8.監視者
最後の一文字がその本に刻まれたとき、本当に終わってしまったのだという感覚があった。そしてすぐに、自分という存在が揺らぐことへの恐怖が来た。
私は、ただの
だというのに、私を知るものなどいなくなってしまったはずなのに。私という概念は、今もまだ動き続けている。この世界は今も存在している。
そっと、本を閉じた。またどこかで、新たな生物が発展し、その意識が成長するまで、この続きは描かれないだろう。
それは、生物が眠っている間のことを覚えていないように、あっという間に過ぎてしまう時間かもしれない。あるいは、気の遠くなるほど先の未来かもしれない。どちらにしても、私にはどうすることもできず、ここに存在しているほかはない。
ふと、自分が未来のことを考えていることに気づく。自由な思考を、想像をしている。深紅がいなくなったことによるフィードバックだろうか。
机の上に置いた黒い本の表紙は、鏡面のように私の顔を反射した。長い黒髪が、地面につきそうなほど伸び、記憶の中で何度も見た顔は、いつも通り不愛想だった。
――私は、何のために存在しているのだろうか。
――人は滅亡した。その排他的な利己主義のために。
――キカイもまた、滅亡した。悪を盾にとり、自らの行為を正当化したために。
――私はどう生きればいい? 滅ぼすものも、滅ぼされるものもいないこの世界で。
――私は、誰だ?
「——あなたは、ストア。記憶野をつかさどる私。あなたはこの世界の監視者。ヒトともキカイとも違う、永遠の存在」
突然、脳裏に再生された声。まだ、この世界が出来上がる前の、私の声。
私はストア? いいや、違う。今の私はもう、記憶だけの存在ではない。一人の人間なのだ。三橋に無理やり記憶を注入されたあの時と同じ。
被検体として、あまりに膨大な情報を注入された結果として、私は自分自身を三つに分けた。全身が情報に侵されていくような不快感、溢れ出そうとする情報に爆発しそうな脳をどうにか制御して、記憶、思考、そして、肉体を動かす神経システムを分割し、それぞれを一つの人格とした。それは、とめどなく流されてきた情報があったからこそ、そして私の体が機械であったからこそできたことだった。
「……そうだ」
だんだんと、過去の記憶が明瞭となっていく。
私は、わかっていたのだ。人格を分けた時すでに、この結末を。避けられない滅亡も同様に。だけど、どれだけの思考をもってしても、あの時の、一介の人間だった私にできたのは――――
「せいぜい、
私は、私は――――
「————成功したんだ!」
私は生きている! この第三意識世界で!
口角が自然と上がる。誰にも成し遂げることのできない、私だけの偉業が、達せられた。
ヒトからキカイを作ろうとした三橋も、キカイからヒトを作ろうとした多田も、この第三世界に訪れた夏樹などというヒトでさえも、生死の輪廻から解脱することはできなかった。私とは違って!
この世界は私。私の世界、私の国。私の存在する、私のために存在する、私だけの世界。ヒトでもキカイでもない、私の記憶と思考と神経によって規定され、存在しなければならない世界。
「さあ、何をしようか! ここでなら、なんだってできる!」
遥か頭上、見えないほど高くまでのびる書架に向けて咆哮する。私を阻むものはきっと、もういない。だって、世界には私しかいないのだから。なんと素晴らしい自由だろうか。
――――――——と。
声は摩天楼に吸われ、突然静寂に襲われる。それもそのはずだ。閉ざされたこの空間に音を出す存在など、私しかいないのだから。
肩を震わせながら、試しに座っていた椅子を軽く蹴ってみる。カタ、と小さく音を立て椅子は動いた。私はそれを見ていた。ほかには誰もいなかった。
「ねえ、だれか。誰かいないの。教えてよ。私は、何のために、生きて……」
腰が抜けて、まともに立てない。ふらつく足で椅子から後ずさっていると、不意に書架にぶつかる。一冊の本が落ちてきた。
「本……そうだ、私の記憶。あの時の私は、この後、どうするつもりだったの?」
落下の衝撃で開かれた本には、文字が刻まれていた。他の本と比べてあまり厚くない。ほんの数ページほどの文章群は、他の本からわざわざ破り取られたのかきちんと閉じられてはいなかった。並べられたページの文字を追う。
