『錆沢兄弟掌編集』12/1:文学フリマ東京39

丹路槇

「綿が散るほど破けばいい」(サンプル)

 ヤマボウシの木の陰から出てきた制服姿が、アスファルトの上を点々と散らばって歩きながら正門の外へ向かっている。深い緑の葉が折り重なって揺れ、枝は斜めに手を差し伸べるようにして八方へ広がっていた。そよそよと吹く風に撫でられると、木陰の微睡を誘うようなのんびりとした様子に見える。よく似たハナミズキより開花時期は遅く、初夏に見頃となるらしい。花言葉は「友情」、この学校の女子生徒が身につける胸章にヤマボウシの花の形をした四ツ菱が描かれていた。

 二階の教室からそれを眺めながら、近くにある窓のサッシに手をかけた。風を取り込むと卵色の薄いカーテンがふわりと煽られる。普段なら三限の授業が終わる定刻にチャイムの音が流れた。

 自席の机に鞄を置き、その脇に軽く腰かけてポケットからスマホを取り出す。誰かのメッセージを待っているわけではない、ログインして日課をこなすべきゲームにものめり込んでいない。天気予報アプリを開いて一時間ごとの気温と風向を眺めていると、近くで大きなくしゃみの音がした。

 振り返ると、どうやら椅子を寄せてお喋りしていた女子生徒の中に、外気を急に取り込まれて花粉症の症状を出現させてしまった者がいたらしい。くしゅんくしゅんと断続的に肩を震わせているひとりと目が合い、咄嗟にごめん、と謝った。

 彼女は風が気持ちいいからと言って許してくれたが、申し訳なくなり窓を再び押し戻す。ガラス越しに胸章の木が風に煽られてざっと葉を散らしているのが見えた。花粉よりも目に入る粉塵が心配なほどの春嵐の日。自転車をやめて電車通学にしたのは正解だったようだ。

 進級後まもなく実施された三科の試験で今日は部活動もなく、昼前に下校時刻を迎えている。翌日の試験勉強を、というよりも、まずは腹拵えといった様子で、クラスの連中ほとんどが早々に教室を去っていた。再び端末に目を落とし、天気アプリのティップスを読んでいると、自分の腹もぐうと小さく鳴り始める。

《急なにわか雨や雷雨に注意、週後半は強風により花粉の飛散に警戒を》

 そういう世の中にあふれる注意や警戒というものに、一寸もアンテナが立たなくなってから久しい。スパム拡散注意、甘い誘い文句には気をつけて、思わぬところに詐欺の落とし穴、知らない大人について行ってはいけません。

 それがどれだけ正しいことでも、受け手のこちらも同様に常に正しく在るべきである、とは限らないのが日常だった。無知な子どもでも大人の過ちを見つけるし、善と正義はいつでも別のものに代替可能な気がする。今もまた数時間後にはあっけらかんと全く別の予報を提示していそうな天気予報の時間別表示のバーをスクロールした。すぐ先の未来でも簡単に変わる。二年後の進路も十年後の夢も、バナーのジフ画像みたいにころころと切り替わるから、いっそ一周して元に戻ってもいい、と言ってくれる大人がどこかにいてくれたらいいのだけど。

 突然、何か硬いものでこつんと額を叩かれる。眉間に皺を寄せて険しい顔をしていたのか、顔を上げるとこちらの剣呑を軽やかに笑われた。俺をこつんとやった彼女の手にもスマホが握られている。

「お待たせ。ねえ、スマホいじってるなら連絡ちょうだいよ」

「そうやってすぐ、ひとの教室にずかずかと入り込む」

 悪態をつきながら鞄の紐を手に引っ掛けると、椅子の背もたれにジャケットを忘れていると指をさされる。陽当たりの良い教室では薄着で過ごせるが、外で直接風に吹かれればまだ肌寒い季節だ。ブレザーを羽織ると肩と襟のところがごわごわする。着心地の悪さをなんとかしようと着合わせを引っ張ってみた。中に着ているカーディガンとの重なり具合が整えられて、若干親和性が上がった気がする。

「うん、まあいいか」

「まあいいよ、楊ちゃん今日お昼食べていける?」

「いちいち聞くなよ、俺はいつでも暇よ」

 自分と揃いのブレザーを着る、ひと回り身丈の小さい友人は三嶋風夏という。今は別のクラスだが、小学校は習い事の音楽教室が同じ、中学と高校は通うところが一緒。いわゆる腐れ縁だが、そんな括りをしなくともふたりはそれなりに仲が良い。

 高校に入ってすぐ、わざわざ別のクラスから俺を名指しで訪ねてくる美人を見て、周囲は一瞬で〝そういうこと〟だと理解を示した。それが最大の誤解なのだが、彼女に交際相手ができた今でも一定数は俺たちのことを未だにそう見ているかもしれない。

「ミシマンは、彼氏のところいかなくていいの」

 仲の良い証拠に、三嶋は今でも大昔に付けられたあまり可愛くないあだ名で呼ばれても何も言わない。私にマンって付けるのは楊ちゃんくらいだね、とか言って笑うだけだ。

 揃って階段を降りて昇降口までの通路を行く。先に俺の下駄箱の前へ寄り、脱いだ上履きを砂の溜まったスペースに入れてローファーを取り出すと、彼女の下駄箱があるもうひとつの昇降口の方へ回る。靴下で床を歩くのが冷たくて、下駄箱の周りに敷かれた簀子を踏んだ。時折、かたかたと乾いた音が鳴る。

「テスト終わったらいつもランチする予定じゃん。なんで彼なの?」

「きみそんなだとそのうち振られるよ、気をつけな」

「可愛くない、楊ちゃんこそ誰とも付き合ったことないくせに」

 高校の正門を出て、駅へ向かういくつかの経路から正面に伸びる道を進んだ。途中で氷川神社の参道にぶつかり、さらに先へ行くとJRの在来線を跨ぐ歩行者自転車専用の陸橋がある。駅前へ出るには別の最短ルートがあるが、しっかり食べたい時に使うレストラン街は陸橋を越えた駅北に多かった。

 催しで使われるステージのついたメインデッキを抜けて、広場にあるレストラン街のフロアガイドを眺める。前は蕎麦、その前は鉄板焼き。今日は小遣いを貰ったばかりなのでどこの店へ行ってもいいとミシマンに告げると、彼女は脇腹のあたりで小さくガッツポーズした。

