あべこべ

 山に迷い込んだ。

 こんな暗いところで車のガソリンがなくなるなんて不運だ。


 県をまたいだところにある神社での祭りに参加した帰りだった。彼女が行ってみたいと言うから連れて行ったのに、会場で喧嘩をして電車で帰ってしまった。俺は一人寂しく車で帰宅していたのだが、途中で道を間違えて山に迷い込んだ。


 時刻は午後十一時十二分。今からJAFを呼べるのだろうか。二十四時間対応だったはず。しかし、山奥まで来てくれるのか。

 来てくれたとして、すごい金額になりそうだ。明るくなったら下山して、ガソリンを買って戻ってきたほうがいいのではないか。

 よかったのは夏という事だ。暑さを我慢すれば凍え死ぬ事はない。食事だって一食、二食抜かしただけで死ぬ訳がない。

 そう、俺は幸運なんだ。

 自分に言い聞かせて目を閉じる。カーエアコンは使えないし窓も開けられないので扉を開けたまま寝る。蚊がぶんぶんうるさかったが閉める事はできない。蒸し焼きで死んでしまう。

 夜の森の中にいると嫌な事が頭に浮かぶ。段々と遺書を書いてくればよかった、なんて思い始めていた。


 林の奥からガサガサと音がした。野生動物だろうか。飛び出して来たら扉を閉める為に身体を起こす。

 ガサガサ、と音が響く。緊張に喉が鳴った。


 鬱蒼とした茂みの中から顔を出したのは六十代くらいの爺さんだった。


 なんだ、爺さんか。と安堵する。しかし、すぐにそれが異常である事に気が付く。どうして爺さんはこんな夜に森の中にいるのか。

 頭に浮かんだのは――幽霊。

「ひぃぃぃぃぃぃい」

 俺は叫びながら扉を閉めた。

 爺さんはゆっくりとこちらに近付いてくる。ああ、このまま取り憑かれて殺されるんだ。

 俺は知っているお経をとにかく早口で唱え、手を組んで拝んだ。


 コンコン――窓がノックされた。

 返事をしてはならない。返事をすれば連れていかれる。

 コンコン――窓がノックされた。

 俺はここにいない。俺はここにいない。 


「おめぇ、こったらところで何してる?」

 くぐもった声が聞こえた。呆れた声と怒りを含んだ声だった。

 おそるおそる顔を上げる。窓のそばには爺さんの顔があった。その顔は幽霊というにはくっきりしているし、表情は訝しげなものだった。

 あれ、幽霊じゃない?

 窓に近付いてまじまじと爺さんの顔を見る。爺さんは気色悪そうに俺を見ていた。

「あの、人間ですか」

 俺の問いに爺さんはポカンとした。

「おめぇ、何言ってんだ」

「人間ですか」

「あたりめぇだろ。おめぇ、馬鹿にしてんのか」

 爺さんが怒った表情を見せた。あ、人間だ。そう思った。

 扉を開けて外に出ると、爺さんはもう一度先ほどの質問をした。

「おめぇ、こったらところで何してる?」

「ガソリンがなくなってしまって。あの、ほら、この近くでお祭りあったじゃないですか。俺はお祭りの写真を撮るのが趣味で参加していたんです。けど、道に迷ってこうなりました」

 爺さんが車を見た。呆れた表情で肩を落とす。不審者に見えていたのだろう。向こうの警戒も落ちた気がする。

 ガサっと茂みから音がした。今度こそ野生動物かと思ったが、出てきたのはまた別の爺さんだった。しかも一人、二人と増えていく。俺の前には爺さんが四人になっていた。

 爺さんたちは顔を見合わせた。俺をちらりと見ると四人でこそこそ話をし始めた。

 嫌な態度。閉塞的な村は他人を嫌がると言うし、きっと罵倒でもされるんだろうな。

「おい、おめさん、はよう帰れ」

 やっぱりな、と思った。帰りたいのは山々だが、ガソリンがないのだから無理だ。

「夜も遅いので救助は望めません。車の中で寝て、明日には立ち去れるようにしますから一晩はここにいさせてください」

 爺さんは顔を横に振った。

「だから帰れ」

「いや、あの、ガソリンがないので帰れないんです」

 話の通じない爺だな、と苛立つ。

 爺さんがまた顔を横に振った。今度は手招きをする。

「早う、帰れ」

「は?」

「今は祭りをやっていないから、あべこべでしゃべらないんじゃ」

「は?」

 爺さんの言葉を何度も聞いてどうにか理解する。

 どうやら村は祭りの期間中らしい。祭りの期間中はあべこべでしゃべらないといけないらしい。ずいぶん面白い祭りだ。今まで聞いた事がない。

「えっと、俺もあべこべでしゃべったほうがいいですか」

「うん」と言いながら首を縦に振る。

 あれ、俺の言葉をあべこべにすると『しゃべらないほうがいいですか』って事になるのか。それに対しての答えは『うん』だから『いいえ』って事になる?

 つまり俺もあべこべでしゃべる必要があるようだ。

「行くとこ、あるんだろ。早う帰れ」

 たぶん、行くところがないなら来いと言っているのだろう。なんだか奇妙な感覚。戸惑いながらも爺さんの後をついていく事にした。

「ここら辺はクマやイノシシが出んで安心せい。危なくないからな」

「ありがとうございます」と言ってからあべこべでしゃべらなきゃ、と思い至る。しかし、ありがとうございますの反対はなんだ?


