第13話 幽霊の話 中編

 この学校には、幽霊がいる。


 それは、夏休み明けの天使の好奇心を刺激した実に興味深い噂であり、学校の怪談というよりも、ただの困りごとと言った形で語られた出来事であった。


 幽霊と言えば、学校の七不思議では定番とはいえ、幽霊というだけではパンチが弱いというのが世間での共通認識であるらしい。トイレ、音楽室、理科室。どこをとってもただの幽霊、ましてや昼間から現れる幽霊だなどとなれば、とても比べるにも値しない怖さである。


 天使は最初、それが自分のことではないかと疑ったが、その勘は半分だけ当たっていたことになる。つまるところ、幽霊の噂は、幽霊のような見た目の少女——細小路悠怜ささめこうじゆうれいと、幽霊の噂の尾ひれとなりそうな行動をしていたトラブルメーカー——愛ヶ崎天使まながさきてんしによって出来上がった噂だったのである。


 後にそのことに気が付いた天使は、まぁいっか、と気楽に口笛を吹いたりする。その勘違いが、この奇縁を生んだのだから、それもまた運命の一つなのだと。




 天使は、学校生活の始まりを告げるHRの時間に、肩肘をついて寂し気に、隣の席の空白を見つめていた。


 天使は、ため息をつく。それはそれは長いため息をつく。


 長すぎるため息は、人によっては、困っているアピールだと思われてしまい、なんて構ってちゃんなのだと非難されることもある。けれど、天使がそうした人間であることは、クラスの誰もが承知の上であり、それでいて特にかまってあげる必要性はないと判断されてしまっているため、彼女の席の周りを行き交う生徒たちは皆、一度は視線を寄越すものの、話しかけて事情を聞いてみようとはしなかった。


 四つの授業を受け、やはりどの授業でも、答えさせられたり音読させられたりしながら、天使は、どこか心ここにあらずと言った様子であった。


 昼休み。いつもならば、自分で作った簡単な弁当を、どこか気分の落ち着くところで食べる天使だったが、今日に限っては席から動こうともせず、夏の暑さに耐えるように、時折水を飲むばかりであった。


 さすがに、どこか不思議に思ったクラスメイト達は、少し遠巻きにその様子を観察する。彼女は身の程知らずで、自分は当然愛されるものだという傲慢な自己表現を過大に行う厄介者だと知られていた。しかし、同時に、それは彼女の持つポテンシャルの高さや容姿端麗さから生まれた、演じるべき罪深い役割であり、天使の抱いてきた葛藤や背負ってきた重圧についても、クラスメイト達は知らないわけではなかった。


 ともすれば、高校生の手に負えないような大犯罪に巻き込まれている可能性すらある、と笑いながらソーシャルゲームの対戦に熱中する男子生徒たちを横目に、数人の取り巻きを引き連れた女子生徒が、天使のもとに近づく。そして、いざ声をかけようとしたその時だった。


 教室のスピーカーから予鈴とは違う電子音が鳴り、放送が始まる。生徒たちは自然と顔を上げ、会話を止める。


「一年二組の天使ちゃん! じゃないな、えと、愛ヶ崎天使さん。しきゅー生徒会室まで来てください。えー、繰り返します――」


 その放送に天使はギョッとした表情で顔を上げ、欠席している隣の席を一瞥すると、考え込むようにうつむきながら、教室を去っていった。


 天使が出ていってから、おそらく戻ってはこないだろうという間をおいて、男子生徒たちが、やっぱりなんかやべー事件だって!と騒ぎ立て始めていた。




「どわーっと! 天使ちゃんだ! ちょうどよかったぞ」


 天使が教室のある三階から、生徒会室のある二階に降りて廊下を進んでいると、後ろからドタバタと大きな足音が近づき、小柄な生徒が後ろから飛びついて来た。


「おっとと。ワンコ先輩、お疲れ様です」


 ぼんやりとしていた天使は、わずかに反応が遅れバランスを崩しながらも、少女、光峰壱子みつみねいちこの体重を支え切った。相変わらずこの先輩は元気な犬の様だと思い、心が安らぐ。