「じゃあ、〈轍〉で」

 地下一階のグルメマップにある洋食屋の写真に手を置くと、三嶋はこちらの返事も待たずに正面のエスカレーターに乗り込んだ。短くてほとんど揺れないプリーツスカートからすらりと伸びる脚が一寸のくすみもなくただただ白い。年頃の女子というのは誰でも斯様に完全無欠な肉体になるものだろうか。三嶋の美貌は級友の中でも頭ひとつ抜きん出ているように思うが、それは生来の遺伝的な才能だけではなく、この儚く短い今に己の全てを賭している彼女の姿勢にも関わりがある気がする。

 二段遅れてエスカレーターの段差に乗って手すりを掴む。横を向くとよく磨かれたガラス越しにごわごわした毛量の多い髪の隙間ににきび面が見えた。こちらは儚くも美しくもなく、きらきらとした熱情のようなものは感じられない。いつか思春期の全能感のようなものが誰の身にも自然と出現するのだと少し前まで信じていたのだが、俺に限ってはそうではないようだった。

 試験で疲れた体からぐうと威勢良く虫の声が上がる。音を聞きつけて「あは」と笑いながら振り向いた三嶋の腹もすぐにきゅるきゅると声高に鳴った。

 生まれたばかりの頃に祖母に呼ばれていた「腹っぺらし」という言葉を思い出して、当時のままに口に出すと、日の光で薄茶に透けて見える髪を揺らしてまた彼女が笑う。これはずっと昔の頃から、三嶋が芯から感情のままに笑っている時は、いつも必ず眉毛の線を歪めて泣き顔になった。

 

 洋食屋〈轍〉のドア脇にある受付票に名前を書き終える前に店員が現れ、席を案内される。長細くて分厚いメニューを渡され、水はデカンタと一緒にテーブルの通路側に置かれた。それをガラス窓の方、小さな花瓶の隣へ移動しながら、裏表紙についているランチメニューからハンバーグ定食を選んで注文する。若葉色のメイド服を着た店員がテーブルから離れると、三嶋も後を追うように席を立ってケーキのショーケースを確認しに行った。席で頬杖をつきながら、少し遠くにある彼女の背中をぼんやり眺める。今日の日本史Bの試験でどう頑張っても絞り出せなかった穴埋めの設問を思い出していた。きっと正答はそれを参照すればわかる、どこそこのページのオレンジ色のマーカーの部分、という記憶まであるが、線を引いたZ会の一問一答の解答書はあいにく家に置いてきてしまっている。英語は高配点のサイドリーダーの読解問題がよくできたし、国語も古典で大きな失敗はしていないはずだ。ケースの前でこちらを振り返っては首を傾けている三嶋に適当に相槌していると、気が済んだのか、すたすたと戻ってきて「ふたりぶん勝手に頼んだ」とさらりと告げられた。

「デザートなんてどうでもいいって顔して、何見てたの」

 咄嗟に返事が思いつかなくて、おかしな挙動でまごついてしまう。さっと視線を外した先に案内役だったのとは別の女性店員がいたので、そのまま考え浅く口を滑らせた。

「あんな服着てバイトしてれば、そりゃミシマンも可愛らしい……ッテ、ソンナフウニ前ニ母ガ言ッテイマシタ」

 自分で言っていることがめちゃくちゃなのを承知しつつ喋るのを止められず、終いに顔をしかめてもごもごと言い澱む。言われた方の三嶋はまずまず満足そうだ。

「あはは、そりゃどうも。っていうかコンプライアンスがちがちじゃん。もう今さらね、楊ちゃんにセクハラとか言わないよ」

「そうですか」

「そうですよ。ほら、ご飯だ、早いね。はぁ、テストよく頑張りました」

 昼の十二時に、水の入ったグラスで乾杯して、試験の健闘を讃えて食事にする。高校でも部活動を続けているとはいえ、中学の時ほど運動はしていないはずだったが、なぜか日がな空腹に苛まれていた。脳が糖質を燃焼させているのでは、と母は怪しげな理論を繰り返し口にしては食べても太らない体を羨んでいる。三嶋もきっと同じような身体状態にあって、ライスを大盛りにすればよかったかも、とぶつぶつ言いながら上品な大口を開けた。

「ねえ、英語で構文の大問あったじゃん、最後、カッコの数合わなくて書けなかった。あれ何だったんだろう」

「ああ、俺それヤマはってた。前置詞がonだとing形になるの」

「……ええー、書いてなかったよぉ、そんなの」

「あったの、下の太字のとこ。上の囲み以外で出すなんて狡いよな」

「もうやだ、こんどばっかりは楊ちゃんに英語負ける」

「大丈夫、数学は今回も楽しい点数で返ってくるから。二科足してきみの一科に届かない」

 ふうん、と不満そうに鼻を鳴らしながら、フォークで人参のグラッセをつつくとこちらの鉄板に寄越してくる。何も言わない俺の方からポテトも一切れ失敬していった。さらに銀の切先がコーンを掬って対岸へ渡そうとするのを、「こら」と言うとまた楽しそうに歯を見せて笑う。

 ライスを大盛りにしたハンバーグ定食も、食後に給仕された苺とベリーのタルトも、ゆっくりと味を堪能しようと思っていたのに、瞬く間に目の前から消えて腹の中へおさまってしまった。ここで食後のコーヒーはさすがに贅沢か、などと言って、ふたりして名残惜しげにデカンタの水をちびちびとやっている。三嶋のスマホが何度か通知でブブッと唸り、彼女が返信の作文をしている間は暇だったからこちらもアプリのゲームをして過ごした。ふたりとも今は予備校にも通っていないので解散すれば自宅へ直行だ。家には日なたで昼寝を堪能している老犬が一匹いるだけ、つられて一眠りと思えば次に目覚めるのが夜七時、そんな午後の無駄遣いが目に見えている。

 長方形の端末をお守りみたいに大事に持った三嶋のしかめ面をのんびり眺める。画面を凝視した姿勢で固まったまましばらく動かないので、連絡はもう終わったかと尋ねた。再びクロスの上に肘を置き頬杖をつくと、わずかな揺れで花瓶の一輪からぱらりと花弁が散る。

