立てずそっと吐いたり吸ったりをしていると、今度は扉にごんと拳をぶつける音がした。

「……また無視」

「ちがう、観ないから」

 返す声が震える。今のうちに何か、たとえばクローゼットのハンガーからパーカーをむしり取って羽織るとか、忙しそうにパソコンに向かうとか、いっそ布団に潜り込んでしまうとか、今の自分をごまかすために簡単にできそうな行動はひとつも起こせなかった。早く諦めてリビングへ戻ってくれと念じている時間がはてしなく感じる。

 ドアの向こうでフローリングに足が擦れる音がした。良かった、面倒になって引き返すらしい、そう油断して強張った肩をゆっくり落としていると、ガチャッとノブが回る音がする。

「ばか楊、何隠してる」

 廊下からこちらを覗き込んだ兄が、直後に驚愕で硬直した。ここで暮らしている以上、家主は兄に違いなかったが、自室がどんなに汚れていても不可侵、それが今まで俺に与えられていた権利だった。いや、もしかしたら、不在中に勝手に覗かれたり家捜しされていたかもしれないけれど、それが悟られるように兄は物を扱わないし、不意に話題に出して俺を侮辱することはない。

 ばかは洸の方だ、と兄を詰ろうとしたが、声どころか息も吐けなかった。こういう恐怖で竦む時、おんなはわっと泣き出すのだろう。三嶋ならどうかな。眉を吊り上げてぶるぶる震えながら、仁王立ちして「どいて」と一蹴しそうだ。彼女の方がよほどマスラオ、なんて言ったらさすがに怒られるか。

 それでも口を開けたり閉めたりするしかできない俺は、いたたまれなくなり、兄を押し除けて洗面所へ駆けこんだ。シンクに叩きつけられる流水音を聞きながら、体を屈めてばしゃばしゃと顔を洗う。睫毛と口元に施した化粧が手強くて、洗顔用の石鹸では到底落とせなさそうなぬめぬめした感触が伝った。

「待て、化粧なら落とすものある」

 お椀の形にして水を溜めていた手を片方取り上げられ、兄が洗面台をがさがさとやると、手のひらにローションみたいなぬるぬるしたものがひり出された。絞り出す時にちくりとした小さな刺激から、パウチに入った試供品だと察する。

「彼女の?」

「は、そんなの随分いない。おまえのは何、 イベント?」

「イ……ベント」

 もらったぬるぬるを両手に広げてからまんべんなく顔に塗りつけた。マスカラは手のひらの付け根を瞼の窪みに押し込むようにして擦ると徐々にぽろぽろと剥がれていく。唇も揃えた指で左右に拭き取ると、縦皺の入った粘膜の部分が触れられるようになった。

 水ですすいで下を向いたままタオル掛けに手を伸ばす。いつもは鏡の傍が兄、その隣にあるのが俺が使う用だが、ふたつ目のタオルが見つからない。

「化粧したの、だれ」

「ミシマン、高校の」

 化粧をしたのは百貨店の販売員だったが、色とか線の太さとかを自分好みに細かく指示したのはやはり彼女だった。脳内の三嶋が得意顔で、キレイにできたでしょ、と笑っている。

「ああ、おれあいつ嫌い」

 こっち、と腕を引っ張られ、滴が垂れたままのびしょ濡れの顔面を持ち上げさせられた。四つ折りにされたタオルをべたっと顔に押しつけられたのが、情けなさをいっそうつのらせる。

「化粧って面白いな」

「なにが」

「落としても化粧の顔になるんだよ、おんなみんなそうじゃない? 眉毛の位置とか、瞬きした時の印象とか、毛穴締まってる感じとか。おまえも一緒ね。まだおんなみたいな顔残ってる」

 おんな、という言葉に反応して口を開けると、あてられたタオルのパイル地の細い繊維が舌に引っついてきた。口の中を爪でひっかいてそれを取り除き、兄の手からタオルを受け取る。

「そう見えた?」

「まあ、これだけ施工されればね。ナマで見ても、うん、気持ち悪くて殴りたくなる感じではなかった。写真なら男だって分かんないかもね。喋らなければ騙される」

「……そう」

 視線を落すと、自分がまだ三嶋に買わせた女性ものの服を着ているのに気づいてさらにぎょっとした。パンツ姿だし派手な絵柄も入っていないし、生地が薄くてひんやりしていて心もとない感じはあったが、まあ男が身に着けていても変ではなさそうな上下の組み合わせだった。ユニセックスの店だし平気だろうと思って外は歩けたが、さんざん普段着を見られている兄の前ではいたたまれない。

「あの、これは」

「もう言い訳いいだろ。服もつけ毛もまあ分かるけどおかしくはない。髪結んで、耳になんかつけて、あと白とか着れば。爪はいじるなよ。こなれた感じは好みじゃないから」

「好み、って」

「なあ楊、木曜の夜、ひま」

 ただ予定を聞かれただけなのに、兄の尋ね方は命令みたいだった。木曜日は四限まで授業だからバイトのシフトは入れていない。いつもだったらスーパーで軽く買い出しをして、カレーとかハヤシライスとかの何度出しても叱られないメニューで夕食を作る予定だった。最近は酒も解禁したから、兄が早く帰れた日には缶の発泡酒を一緒に飲む。だから暇、でも夜に出かけるのは少し億劫だ。金曜の午前は必須科目だったから、寝坊はしたくなかった。

 あまり遠くに出かけるのは嫌だ、と返すと、素直に従わない俺に彼は微かに怒りの兆候を現した。

「うそ、別にいい、その日空いてる。ごめんなさい」

 兄の顔を翳らせてはいけないと、慌ててこちらの言い分を取り下げる。ここにきてようやく、自分が考えているのよりもずっと深刻な局面を迎えていることを理解した。俺はここでの立ち居振る舞いを間違えれば、途端に兄の家を追い出されてしまうのかもしれないのだ。弟が頭の病気になったとか、性趣向が歪んでいて恐怖したとか、そういうことを彼が少し騒げば、俺はあっという間に実家へ連れ戻されてしまう。昔から小言の多い母も、ほとんど家にいない父も、今となっては好きも嫌いも何とも思わなかったが、あの古い部屋の匂いと西日で暑くなる自室の窮屈さを思い出すと苦しくて死にそうな気持ちになった。

 湿ったタオルを握ったまま洗面所で立ち尽くしていると、兄はそれを取り上げて洗濯機へおざなりに放り投げ、先にリビングへ戻って行った。

「じゃあ、木曜の夜、部屋で今と同じかっこうして待ってて。服は買い替えてほしいけど。金要る?」

 要らない、と首を振り、慌てて背中を追った。そのまま兄がキッチンでパスタを作り始めるのを手伝って、やかんを沸かして茹でた卵の殻を剥いた。

 流水に撫でられて、ざらざらした殻の中からつるりと滑らかで弾力のある白が顔を出す。片側に寄った黄身が透けているところは特に、綺麗な肌のようだと思った。

 兄の嫌いな三嶋はこんな肌をしている。小さくて半分透けているみたいで、しかもすごく柔らかい。俺には無い部品がすべて詰まって、完璧な造形ができあがっている。

 おんなの造形。食いたいと欲するのではなく、そこへたどり着きたいと思い始めたのは、いったいいつからだろう。


(後略)

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『錆沢兄弟掌編集』12/1:文学フリマ東京39 丹路槇 @niro_maki

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