「おうおう、お疲れだぞ。それより天使ちゃん、またなんかしたのか? 呼び出しなんてそうそう無いぞ?」


「ああ、いやあ……はは、何でしょうね――」


 純粋な瞳の先輩をはぐらかすように笑いながら、天使は生徒会室にたどり着く。そこには、到着を待ちきれない様子でドアにもたれかかる少女、丸背南子まるせなんこの姿があった。ベタベタと天使に引っ付く三峰の様子に、不安げな表情ながら苦笑いをこぼす。


「お待ちしていました。愛ヶ崎さん、どうぞ中に」


 天使が気の進まない様子で入室すると、そこには生徒会執行部の面々が、いつもよりも緊迫したような表情を浮かべて座っていた。


「愛ヶ崎、そこに座ってくれ」


 生徒会長、亜熊遥斗あぐまはるとが、空いた席を手で示した。おずおずと天使は着席する。


「そう硬くなるな。一応、今回の件は生徒会の受け持ちとして、先生方には同席いただかないことにした。だからまぁ、いつも通りリラックスしてくれたらいい」


 天使はたびたび問題を起こす。それが生徒会での共通認識だ。この半期でそのように思われているということは、かなりの頻度でもめ事に関わっているということなのだが、もちろん、天使自体は善良な生徒であるため、もめ事の加害者になるということはなかった。しかし、問題の原因になることも目撃者となることも多く、その上生徒とのコネクションも広かったため、いっそのこと生徒会へ協力してほしいと依頼されたのだ。情報の収集や口論の折衝など、一部の仕事は天使に任されることもあった。ある意味では良く信頼されており、また天使も生徒会執行部の四人を尊敬し、信頼していた。


「とはいえ、事態は急を要する。簡潔に説明しよう。今回君に来てもらったのは、先日丸背と共に訪問してもらった、細小路悠怜という生徒の件だ」


 天使は、ごくりとつばを飲み込んだ。


「先ほど、彼女の母親から学校に連絡があった。彼女が、とのことだ」


 亜熊の冷静な報告に、かえって天使は落ち着きを取り戻す。大切なことは、状況の把握と知識のすり合わせだ。自分の知っていることが、この状況をどう左右させるのかを冷静に考えなければならない。そして、その影響がどういった形で細小路に降りかかるのか、ということもまた。


「んえーと、連絡って、さっきかかってきたっていう電話のことだよな?なんで昼間になってから、そんな電話がかかってくるのか分かんないぞ。いなくなったんなら、朝からかけてこないか?」


 三峰は今初めて状況を聞かされたのか、素朴な疑問を述べる。


「彼女の両親は共働きで、電話をかけてきた母親の方は、昨日から夜勤だったそうだ。それで、帰ってきたのが今日の昼前。昼食を作って細小路を呼びに行ったときに、部屋の異変に気付いたのだそうだ。それから、行く先の心当たりがあるところに順番に電話をかけ、結局どこにもいなかったから、最後の頼みで学校にかけてきたそうだ」


「実は登校してました! というわけでもなかったのか。それは心配だぞ」


 三峰はしょんぼりと視線を下げ、机に突っ伏した。


 一方、話を聞いて気が抜けたように背もたれに体を預けたのは、三年の副会長である神城怜子かみじょうれいこだ。馬鹿らしいと言った様子で、胸元で組んでいた手を机に放りだす。


「それって、失踪っていうか、ただの家出じゃないの? 本当に探したいなら、学校に頼むより、警察とかもっときちんとした機関に頼むべきじゃないのかしら」


「まぁ、それもそうなのだが……警察は動かないだろうな。母親から話を聞いた限り、荷物をすべて持って行ってしまっていたらしい。計画的、とまでは言わないまでも、彼女の意思で出ていったと考えられるから、事件性としては薄いだろう」


