ヴァレーなんとか

@IsokohanaTomegi

前半

「……なあ、いい加減しらばくれるのはやめろよ」

 正午のカフェテリアで、ケイタがなにか呟いている。

 折りしもぼくは、内腿のあたりにじわりと広がる痒みだけが気になっていた。ケイタに呼び出され、今こうして対面している間も、ぼくはずっとチノパン越しに腿を掻いている。そんなぼくを正面に見据えて、ケイタは再び口を開いた。

「お前、聞いてんのか」

 それでようやく、ケイタがぼくに話しかけていたのだと気付く。語気はやや荒く、どうやらケイタはぼくに怒っているようだ。けれどぼくは、その理由に一切の心当たりを持たなかった。

「聞いてるよ。どうしたのさ」

「どうしたのって……二十万だよ、二十万。この前貸しただろ」

「え?」

「そんな顔したって無駄だぜ。悪いが、こっちも生活に余裕があるわけじゃないんだ。チャラにしてやるつもりはない」

 ケイタが咎めるような眼付で睨みつけてくる。ぼくは驚きを禁じ得なかった。

「ええと、ケイタが何を言ってるのか、ぼくには分からないんだけど」

「ふざけんなよ。結婚することになった――お前がそう言って、だがそのための資金がないって言うから貸してやったんだろうが。もちろん今すぐ返せというほど俺も鬼じゃあないが、いつ返してもらえるのかはハッキリさせておきたい……そのつもりだったんだが、お前がしらを切るってんなら話は別だ」

 ぼくはほとほと困惑して首を折る。

「なに言ってるんだよ。ケイタも知ってるでしょ。ぼくに恋人なんていないし、その気もない。今は何かと覚えなきゃいけないことも多くて、忙しいから、そんなことにうつつを抜かしてる暇はないんだ」

 しかしケイタは、半ば嘲うように口角を歪めて言った。

「俺だって、お前はそういう真面目なヤツだと思ってたさ。だがな、もうその言い訳は通用しないぜ。お前、昨夜俺とリョウヘイが宅飲みしてたとき、突然家に押しかけてきただろ。玄関に入るや暴れまわって、何度やめろと言ってもやめなかった。終いには結婚するだのなんだの吹聴して……俺が金を貸したのだって、そうでもしなきゃお前がモノを壊しそうな勢いだったからだ。忘れたとは言わせねえぞ」

 話している内にも、ケイタの表情は見る見る攻撃性を増していく。

 ぼくはというと、それを聞いて安堵していた。ケイタの主張が、まったくの不当なものであると確信したからだ。

「昨夜、ぼくは自分の部屋にいたよ」

 同時にふと浮かんできた別の考えを、ぼくは口にする。

「まさかとは思うけど、ケイタ、ぼくを騙すつもりじゃないだろうね?」

 するとケイタは信じられないとばかりに絶句し、しばらくして小さく舌打ちをした。

「随分な言われようだな。言っておくが、もしお前がここで白を切るようなら、俺は金輪際お前に協力しない。というか、俺から受けた無数の恩をこうも無下にするヤツとは、今すぐにでも縁を切りたいくらいなんだよ。それでもまだ友人として対話してやってる俺に対する態度がそれとはな。お前、思いあがるのもいい加減にしろよ」

「……」

 その通りだ。ケイタがぼくを騙すはずがない。ぼくが頭を下げて詫びると、ケイタはやや不満げに「分かればいいんだよ」と溜息を吐く。

 ぼくがケイタを疑わないのには理由がある。ぼくは、二年次の四月からこの大学にやってきた数少ない生徒の一人だ。大きな環境の変化と、既に熟成し切り要塞と化したコミュニティに介入することの非容易性に行き詰まっていたぼくに手を差し伸べてくれたのが、何を隠そうケイタだった。それから一年と少し、決して長くない付き合いではあるものの、ケイタがいかなる卑劣な人種でもないことは、ぼくが最も理解している。

 だからこそ、ぼくの思考は錯綜した。ぼくはケイタからお金なんて借りていないのに、ケイタの主張は事実と相反している。ぼくはじっと黙りこんで、その原因を探ろうとする。しかしケイタはぼくを待つつもりなど到底ないようだった。もはや愛想も尽きたと言いたげに肩を竦め、粗雑な口ぶりで吐き捨てる。

