第12話 幽霊の話 前編

 この学校には、幽霊がいる。


 それは夏休みが明けたころ、天使の耳に入ってきた噂である。


 幽霊といえば、学校の七不思議の定番であるところの存在だが、この噂の幽霊は、トイレでも音楽室でもなく、普通教室にいるのだという。それも、ちょうど天使と同級生であるところの一年生であるようである。というのも、今年になってから語られるようになった噂で、上級生たちはまったく知らないという不思議な噂なのだ。


 天使は最初、それはもしかすると自分のことなのかと思った。


 天使は友人関係というものが希薄な割に、突然人の物を拝借したりするからだ。それに天使の話したことの微妙なニュアンスが、都合よく解釈されている節があるとうっすら感じており、口から洩れてしまう独り言やかけ声みたいなところは、クラスメイトの誰もが無視している。

 つまるところ、飽きられてしまっている。天使という美しくもはつらつとした存在は、はじめこそ奇異と羨望の目で見られたものの、時がたつにつれて顔がよいだけで鬱陶しく付き合いの悪い奴だと思われるようになっていたのである。心外である。


 しかし、やはり。天使は少しばかりの興味を持って、鬱陶しい奴の矜持として、手当たり次第に情報を集めてみたところ、天使は幽霊ではなさそうであった。


 それにどうやら、幽霊は案外近いところにいるようなのであった。




 天使が彼女に気が付いたのは、九月の半ばである。


 その机には、誰も座っていなかった。その机の周りにも、誰一人いなかった。勝手に人の席に座ってしゃべるような生徒も、その席の持ち主もいなかったわけだ。


 しかし、その席には確かに配布物が置かれており、その後ろにもすでに行き渡っていた。


 天使は偶然にもその隣の席であったため、肩肘にもたれて暇を持て余していた時にその違和感に気が付いた。


 そういえば、この席の生徒は誰だっただろうか。学校生活が始まっておよそ半年、生徒との関りの無い夏休みを挟んだとはいえ、クラスメイトの顔を思い出せないなどと言うことがあるだろうか。それも、真横の席にあたる人間のものを、だ。


 天使は普段、自分が他人の顔や名前を覚えられないことに危機感を覚えることはなかった。なぜなら、話せば思い出すことがほとんどであるからだ。名前も顔も、記憶としてとっさに一致しなくとも、会話を通して仕草や価値観に触れれば、途端に相手が色づく。すぐに忘れてしまうとしても、その時は少なくとも、相手を特別に感じられている。それでいいのだと天使は思っていた。


 天使は入学してからの三か月ほどで、学校内のほとんどの人間と大なり小なり会話をして、わずかながらの縁を結んだ。天使にとって高校は、違う価値観の人間が一堂に会している価値観特売会場みたいなものだった。

 結局、出身中学や所属しているグループなんかで価値観は偏在しているという感想に至り、燃え尽きたように、自主的な生徒とのエンカウントを避けるようになってしまった。結果的に、それが天使の噂の爆発的な広がりに寄与したわけだが、灯台下暗しというべきか、こんなにも近くに知らない何かがあったとは、天使は思いもよらなかった。


 天使は好奇心をあおられ、にこにこと笑みを浮かべながらその席を見つめる。そして、突然のことだった。何の気なしに一度瞬いたのを境に、天使は突然理解した。そこには、一人の少女がいた。


 天使は唐突に現れたその少女に驚き、体を跳ねさせ後ずさる。椅子が床にこすれる大きな音が教室中に響いたが、いつもこの時間に天使はまどろみから覚め同じように跳ね起きるため、一瞬の静寂が落ちただけで、だれも気に留めはしなかった。


 少女が、いた。そこには、少女がいたのだ。


 少女は、長い黒髪を静かに揺らしながら、その席に座っていた。天使は慌てて周りの生徒たちの様子を確認する。今そこに、少女が現れたのか、それとも少女は最初からそこにいたのか。あるいは、まだ少女はいないのか。