 話を聞きながら簡単にメモを取っていた丸背が、驚いたように亜熊に聞く。


「荷物を全部、ですか?私物の程度はまぁ、多少は人によりけりでしょうけど、限度というものがありませんかね」


 天使は、記憶に残った悠怜の殺風景な部屋と、現在の散らかった自分の部屋を思い浮かべる。丸背が疑問を持つのも仕方ないことだろう。それだけ悠怜の置かれていた状況は複雑なのだ。


「そのあたりも含めて、愛ヶ崎。何か彼女の行きそうな場所や行動について、心当たりはないか。金曜日の訪問では、君は彼女に、少なからず接したと聞いている。小さなことでも構わない、聞かせてくれ」


 亜熊は真剣なまなざしで天使の方を向いた。天使は、訪問の記憶を思い出すかのように視線を宙に泳がせた。


「細小路さん、とは、私が、一方的に話しかけるばっかりで、上手く伝えられたかは、分からないんですけど、でも、最後に、また学校でねって約束したんです。だから、私も今日学校できっと会えるんだと思って、それで、まさか失踪だなんて」


 天使は、嘘をつくのが苦手だった。正確に言えば、嘘をつき続けることが苦手なのだった。誰の得にもならないような軽口ならば、いくらでも叩けたが、人をだますようなことはからきし言えない。言ったとしても、すぐに訂正してしまう。だから、天使の言うことは常に一定程度の本心であった。本心のすべてであるわけではなくとも、そう思ったという事実。今はそう思っていないとしても、そう思っていたという過去の気持ちを投影することで、天使は真実を演じる。


 天使は、ショックを受けたように視線を落としうつむいた。困惑していることを、素直に認める。


「動揺するのも無理はない。それと、君が彼女の失踪の責任や、心労を引き受ける必要はないと思うよ。彼女の家庭における問題は、すでに先生方とも共有したところだ。いつ今回のような事態、あるいはもっと酷いことが起こってもおかしくはなかった。むしろこうして、彼女のために向かい合える状況を作れているのは良いことだと考えよう」


 亜熊は優しくそう言った。


「とはいえ、情報がどうにも少なくて手詰まりね。不用意に町で情報を集めるのは、むしろリスクを高めることになりそうだし、かといって情報もないのに探し回るのは下策ね」


「そうですね。それに、単に見つけるだけでは意味がない。できることは限られますが、彼女の家庭関係における不和を、少しでも改善させないことには、同じことの繰り返しになってしまいます」


 生徒会室に、重たい沈黙が立ち込める。静寂を破ったのは、予鈴の音だった。


「ひとまずは、それぞれ役割を分担しよう。俺と神城で、先生方や自治体の方の協力をお願いしつつ、家出した人間が滞在できそうな場所をリストアップしてみる。

 丸背と三峰は、母親に話を伺って情報の整理を頼む。可能なら彼女の抱える心的ストレスの元が分かればいいのだが、あまり踏み込みすぎないようにな。現状、俺たちは生徒でしかない。彼女に登校を強制させることも、家庭環境の改善を促すこともできないだろう。

 愛ヶ崎は、そうだな。君の負担にならない範囲で良いから、学校と彼女の家の近辺で細小路が行きそうな場所がないか君の目で見てきてほしい。君のそうした嗅覚は、時に役に立つからね。案外、大人たちの考える予測よりも先に、彼女を見つけ出せるかもしれない」


 亜熊はそう指示して、とりあえず今は授業に向かおう、と話し合いを切り上げた。





 そうして、長い一日の授業が終わり、天使は帰路に着く。そそくさと荷物を詰め込み、運動部の集団が廊下を塞いでしまう前に教室を出た。


 まだ誰もいない下駄箱で急いで靴を履き替え、速足で校門を抜ける。



 ところで、愛ヶ崎天使の家は、学校から歩いて三十分ほどの場所にある。細小路悠怜の家も、距離で言えば同じくらいの位置にあるのだが、両家は最寄りの私鉄の駅を境に、東西に分かれた位置関係にある。そのため、両家の距離は、それぞれの家から学校までの距離よりも少し遠い。



