第14話 幽霊の話 後編

 

 この学校には、天使と幽霊がいる。


 人によっては、大人になってから同窓会なんかで「そういえばそんな噂もあったな」と一笑に付すくらいの関心しかない噂だ。


 それもそうだ。天使と幽霊がいたからなんだというのだろう。天使がいたからといって願いが叶うわけではなかったし、幽霊がいたからといって誰にもバレずにテストの回答を教えてくれたりはしなかった。大人になれば、天使も幽霊もくだらない児戯に思えてしまうのかもしれない。


 けれど、そんな大人の、どうだっていいという態度が、天使や幽霊といった、鮮烈で強固な自意識の殻に、子供たちを閉じ込めてしまうこともあるのだ。それが偽物だとしても、ひとかけらの愛情もない蔑称だったとしても、その心を閉じ込めた辛い苦しみを、正しい心の形だと信じてしまう。殻を破った先は、自由ではない。歪な形の新たな世界があるだけなのだ。


 そんな世界で、失ったものは数えずに、幸せを探しに行く。つまりは、そんな再構築の物語。始まるために終わっていく、天使と幽霊の話。




 ピピピピと目覚ましが鳴る。


 天使は薄ら目を開けて、スマートフォンのアラームを止める。時刻はまだ起きるには少し早い。天使は、薄いブランケットの中で丸まった悠怜を起こさないように、慎重に起き上がると、残った三つのアラームも解除した。


 悠怜はもぞもぞと身をよじらせ、やがてまた穏やかな寝息を立てる。天使はベッドのふちに腰掛け、彼女の頬を軽くついて微笑する。


 カーテンを開けると、朝のまだ少し暗い光が差し込む。天使は軽く伸びをして、それから深呼吸を一つした。


 顔を洗った天使は、ふと、部屋の隅に置かれたままにされている、悠怜の通学かばんに気が付く。中には雑多に荷物が詰め込まれており、彼女の言っていた通り、教科書の類は一つとしてなかった。代わりに入れられたスケッチブックが、かばんの四隅を角張らせている。


 ちょっとした好奇心で、天使はスケッチブックを抜き取り、表紙をめくった。そこに描かれていたのは、小物のスケッチだった。リップスティックやコスメ、ポーチにキャラクターのストラップが付いたボールペン。どれもが確かな筆致で描かれていたが、その輪郭はわずかにぼやけている印象であった。むしろ、震える手で描いた下書きを無理やり覆い隠そうとするような、気丈なスケッチだった。


 天使の思っていたよりも、スケッチブックには多くの物が描かれていた。初めはそれらの共通性が何なのか、天使には分からなかったが、ページをめくるにつれて、だんだんと理解されてきた。そして、あるスケッチを見つけて、それは確信に変わる。


 そのページに描かれていたのは、本の様だった。しかし、天使にはその本の束に見覚えがあった。その表紙は簡易に省略されていたが、確かに、天使が普段学校で使っている教科書と類似していた。


 これはきっと、悠怜の大切なもののスケッチなのだ。それも、失ってしまった大切なもののスケッチだ。失ったものを忘れないように、まだ心がそのつらさを覚えているうちに、記憶を頼りに描かれたのだろう。そう気づいた天使は、気丈に描かれたスケッチの下にうっすらと残った輪郭のように、自分の手も震えてくるような感覚がした。


 天使は無意識に唇をかみしめながら、また一枚ページをめくる。最後に描かれていたのは、人物画だった。穏やかな顔で、無防備に眠る少女のデッサン。これまでの物と違い、柔らかな線で描かれた美しく儚い一枚だった。


 天使は少しだけ口角を上げ、スケッチブックを胸に抱えると、祈るように目を閉じた。そして、一度だけ軽くうなずくと、元のようにスケッチブックをしまった。




 やがて起きてきた悠怜と共に、天使は朝食をとり、まだ始業時刻よりかなり早い時間に家を出発した。登校のラッシュ時間に外に出るのは、視線を嫌う悠怜にとって苦痛だろうという配慮の他に、もう一つ理由があった。


 二人はまだシャッターの閉まった店の多い商店街を抜け、駅の高架下を抜けて台典商高へと向かった。通学路にはやはりほとんど誰もいなかった。時折追い抜かしてくる、猛スピードで自転車をこぐ丸刈りの生徒に怯えながら、悠怜も何とか、天使の背中に張り付かずとも歩くことができていた。