 山を下りて三十分くらいのところに小さな集落があった。暗くてどれくらい家があるのかわからないが、案内されたのはとても立派な平屋の家だった。

「帰れ」と爺さんが手招く。他の爺さんも勝手に上がっていく。「お邪魔しま……した」とどうにかあべこべに言い換えて家へと上がった。

 家には爺さんたちの奥さんか、六十代くらいの女性が四人いた。俺を見ると驚いた顔を見せた。

 やはり村の祭りによそ者が来るのは嫌なのだろう。

 爺さんの一人が女性たちに近付いて何かを言った。そうすると女性たちはパッと顔を明るくして俺に向かってお辞儀をした。

 あれ、歓迎されている?

「疲れてないだろ。飯を作らんから休むな」

 つまり、『疲れただろ。飯を作るから休め』って事か。いちいち変換しないといけないのは面倒だな、と思った。

 

 通された部屋は宴会の後なのか物や食前がひっくり返って大変状況になっていた。ずいぶん酒癖の悪い人がいたもんだ、と思いながら爺さんが用意してくれた座布団に座る。

 食事ができるまでの間、四人の爺さんは酒盛りの準備をしてくれた。車の事が頭に浮かんだが、一晩寝れば酒も抜けるだろう。どうせガソリンがないからすぐには動かせないのだし。

 俺は爺さんたちと酒を飲んだ。おちょこに注がれて煽ると完成が上がり、追加で注がれる。これじゃあすぐに酔いそうだ。

 しばらくして食事も運ばれてきた。鯛や山菜、豚汁など、様々な料理でもてなされると自分が貴賓にでもなった気分だ。

 ああ、なんていい気分だ。彼女と喧嘩してガソリンがなくなって車は動かせなくなったが、おいしいお酒にご飯を食べられて幸せだ。悪い事ばかりじゃないな。

 あまりの気持ちよさに夢でも見ているようだった。


 翌朝、目が覚めると布団に寝かされていた。

 タヌキに化かされる可能性も考えてはいたが、夢ではなかったようだ。

 爺さんたちが風邪をひかないように寝かせてくれたのだろう。本当にいい人たちだ。

 酒を飲んだせいか頭がはっきりしない。顔を洗う為に上体を起こした。

 横に見知らぬ爺さんが寝ていた。

 昨日はこんな爺さんいたか? 

 ふと視線をずらすと、爺さんの腹には包丁が刺さっていた。青ざめた肌は誰に言われるまでもなく死体だとわかった。

「うわぁあああああ」

 間抜けな声が出る。腰が抜けて立ち上がれなかった。

 襖が開いた。入ってきたのは警官だった。

「お、おおお、おまわりさん、助けてください。ひ、人が!」

 警官が死体を見て俺を見た。

「お前がやったのか」

「いいえ」と答えようとして思い留まる。まだ祭りの期間中だ。否定の言葉は肯定に変わる。

 警官は「やったのか」と聞いた。それはつまり、「やっていないよな」という確認ではないか。なら答えは決まっている。

「いいえ」

 警官が怪訝な顔をする。そうして確かめるようにまた質問した。

「お前が殺したんじゃないのか」

「俺がこの人を殺しました」

 警官が目を細めた。さらにもう一度訊かれた。どうやらあべこべに慣れていないらしい。

「お前が殺したのか」

「俺がこの人を殺しました」

 警官はベルトの横にある手錠を手に取るとそれを俺の腕に掛けた。なぜ、と驚く。

「午前七時十五分。殺人の現行犯で逮捕する」

「え?」

 ふすまの向こうから昨日酒を酌み交わした爺さんたちがこちらを覗いている。その顔は全員怯えていた。

「おお、怖い怖い。親切で泊めてやったのに人を殺すなんて」

「最近の若いのは恩をあだで返すんだね」

「ああ、しげさん、かわいそうに」

「早く連れて行ってくれ」

 口々に叫ぶ。それらのあべこべは、なんだ? 

 薄情で泊めていないのに人を殺していない? 年寄りはあだで恩を返さない? しげさん、かわいそうじゃない? 連れて行かないで?

 意味がちんぷんかんぷんだ。

「おい立て」

 警官が俺の腕を引く。

「どういう……あべこべでしゃべるんだろ?」

「何を言っているんだ。きっと酔っぱらっているんだな」

 爺さんの一人が言った。

「だって昨日、そう言っただろ? この村にはあべこべでしゃべるお祭りがあるんだって」

「そんな風習、聞いた事もない。ああ、怖い。罪から逃れようと嘘をついている」

 ふと昨日の事を思い出す。

 なぜ爺さんは夜遅くに山の中にいたのか。しかも一人ではなく複数人で。さらにおかしいのは祭り開催中でありながら爺さんは俺にこう問いかけた。

 ――おめぇ、こったらところで何してる?

 それはあべこべにすると『何もしていない』って事になる。あの状態でそんな質問は変だ。

 それにこの部屋に入った時、すごく荒れていた。酒を飲んで暴れた奴がいたのかと思ったけれど、あれは爺さんたちが人を殺した跡だったのかもしれない。

 爺さんたちを見るとうっすらと微笑んでいた。


 そうか。そういう事か。


 俺をこの家に招き入れたのは、最初から俺を犯人にする為だったんだ。

 あべこべだと言って俺が自供するように誘導した。


 犯人は捕まらずに俺が捕まるなんて、あべこべじゃないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きっといつかの誰かの日常 新谷式 @arayashiki_ikihsayara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