 天使は、いつにもまして早歩きで駅まで下りると、迷わず東へ――自分の家の方角へと歩を進めた。時折周りを見回しては、挙動不審に路地に入ったりした。


 夏の太陽はまだ高いが、うっすらと秋の気配を感じさせるように、どんよりと重力の重たさを感じさせた。


 ようやく、天使は下宿へ、アパートの自分の部屋へと帰ってきた。ノブを捻るも、鍵がかかっていて開かなかった。天使は肩を落とし、制服のポケットを探る。そこでようやく、鞄のサイドポケットに鍵を入れていたことを思い出し、あまり見覚えのない鍵を取り出す。ガチャリ、と鍵を開け、今度こそノブを握る。扉を開ける前に、天使は長いため息をつく。それはそれは長いため息を。


「ただいまぁ……」


 返事はなかった。それはいつも通りのことだった。しかし、天使が靴を脱いで玄関を上がったところで、不意に小柄な影が飛びついてくる。


「おかえりなさい」


 きわめて室内での活動に適した服装の、というのはオブラートに包んだ言い方であって、率直に言えば家から出る気のない服装の、その少女、細小路悠怜は、今まさに自分が捜索されているのだということなどつゆほども知らないと言った様子で、天使に微笑んだ。


「どうしよぉ……」


 天使は、がっくりとうなだれて悠怜に肩を預けながら、昨夕の出来事を思い出していた。





 天使にとって、休日というのは基本的に、散歩をする日だ。天使は、部活動に所属しておらず、生徒会の手伝いを除いては、放課後も予定のない学生生活であった。一方で、学外のボランティアや奉仕活動(主に有償の子守や学童のアルバイト)は積極的に参加し、台典商高付近の地域でコネクションを広げてもいた。


 ともかく、その日は特に予定もなく、午前中はお気に入りの散歩コースを回り、午後は途中で見繕った本を読んで過ごしていた。よく晴れた日で、天使は、つい二日前に抱え込んだ孤独な少女の問題など半ば忘れて、充実した休日だと感じられた。


 昼下がり、窓から差す日光の暖かさで、天使の部屋はくつろぐには最適の温度になっていた。商店街の古本屋で衝動買いした本は、予想通り面白かったが、続きを読もうとしても、どうにも瞼が重たく感じられた。温かな日差しに包まれるような気持ちで、天使はベッドの端に本を置いて、静かに目をつむった。


 目を覚ました天使は、ぼやけた意識の中で、部屋に誰かがいるように感じた。


 ゆっくりと瞬きをする。視界が明瞭になる。しかし、そこには相変わらず片づけのされていない散らかった部屋に夕焼けの橙が差し込んでいるだけで、誰もいない。


 気のせいか、と息を吐き、もう一度瞬く。すると、そこには一人の少女がいた。


 天使の通う台典商高の制服を着た、髪の長い小柄な少女。少女は長い前髪を垂らしたままにしており、幸いにも目が合ったという感覚はなかったが、確かにその瞬間、天使の方を振り向いた。


 天使は唐突に現れたその少女に驚き、体を大きく跳ねさせビクリと震える。


「だ、大丈夫?」


 ベッドの寄せられた壁に強かに足をぶつけた天使に、少女は心配するように両手を無意味に動かした。天使は、夕日を浴びるその少女に見覚えがあった。細小路悠怜、二日前に話したばかりの、孤独で怯えた少女。だが、なぜここにいるのかは、天使には見当もつかなかった。強いて言えば、天使が部屋の鍵をめったにかけない、不用心でずぼらな性格をしていることが原因の一つかもしれない。


「ゆ、悠怜ちゃん、だよね。どうして、ここに、ボクの部屋にいるの?」


 天使は戸惑いを隠しきれないまま、悠怜にたずねた。


「突然ごめんね。私、変わりたくて。もう怯えて暮らすのは嫌だから、だから、あの家から逃げ出したの。それで、たまたま天使ちゃんを見かけたから、それで、着いてきちゃったの」