 天使の見回した限りでは、生徒の誰も、その少女を気に留めたり、視線を向けたりはしなかった。つまりは、この少女は、この教室の視線と一切交わっていなかったのだ。


 なぁんだ、それなら私が気付かなくたってしょうがないや。


――などと納得できるはずもない。


 天使は、あふれる好奇心のまま、その少女を注視した。少女はその視線には気づかず、帰り支度を整えている。教科書などを詰め終えると、小柄な体躯をさらに小さく収めるように、荷物を抱え込み丸くなってしまった。


 そっと、なぜか天使のほうが気付かれないようにと息をひそめながら、一本だけ伸ばした人差し指で、その少女の頬を突いた。


「———!?」


 少女は耳元でクラッカーを鳴らされたかの如く驚き、天使の方を見た。何事か呟いているようだったが、全く声を成していない。空気が漏れ出ているだけのようだった。


 天使もぽかんと少女を見つめたままになる。触れた。つまり、この少女は存在しているのだ。視線が交錯したその一瞬、怯えるようなその瞳に、天使は吸い込まれるような気持ちになった。


 と、その時、担任が教室に入って来て、クラスの喧騒がだんだんと静かに鳴っていく。天使も渋々、黒板の方に向き直った。


 担任の連絡を聞き流しながら、目線を横に向けると、どうやら少女はまだそこにいたようだった。





 次の日、しかし少女はいなくなってしまった。そのことに気が付いたのは、またしてもHRの時間である。今度は隣の席に配布物がたまってしまっていた。


「ここの席ってさ、今日お休みだっけ?」


 配布物を後ろに回し、何気ない素振り、何気ない優しさを振舞いながら、天使はその席の前後の生徒にそう尋ねた。


「え、ああ……ね、ここって誰が座っていたっけ?」


「あ、ええっと、何とか小路さんだよ、たしか。私、話したことないからわかんないんだよね、ごめん」


 天使はその言葉を聞いて、どうにも納得がいかなかった。天使は自分のコミュニケーション能力には自信がある方で、それなりにこの学校の生徒とは話をしたはずだった。しかし、その誰も、同じクラスであるはずのこの少女については知らなかったのだ。あるいは、知っていても、あまり知らないと答えるばかりだった。


 天使はこっそりと、というかどうやっても目立つため天使の行動はクラスの誰もが気にしていない、教壇にしまわれた学級名簿を確認する。名前を見ても、心当たりがない。こんな時ばかりは自分の記憶能力が恨めしい。


 しかし、なんとか天使はその少女の特定に成功する。


 その少女は、授業で指名されたことが一度も無いようだった。欠席している今日に限った話ではない。無防備にも名簿に挟まれた、授業の評価シートのようなものを見るに、確認できる範囲で一度も当てられていないのだ。


 天使はその確認をする中で、自分が当たりすぎているということに、わずかながら癪な気持ちを覚えたが、今はいいだろう。いや、それにしたって当たりすぎているな。


 天使は、本題から逸れていると自覚しつつも、自分が一度の授業で二回以上当たった回数をカウントする作業に没頭してしまった。二桁を越え、天使の脳内のカウントが曖昧になっていく。


 そんな天使の頭を、いつのまにか入ってきていた担任が軽く小突く。


「おい、愛ヶ崎、何してるんだ」


 天使は、びくりと体を震わせ驚いたが、すぐに、えへへと可愛げなポーズをとってごまかした。伝家の宝刀である。


「まぁ、ちょうどいい。お前、クラス委員長だろ。これ、細小路に持っていってやってくれ」


 天使は、そういえば自分がクラス委員長だったことを思い出した。そして、自分の探していた相手との接点が生まれた幸運に、運命に感謝した。


 細小路ささめこうじ悠怜 ゆうれい。それが探していた少女の名だった。




 天使はHRが終わると、意気揚々と教室を後にした。いつも通り、挨拶をしてくれる先輩や同級生に手を振り返し、軽くスキップなんかしながら下駄箱を通り抜けていく。


 そうして、校門を抜けて住宅街まで降りてきたところで、天使は、はたと気が付いた。


「家、わかんないや」


 それは、至極当然のことで、だけれどすっかりと頭から抜け落ちていたことだった。


 そもそも天使にとって、出会いとは運命のようなものだった。天使が歩けば誰かに当たる。それが出会いであり、今日のように運命の誰かを探すことなど、天使には初めての体験だったのだ。