「終わってる。返事うざいの、後にする」

「そう言うなって。ミシマンの短気。ヒス」

「あのねえ、そっちこそでしょ。最近はお兄ちゃんと話してる?」

 透明の竹を割ったみたいな伝票入れに手を伸ばして薄い紙を抜き出すと、先にテーブルを立った。スマホで会計に使う二次元コード決済のアプリを起動しながら、また窮屈なジャケットに袖を通す。意固地に座ったままの三嶋を置いて先にキャッシャーの前まで歩いて行き、ガラスボウルに盛られたキャンディをひとつ貰う。私も、と言って器の形にした両手を突き出した彼女の手にもひとつ落としてやった。メイド服の店員は俺と三嶋を口語に見比べて、それからクラスの連中と同じ好奇の色の目を仄かに向けられるが、気づかないふりをして自動ドアを出る。

 

「あのひとの話はいいの。俺のこと嫌いだから」

 昼下りの電車はがらがらで、七人掛けの席にひとりもいないところがあちこちに見られた。自分の脇に鞄を置いて場所取りをしても誰にも迷惑がかからない。三嶋は子どもがするみたいに膝をついて窓を眺めてから、くるりと踵を返して並びに腰を下ろす。今まで揺れなかったプリーツスカートがぱっと舞い、ひらりと裾を広げて折り目の布地を見せるのが面白い。太腿を隠すために置かれた鞄は試験勉強のためにやや重そうだ。

「昔はそんな風には見えなかったんだけどなぁ。ひとって変わるものなのかな」

 ドアの上に嵌め込んであるモニターの音のない映像広告を眺めながら、それには同意も否定もしなかった。彼女がお兄ちゃんと呼ぶのは、もちろん俺の兄のことで、歳はみっつ上、今はどこかの会社で働いている。どこか、というのは単純に耳馴染みのない、大企業ではないどこかという意味でしかなく、いちど忘れてしまって以来、俺が改まって聞き直せないから知らないというだけだった。

 音楽教室もそうだが、小さい頃から通う習い事はぜんぶ兄と一緒だった。仲は今でも悪くはないと思う。しかしある時を境に、俺が彼とうまく話せなくなってしまった。こういうことを言うとまた三嶋が余計に騒いで深刻そうにするから口には出さないでおく。

「ちょっと服見に行こうかな。もうカーディガン暑い気がする」

 小さな四角の液晶画面に映る、ファッションとは全く関係のない広告を眺めながら、ふと思いついて話題を変えた。次の駅にある百貨店にはメンズ、レディース、ユニセックスのショップがいくつか入っている。

「それわたしも思ってた。今のうちベスト探しとこうよ。最近メンズの方がお洒落なの多いから、楊ちゃん買うのに合わせよ」

「だから、本気で振られるから気をつけなよきみは」

 だって誰それもやっていた、と知らない級友の名前をひとりふたり告げられ、それは相手とそういう仲だからでしょう、と言うのは止めておいた。三嶋風夏の言動は境界の曖昧から生まれるものではない。彼女の中ではっきりと線引きされたところから何者でも跨いで越えられない、不動の域があるが故の寛容だ。俺は彼女の世界の内側にいて、三嶋は外の人間にしか恋愛感情を持たない。おそらく俺だけがなんとなく気づいているその真理を、周囲に理解してもらおうとは思わなかった。

 彼女が区切っている世界の境目とは少し離れたところにも、俺がずるずると地に引いた俺の分け目がある。そちらはずいぶん細い線で、利き手でない手で描いたように歪み、消したり書き直したりしたあとのある、不恰好な仕切りだ。

 改札を出ると、平日の昼間なのにロータリーにはたくさんの人が行き来していた。ティッシュやチラシを配る仕事の人が段ボールの近くに立ってあくせくと手を伸ばしては引っ込める。水面に浮上してはしゅっと頭を縮めていなくなる亀みたいだ。なりゆきでひとつもらったポケットティッシュには分譲マンションの広告が挟み込まれていた。駅直結、来春入居、モデルルーム見学会実施中。いつか大人になって仕事勤めをして、貯金が貯まった時に、自分の住まいをこうやって探したりするのだろうか。ほぼ半分がゴシック体の単語で埋められ、あとは完成イメージのパース画像だけでできているその小さな広告紙が、なぜか自分の端末で検索してもヒットしないような、とっておきの情報が載っているように見えるのが不思議だ。

 教室で花粉症に苦しんでいた級友を思い出し、貰ったティッシュは鞄の外ポケットにしまった。

「そういえば、ミシマンはくしゃみしないね」

「そうね。アレルギーは魚卵くらいしかないのよ」

「かわいそう、魚卵美味いのに」

 他愛のない言葉のやり取りが続く。まるでふたり並んで舞台の中央でてくてくと延々足踏みをして、後ろのセットが上手下手へと入れ替わっていく、どこにも進めていないのにどこかへ辿り着いたみたいな演出が日常の情景にある。見慣れた百貨店の各店舗のセットは、ファッション誌の見開きやガラスの向こうにいるマネキンのような特別感はない。ベストを探し出して手に取るうちに、ベストなんて今は別に欲しくないと思うし、三嶋が細い指で値札をつまんで裏返すたび、好きなら値段を見ずに買えばいいと言いたくなる。まとまりのない思考は退屈な日常の反復に適度な不規則を生んだ。ひとつひとつの確認が億劫になって、今いる並びの店を見たらもう終わりにしよう、と彼女の肩を軽く叩いた。濃紺のジャケットに細くてつやつやした髪がさらさらとこぼれていく。憎いな、三嶋は。普通のひとよりずっと大きな黒目をこちらへ向け、媚び諂うことなく、凛とした声で「楊ちゃんの好きにしていいよ」と言う。

「……ミシマンと本当に兄妹だったら良かった」

「また心の声出てますよ。はいはい、お洋服選ぶの飽きましたね。ちょっと雑貨屋も寄ってよ」

 結局、ベストはふたりのどちらも及第点とした、レディースの同じデザインでサイズ違いを買った。俺が紺で三嶋が濃茶、縦に太いケーブル模様が入ったスタンダードなデザインで、色が違っても全く同じに見える気もするし、集団の中に混ざればよくある類似品とも思われそうだ。