 天使は、それで、が全く話の前後を繋ぎ合わせる役目を果たしていないことを訝しんだが、今はそれよりも、自分を頼ってくれたこの少女を、どうにか救えないものかと思った。


「もう少し、キミの話を聞かせてくれないかな」


 天使は、すっかりと目を覚ますと、ベッドから上体を起こして、悠怜の肩に優しく手を置いた。



「私ね、いらない子なんだ。パパはいつも私にそう言うの。私なんて、いない方がましだってさ。勝手な人だよね。でも、ママもきっとそう思ってる。ママは、パパと二人で暮らしたいのに、私がいるから、私がどこにも行けないで閉じこもっているから、それができなくて困っているんだよ」


 天使は、きっとそれは悠怜の勘違いで、彼女の母親は娘を大切に思っているはずだ、と思いたかった。母親は無条件に子を愛するものだと、そう信じたかった。けれど、二日前に見たあの母親の表情、引きこもりの娘を説得しようとする天使に、余計なことをする奴だと言うように驚いた顔が、母親の無償の愛が絶対でないことを示すようだった。


「私ずっとね、この世界にいる人はみんな、パパとおんなじで私のことをいらない子だって、心の中では指さしているんだと思っていたの。でもね、そんなことないって思いたくて、迷惑をかけないように、家から近い公立の台典商高に行くことにしたの。きっと高校生になったら、私も皆みたいに、誰かに必要とされる人間になれるはずだって思った」


 天使は、悠怜の肩が少しだけ震えていることに気が付いた。夕焼けなずむ日差しは、だんだんと暗くなってきている。


「でも、ダメだった。

 みんな、私じゃない誰かを必要としていて、そこに入っていくのが怖くて。私がいなくても、世界は普通に回っていくんだって気づいたら、自分が透明になって消えていくみたいに思ったの。それは私の妄想だと思い込もうとしても、もし本当に、自分が誰からも必要とされていない、透明な人間だったとしたらと思うと怖かった。誰かに話しかけられて、誰かに見られて、誰かと関わることで、誰にも必要とされていない私の透明な輪郭が浮かび上がるのが怖くて、話しかける勇気が出なかった」


 天使は無理に彼女を励ますことはせずに、ただ優しく、その不透明な体を抱き寄せた。温かな体温が、薄い肌着越しに伝わってくる。彼女は、確かにここにいる。


「天使ちゃんのことは、前から知ってたの。でも、とっても明るくて元気で、太陽みたいな人だと思った。私なんかと違って、たくさんの人に必要とされている人なんだって。

 だから、初めて教室で天使ちゃんが私に触れたとき、とってもびっくりした。透明なはずの私の体が、真っ赤に色づくみたいに熱くなって、何にも考えられなくなったの。それで、この気持ちは何だろうって考えていたんだ。私に知らない感情を教えてくれたあなたは、いったい何者なんだろうって。

 でも、でもね、次に会ったあなたは、私が考えていたよりもずっと普通で、お茶目で人間らしくて、ずっと可愛くて。ああ、私、この人のことが好きになったんだって、気づいた。天使ちゃんといると、冷たい不安も透明な輪郭も融けていくみたいに、安心していられたの」


 悠怜は、顔を上げないまま少しだけ明るい口調で続けた。


「だから、天使ちゃんとなら、私の消えてしまいそうなほど透明な未来をどうにかしてくれるんじゃないかって思って、それで……ごめんなさい。自分勝手なことばかり言っているよね。私、こんな、馬鹿みたいだよね。天使ちゃんのこと、何も考えてない。天使ちゃんのことを思うと、何もわからなくなっちゃうの」


 天使は、しどろもどろになる悠怜の背を静かに撫ぜて、大丈夫だよ、とささやく。


 天使にとって、誰かが自分を好きになるということは当たり前のことであり、何か新鮮な驚きや恐怖や嫌悪感を引き起こすことはなかった。この少女が自分を見ている、という事実が確認された程度のことなのである。