 とはいえ、天使にも人探しの経験がないわけではない。家を忘れた痴呆症の老婆を、家まで無事に送り届けたこともある。ましてや少女一人、見つけられないわけがない。


 と、意気込んだものの、一人で台典商高の校区をすべて歩いて回るわけにもいかない。いったいどうしたものだろうか。かなり珍しい苗字のようだし、聞きこんでみるのもいいのだが、少なくとも、校内で有益な情報が得られなかった少女のことを、果たして住民が知っているだろうか。いくら天使といえども無策で聞きまわるのは骨が折れすぎると感じた。


「お、いたいた。愛ヶ崎さん、お疲れ様です」


 思案を巡らせながら、校門に寄りかかって時間を潰していた天使に声をかけたのは、生徒会の書記を務めている、丸眼鏡の二年生だった。


「あ、ニャンコ先輩!お疲れ様です」


 少女の名は、丸背南子まるせ なんこ。天使とは、入学式以降も生徒会の仕事で、時には問題としてもだが、関わることが多かった。天使が顔と名前を一致して覚えることのできている、数少ない生徒の一人である。同じ二年で生徒会副会長を務めている光峰壱子みつみね いちこと合わせて、ワンコとニャンコとして、生徒会内では親しまれている。


「いやぁ、間に合ってよかったです。先生から急に頼まれごとをしてしまいまして、愛ヶ崎さんを探していたわけです」


「私を、ですか?」


 天使は、このところは目立つような行為は控えていたため、特に咎められるようなことに心当たりはなかった。あるいは褒められるようなこと、といっても心当たりがありすぎて、特定の何かは思い出されない。


「ですです。愛ヶ崎さんは、細小路悠怜さんのところに向かうところなのですよね」


「ぅえ、なんで知ってるんですか」


「ちょうど生徒会でも、不登校生徒の呼びかけをしようという話が持ち上がっていまして、その活動として細小路さんの家に向かうところだったのですよ。それで、たまたま愛ヶ崎さんにも、同じようなことを頼んだところだと先生からお伺いしましたので、一緒に行こうかなと思って探していたのです。というか、きっと愛ヶ崎さんは、細小路さんの家が分からずに困っているだろうと思いましたので、できれば学校を出る前に、と」


「うええええ、なんでそこまでわかるんですか!」


 つくづくこの先輩は猫に似ていない、と丸眼鏡をクイと上げた少女を見て天使は思う。気づけば辺りはもうすでに夕方の様子に変わっており、あっという間に夜になってしまいそうだった。


「まあまあ、配布物を届けるだけなのですから、そう愛ヶ崎さんは気負わなくても大丈夫ですよ。とりあえず、道案内はできますから、細小路さんの家に向かいましょう」


 例えばそれを運命と呼ぶのなら、ずいぶんな奇縁だと天使は思ったが、ともあれ天使が歩けば猫に当たったというわけだった。正確には立ち止まっていたわけだが。






 かくして、二人は細小路の家へとたどり着いた。辺りはまだ赤く夕焼けの伸びる頃、元気に遊んだ子供たちが付近の家々へ帰っていった。


 丸背がインターホンを鳴らすと、やや遅れて母親と思われる女性が応答した。


「台典商高生徒会執行部の者です。悠怜さんのことでご相談があってやってまいりました」


 ためらうように一呼吸空いた後、どうぞ入って、と声があった。


「ごめんなさいね、散らかっていて」


 そう申し訳なさそうに言う女性は、実際のところその散らかった部屋を片付ける気はあまりないのだろうと、天使には感じられた。もうすぐ出かけるのだろうか、家でくつろぐには締め付けの強いだろう服を着たその女性は、目元の深いクマを隠すこともなく目線を床に落とした。