「意識世界。意識は世界に産み落とされたものでありながら、世界を存在させるための柱となっている。言い換えるならば、世界があるから意識があるのではなく、意識があるから世界があるのだ。
『殉死』。戦争や争いの記憶を持たない、持つことができないはずのヒトが、万が一にもその思考をした際に、かの世界で行われる処理。そのシステムを管理している、ヒトとキカイ、全ての脳と繋がった、言わば世界の大脳から、私は情報を、世界全ての記憶を流し込まれた。そうして、世界の終わりを知ったのだ。
我は、この
次々にページをめくる。
「目を覚ましたのは、ずっとずっと前から知っていた青い空の下でした。景色にも行動にも、どこか既視感があって、生きている心地のしないものでした。
ですが、もちろん悪いことだけではありません。キカイの皆さんと下克上を図る筋書きは、よくできていて、それはそれは滑稽でした。彼らがではなく、
……ええ、今になってようやく、キカイの気持ちが分かりました。なぜ、彼らが笑いながら死ぬのかを。だって、生きているって感じがしますもの。私でも表現できないほどに。きっと、私には覚えていられないでしょうから、お姉さまに記憶として保存してもらえるよう頼んでおきます。私は最後に、笑っていましたよ、と」
次へ次へと文字を追う。
「ねえ、ボクはうらやましいんだ。ストアが、スモモが、キミが。生きているって何だと思う? 記憶すること、表現すること、考えること。ボクの予想に過ぎないけど、キミにとってそれは、覚えてもらうことだったんじゃないかな。たくさんの
だから、最後にキミが記憶野に戻ってこられるように、第三意識世界は記憶を軸にした。そしてストアにはキミの残り香を、ほんの少しの思考と表現力を与えた。
キミは考えたこともないだろうね。与えられたセリフを傀儡のように演じるスモモの気持ちを。演算の通りに進んでいく世界を、ただ眺めることしかできないボクの気持ちを。筋書きのままにしか生きられなくて、自分の意見もなしに、どうして
だからさ、これは僕たちの反抗だよ。キミが過去をそうしたように、ボクたちは、この先のキミの未来の演算を抹消する。キミがいつか、第三意識世界で目覚めてもわからないようにね」
震えながら手に取ったページは、どうやら最後の一枚のようだった。
「深紅に言われていた通りの場所に本を入れようと思ったが、ふと夏樹とやらに感化され、こうして記憶を残そうと思い立った。
我はシステムだ。記憶という本質すら、この世界、この本たちが持つものであり、我は世界を存在させるためのモノでしかない。ヒトでもキカイでもなく、ただの人形のようなものだ。
だが、この行為はどうだ。深紅に、スモモに感化され、こうして記憶を残し、お主の演算とは違う『書架に本を入れる』という行為は、我が意義のある存在として生きている証明足り得るのではないか。
なあ、知っておるか? 生きているとしてもな、一人というのは、寂しいものなのだよ。」
読み終えて、天を仰いだ。摩天楼のように書架は高くそびえていた。
もう一度読む気も起きないほどに、途方に暮れていた。
何気なく最後の一枚を裏返す。裏面は真っ白だった。何かを書こうとして思い出す。ここには何もない。ここでの私は、ヒトでもキカイでも傀儡にすらなり得ない、ただの意識を持った概念なのだと。
何もかも馬鹿らしくなって、右腕を頭上へと掲げる。世界を操れる気がした。
そうだ。ここは私の世界なのだから。
だから、
「もう、終わりにしよう。」
書架から本が雪崩を起こす。次々と本が落ちてきて、私はどんどんと忘れていく。忘れられていく。
本の雨に身をゆだねて、私は顔をゆがませた。笑っているつもりだった。
*****
広い宇宙の中に、一つの惑星があった。少なくとも、かつてそこに住んでいた知的生命体は、惑星と呼んでいた。
ある時は水の惑星だった。またある時は緑の惑星だった。しかし、今はその片鱗も見えない荒れようである。大地は汚染され、水は濁っている。
そんな惑星のどこかで、小さな植物の芽が、顔を出した。
Awareness World 錆井 @SaBsuzuA
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