「まあ俺からしたら、今お前が嘘を吐こうが隠そうがどうでもいい。金さえ帰ってくるのならな。いいか、二十万だ。再来月までは待ってやる。だがそのあとは――俺に何をされても恨むなよ」

 そうしてケイタは、何も頼まず何も食べず、カフェテリアを去っていく。

 ぼくは、こんなことになるとはつゆも知らずに注文していたミートパイの完成を待ちながら、テーブルに頬杖をついて考えていた。

 二十万。一介の大学生にも満たないぼくには、あまりに荷が重い額だ。日々パートタイムの仕事に勤しんではいるものの、未だにお金を遊ばせておく余力なんてあったためしがない。全ての稼ぎは、生活費と学費の足し前に過ぎないのだ。それゆえに、ぼくは普段からお金の貸し借りには人一倍慎重だった。一度に大き過ぎる額を動かすことは、いずれぼくにとって致命傷になるだろう。……そんなぼくが二十万の大金を、それもただの口約束で借りるだなんてありえない話だ。

 ましてや結婚だなんて。

 だからこそ、やはりケイタは嘘を吐いてはいなかったのだろう。作り話でぼくからお金を騙し取るにしても、ケイタならもっとリアリティのあるフィクションを用意できたはずなのだ。つまるところ、結論はこうなる――ケイタの勘違いだ。どうすれば誤解が解けるだろうか。

 その刹那、ポケットの中でスマホが振動した。職場の店長からの着信だった。

「お疲れ様です」

 声を落として応答する。電話口に現れた店長の声は、いつにも増して虫の居所が悪そうだった。

『出るのが遅いよ。何回電話したと思ってるの』

 履歴を見れば、確かに昨夜から、何度も店長からの着信があったと示されている。

「すみません。気付きませんでした」

『そう。まあいいや。とにかく、君、何か言うことないの? このままじゃクビだけど』

「……」

 クビ?

 あまりにも唐突に告げられた一言に、ぼくは返す言葉を失った。しばし呆然とした後、ふっと我に返る。

「ぼく、何かミスでもしたんでしょうか」

 店長の溜息がノイズとなって聞こえてくる。

『君さあ、昨夜自分がしたこと覚えてないの?』

 昨夜……また昨夜だ。

『べろべろに酔っぱらった状態で店に電話かけてきたでしょ。飲み会でもしてたんだろうけど、ああいう学生ノリを職場にまで持ち込まれると迷惑なんだよね』

 こればかりは、ぼくも即座に否定する。

「店長、誰かと間違えてませんか?」

 というのも、ぼくは体質的にお酒が飲めないのだ。ただアルコールに弱いのではなく、そもそも身体が拒絶する。ひとたび喉を通せば錐で揉むような頭痛に襲われ、呻き声以外の言葉を発することが困難になる。つまりぼくがそうした催しに参加するはずもなく、たとえ一献傾けたとして、店長の言うような人並みの酔い方はできっこない。

 が、店長は取り合ってくれない。

『はいはい、そういう嘘はいいから。シラフであれなら、もはやクスリをやってたとしか思えないよ。……どっちにしろ、正直こっちも限界なんだよね。プライベートは勝手にしてもらって構わないけど、そのためのお金を貸してくれなんて言われたら、さすがのぼくも看過できないって』

「ちょっと待ってください!」

 ぼくは自分の耳を疑った。

「まさか、ぼくは店長にもお金を借りようとしたんですか」

 店長は怪訝そうに答えた。

『そうだよ。その上こっちが断ったら、くそ野郎だ何だと暴言吐いてくれちゃってさ。それで君、謝る気あるの?』

 ……まさか。嫌な予感が頭を過る。

『謝らないなら』

「教えてください! 一体、ぼくはどんな理由でお金を借りようとしたんですか」

『なに、飲み過ぎで記憶飛んでるんじゃないの? ――結婚するんでしょ? そのためのお金が必要だとかで……』

 そこまで言うと、店長は何かに気づいたように息を呑む。

『……ああ、それすら嘘だったってことね。わかった。もういいよ、君。今日から来なくていいから』

 取り合う間もなかった。通話終了を示す電子音だけが耳に届いている。

 嫌な予感は的中した。どうやらぼくは、店長にも借金の申し出をしていたようだ。そしてケイタと店長の間には一切の接点がない。つまり――結婚するからお金を貸してくれ――ぼくは本当に、昨夜そうしたことを皆に言って回ったのだ。そしてたぶん、ケイタから本当にお金を借りている。