 ピンクの紙袋に黄緑のリボンが通ったショップバッグを俺の肩にふたつ重ねて提げ、三嶋が足を向ける先に倣って女性物のヘアアクセサリーショップへ立ち寄る。店舗の中がいくつかのブロックに分かれていて、装飾品、ハンカチや靴下などの小物、鞄、端の方には柱に沿って円柱状に陳列されたキャラクターのグッズ売り場になっていた。円柱のゾーンには単に動物や海洋生物の形を模したぬいぐるみがまとめて並べられている。どれもぴかぴかと光る黒ボタンの目に柔らかい肌触り、綿で膨らんだ優しい形をしていた。子どもの時はもっと正直にそういう部類のものを好きだと表現していたし、今でも鞄の取っ手にボールチェーンを通して小さいのを揺らしながら持ち歩くことに否定的でない。単に図体のでかさとか、男性だからとか、そういうどうでもいいフィルター越しに自分が持ち主だというのが不適切と思うだけで、つまり、釈明なしに言えば、今でもぬいぐるみは可愛いと思っている。

 彼女の買い物を待つ間に、手近の小さめのぬいぐるみに手を伸ばす。パンダ、ツキノワグマ、ウサギ、シマエナガ。はじめは指先でちょんとつついていただけだが、触れると不思議な愛おしさがこみ上げ、そのうちひとつを持ち上げてみた。丸ボタンの黒目と視線が合うと、ふと、これは違うな、と思いすぐに棚に戻す。肩の鞄と紙袋をかけ直すと、ディスプレイの奥まで覗き込むように前屈みになった。同じ種類の動物の顔が一様にこちらを向いてじっと佇んでいる。

 昔、旅行先のサービスエリアなどで土産をひとつ買ってもらえる時、そうやって同じ種類のぬいぐるみを熱心に見比べ、いちばん好きな顔を見つけるということをしていた。最後のふたつにしぼって何分も真剣に悩んだり、まさに運命みたいな出会いでその顔を一瞬で見つけたり。今日のお見合いは後者で、影になった棚のいちばん奥にいる、デフォルメされた丸い嘴に目の大きな鳥が選択の余地なくいちばんだと思った。つやつやの双眸と目が合うと、自然と顔が綻ぶ。誰にも聞こえない声で「待ってろよ」と呟くと、棚の狭い隙間に慎重に腕を差し込んだ。そっと頭を掴み上げ、ぎゅうぎゅう詰めに置かれている所から抜き出して、他の個体を倒さないようにそっと手前へ引っ張る。胴体も尾もぜんぶが見えるようになってから、頭の後ろに安っぽいボールチェーンがついているのに気づいた。本当に鞄につけたければ百円ショップで別に留め具を買った方が良いかもしれない。巣に座るかっこうみたいに畳まれた脚の近くに糸で括られた値札が下がっている。バーコードの近くには価格の他に、このぬいぐるみの品名が書いてあった。オオミズナギドリ。珍しい名前の鳥だ。頭頂は薄灰だが、頬の広域は白で覆われている。一瞬だけ兄のようだと思ったが、それではオオミズナギドリに失礼かもしれない。

「……可愛い」

 きっと声に出ていたのだろう。口に出してすぐ、後ろから話しかけられたような気がした。買い物が終わった三嶋だったらもっと騒がしくしてやってくるだろうから、ただの勘違いだろうと思ってもう一度オオミズナギドリのぬいぐるみに注視した。畳んである翼を指で押し上げてめくってみる。両の手のひらにすっぽりと収まる絶妙な丸みが魅力的だ。無駄金だとは思うが、出すのにまったく惜しくない手頃な価格だった。

 買うか。鞄などにつけて歩かないにしても、部屋の机や枕元に置くのがひとつ増えたって別に構わないだろう。もう一度値札を確かめ、ちょこんと腹に添えられた水かきつきの足を軽く撫でてから、近くにあるレジへ向かおうとした。

 

 踵を返すと、すぐ傍に見知らぬ人が立っている。私服姿の男性で、襟付きのシャツに重たそうな茶色のコートを着た、言ってしまえばあか抜けない恰好をしていた。眉が太く垂れ目、毛量の多い癖毛は短く切られており、背丈は自分とさほど変わらない。ここを退いてほしいのかと思い二歩下がると、「ねえ」と軽く手を伸ばされた。

「ねえ、今ひとり?」

 こんなにストレートに声をかけられることを、一生のうち一度でも経験すると思ってもみなかった。相手が口を開けて話すと唇の間から歯列矯正の金具が見える。目尻の皺と服の配色で、かなり年上だろうと思った。何も言わずに向き合ってじっとしていると、相手もややたじろぎ、しぱしぱと瞬きをしてみせる。

「急にごめん。たまたま通りがかって、ここで人形探してるのが見えて、可愛いひとだなと思って」

 先ほど気のせいだと思っていたのはそういうことだったのかと分かり、小さく頷いた。手に持っているオオミズナギドリはまだ俺の持ち物にはなっていない。早く会計をしなくてはいけないのは分かっているのに、この唐突な遭遇は不適切だと知っているのに、今はその場から逃げてはいけないような気がしていた。微かに身じろぎすると、肩から紙袋が落ちて肘で止まった。

「えっと、怖がらないで」

「怖くない、です」

「そう……それ、買うの?」

 これのことかと示すためにオオミズナギドリを差し出すと、彼は俺の手からそれを取り上げ、さっさとレジの方へ歩いて行く。思った通り、名も知らない男性は俺の代わりに会計を済ませ、値札にシールが貼られたそのぬいぐるみを持ってすぐに戻ってきた。初対面の他人に自分の欲しいものを買わせていいのかという罪悪感は正しく動作しない。自分のいちばん気に入りの物を一瞬でも質に獲られたような感覚と、ひとに何かを驕ってもらうという後ろ暗い愉悦感で、僅かな時間の中で思考がぐちゃぐちゃになるのは容易なことだった。

「はい、鳥さん」

「オオミズナギドリ」

「へえ、そんな名前なの。おもしろい」

「……じゃない、ありがとうございます」

 棚にびっしり詰められている人形たちとは違う、光を反射しない黒い目を見るのがいたたまれなくなって、男性の服の奇妙な色の組み合わせに視線を落とした。三嶋はこの彩色の選定についてどういう見解を示すだろう。少なくとも俺だったら着ずに捨ててしまいそうな、肌触りの硬いごわついた服ばかり好んでいるような印象だ。コートの袖から覗く半透明の白いボタンを眺めていると、俯いた視線の先に再び差し伸べる手が映った。