「ボクだって、誰かに必要とされているわけではないんだよ。ただ必要とされようと必死になって、ボクが他の何でもない、天使であり続けられるように生きているだけなんだ」


 天使は、自分自身を勇気づけるように胸を張ると、悠怜に微笑む。


「大丈夫。キミが透明になったって、ボクが見つけてあげるからさ。何てったって、ボクはキミの太陽だから、キミが透明になっても照らし出してみせるよ」





「なんて言ったものの、どうしたらいいんだぁ……」


 昨晩、二人分の夕食を作っていた段階で、天使は自分が取り返しのつかない大きな選択をしてしまったことに気づきつつあった。同衾した悠怜をあやしながら、自分にできることを考えたものの、これといって良い案が思い浮かんだわけでもなかった。今朝は学校に行きたくないが天使と離れたくないという悠怜を、どうにか説得して登校(万が一にも悠怜がいることがばれないようにと、初めて部屋の鍵をかけた)したものの、どうやらかなり状況は悪く、そして予断を許さないようだった。


 当面の問題は、生徒会室で話された通り、悠怜を学校に通わせるように説得し改心させること。そして、そのためには彼女の家庭における問題を解決させる必要があるだろう。


「できるのか? 私に」


 一度落ち着くために、買い込んでいた野菜ジュースをコップに注いで飲み干す。冷えた液体が食道から胃に落ちる感覚と共に、キーンと頭痛が走る。


「どうしたの、天使ちゃん。学校で何かあった?」


「いや、実は――」


 まさか母親が悠怜を探すために学校に連絡してきてさ、なんて言えるわけもない。そんなことを言えば、彼女はいよいよ両親に、そして彼女を探すために動き始めた人々に怯え、堅く暗い殻に閉じこもってしまうことだろう。


「そ、そうだ、悠怜ちゃん。ちょっと今から一緒に夕飯の買い出しに行かない?」


 ともかく今は、彼女の家庭環境をどうにかできるのか、なんて手に余ることは考えないでおこう、と天使は思った。まずは彼女がきちんと前に進むための、一人でも歩けるための強い柱を心に作ることが大事なのだ。


「そ、外は、怖い、けど、天使ちゃんと一緒なら、頑張る」


 悠怜は健気に両手を体の前でぐっと構えた。


 思えば、一人で荷物をまとめて家出したり、それなりの距離と人通りのある駅前を越えて天使の家までやってきたりしたのだから、悠怜は行動力があるのだな、と天使は変に感心した。彼女は臆病で怖がりだが、その心の根っこの部分には、強い彼女らしさが眠っているのだと感じられた。



 悠怜の持ってきていた荷物は、通学用かばんに入れられたスケッチブックと雑多な筆記用具、それと少しの下着と寝巻だけだった。彼女が言うには、それが彼女の私物のすべてだそうだった。


「……要らないから、捨てちゃったんだ」


 学校の教科書や体操服なんかはどうしたのかと聞くと、悠怜はそう答えた。天使はそんな彼女の横顔に、何かを我慢するような、寂し気な雰囲気を感じた。


 夕暮れ泥む町は、まだ学生がうろついていても不審がられないだろうと思い、天使は悠怜を制服に着替えさせ、日中は寝転んでいたのだろう、ぼさぼさの長髪をいじめや喧嘩だと間違われない程度に整えた。


「これ、いい匂い。なんだか落ち着くかも」


 天使が悠怜の髪を優しく櫛で梳いていると、ふとそんな言葉が漏れた。


「ああ、ヘアオイルの匂いかな。お母さんのおさがりというか、プレゼントというか何だけど、ボクも昔から大好きな香りなんだ。気に入ったなら、これから見に行こうか」


 天使は、彼女の自尊心や自信を取り戻すためには、おしゃれを知るということも効果的なのではないかと思った。


 悠怜は、普通を知らなさすぎる。抑圧された殺風景な暮らしで、自分の殻に閉じこもってしまったが故の断絶だった。きっとこうした髪を梳くという行為一つすら特別に思ってしまうほどに、彼女の世界は狭められてしまっているのだ。