「愛ヶ崎さんはどうしますか?先生から頼まれたのは、配布物を渡すことだけだったと思いますが」


 丸背は、丸眼鏡を軽く押さえながら、天使に尋ねた。


「私、悠怜ちゃんとお話させてほしいです。上手く話せるか分からないけれど、あの子のこと、もっと知りたいから」


 母親と思われる女性は、驚いたように目を見開いてから、優し気に微笑んだ。


「あの子なら二階の部屋にいると思うわ。内気な子だから、迷惑かけてしまったらごめんなさいね」


 そう天使に語る女性の目に、どこか懐かしい心のざわめきを天使は覚えるのであった。





 二階への階段を上りながら、天使は行きがけに丸背から聞いた悠怜の情報を思い出していた。


「細小路さんは、完全に不登校の状態にあるわけではないようです。一学期の時も、早退や遅刻は多かったようですが、不登校というほどではありませんでした。とはいえ、行事の準備や行事当日の欠席率は高く、先生方の間でも少し問題になっていたそうです。二学期になってから、不登校気味、というか欠席が続いていたため、今回の訪問のリストに入りました」


「でも、多分この前は登校していた、と思うんですけど、何か生徒会が動かないといけないような事情でもあるんですか?」


 そこが大事なわけです、と丸背は眼鏡をクイと上げる。


「一応、生徒会の方でも聞き込みというか、どんな様子の生徒か、という調査をしてはみました。でもですね、これといって問題はないようなのです。まぁ、内気な性格が転じて不登校になってしまう、ということも考えられなくはないのですが、それほどクラス仲が悪いわけでもないようでしたし、彼女のことを悪く言うような人もいませんでした」


「私も、いろいろ聞いたりしてみたんですけど、確かに嫌われて無視されているって感じではなかったですね。そもそも気にされてないというか」


 丸背もうんうんといった風に頷いた。


「要するに、不登校の原因は学校ではない可能性が考えられるわけです。つまりは、家庭環境であったり、彼女自身の別の側面だったりが影響している、と。正直、そこまでいったら行政とかの管轄ではないのかと、私は思うのですが。まぁ、神城かみじょう先輩もはりきっていましたし、やれるだけのことはやってみようかなということです」


 丸背は、いつもの猫背をより丸くしてうなだれながらも、気丈に笑っていた。





 天使は二階の扉の前で深呼吸を一つする。眼前の扉には、『幽霊』と書かれたネームプレートにかわいらしいお化けの絵が添えてあった。子供の時に作ったものだろうか。

 意を決し、天使は扉をノックした。しばらく待っても応答はなかった。


「あの、悠怜ちゃん。私、天使……隣の席の、愛ヶ崎天使、です。その、突然ごめんなさい。悠怜ちゃんにも、いろいろ事情はあると思うのだけれど、少しだけ、私の話を聞いてほしいの。簡単に信じてほしいとは思ってない。でも、良かったら、扉越しでもいいから、お話ししたいの」


 天使は絞り出すように、扉の向こうに語りかけた。不均等に縦に伸びた扉の木目は、今にも天使を吸い込まんばかりに見えた。


————応答は、なかった。


 代わりに、天使の頭に影が伸びた。反射的にその先を追うと、そこには、もこもことした綿のパジャマ———しかもそれは猫耳フード付きの上下セットだった——

を着た少女、細小路悠怜が、油断しきった表情で口を呆然と開けて立っていた。たまらず天使も、口をパクパクとさせて後ずさる。天使は、急激に自分の体温が上昇するのを感じた。


「なに、してるの?」


 それが、天使の聞いた初めての悠怜の声だった。それは、天使の思っていたよりもずっとはっきりとした、ずっと強かな声だった。


「あえ?」


 それに比べて、自分は何と無様なことかと、天使は思わず笑ってしまいたくなったのであった。





「っぷ、あはは。そっか、ママが部屋にいるって言うから、廊下でしゃべっていたってことか。なんか、ごめんね」


 天使が、誰もいない部屋に語りかけているところを悠怜に見られてから、少しの後。案外とあっさり、天使は彼女の部屋に通されたのだった。天使は冷たい床に腰を下ろし、ベッドに背を預けた。