 分からないのは、けれど実際、ぼくにその記憶がないということだ。昨夜、ぼくは自分の部屋にいた。

 ……いや。

 本当にそうだったか?

 そうすれば全てを思い出せるとばかりに、ぼくは額に人差し指を突き立てる。昨夜――ぼくは自分の部屋にいた。とにかくくたびれていたから、いつもより早い時間に眠ろうとしたのだ。だが思い返してみれば、ベッドに入った記憶がない。ぼくの記憶は、ベッドに入る直前で途切れている。

 それだけじゃない。なぜぼくは昨夜くたびれていたのか。日中に何か大きなイベントが発生したことは覚えているのだが、それが実際に何であったか、からきし思い出せない。

 嫌な予感はますます高まり、思考が無秩序に散らかった脳が、激しい動悸によって強く揺さぶられている。船酔いにも似た悪心を覚えて、ぼくは思わず口元を抑えた。声にもならない声を漏らしながら、けれど頭は冷静に、乱雑とした思考の整理を試みていた。

 昨夜、ぼくは何をしていたのか。


「具合悪そうだな。大丈夫か?」

 突然聞き慣れた声が降ってきて、ぼくは顔を上げる。リョウヘイが心配げな表情でぼくを見下ろしていた。

 リョウヘイはケイタと同じ、ぼくの数少ない友人の一人だ。最初はお互いにケイタの友人というだけだったけれど、ケイタと比べて人当たりも愛想も格段に良いリョウヘイはぼくともすぐに打ち解けた。

「顔色やばいぞ。病院行った方がいい」

 辺りを見渡せば、カフェテリア内の顔ぶれは一変している。かなり長い間こうしていたらしい。ぼくは平静を装って答えた。

「大丈夫。ちょっと考え事をしてただけだから」

「そうか。それならよかったよ。ところで……」

 リョウヘイは周囲を窺うと、ぼくの隣の空席に座り、内緒話をするように声を窄めた。

「その、なんだ、結婚おめでとう。まったくそんな素振りもなかったから、全然気づかなかったよ。だが考えてみれば、男なんてそんなもんだよな。わざわざ彼女がいることを自慢したりなんかしない」

 まただ。ぼくは歯ぎしりした。もはやうんざりしていた。

「お相手さんは、ヴァレーなんとかって言ってたか。ヴァレーリア……イタリアンかな。そんな相手、よくもまあ捕まえられたもんだ。こんなことを言うとアレだが、ちょっと羨ましいよ。そんな女、俺には絶対見向きもしてくれないだろうからな。

 とにかくおめでとう。じゃあ、それを伝えたかっただけだから、俺はもう行くよ」

 そう言うや席を立とうとするリョウヘイを、ぼくは咄嗟に引き止める。

「待って。リョウヘイに聞きたいことがあるんだ」

「なんだよ、改まって」

「リョウヘイ。昨夜、ぼくが君の家に押しかけたっていうのは本当?」

 リョウヘイは呆れたように微笑んだ。

「記憶がないのか。まあ、かなり酔っぱらってたみたいだったし、それもそうか。……本当だよ。昨夜、お前は俺の家にやってきた」

「それは本当にぼくだったんだよね? 人違いとかじゃなくて」

 リョウヘイは首を傾げた。

「お前みたいな奴を、どうやって見間違えろって言うんだよ。あれは間違いなくお前だったよ」

「じゃあ、ぼくが君の家で暴れまわったっていうのは? ケイタからお金を借りたっていうのは? 全部事実なの?」

 立て続けに問い詰めたためか、リョウヘイは少し気を悪くしたようだ。口調がややすげなくなる。

「悪いけど、こちとら疲れてるんだ。……お前が俺のパソコンをぶっ壊したせいで、レポートのデータが全部取り出せなくなったからな。昨夜は寝ずに復旧作業をして、今ようやく各所への謝罪参りが終わったところなんだよ。だから長話はよそでやってくれ」

