「墜落ナビゲーション」(サンプル)
最後に彼と寝た日、襟足に刺したピアスを弄りながら、錆沢洸はこう言っていた。
今までずっと音楽を聴いていると信じていたのに、いつからか、どこもかしこも前奏のない、薄っぺらな語彙の羅列だけ耳に捻じ込まれて、あれはいったいなんなのだろうな、と。
確かにね。俺も最近同じことをよく思うよ。サブスクリプションの巣で囀るヒットチャートは無限に目新しい曲を繁殖し続けるし、懐かしの名曲は記録から消えることはない。時代の嵩だけ供給過多だから、ネット記事をスクロールするみたいに読み飛ばして消化していくばかりだ。ワンフレーズ聴いて気に食わなければバッドボタン、スキップしたらもう二度と出会えない。どんなひとが関わり、どれほどの労力が払われたのか知らずにね。でもさあ、それも仕方ないよ。好きも嫌いも選ぶ余地もなく情報量に殴らて続けているんだから。洸がそれを、耳に突っ込まれた拳みたいに言うのは間違っていない。
そのやりとりが高尚な現代批判として成立していたのか、それともただのしけったピロートークの残り香だったのか、思い起こしてもなんとも判じ難かった。
だいたいあのひとはいつも喋りっぱなしで、こちらが返事をするのも確認せず、スイッチが落ちたみたいに急に眠るから。
改札を出てロータリーのある西口、街の特産物がキャラクターになった石像のそばに立つ。バイト先の個別指導塾の夏期講習が終わり、今日は教室の社員とアルバイト講師の打ち上げの予定だった。シフトのある面々は最終コマが終わる九時四十分過ぎに教室を出て駅まで歩いてくる。一コマ先にシフトを終えた俺だけひとり帰宅して私服に着替えていると、集合場所に来た先輩たちに「誰かと思った」と言われた。
耳からひとそろえのソラマメ型のイヤホンを外し、その形にくり抜かれた充電ケースに嵌めていく。磁力でバチッと閉じた楕円の容器は給電ランプを光らせ、微かに発熱した。
「予約が十時だから、先に行っとけって言われたけど」
先導するのは大学四年の世良さんだ。中央線沿いの大学で工学を専攻していて、先週末に修士課程の入学試験を受けたところだと聞いている。
「場所どこでしたっけ」
「トサカ、焼き鳥屋の。背広に匂いつくかな、お前いいね、涼しそう」
「そこまで変わらなかったです。ステテコでも良かったな」
「今日あんまり飲めない日だから楊くんの隣座ろー」
会話に入ってきたのは萌さん、彼女は高卒後、放射線技師の専門学校へ通っていた。学年がひとつ上で同じ中学だったらしいが、全く記憶にない。
ふたりが歩く方をついて行って、百貨店の裏にある居酒屋へ入店した。奥の座敷には人数分の取り皿と割り箸が並べられている。ご注文は、と白々しく尋ねる店員に、世良さんが「もう少し揃ってから」と愛想良く返す。
十時までにあと六人が座敷にたどり着いた。社員の教室長は残務で三十分ほど遅れるという伝令を携えた彼らは、待っていた先発の面々にさほどの気遣いもなく、てきぱきと注文を告げた。
雑に注がれて泡が弛んだビールと、とっくに作り終えていたのであろう冷めたコースの皿が続々と運ばれてくる。席は成り行きで世良さんの向かい、同期の松本の隣になり、萌さんは出入り口付近の座布団に腰を下ろしていた。一年の染川が彼女の隣でビール配りをしている。元サッカー部、政経専攻でインカレのサークルをかけ持ち、顔面の印象ももちろん良し、すべてひとつの裏切りもないスペックだ。頬の膨らみにそばかすの名残みたいなのかがうっすらと残っている。その男から取っ手を掴まずにこちらへ差し出されたジョッキを受け取った。底に短冊状の伝票がこびりついたままだ。学生の身分で宴会の作法など身につけようなどとは露とも思わないが、単に状況に対して察知する力がないことへの正当化はまったく容認できなかった。