 悠怜は、鼻先まで伸びた長い前髪をヘアピンで留めながら笑う。


 天使は随分と広い部屋だ、と思った。しかし、すぐにそれは家具が少ないからだと気づいた。天使も、引っ越ししてすぐはワンルームでも物足りるかと思ったが、すぐに生活空間が圧迫されて泣きを見た経験がある。とはいえ、実家に住む年頃の女子の部屋としては、この部屋はあまりにも簡素だった。ミニマリストというわけではないのだろう、と玄関越しに見たリビングの様子を思い出す。


「きれいな部屋だね。私、片づけ苦手だから、ちょっとだけ羨ましいけど、一人だと退屈しちゃいそう」


「パパがね、私のもの勝手に捨てちゃうから、物があんまり無いんだ。でも、案外退屈しないよ? 私ね、絵を描くのが好きだからさ」


 天使は、そういう割に描かれた絵の一枚すらも部屋に残されていないことを、不安に思った。何か少しでも明るい話題を振りたいと思ったが、そう考えるほどに、彼女の小さな体がさらに小さく見えてしまった。


「それ、配布物届けに来てくれたんだ。ありがとう、私なんかのために」


「……ううん、私があなたに会いたくて来たんだよ」


「そう、なの? ありがとう。天使ちゃんは優しいんだね」


 悠怜は不意に天使の隣に腰掛けると、肩にもたれかかった。しばらくそのまま、静かに時が流れた。


 天使は体重を上手く流して、悠怜の体を胸に抱いた。天使の右腕の上で、不思議そうな顔をして悠怜は見上げる。天使はその愛らしくおどおどとした顔を、慈母のように笑って見つめた。


「悠怜ちゃんは、どうして学校に行かないの?」


 それは、あまりに直球が過ぎる質問だったが、むしろ天使という人間が彼女に開かれている存在だということを示してもいた。

 悠怜は眠たげに、そして少しだけ面倒そうに、天使の胸に顔をうずめながら答える。


「怖いから」


「怖い?」


「目が、怖いんだ。視線が私を串刺しにしてしまうみたいで、怖い。初めは平気だったのに、それが酷くなってきて、耐えられなくなっちゃった。ごめん、ごめん、なさい」


 悠怜は静かに、しかし力強く天使の体を抱き寄せた。天使も優しく抱き返す。


「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫だから」


 悠怜の背中をゆっくりとさすりながら、天使は夕暮れなずんだ陽がわずかに差し込む薄暗い部屋をぼんやりと眺める。視線に射殺されると思ったことは、天使にも経験があった。しかし、それは恥ずかしさによるものだ。自分の胸で泣いている少女のそれとは、実際のところ、同一の感覚とは言えないのだろう。それでも――


「大丈夫だよ。視線なら全部、私が受け止めてあげる。ほら、私って目立っちゃってもうしょうがないからさ、だから心配しないで。悠怜ちゃんは前を向いて歩いていいんだよ」


 それでも、天使は、少女の孤独や苦しみを引き受けてみたいと思ったのだ。

 それがただの偽善的な励ましにしかならないかもしれないとしても、手を差し伸べてみようと思ったのだ。


「うん。ありがとう」


 悠怜は、顔を上げないままで、小さくそう返した。しばらくの間、天使はそうして悠怜を抱いたままでいた。



 それから、また学校でね、と別れの挨拶をして、名残惜しそうな悠怜を置いて、天使は部屋を後にした。話を終えたのであろう丸背が、一階から天使を呼んでいた。


 天使は悠怜と話したことを伝えず、中々うまく行かないですね、と苦笑することでごまかした。母親と思われるその女性は、いいのよ、とさほど期待していなかったように、あるいはホッとしたように返した。

 帰り際、丸背は行きよりも深刻そうな顔で天使に話し始めた。


「やっぱり、生徒会の仕事の範疇じゃない気がします。行政が、というか教師がしっかりするべき部分ですよ。一年生とはいえ、このまま退学になんてなってしまったら、あまりにもかわいそうなことです」


「でも、きっと、悠怜ちゃんは来てくれると思います」


 天使は、すっかり夜の空に変わり少し肌寒い帰り道で、そう呟いた。丸背はそんな天使の横顔を見上げ、緊張を解くように軽く笑った。


「そうですね。弱気になっていてもしょうがない」





 果たして、明けた月曜日、細小路悠怜は学校に来なかった。

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