 長いような短いような登校が終わる。悠怜は家を出る前まで意気軒昂に、ふんすと胸を張っていたが、今は縮こまりうろうろと視線を地に這わせている。


 誰もいない静かな下駄箱は、遠くのグラウンドから運動部の生徒たちが朝の練習をしているかけ声が良く聞こえる。そんな思考を現実に引き戻すように、下駄箱を閉める音がいやに大きく聞こえた。


 廊下を抜け二階へ。すっかり小動物のようになった悠怜をなだめながら職員室を横切って、廊下の端まで進む。朝の早い時間にもかかわらず、在室を示すように電気のついた部屋。


 天使は意を決し、その扉をたたく。椅子を引く音が聞こえた後、ややあって扉は開かれた。


「おや、愛ヶ崎さん。おはようございます。それと、その子は……」


 その部屋、生徒会室から現れた丸背は、あまり驚いた様子もなく軽く挨拶をする。そして、天使の背に隠れるようにして中の様子をうかがう悠怜に気づくと、名前を尋ねようと天使の方を見た。一方の天使は、登校するまでに幾通りも、悠怜を紹介する方法を考えてきたつもりであったが、今になって、全て馬鹿げた案に思えてしまっていた。途端にどう切り出すべきかと焦り、硬直してしまう。


「おー! 昨日の迷子ちゃんだぞ。無事に帰れたのか?何か困りごとならお姉さんたちに任せるんだぞ」


「ちょっと、今は忙しいのだから、あまり安請け合いしないでほしいのだけど。それで、こんな早くから何の用なの?」


 迷惑そうにしつつも、すでに用件を聞こうと身を乗り出している神城の後ろで、生徒会長だけが、考え込むように顔に手を当てていた。


「なあ、愛ヶ崎。まさか、その生徒は――」


 天使の言葉を待つように、四人は静かに廊下に立ち尽くす二人の少女を見つめる。天使は悠怜の背をさすり、大丈夫だよ、と囁いた。実際のところ、大丈夫でないのは天使の方であったから、ある意味で本心であったと言える。


「わ、私の、細小路悠怜ちゃんですぅ……たはは……はは」


 空気が凍ったように、しんとした時間が流れる。生徒会の四人は皆一様に、口をポカンと開けている。生徒の少ない静かな校舎に、天使の乾いた笑い声だけが響いている気がした。


「まあ、とにかく入れ」


 亜熊の言葉に天使たちが入室すると、音もなく神城と三峰が立ち上がり近づいてくる。丸背が静かに扉を閉めたのを合図に、極めて慣れた動作で悠怜と天使を引きはがし、神城が天使にコブラツイストをかける。三峰も天使の頬をぐにりとつまんだり、脇腹をくすぐったりと攻撃した。


「あ痛たたたたたたああああ!! ごめ、ごめんなさいいい」


 天使は苦しそうに、しかしどこか余裕そうな声で悲鳴を上げる。後ろでその様子に怯える悠怜の手を、丸背が優しく包んだ。


「大丈夫ですよ。いつものことなので」


 そう言いながら、丸背は目じりを押さえて、やれやれと首を振る。今度は、悠怜がぽかんと口を開ける番だった。




「それで、要するに。細小路悠怜が失踪した原因は、愛ヶ崎がたぶらかしたからってことで良いのか?」


 亜熊が呆れたような、疲れ切った様子で聞いた。


「ち、違う、とは、言いきれないわけですけどぉ。やっぱり、根本的な原因は、家族の方にあったということですよ」


「DVというやつだな。とはいえ、原因が分かったからどうにかなる、というわけでもないぞ。その父親のことで、今朝も悩んでいたのだからな」


 三峰の言葉に、天使は首をかしげる。


「昨日は、追い払われたって言ってましたよね。また、何かあったんですか?」


「今朝、改めて細小路さんのお家に伺ったんです。やっぱり、探さなくていいなんて言うのは、どう考えたっておかしいですから」


「でも、今日の方が酷かったんだぞ。あの父親——それこそ、実の娘が失踪しているとは思えないような言葉で怒鳴ってきたんだぞ」


 不満をぶつけるように語りだした光峰だったが、悠怜に配慮してか言葉を濁した。


「いえ、いいんです。わた、私が、悪い部分もたくさんあると思うから」


 悠怜がうつむいたまま、絞り出すように言葉を紡ぐ。その手は膝の上できゅっと握られていた。


 その様子を見た亜熊は、軽く息を吐くと集まった面々を見回してから話し始める。


「実は、今日みんなを集めたのは、別件だったんだ。君の捜索も取り止めとする予定だったからな。先生方からも、細小路の件は、当事者たちに任せろと言われている。警察も、捜索願は取り消されたと聞いた。もちろん昨日の今日でそう切り替えることは難しいが、生徒会執行部として仕事をする以上は、公私の区別をつけなければならない」