 天使は、あまりおしゃれや流行に気を遣う方ではなかったが、それでも体や服装を整えるということには丁寧であると思っていた。そんな日常の細やかな幸せを、悠怜にも知ってほしかった。



 台典市はそれほど人口の多い町ではないが、それでも夕暮れ時の駅前となると、それなりの人混みは発生してくるものである。とはいえ、天使ももう一人暮らしを始めて半年になるので、ある程度駅近くの地理には詳しくなっているつもりだった。


「あそこの八百屋さんがね、おまけしてくれるんだよ」


 天使は、駅近くの商店街ではすでにかなり顔が広く、いつも同じくらいの時間に買い物をするため、すっかり常連客として親しまれていた。それはもちろん、彼女の人懐こい性格と多少のわがままさが、良い方向に働いた結果と言える。


「あれ、天使ちゃん。今日はお友達も一緒なのかい?安くしとくよ」


「えへへ、ありがとうございます!」


 悠怜は天使の背後にべったりとくっつき、周囲を見回しては怯えたように影に隠れたりしていた。天使は、もっと見つからないように動くこともできるだろうに、と思ったが、すぐにそれは彼女なりの変わろうとする努力なのだと気が付いた。空回りしつつも健気な少女の姿に、天使は少しうれしくなって、その手を引いて商店街を回っていく。


「悠怜ちゃん、この眼鏡とか似合うんじゃない?」


「で、でも、私目は良いから……」


「いいからいいから、ほら可愛い」


 寄り道した雑貨屋で天使が、伊達眼鏡を悠怜にかけさせるのを、近くにいた子連れの母親もほほえましそうに眺めていた。


 天使は、先に買ってしまっていた野菜を一度八百屋の主人に預けると(主人は、早く帰ってこねえと俺が食っちまうぞ、と笑っていた)、悠怜を連れて商店街の様々な店を回った。悠怜はその先々で、私なんかに、と億劫そうに天使の背に隠れたが、気にせず試着を勧める天使の態度に少し照れながら、だんだんと前向きになっていった。


「あの、でもこれ、買ってもらっちゃったの、私、お金持ってなくて」


「大丈夫だって。どうせボクも着たいやつを買っただけだからさ。そうだ、家に戻ったらファッションショーしようよ。悠怜ちゃんに似合いそうな服、棚から出しちゃおう」


 そんな話をしながら、二人が両手に荷物を抱えて歩いていると、商店街の向かいから声をかけられる。


「あ、ん? 天使ちゃんだぞ! 奇遇だな」


「ぐぇ!?」


 天使は声にならない小さな悲鳴を上げたが、すぐに気づかれないように笑顔を作る。前からやってきたのは、三峰と丸背であった。丸背は考え事をしていたのか、少し遅れて暗い顔を上げる。


「わ、ワンコ先輩。偶然ですね」


「そうだぞ。こっちはもうだぞ。先方がもう探さなくていいとか言い出して困っているんだぞ」


「そうなのです。探す必要なんてないと門前払いでした。もう何が何やら」


 天使の背に隠れた悠怜が、小さく震えたのが伝わってきた。


「ところで、天使ちゃんは何やってるんだ?」


 天使は、思わずギク、と声に出してしまいそうなのをこらえた。


「ああ、えええとですね。駅周りを探し回っていたら、いろんな方に差し入れとかもらっちゃったりして、こんなことになっちゃったんですよね! こ、この子は、あの、ま、迷子です迷子! 通り掛けに見かけて、私、放っておけなくてですね!」