「このあとの予定は?」

 ぱっと顔を上げると、矯正器をつけた歯を見せて微笑みかけられる。友達と買い物に来ていて、と答えながら、頭では早く三嶋を探さなくてはと考えているのに体が動かない。顔も恰好も自分の趣味ではないその男性のことを、なぜか一心に見入ってしまう。好き嫌いの取捨選択とは全く別のところで、今このひとは俺のことを必要としているという実感によって、単純にそれを無碍にできないでいた。

「そっか、じゃあ今度遊ぼう。連絡先教えて」

 これも散々言い尽くされた文句で、できればもう少し洒落た聞き出し方はなかったのかと思う。それでも言葉に従ってポケットから端末を取り出した。ロック画面に新着メッセージのバナーが出ている。差出人の名前を一瞥して、用件も読まずにスワイプして非表示にした。

「これでもいいですか」

 二次元コードを差し出すと、相手はありがとうと礼を言ってその場で読み取りをした。操作が済むとすぐにメッセージが送られてくる。

《関戸俊和です。電話番号090―××××―××××》

 携帯の番号までついているメッセージにぎょっとしたが、きっとその狼狽は表層まで出ていないだろう。ちゃんと受信したことを伝えると、彼も満足したみたいだった。

「それじゃあ、またね。ばいばい」

 嬉しそうに目を細め、手を振りながら立ち去っていく。こちらもつられて小さく手を振り返すと、後ろ姿になったコートが百貨店の通路を渡り、あっという間に見えなくなっていった。

 手に持ったオオミズナギドリとスマホをジッパーが開いたままの鞄にしまう。体の中で徐々に大きくなっていく鼓動がどっどっと喉を揺らした。悪いことをしてしまったのかもしれない、むしろ悪い人間に見つかってしまったと言うべきか。その感情ははじめからずっとあったのに、咄嗟の時にはこんな風に自分がまったく平常の動作をしないことに驚いていた。それに、今のは良い契機と捉えてもいい。これまではきっと永遠に見つからないと思っていた、俺という人格の他者からの需要や評価について、初めて目で見て感知できる現象だったのではないか。

 その場でぼんやり突っ立っていると、柱の陰から三嶋がひょっこり現れた。

「見たことないひとだった。楊ちゃんの知り合い?」

 いつもよりやや用心した声のする方へ目を向ける。大きな黒目に光の粒が綺麗に浮かんでいる。見慣れた相貌に安心して、肘にかかっていた紙袋と鞄をずるっと手のひらまで落として握ると、彼女の方へ突き出した。

「知らない。今初めて喋った」

「え、うそ、そうなの?」

「ごめん、ちゃんと息したい」

 三嶋に鞄を渡してから、足を折ってその場にしゃがみ込む。自分の影で暗くなった視界を薄目で見ながら、口から何度か吐いては吸ってと呼気を行き来させ、ふうと大きくため息をついた。渋谷や原宿で、いかにもそれらしい風貌のひとに声をかけられるならまだしも、県内のさえない駅にある百貨店で、こんな奇妙なイベントが発生するとは思いもよらなかった。自分が何の気も留めず拒否したり逃げたりすれば今頃ただの笑い話だったに違いない。しゃがんだまま顔だけ上げて、今のどう思う、と旧知に投げかけた。誰が見ても間違いなく美人だと言われるその連れは、どうしてか今は不機嫌に頬を膨らませている。

「ナンパでしょ。だめだよ、危ないし。しかも楊ちゃんの好みじゃなかった」

「俺の好みってなに……」

 笑い混じりに返そうとした言葉は、呆気なく泣き声になってぐずぐずになった。三嶋が俺の腕の隙間に手を差し込んで引き上げ、そのまま腕を組んで歩き出す。格好がつかないので持たせた荷物と彼女の買い物袋を貰って空いた肩にかけ直した。エレベーターを待つ時に足を止めると、軽く彼女にもたれて未だ帰りたくないとぐずった。

「分かってるよぉ、カフェでも寄って少し話そう。あのね、さっきの、最後の買い物ほんと良かったから。楊ちゃんにも見てほしい、すごいの」

「へえ」

「なにさ、すげないやつ。帰りお揃いベスト着てこうよ。どうなるのか見たいし」

「いいよ」

「……楊ちゃん、大丈夫だよ。休んだら落ち着くって、ね」

 慰めの言葉はすべて思考の傍を素通りしていった。何か返答しないといけない気がして、「ミシマン」と声を出したが、後に続くものが何も見当たらず、黙って首を振った。

 味のしないブラックコーヒーを飲むのは、インフルエンザで寝込んだ冬の日以来だった。昂揚と憔悴が湧いては消える絶望的な状況は永久に続くと思えたが、一杯のコーヒーを飲み終える頃には、殆ど正常な状態へ戻っていた。

 情況が元通りになると、ああさっきのことはこの程度のことだったのか、と落ち着きつつも落胆も浮かぶので面白い。冷静になって思い返してみれば、人生最大のイベントということではなさそうだった。つまり、それほどの度合というわけだから、俺がさっきのメッセージに返事を打っても即座に拒絶を決めても、生活の大勢に影響はないように感じる。

 メニュー表の手前に置かれたガラスボトルから角砂糖をひとつ取り出す。包みを解いてブラウンシュガーを舌の上に乗せた。口を閉じてじわりと広がる仄かな甘みをゆっくりと溶解させる。既に底が透けて見えるコーヒーカップには、座席の真上に吊ってある三つで一対の丸いランプの灯りが映っていた。

 残りを一気に流し込み、口の中で砕けた砂糖の粒ごとごくりと嚥下する。ショップバッグからビニール包装されたベストを出して自分の肩に当てがってみた。大きな螺旋を描くケーブル模様が浮かぶ紺色の綿素材を手で撫でる。買った後で、それが何の既視感に引かれた誰の真似をしていたということに、ようやく気づく。