だから音楽が退廃していくのだ。〝自由な創造の表現〟ですら、学校で画一的な教育を受けた若者には、イントロを取り上げた贋物の音楽ですら新進気鋭と手を叩き称賛するに決まっている、そう嗤われている気分になる。
ロックが流行らない、風刺の切れ味を忘れた、錆びた二十代の方が老いた社会の歯車に噛み合うって皮肉だろ。もう大学のモラトリアムなど無用では? 残念だけど俺らはこの先の日本に役立つような大人になれません。
それで、小遣い稼ぎに選んだのは次世代を担う中高生を預かる学習塾です、というところまでがワンフレーズだ。ひとつ公式を覚えて使えるようになれば生徒とハイタッチするし、定期試験の点数が十点上がれば親から礼を言われる。何の資格もない学生らを、先生などと呼ぶ。
社会人が便宜的に着用するスーツが制服だと気づくまでさほどの時間はかからなかった。これは無責任の正当化なのです。学生の今のうちから着慣れた制服を身にまとい、大卒新人がぞろぞろと新年度の通勤電車に蔓延る。ああ、それはさすがに嫌だな。次に洸が機嫌の良い時に、俺はまだしばらくの間は定職に就かない根無草をやってもいいかと聞いてみようか。
教室長が不在のまま座敷では乾杯の声が上がった。世良さんが喋りだすと、それぞれも近場の者と言葉を交わし、飲み食いを始める。
「あれ、松本いるじゃん」
「そうなんだよ、夏期講習ひとコマもシフト入れられなかったのに」
「まじ。課題ヤバいの」
「いや普通に飲食のバイトだよ。向こう、かけもちあるから休みますっていうとキレる店長でさ」
「萌も怒られたことあるよー。それですぐやめたー」
「大変だね」
「別に大変って思ってなさそう。楊さんは、バイトない日、何してるんですか」
バイトしてない日はたいていセックスしてます。バイトがある日もだけど。嘘、そうなるといいなと思って、部屋に飲み物と菓子を買っておき、丹念に入浴するんだけど、支度の三度に二度は徒労に終わる。個別指導塾は生徒の急な欠席があると研修動画を視聴して空きコマ分も勤務扱いにしてもらえれば給料が発生するけれど、セックスの相手を待ちぼうけしても一銭にもならない。そういう時、俺の時間と体が空いている今、相手を楽しませる何かに役立てることはできないかとよく夢想している。溜まった衣類を洗濯するとか、適当に料理を作り置きしておくとか、掃除機をかけておくとか、浮気をしてみるとか。
ぜんぶ試したことはあるけど、どれも同じくらい評判が悪くて続かなかった。それよりもいつも通りに剃毛して孔を湿らせておく方が結局簡単に機嫌をとることができる。それが別に、VRエロ動画の鼻息荒い中年男性のような悦びで返されるわけでもないし、素っ裸で突っ立っていてもただ溜息をつかれるだけで、そぞろ寒さが増すばかりなのだけれど、睡魔に耐えられなくなる夜半、思い出したみたいに俺を可愛いと言うから、まあこのままでいいのだと思う。
考えるのが面倒で、適当に「むかしの音楽聴いてる」と言うと、染川が「まじすか」と言ってジョッキを持ち上げこちら側へやってくる。これは誤算、本来ならここでいっぺん白んだ雰囲気が漂う見積りだったが、希代の万人受け男が俺を構いに寄ってきてしまった。松本と世良さんが通りがかりの店員をつかまえて飲み物を注文するのに割り込んで、「ハイボール、ハイボール、ハイボールくれ」と手を振って怒鳴る。
「楊さん、バンド趣味あるんですね。どっち系ですか」
「どっち系とは」
「えっと、ハードロックか、ヘビメタか、とか」