 だが、と一息おいて、生徒会長は続ける。


「生徒の健全な成長と学生生活を支援するのが、我々の役目だ。そして今、愛ヶ崎が失踪した当人を連れてきてしまった」


「連れてきたっていうか、匿ったっていうか……」


 天使の言葉を訂正するように、あえて強調させて亜熊は続ける。


出会い、心を開かせて連れ戻してくれた。ならば、もう生徒会執行部も当事者というほかにない。細小路悠怜、君の道行きに最大限の支援をさせてもらいたい」


 亜熊はまっすぐに悠怜を見つめた。悠怜は、その視線を受け止め、深く息を吸う。


「お願い、します」




「ありがとうね、天使ちゃん。私のことを見捨てないでいてくれて」


 生徒会室での作戦会議を終え、二人は次なる目的地へと向かっていた。天使の出欠は、生徒会長がどうにかしてくれると請け負ってくれた。また変な噂が立たないといいけれど、と天使は思ったが、それはかなり今更な考えであった。


「見捨てるわけないよ、とは言い切れないのだけど。」


 天使は、儚げに胸に手を当てた。


「今までも、たくさん苦しんでいる人を見てきたの。どうしようもないこともあって、手を伸ばしても零れ落ちていくようなことばかりだった。でも、だからね、だからこそ。私は、手を伸ばすのをやめたくないの。たとえ掴めなくても、掬えなくても、一度でも手を伸ばすのをやめて、見捨ててしまったら、きっと私は、二度とこの手を、誰かに伸ばせなくなる。だから、私が天使である限り、足掻き続けたい。悠怜ちゃんのことも、最後までついていくからね」


 悠怜は、天使の真剣な瞳を茶化すように、なにそれ、と笑った。


「ねえ、知ってる? この町にはね、天使がいるんだよ」


「……うん、知ってるよ。可愛くてかっこよくて、お茶目で優しい天使ちゃん」


 曰く、それは羽のない天使。あるいは光輪のない天使。等身大で、どこへも飛ぶことのできない、だけれど、その足で、手で、たくさんの人を救うためにもがく愛らしい天使。


 二人は、その道がいつまでも終わらないようにと願うように笑い合った。ゆるやかに終わりゆく、透明な少女の物語をかみしめるように。




 やがて、二人は目的地にたどり着く。


 天使にとっては二度目になるその家は、以前に来た時と同じように、何の問題もない普通の家であるように佇んでいた。天使は悠怜が怯えていないだろうかと心配したが、どうやらそれは杞憂の様だった。まっすぐに生家を見つめる悠怜の目は、もうすでに、迷いがなくなっていた。


 天使がインターホンを押そうと門扉に近づくと、悠怜はそれを気に留めず、さっさと門を開けて玄関に向かう。天使は、彼女にとっては自分の家なのだから、それが自然な入り方なのだとは頭では理解できたが、それでも少し呆気に取られて、その後ろをついていく。


 悠怜はためらいなく玄関のドアを開き、そのままリビングの方へと上がっていった。天使も、小声で失礼しますとつぶやいて、二人分の靴をそろえた。


 天使は遠慮なく進む悠怜の後ろ姿に、彼女がもしかすると暴力的な手段に訴えたりはしないだろうかと不安になった。彼女は内向的で引っ込み思案なところはあるが、家出をしたり勝手に家の中に入ってきたりと、変な行動力があるのだ。父親にされてきた迫害行為を考えると、その仕返しを考えてもおかしくはないだろう。


 天使は考え始めると落ち着かなくなり、慌ててリビングに向かう。


 その部屋には、母親と悠怜の二人だけがいた。母親は心底驚いたような、そしてひどく怯えたような蒼白した表情で悠怜を見ていた。


「どうして……生きて、たの? なんで、なんで今更、帰ってきたの。悠怜、そう、幽霊よ。あなたは死んだ。そうでしょう? だって、あなたはもう必要ないのだもの。必要がないのだから、いるはずもないわ。そうよね、そうだと言ってよ、ねえ、何なの」