 端末から消したバナー通知は兄からだった。おそらく今日からしばらく家に戻るという連絡だったのだろう。

 向かいでカフェラテを飲んでいる三嶋と目が合う。勢いで買ったが失敗だったとこちらが弁解する前に、彼女は片耳のピアスに触れながらにやりと笑った。

「似合うじゃん」

「猿真似だけど」

「全然、思ったことないよ。嫌がられたこともないでしょ?」

 なくはないだろうな、と思いながら、体に押し当てたベストのビニール包装を音を立てて開ける。今は兄のことは考えても仕方がない。タグを解いて、要らなくなった紙袋と共に畳んで鞄にしまう時、さっき買え与えられたあのオオミズナギドリと目が合った。黒い丸ボタンと目を合わせながら、もらった連絡に返事を寄越せと言われているようだと思う。僅かな逡巡をした後、その鳥を鞄の端に押しやってジッパーを閉めた。やはり自分の金で手に入れるべきだったと後悔したが、今あの店に戻っても、これより良い顔をしたやつにはもう出会えない。

 

 *

 

 ふと目を開けると、部屋の電気は起きている時と同じようについたままだった。眩しさに寝返りを打ちながら腕で顔を覆う。何度か瞬きしているうちに、自分がまだ風呂を済ませずジャージ姿でいることを思い出すと、深々とため息をついた。

 起き上がって部屋の中を見回す。机には眠気と格闘しながらどうにか宿題を終わらせた汚いノートとテキストが開いた状態、傍に置かれたスマホはコードに繋がれて煌々と光り続けている。今も寝る直前にかけたらしいアラームのスヌーズが延々と表示されていた。

 少しだけ、と机の上に突っ伏して取った仮眠は、じきに疲労と睡魔に屈したらしい。アラームで起きるだろうしベッドでもいいかと無意識のうちに移動して、気づいたらそれから三時間が経過していた。

 掛け布団の中に潜ってしまったら終わりだという最後の理性が働いたのが良かったのかどうか。絶望で重たくなった体を引き摺ってのろのろと歩き、深夜の浴室へ向かう。

 軽くシャワーを浴びたらすぐに寝直そうと思っていたのに、着替えてすっきりした体に寝間着の袖を通し、鏡の前で髪を乾かしているうちに、目がどんどん冴えていった。癖毛に櫛を通す頃には、もう毎朝起床した時とほぼ同じ感覚になっている。これはただの思い違いで、今から活動を開始すれば途中で電池切れを起こし、寝不足を取り返すまでまた時間を要することが目に見えていた。まっすぐ寝室に戻って寝るのが最良の行動、しかし、足はキッチンを目指してひたひたと廊下を渡る。

 磨りガラスの向こうにぼんやりと明かりが見えた。母が休む前に電気を消し忘れたか、と訝しみつつ部屋へ入る。冷蔵庫から浄水ボトルを取ってグラスに注ぎ、ごくごくと喉を鳴らしながら一気に飲み干す。カウンターの向こうにあるリビングの壁際に目を向けると、テレビが無音でつけっぱなしだった。ドアポケットに浄水ボトルを戻して冷蔵庫を閉める。そう、消し忘れではない、まだ誰かが起きていてそこにいるということだった。ソファの背に潜む影に小さく声をかける。

「おかえり」

 むくりと起き上がったひとは、生地の柔らかそうな部屋着の恰好をしていた。見覚えのない服は今回の帰省で彼が持ち込んだものだろう。髪型は変わらず線の細い直毛を少し伸ばしていて、前髪は鼻筋のホクロまでかかっていた。目が合うと、深夜に起き出し家の中を動き回ったからか、俄かに鼓動が逸る。

 母似で俺とは全く別の造形でできた顔がまっすぐにこちらを見た。表情は常に乏しく、群れで行動する草食動物が周囲を警戒している時の様子に似ている。緊張はやがて緩み、兄に軽く手招きをされた。目だけ微かに笑っている。

「おれと話すと、またあの人に怒られるよ」

 彼がそう指すのは父のことだった。ふたりの不仲が家族関係の主題になってからもう五年が経とうとしている。

 兄は元々勤勉で優秀な人だったが、父は彼の努力を褒めるのが極端に苦手な性分だった。部活動の大会で好成績を収めても、学校の試験で一番を取っても、父の中でそれらはすべて当然のことと一言に括られてしまうので、兄はそれに猛烈に憤り、反抗した。

 父の勧める高校に進学しないと決めた時、兄の主張はただの意固地で、少し宥めれば県下トップの県立男子高校へ必ず合格するとみんな思っていた。母ですら、すぐにどちらかが折れて済む程度のくだらない諍いだと決め込んでいた。父は「受けたところで不合格に決まっている」と最後まで臍を曲げたままで、彼の意向を汲まず他高に進学した兄のことをその後も認めようとしなかった。

 父は俺よりも才覚のある彼の方に、将来いい大学へ進ませたかったのではないかと思う。しかしそれもかなわず、高校卒業後に就職した兄は、入れ違いで同じ高校へ進学した俺の入学を待たずに実家を出た。

 父に叱られるという忠告は、俺を突き放す時の言い訳なのだろうと思った。こちらから近寄らなければ咎められないが、不意に立ち入ってしまったところから力任せに押し返される。

 小さい時は面倒見のいい兄で、もらった菓子はいつもふたりで半分に分け合っていた。登下校も放課後の外遊びもずっと一緒だった。中学に上がった兄を、ランドセルを背負ったまま何度も正門で待ち伏せしていたこともある。そうして子どものごっこ遊びの世界が一日中続いている錯覚が、あまりに長く続いてしまったせいかもしれない。

 立ち入っていい距離が分からない。体に触れたらなぜ打たれるのかが理解できなかった。今は子どもの時のように本能で手足が出ることもないし、表現する前に感情を抑えられるから対処ができるというだけだ。根本的なところで納得していない、だから嫌われていると思っている。

 ソファの傍まで行くと、兄が寝転んで肘を置いていたところの窪みをぽんぽんと手で叩かれた。

「……いいの」

「今すぐ寝たいとかじゃなければね。楊も飲み物持ってくる?」

 うなづいて踵を返すと、こっちにポテトチップスしかないよ、と言い添えられる。食器棚を開けると前に自分で買ってきたチョコクランチと母の好きな干し柿と煎餅があった。無理に食べなくてもいいか、と扉を閉じ、冷蔵庫から出した無糖の炭酸水を片手に戻る。