水っぽい枝豆をつまんで口に含む間、ジョッキを握った染川は揃えた膝をこちらへ向け熱心に返事を待っていた。近くで見るとそばかすの斑点は白肌にくっきりと浮かんでいた。黄色人種らしからぬ特長は鼻筋の通った顔立ちにフルマッチしている。ピアス穴の痕などない耳たぶは清潔につるつるしていた。俺が定期的に手を施す局部のつるつるとは全く別物、この耳は童貞か、とまた下世話な解釈がよぎる。
「染川くんは何が好きなの」
「……普通にツェッペリンとかです」
「本当だ、腕時計ツェッペリンだね」
「わ、なんで分かるの? やば。あ、楊さんハイボール来ましたよ」
つるつるの耳たぶは彼がジョッキを掴むと途端に真っ赤に彩色された。首まで色が変わった、童貞が勃起してるみたいだな。
憐れな俺は今夜の思考を欲求不満で塗り固めてしまっていて、染川青年の穿った主張をしている感の趣味の理解者の顔をするのさえかなり難儀していた。ごめんよ、青年。きみの夢中で語る〝誰にも知られていない風〟な趣味の話は、俺には擦り尽くされた鉄板の自慰行為に過ぎない。ツェッペリンを知ったところで巷に流れるDTMで書き出された曲のルーツを辿ることはできないし、彼が思いつく程度のありきたりな趣味から、未だかつて誰も探求しえなかった未知の境地が見出されることはないのだから。
飲み放題の時間を半ば過ぎ、ようやく教室長が店に顔を出した。萌さんが用意した座布団に億劫そうに腰掛けて、グラスのビールを一気に半分流し込むと、肩を落として深々と息を吐く。漫画に出てくるサラリーマンが通常より大きなコマで動いている感覚だ。いつもは溜息ひとつしか出番のない彼らは、誌面の中では小指一本分も存在しない。
「お疲れさまです」
「お疲れえ。はあ、夏期講習が終わったと思ったらぁ、今度は保護者面談っつうのがあってさぁ」
小指サラリーマンの台詞を聞きながら、結露ですっかり底が濡れて滑っているハイボールのジョッキを持ち上げた。
「室長、まだしばらく授業できないんじゃないですか」
「ほんとだよぉ、オレこのために働いてるのにさぁ」
「人が足りないですね」
「どこもそうなんだけどさぁ。せいぜい頑張りますよ。推薦始まる前にまた入会増えるじゃない」
くたびれた背広から生えた細腕がジョッキをぐいと傾け、残りのビールも流し込んでいく。嚥下のたびに激しく上下する喉仏をぼんやり眺めた。血色の悪い肌に落ち窪んだ目、無精髭は顎の先からもみあげまでぷつぷつと伸びている。本社から教室配属に戻れたのが二年前、最近離婚して元嫁の方に娘がひとり。日付が変わるまで働いてもサービス残業で、古いセダンの手入れが唯一の楽しみ。これはこれでいい老い方と言えるか。社会の端で小指ほどの存在感でそっと呼吸する生活のほうが、学生コミュニティの中央にいる美青年よりもよほどツェッペリンが似合う人間といえるかもしれない。
俺の心の声を聞いていたのか、近くにいる染川の手元を見た教室長は、ふんと鼻で嗤った。あ、その顔はわりと好きだな。変な匂いがしなければ、きっと三十路が相手でも寝れる気がする。
ただこの人には耳たぶが勃起するみたいな性嗜好の妄想ははたらかない。一見してノンケと分かるバツイチ竿をお借りするのはさすがにはばかられる。
「世良さん、そろそろ〝卒業〟ですか」
「十月だって。やばいなぁ、先生たち補充難しいんだよ、後期実習とかで大学忙しい先生増えちゃうし」
状況は深刻だが、社員のただのんびり伸びた語尾が耳に残るだけだった。背を丸めて肘をテーブルにつく姿がくたくたで濡れ雑巾みたいだと思う。たわんだ胸ポケットから煙草の紙箱が見えたので、外で一服しないかと誘った。
「いいな、僕も出ていいですか」