 見たところ、悠怜は何か凶器みたいなものは持っていないようだったが、母親はひどく憔悴し、うわごとのようにいるはずがないとつぶやいていた。


「私はここにいるよ。忘れようとしても、ずっといるよ。私が死んだって、消えたりしないから。要らないからって、消えたりしないんだよ」


 悠怜は、母親とは対照的に、異常なほど冷静に、一歩、また一歩と詰め寄った。


 天使は思わず、間口で立ちすくんでしまう。これが、彼女にとってのけじめなのだろうか。


「どうした、騒がしいぞ」


 きゅっと全身に緊張の走った天使の体に、後ろから何者かがぶつかる。その大柄な男はバランスを崩して転倒した天使を一瞥したが、気にもせずに二人の方へと歩いて行った。この人が悠怜の父親なのだろう。細い目元の筋が、彼女とそっくりだった。


 ずんずんと進んだ父親は、振り向こうとしない悠怜の手を、乱暴につかむ。


「っ――!?」


 そして、リビングに肌をたたくような乾いた音が響く。天使は立ち上がり、音の方を見ると、言葉を失った。



 、信じられないと言った表情で、力なく握っていた手を離した。悠怜は鋭い目つきで、自分よりはるかに身長の高い父親をにらみつけている。


「触らないでよ」


 吐き捨てるように、ただ冷たく少女はつぶやく。


「お前、父親になんてことを――」


「私を、いらない子だって言ったのはお前だ。今更、私を忘れようとしていたくせに、父親面しないでよ」


 父親は、振り上げようと握った拳を、低く握りしめたまま震わせていた。


 悠怜は父親から離れるように、部屋の隅の方へと向かうと、いくつかの戸棚を引き出し、中に入っていたものを取りだした。


「私、この家を出ていくから。今度は、二度と帰ってこない。今日だって、私の通帳を取りに来ただけ」


 悠怜はそう言って通帳と一緒にしまわれていた判子をポケットにしまうと、天使の方に歩いてくる。


「さよなら、今度こそ。もう会うことはないだろうね」


 すたすたとリビングから出ていってしまう悠怜を、天使は慌てて追いかける。リビングから出ていく直前、振り返り際に見た彼女の両親は、何かを言いたげな顔で、しかし何も言えないことを悔やむようだった。




「ねえ、本当によかったの?」


 天使は、何のこととも言わずにそう聞いた。


「いいの。私はもう、あの家にはから」


 少しだけ寂しそうに、けれどつとめて明るくそう言う悠怜に、天使は、そっか、とだけ返した。天使はどこか心のざわめきを抑えられないままで、それでも、悠怜とこれからの楽しい話をしながら学校へと戻った。こんな気持ちだというのに、空はからりと晴れわたり、暑苦しいほどであった。




 それから、天使は自分のアパートの大家に頼み込んで、悠怜と同居する手続きを進めてもらった。悠怜は、すぐに別のところを見つけるから、と言っていたもののこれ以上の場所も見つからなさそうであった。


 そして、悠怜の教材や体操服といった学校で必要なものは、生徒会が共用の備品という扱いでそろえてくれることになった。彼女の卒業後は、忘れ物をした生徒の貸し出し用として使っていくことになるらしい。


 何よりも天使にとって嬉しいことに、悠怜はきちんと学校に通うようになった。天使にとっては、初めてできた確かな友人であったため、その成長に思わず涙していた。休みがちであった悠怜が登校するようになり、クラスメイト達も遠慮がちにではあるが、彼女に話しかけるようになる。以前よりもかなり心を開くことができるようになった悠怜は、もっと色んな人と仲良くなってみたいと笑ったが、時折天使が嫉妬するように、じっとりとした視線を送ってくるため、その世話をするように悠怜は天使に甘えるのであった。


「ねえ、悠怜ちゃんは、なんでって名前なの?」


 ふと、そんなことを天使は聞いた。


「ママとパパの名前から、一文字ずつ取ったんだって。だから、悠怜。天使ちゃんは、なんで天使って名前なの?」


「それはね――私が天使だから、かな」


 悠怜は、ふふ何それ、とおかしそうに笑う。


「でも、天使ちゃんらしいや」


 そうして、悠怜の新しい生活は続いていく。透明になって消えていくこれまでの道のりを、しかし悠怜は、忘れることはないだろう。













 それから、一年が経たないほどの頃、ある家に一人の赤ん坊が生まれたそうだ。


 その赤ん坊の名前は、。星子は、大柄な体格だがとてもやさしい父親と、過剰なほどにいつも見守ってくれる美しい母親のもとで、円満にすくすくと育っていったという。


 だけれど、時々、星子は何もないところを見て、幸せそうに笑いだすことがあった。まるで、そこで自分を見守ってくれる透明な誰かがいるかのように。


 星子は、その優しい幽霊が何なのか、最後まで知ることはなかった。


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2024年11月15日 19:00 毎週 金曜日 19:00

誰も救えない天使の話 錆井 @SaBsuzuA

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