 片手にぶらぶらと提げたボトルをちらと見遣ると、兄は口をつまんだ菓子の包装をこちらへ傾けて突き出した。視線は音を殺した画面に映る深夜番組に向けられているが、気怠そうに瞬きを繰り返す様子から、内容そのものに関心はないらしい。ソファの隅に膝をついて腰を下ろし、チップスを一枚袋から引き出した。噛まずに口に咥えながら、ペットボトルキャップを開栓する。ふしゅっと二酸化炭素が吹き出す音に合わせて、唾液がチップスを溶かしてぼろぼろに分解していく。

「洸くん」

「また古い呼び方」

 唇の外に残った歯応えのある部分を後から口に押し込んで咀嚼する。ぱりぱりと景気の良い音を立ててコンソメ味を噛みしめてから強炭酸が弾けるボトルの水を口に含んだ。冷たさよりも痛さが鮮明に伝わる。

「よかった、話しかけてくれて」

 自分でも聞き取れるか怪しいくらいの声量でぼそぼそと呟くと、俯いている俺でも分かるくらいくっきりとしかめ面をされた。

「もっとちゃんと用があるのかと思った。こんなに夜中に起き出してきて、こそこそ風呂に入って」

「こそこそしてない」

「何、えらい生意気」

 言ってしまってしまったと咄嗟に身を縮める。二秒も瞑ったままでいられずすぐに目を開けた。拳も張り手もこちらへ飛んでこず、兄の目はやはり同じように液晶テレビをぼんやりと向けられているだけだった。

「振っておいてあれだけど、そういう話、聞いてもよく分からないよ」

「そういう」

「だから、おうむ返しやめろって。付き合ってるやつとかの話」

 ぱりぱりぱり。薄くて壊れやすいチップスの軽やかな音だけがリビングに広がる。包装に手を入れる時に立つがさがさも同じように深夜の静謐を雑多に埋めた。会話が無くても救われる、息を殺してソファの端にいることだけもうでいたたまれない。再び口に含んだ炭酸水で、奥歯に詰まったチップスの塊を落とそうと軽く頬を膨らませると、内側の粘膜にぱちぱちと無数の小さな破裂が刺さって涙がにじんだ。

 もしも尋ねられたことに正確に答える義務があるのなら、関戸俊和の出現について、隠さず語らなければならなかったのかもしれない。実際のところは誰かに話をするような胆気は到底持ち合わせていないけれど。

 

 百貨店の雑貨屋で唐突に俺を掴まえた青年と、その後も連絡を取り続けていた。

 ぼやかさずはっきり言えば、別の日に待ち合わせをして一日外出したこともある。相手の家を訪ねて食事を摂ったのは一昨日のこと。平日は部活動が終わってから帰宅するまでのわずかな時間ではあったが、気づけば数日おきに顔を見せるようになっていた。

 関戸は隣市に住む、俺より七つ年上の資格浪人だ。大学在籍中に取得できなかった行政書士の試験に、今年も挑戦するつもりで予備校に通っている。日雇いのアルバイトで小遣いを稼ぎ、週に一度ほど喫茶店で試験勉強をする気晴らしを楽しみにしていた。百貨店での遭遇はたまたま同じフロアの喫茶店を利用した後だったらしい。初対面の場で口にした通り、俺を見かけた時は、ただなんとなく惹かれてしまったのだと言われる。

「そもそも、人と話すのがそんなに得意じゃなくて」

 思わず、そうでしょうね、と返したくなるくらい、彼の言動はぎこちなくて不格好だった。不慣れというよりももともとそういう特性があるように窺えて、少し話せばやや神経質とも思える慎重さが丁寧であったり誠実さであったりというものに自然に置き換わっていくことが気にならなくなった。

 待ち合わせの日は、電車で都内まで移動し、級友があまり使わないような駅で降りる。彼の案内で知らない道を通り、大学に通っていた頃の話を聞いた。

 知り合いがいないと分かっている場所では、関戸は俺の手を繋いでいつも右側を歩いた。誰かに見られてどのような誤解を生むのかということに関して何も案じないのかと聞くと、太い眉が横一直線に並んで両目が大きく見開かれる。

「そういうのは、あまり、気にしない」

「俺が、気にする時は」

「……嫌がらないで、好きなだけだから」

 言葉を行き来させるたびに、噛み合っているのか齟齬が広がっているのか分からない空気が常態化していった。それが不快ではないのが面白かったし、かといってこの青年に好意を寄せているかというと疑問ではあったが、少なくとも嫌だとは思わなかった。

 与えられた新しい境遇にやや驕っている、というのが今の心緒を正しく言い表している気がする。誰にも想われず何にも満たされないと思っていた俺という個が、望んだものではないにしろ、今はこういう形で誰かに切望されている。相手からの手に入れたいという主張が、言動の端々に見て取れる。全く人間関係を構築していない赤の他人でしかないのだとか、同性に対して向けるべき語彙表現ではないとか、そういう一般常識に沿った咎めを関戸が受け入れないという姿勢も、これまで経験のしたことのない思考の在り方だった。

「今までの恋人は、どんなひとだったんですか」

 全席喫煙の安いコーヒーショップで休憩している時、ふと気になった問いを口にしてみる。その時も関戸は冴えない色の重たそうなジャケットを着ていて、何度眺めてもやはり自分の趣向には合わないと思える顔を恥ずかしそうにくしゃっと崩した。

「背が高くて、歳上のひと」

「男?」

「ううん、女性だった。女のひととしか付き合ったことない」

「じゃあ、なぜ突然」

「なぜだろう。でも、可愛いと思った時の気持ちは嘘じゃない。楊くんは会って話してもはじめに感じた通り、可愛いひと」

 可愛い、という言葉は、普通に考えれば三嶋やその周辺にいる見目の良い女子、男であったとしても、強いて選ぶならば俺ではなく兄の方がすんなりあてはまる気がする。嵩張る癖毛に額も頬もにきびに侵食され赤くなり、目鼻がはっきりしているわけでも体の線が細いわけでもない。切り揃えた爪は丸く膨らんで、ささくれで幾つも皮膚のめくれているところがあった。それらを手で触れたり視線を落として確かめたりしてから、素直に「可愛くない」と言うと、年上の男はいたずらっぽく笑って「じゃあ、可愛くない」と返す。まったくわけがわからない。