「……嘘だろ」

 といいつつも、リョウヘイに嘘を吐く利がないことくらいは、ぼくにも分かっていた。

「ごめんリョウヘイ。ぼくのせいで」

 リョウヘイは小さくため息を吐いた。

「別に、俺は怒っちゃいないよ。俺だって酒の失敗には身に覚えがあるし、パソコンも、ちょうど買い替えようと思ってたからな。だが……」

 ふと、リョウヘイは背後を振り返る。リョウヘイの背後に誰か立っていることに、ようやくぼくは気が付いた。

 リョウヘイの彼女のミユだ。二人は高校時代からの付き合いで、大学も同じところに進学した。リョウヘイが文系なのに対して、ミユは医学部に所属している。直接話したことはほとんどないけれど、リョウヘイを介して顔を合わせたことは何度かあった。ぼくみたいな人にも分け隔てなく微笑みかけてくれる、聡明で寛容な女性だ。

「リョウちゃん、席見つかった?」

 とリョウヘイに話しかけるミユの視線が、ぼくを捉える。途端ミユの目つきに軽蔑の色が滲んだ。

「……なんでこいつと喋ってるのよ。こいつとは関わらないで、って言ったよね」

「こいつが具合悪そうにしてたんだよ」

「そう。リョウちゃんは彼女のお願いより、そんなクズの『お友達』の方が大切なのね。じゃあ勝手にすれば。私はもう、あなたには付き合い切れない」

 そう吐き捨て、踵を返すミユ。

「ミユ!」

 とリョウヘイが呼び止めるも、ミユは小走りでカフェテリアを出て行ってしまう。

 やや気まずそうにぼくを振り返ると、リョウヘイは言った。

「実は昨夜、ミユもいたんだよ。というのも、お前がミユに大事な話があるっていうもんだから、わざわざ夜遅くに来てもらったんだ。だがお前は何を思ってか、玄関先で突然ミユを押し倒した。それで、ズボンとパンツを下して、まる出しのモノを見せつけながら、訳も分からない早口でミユを捲し立てたんだ。……ミユはかなり怯えてたよ。俺たちの説得がなければ、お前は今頃ブタ箱の中にいただろうな」

 困ったようにリョウヘイは頬を掻く。

「おかげさまで、ミユはお前のことをだいぶ軽蔑してる。俺がお前と関わっている瞬間を見たら、今度こそ別れるって言いだしたんだ。自分が襲われたこと以上に、恋人がいるのにそうした衝動を抑えられないことが信じられないんだとよ。俺も女癖がいい方じゃないから耳が痛い話だが、まあ、結婚するっていうんならさすがに治すべきかもな。……ってなわけなんだ。もちろん不本意ではあるんだが、そこんところを理解してくれたら助かるよ。じゃあな。――待てってば、ミユ!」

 そう叫びながら、リョウヘイもまた駆け出していく。

 独り残されたぼくは、ただ呆然とすることしかできなかった。

 ――ヴァレーなんとか。

 その言葉が稲妻のようにぼくの頭を貫いていたのだ。ケイタも店長も、ぼくから結婚する旨の話を聞いていた。そのための資金が必要で、ぼくはケイタにお金を借りた。そのお相手の名前がヴァレーなんとか。だが実際、ぼくにはそんな名前の知り合いはおらず、当然結婚の予定などないのだ。

 もしかして……。

 ふと胸騒ぎがしたかと思うと、直後、激しい眩暈と脱力感に苛まれた。ぼくの頭が追い付かず、空転しているのだ。次第に熱が籠ってきて、押し出されるように意識が頭から零れ落ちていく。

 もはや椅子に座っているのも難しい。身体が宙に放り出されたその瞬間、暗闇の中で、ふと懐かしいミートパイの香りが鼻腔を擽った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヴァレーなんとか @IsokohanaTomegi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画