花菖蒲公園に立ち寄っていたこともあり、晴季が帰り付いたのは薄暗くなってからのことだった。とはいえ門灯はまだ暗いまま、表札の『壱岐いき』の文字は明かりがなくとも読み取れる。

 玄関を開けて「ただいま」と声をかければ、香ばしいにおいが鼻に届いた。今日の晩御飯は肉でも炒めているのだろうかとあたりをつけて、白いスニーカーを脱いで玄関を上がる。靴を揃えて手を洗って台所に顔を出せば、じゅうじゅうと何かを焼く音がした。

「おかえり、晴季」

 コンロの前にいた青年が、火を止めてから振り返った。つうっとその額を汗が滑り落ちて、顎に伝うよりも前にぐいっと手の甲で拭っている。

 汗をかくほど暑いのは、コンロの前にいたから。という理由だけではなく、きっと開襟シャツの上に薄手とは言え長袖のパーカーなんて着ているせいだろう。

「ただいま吉彰くん。誠一郎さんは?」

「おっさんならまだ仕事してる。締め切りが近いとかってまた散らかしてたから、終わったら片付けと掃除しないと……」

 深々と溜息を吐いた吉彰が、眉間に皺を寄せている。その言葉にきっと足の踏み場もなくなっているだろう誠一郎の部屋が晴季にも容易に想像できて、思わず苦い笑いを浮かべてしまった。

 フライパンの中を覗き込めば、キャベツと豚肉が炒められている。味付けに使ったのだろうオイスターソースが、コンロのすぐそばに置かれていた。

「今日は帰ってくるの遅かったんだな」

「うん。ちょっと花菖蒲公園に行ってたから」

 消えたはずの吉彰の眉間の皺が、また刻まれた。

 手にしていた菜箸をコンロに置いた吉彰が、真っ直ぐに晴季に向き直る。視線が晴季の頭のてっぺんから爪先までを動いて、それから吉彰はまた溜息を吐いた。

「何でまた。危ないことしてないだろうな」

「大丈夫……だけど、後でちょっと話したいことがあるから、聞いてくれる?」

「いいよ、ご飯食べながら聞く」

 吉彰が動こうとしたのを見て、晴季は食器棚から皿を三枚取り出した。白地に橙色の縁取りをされた皿は、少し色が褪せている。

「鞄置いて、着替えて、あとついでにおっさん呼んできて。もうすぐできるから」

「分かった」

 促されるまま、吉彰に背を向けて台所を出た。とんとんと階段を上がっていけば、閉ざされた扉が四つある。一番奥にある部屋が誠一郎の部屋で、晴季は鞄を置くよりも前に、まずはそこへ向かって声をかけた。

「ただいま、誠一郎さん」

 声をかけたものの、返答はない。

「誠一郎さん?」

 もう一度、今度はもう少し大きな声で声をかける。ややあってからがたんという大きな音と何かが落ちる音がして、それから部屋の扉が大きく開いた。

 開いた扉の向こう、想像していた以上に散らかった部屋がある。散らばった本や紙類のせいで、足の踏み場はもちろんない。

「おかえり、ハレ」

「ただいま」

 部屋の入口に立った誠一郎は晴季より頭ひとつ分は背が高く、近くに立てば見上げなければならなかった。吉彰と誠一郎はそれほど背の高さが変わらないはずだが、誠一郎の方が距離が近いせいで首が痛くなる。

 綺麗に後ろへ流すように撫でつけた髪は、きっちりとした印象を与えるものだろうか。けれど、撫でつけた髪の一部は落ちてきている。それに、着ている白いシャツはスラックスから半分裾が出ているし、袖も片方がまくれ上がり、もう片方は落ちてきていた。

 つまり何かというと、要素としてはきちんとして見えるものなのに、ひとつひとつがそれを台無しにしてしまってだらしなく思えるのだ。

 室内の本棚は分厚くて背表紙はアルファベットが書かれた本が詰まっているものの、ところどころ隙間が空いていた。中には日本語のものも紛れているが、そこに法則性は見付けられない。

「お仕事、忙しい?」

「まあちょっと? いや別に俺は締切近くまで手を付けなかったとかそういうことじゃなくてだな、ちょっとややこしかったとかそういうので」

「うん、分かった。そういうことにしておくから。一週間前はほとんど自分の部屋にいなかった気がするしお仕事してなかった気がするけど、私の気のせい?」

 晴季の思い出せる限り、誠一郎が部屋にこもり始めたのはここ数日のことだ。それまでは優雅にリビングでコーヒーを飲んでいたり、本を読んでいる姿ばかり見ていた。だから晴季はてっきり、今は仕事がないものだと思っていたのだ。

 首を傾げてみれば、誠一郎が苦虫を何匹もかみつぶしたような顔をする。

「俺の可愛いハレが酷いこと言う……誰のせいだ、スミヨシか!」

「吉彰くんのせいじゃないと思うけど。お母さんの影響、かも」

 住之江すみのえ吉彰、それが吉彰の名前だ。のえあきだから、スミヨシ。誠一郎が吉彰に付けたあだ名は、そういう由来だった。

「姉さんめ……」

 誠一郎が今度はがっくりと肩を落とした。

「ごはん、もうすぐできるって」

「お、やった! 今日は何だろうなあ。スミヨシのおかげで毎日美味しいご飯が食べられて、俺は幸せ者だなあ。ハレも行くだろ? ご飯は全員揃って食べないとな」

 先ほどまでの消沈した様子はどこへやら、誠一郎は途端にうきうきとした様子を見せ始めた。そのまま部屋を出て、鼻歌まじりに階段を降りていく。

 部屋の扉は閉ざされ、もう中の様子は窺えなかった。

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