「そうだったのですね。ですが、見たところうちの制服みたいですし、迷子という年でもないのでは?」


「私たちはもう帰るところだから、ついでにその子も送っていってやるぞ。そのくらいの手伝いは問題ないぞ」


「だ、大丈夫です! ほら、この子の家もうそこなので!」


 天使は勢いよく明後日の方向を指さした。心底この悠怜という少女が、誰とも面識がないことを幸運に思った。


「ま、まあ、そういうことでしたら、私たちは生徒会室に戻りましょうか」


「そうだな。改めて作戦を練り直しなのだぞ。じゃあ、また明日なのだぞ」


 天使は二人に軽く手を振って別れると、ほっと肩をなでおろす。落ち着いて考えれば、悠怜のことを素直に話してもよかったのではないか。彼女の問題を自分だけでどうにかしようとする慢心があることに、少しばかりの危機感を覚える。しかし、天使の制服の裾を小さく、けれど強く苦しそうに握る悠怜の姿を見ると、どうにかして守らなければという気持ちになるのだった。




 そうして、大量の荷物を抱えてなんとか家まで戻ってきた二人は、冷蔵庫に食材を詰め終えると、二人してベッドに寝転んだ。天使は、誰かと一緒にいるのにこんなに油断した、無防備な気持ちでいることが初めてだと思った。


 悠怜は、淡々と買ってきた服を畳みなおして、床に整列させていた。単調に作業を続けながら、天使に尋ねる。


「あの先輩たち、生徒会の人だよね。前に私の家に来た。もしかして、さっきの話って、私の家のこと?」


 天使は、しばらく間をおいて、それから小さく、うん、と返した。


「どうして、天使ちゃんは私を。あの時、ここにいるのが細小路悠怜だって言わなかったの? そうしたら、こんな。私、天使ちゃんに迷惑ばっかりかけているのに、どうして、天使ちゃんは私を守ってくれているの?」


 それはきっと、似ているからだ。あの日、自分の心から『天使』が飛び去って、自分が何者なのかわからなくなった自分に似ているからだと、天使は思った。


「キミが苦しさに負けないようにしたいから。つまずいたっていい。迷ったっていい。その先でキミが、キミらしさを、キミの答えを見つけてほしいんだ」


「でも、苦しいのは嫌だよ」


「そうだね。でも、苦しさの先にしかない答えもあるんだ。キミには、今の苦しさや悩みを、ただ苦しい記憶として終わらせないでほしい。その苦しみを受け入れてしまわないでほしい。キミは、もっと自分のために、自分を誇って生きていいのだから」


 悠怜は荷物を片付ける手を止め、わずかに肩を震わせた。


「……ごめんね。せっかく買ってもらったのに、くしゃくしゃになっちゃった。この服、着てもいいかな」


 少女はうるんだ瞳で、しわの寄ったワンピースを肩に当てた。





 それから、二人はファッションショーをした。とてもささやかな、一人の観客と一人のモデルの二人だけのランウェイだった。二人とも、その道は長く続かないことには気づいていたが、それでも、とても楽しそうに、名残惜しそうに夜が更けるのも構わずに笑いあった。




「ねぇ、天使ちゃん」




「どうしたの?」





「私ね、天使ちゃんのこと、大好き」





「ありがとう。ならきっと、私たち、になれるね」





「——そうだね」




 悠怜はうつむいて、それからたっぷりと間を空けて話し始めた。



「明日、学校に行こうと思う。学校だけじゃなくて、ママにも会ってきちんと話したい。私がどうしたいのか。ママが、どう思っているのか。」


 決意を固めた悠怜の顔は、初めて会った時よりもずっと凛々しくなっている気がした。


「それじゃあ今日は、決起集会しなくちゃね」


 天使が冷蔵庫を開けると、買った記憶よりもやや多くなっている気がする食材たちが、所狭しと並んでいる。二人は小さなキッチンに並んで、穏やかに食事を作った。

 天使は心のどこかで、誰も苦しまないでいられるこんな幸せがずっと続いたらいいのにと、少しだけ思った。



 それでも無常に夜は明ける。山嶺から昇った太陽が、透明なはずの少女の影を照らし出していた。

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