 別れ際になると、だいたい改札を出たところの、柱の影とかコンビニの壁沿いとかに寄って、キスがしたいと言い出す。公衆の面前であるとか、男同士であるとか、そもそも見た目がそれほど魅力的でないとかを差し引きしても、そのたびにひどく混乱した。唇をくっつけるだけでも矯正器具が粘膜に当たって痛くないか、自分の口が乾いていて適度な接着が不出来に終わらないか、そんなことを考えてまごついた。つまり真っ向から拒否の姿勢ではないことに少し期待を持てたし、こんなことすらどこの誰でも良いと判別する自分の深淵に落胆もした。

 それをすることに意味はあるかと問えば、関戸はきっぱりと「したいから」と答えるだろう。呆れるほど向けられる熱望というものに、まともに対峙したことなどない。自分は同性愛者ではないけれど、ただ無条件に人から欲されることから得る愉悦もあって、そのどちらにもつかない半端なところへ立っているうちは、この状況を利用できると思った。

 口でなければいいと言うと、頬骨の近くに唇を当てられた。矯正器具の尖った感触は伝わらない。羽織ったジャケットの肩が近づくと関戸の家と同じ匂いがした。小型犬を飼っていると言っていた通り、動物の独特な臭いが染みついている。

 何でもないな、と思った。触られるのと同じ感覚、というのはさすがに語弊があるが、特別それに性的な感情や内から湧く昂揚のようなものはなかった。自慰の時に動画を見ているような感覚もない。だから相手の嬉しそうな顔はいっそう解釈し難いものだった。

 単純に接触したことで満足するのだろうか、人の温度が良かった? それとも他者として感じる、俺の匂いみたいなものから興奮を覚えるのか。

 

 着替えたばかりの服に鼻先を当てて嗅いでみる。昔からまったく変わらない、家の甘ったるい柔軟剤の匂いがするだけだった。兄が食べこぼしを袖で拭くなと言ってボックスティッシュを投げて寄越すのを、もらい損ねて目尻に紙箱の角が当たる。猫毛の頭を乱暴に掻いて鈍臭いとぼやく兄を横目に、拭う必要のない口元を軽くティッシュで撫でた。

 どこかの工場で作られたちり紙ひとつでも、鼻先に近づけばどうもこの家の匂いを吸い込んでいるような気がしてならない。自分の衣類がとっくにそうであるのは分かるが、どこが由来でどのあたりまでが有効なのだろう。動物の縄張りみたいにその境界を探したくなっている。きっと今の兄は自分とは違う匂いになっていると仮定するが、それを確かめる術はない。寝間着の袖を手のひらのところまで伸ばし、もう一度袖口を軽く嗅いだ。先ほどより柔軟剤の匂いは薄れていたが、違うものが混じっているのではなく、無臭に近づいたという感じだった。

 チップスを食べる手を止め、兄がリモコンでテレビを消した。服の表層に滞留する静電気がじりっと音を立てそうだと思ってほぼ無意識に視線を上げる。仄白い兄の顔が間近にあった。首を軽く傾げれば鼻面が擦れそうだ。体の内側が疼くのが怖くて咄嗟に服ごと左胸を掴む。細切れに吐く自分の息が汚いと思った。口を覆うつもりで袖を顔に当てがうと、それを引き剥がされてすんと匂いを嗅がれる。

「臭いとか言われたの、誰に」

「誰でもない」

 怒鳴ったつもりが情けない声しか絞り出せなかった。腕を振り払って逃げようとすると呆気なくソファに転がされる。頭ひとつ体格が上の兄が易々と馬乗りになって、容赦ない握力でむずとうなじを持つと、襟足にも鼻先を寄せた。

「男ならみんなこんなもんでしょ。しかもあれだ、少しおれに似てない?」

 分からない、と必死で答えようとして、やっと首を横に振る。声を出そうとしているのに喉から肩透かしの呼気が漏れるだけで一寸の抵抗も見せられない。寝間着が捲れて腹が出ているのを、すうと差した冷たい空気の感覚で知る。ほら、と突き出された兄の部屋着の袖が視界を斜に遮った。

 思考がぐちゃぐちゃに絡んで全く整理がつかない。仰向けに寝転がされた上にのしかかられて、体はぴたりと密着している状態だが、見下ろす兄の目にこちらへの親しみや情は窺えなかった。

「離して、洸くん」

「ほら、パンケーキの生地みたいな、はは、楊、髪濡れてるからか」

 髪を片手で乱雑に掻き撫でられてから、兄はあっさりその場から退いた。頭を触られた後にふわっと香ったのは、彼が言った通り、鉄板で焼く前の生地のようなもの。

 ああ、なんだか美味そうだな。

 思考のばらつきはきっと不測に覚醒したせいだろう。ふと言われたものを頭に浮かべてかたちにしてしまった。食感や味を想起すると脳裏にこびりついて剥がせなくなる。

 情況はあまり芳しい行先へ向かっていない。その場で蹲りながら、どうかすぐに弟に飽きてこの場から去ってくれ、と願った。耳の奥で彼の短い笑い声がずっと反響している。何だ興醒めだと罵り、俺が残っているのも構わずに灯りを落とし、食べかけのチップスも空いたボトルも置いて自室へ戻ってほしい。今までの会話もぜんぶなかったことにして、まだこちらを厭う気持ちそのままでいいから、この場面だけ切り取ってどこかへ廃棄してくれないだろうか。

 触れると丸まる虫みたいに体を畳んでじっとしていると、兄が座り直した反動でソファの中央が沈んだ。深いため息の後に、宥めように脇腹を小突かれる。

「莫迦だな、変な時間まで起きてるから。明日も学校だろ」

 ぴったりと閉じ籠ったまま物言わない俺の傍で、彼はソファの上に胡坐をかき、自分のスマホを弄り始めた。トイレに行きたくなったり用が無くなったりすればすぐ離れるだろうと思って薄闇の中で目を瞑る。

 後から自分も部屋へ戻るつもりで兄の移動を待つ間は一瞬で、ふと目を開けた次の場面は朝だった。

 いつもと同じ時間に鳴動するアラームに呼ばれ、上体を起こすと自分のベッドにいる。あのまま寝こけた自分がその後どれだけの厄介物になったのかを考えると血の気が引く思いがした。慌てて廊下へ飛び出し、母に兄の所在を聞く。

 答えを得るまでもなく、彼が既に仕事で家を出た後なのは理解していた。次に実家へ戻る予定も知らない。こうして、謝る頃合が分からなくなった彼への小さな後ろめたさが、あっという間に夥しく積もっていく。


(後略)

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