下駄箱から取り上げた靴を土間に落としていると、染川がこちらへ手を振ってくる。しかし俺たちと入れ違いに酒を運んだ店員に阻まれ、そのまま再び座敷に押し込まれてしまっていた。来たければ後で追ってくるだろう。待たずに店の外へ出る。
尻ポケットに入れたつもりだった煙草がなぜか見つからず、教室長に一本ご馳走してもらうことになった。もっと重いのを喫んでいるかと思えば、マルボロメンソールの1㎜の箱を差し出される。使い捨てライターはボックスの色に寄せたのか、青い半透明のボディだった。着火が歯車のついているフリント式だ。コンビニでは売っていないから酒屋か通販を使うのだろうか。
火をつけて手を添えながら室長のマルボロにライターを寄せる。大鋸屑を火が舐めるとじりじりと赤い火種ができてぼうっと発光させた。鼓動みたいに膨らんだり萎んだりするから蛍に例えられるようだが、間近で見れば暴かれた臓腑のうちがわのよう。抉られた血肉や、腫れた粘膜の収縮によく似ていた。怪我した体の一部みたいな小さな赤を見下ろしながら、貰った煙草を吸って煙を吐く。
ベッドの枕元にあるガラスの皿は洸の専用灰皿だった。花弁が五つの花と葉脈まで描かれた大きな葉が立体になって器の周囲を覆っている。
落ちた灰が小さな砂場のような丘陵を作っていて、さらにドローイングするように彼が煙草の先を擦る。たまに火種ごとぽろっと外れて「あ」とあげる声が子どもみたいで可愛らしかった。
「はは、もう吸うなってことだよ」
軽口を叩くと、火の落ちたしけもくを肩に押しつけてくる。ちりっと小さな痛みが伝播した。刺激に反応して目を瞑る。陰毛を削ぎ落とされたべそかきの抜き身がやおら立ち上がるのを叱られ、乱雑に手でしごかれる。善がってすぐに啼くと、腹に拳を埋められた。首から下、胴なら何をしてもいい。歯型は見栄えの良い稚拙な表現だったが、この頃好まれるのは痣の形ばかりだ。咬創と違い、湯をかけていない時でも長く所在を感じられる。殴られて呻くと暗がりで男の劣情が聳り立った。
気持ち良い、好きだよ、洸。いつでも簡単に俺を壊せる傲慢さを持って、もっと甘く打ってくれ。
つい最近のことだというのに、情交の記憶は途切れ途切れにしかとどまらない。丸裸を剥かれていたぶられている時の光景は、できればすべて憶えておきたいのに、射精するとどうでもよくなるのか、殴られて意識の焦点が外れるのか、次に思考が清明になるのは、洸が今にも寝そうになっている時なのだった。
先に眠入っている彼の、半裸のからだに擦り寄って、肺いっぱいに匂いを嗅ぎながら就寝する。煙草の脂で腐らせた呼吸器官は脆弱で、吸っては吐き出しをすると軋み、咽せて、吸い殻の苦味を逆流させた。
一緒に眠って、兄さん。ずっと俺の錆沢洸でいて。
借りた青いライターを戻さずしばらく眺めていると、教室長はくくっと笑って「あげるよぉ」と言った。腕時計を侮蔑する時とは違い、表情の凡庸さで印象がぼやけている。
「まだ油たくさんありますよ。もったいない」
「いいの、ちょうど禁煙したかったから。残りも錆沢くんにあげる」
はい、と渡されたボックスの蓋を押し開けると、中身が丁度良く減っていて、隙間にライターを押し込むことができた。尻ポケットに入れると角が立ってごつごつする。室長は咥えた煙草を大きくひと呑みして白い灰をぼろぼろこぼし、格好つけに紫煙をぷうっと吹くと、さっさと店の中へ戻っていった。じきに顔を出すと思っていた染川はまだ座敷から出てこない。
居残りして二本目を唇に挟み、フリントを回して火をつけた。兄の真似をして鉛筆みたいに握った煙草を口から離して息を吐く。苦い、苦い、侘しさがざらざらと舌を撫でる。
(後略)
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