二
花菖蒲公園は玄冬街道とは反対方向の北、その近くにはバス停もある。まずはバスの来る時刻を確認して、徒歩かバスかを考えることにした。
それほど校門から離れていない場所のバス停、赤と白のまるい板の上には玄冬高校前という黒い文字。その下にある長方形の中に書かれた数字と、腕時計の針とを晴季は見比べた。
バスが来るまでは、あと五分。これならば徒歩で向かうよりも、バスで向かった方が早く花菖蒲公園に辿り着ける。
待合には屋根がなく、褪せた水色のベンチがぽつんとひとつ置かれているきりだ。そのベンチに腰かけて、晴季は上を向く。青い空に、ぽつりぽつりと雲が浮かび、刷毛ではいたような筋雲がたなびいている。
玄冬高校の制服が変わったのは、何年前だっただろうか。少なくとも晴季が入学してからは変わっていない。晴季の二つ年上である吉彰が通っていた時分も、今と同じ制服だった。指折り数えて考えてみて、確か十年ほど前だったと結論を出す。
つまり彼女は、その頃に玄冬高校に通っていたのだろう。今となっては誰も何も彼女のことを口にすることはなく、その存在が語られるようなことはない――普通は視えないのだから、当然か。
首の折れた彼女は、現代文の時間にだけ、しきりに何かを探すようにして教室の中を見回している。晴季は彼女と視線を合わせることもしなければ、何を探しているのか問うようなことはもしない。そもそも彼女がどれだけ口を動かそうが、晴季の耳がその声を拾うことはない。
ずれているのは、視界だけ。それも本当にずれているのか、あるいはこれが本来の世界であるのか、そんなことは晴季にも分からない。視えているのが晴季だけである以上それが真実であるということを証明する手立てもないのだから、誰かに確認のしようもない。こんなことを言ったとて、信じる人がどれほどいるのか。
数台の車が晴季の目の前を走り抜けて、それからバスがやってきた。ぷしゅうと特有の音を立てて止まり、バスは晴季の前で口を開けている。慌てるようなこともなく、晴季はバスの中へと足を進めた。
乗客は、ほとんどいない。うつらうつらと舟をこいでいる老人がひとりと、喋っている大学生くらいの青年がふたり。それから晴季の、たったの四人だ。
晴季が座ったところでまた音を立ててバスの扉が閉まり、ゆっくりとバスが動きはじめる。「本日はご乗車いただき、まことにありがとうございます」から始まるアナウンスは、ただ右から左へと流れていった。
窓の外を、景色が走り去っていく。バス停を二つ越えて間もなく花菖蒲公園前に到着するところで降車ボタンを押した。窓の向こうには小学校があって、校庭で小学生がボール遊びをしているのが見える。校門前には教師がひとり見送りのために立っていて、通り過ぎるバスに丁寧に頭を下げていた。
また音を立てて停まり、扉が開いた。「ありがとうございました」と運転手に小さく頭を下げて清算をして、バスから出たところでむわりとした熱気に押しつぶされそうになる。息苦しさすらある空気をかき分けるように歩いて花菖蒲公園へと一歩立ち入れば、池の上を駆け抜けてきた清涼な風が晴季の髪を、スカートを、リボンタイを揺らしていった。
「ええと……」
白骨死体が見つかった池は、どの池だろうか。花菖蒲公園はあちらこちらに池があり、渡るための木製の橋がいくつもかかっている。池の周囲には、何株もの花菖蒲。きょろきょろと辺りを見回してみて、少し奥に入ったところに花束が置かれているのが見えた。
おそらくはそちらだろうと見当をつけて、それを目標に歩いていく。白いスニーカーの下で、きしきしと板を何枚も連ねた橋が音を立てて軋む。バスを降りた直後の熱気はもうどこにもなく、橋の上や池のほとりは、ほっと息を吐き出せるくらいには涼しかった。
花束が、ある。それから、くまのぬいぐるみ。オレンジジュース。おそらくはここで池に落ちて溺れてしまった小学生の女の子のために、好きそうなものを誰かが用意したのだろう。花束は白に、ピンクに、黄色。きっと女の子が好きだろうと考えるような、淡い色の花々だった。ころりとしたくまのぬいぐるみは、つぶらなひとみで池を見ている。
いくつくらい花束が置かれているのか、数えようとは思わなかった。ただ多く置かれている花束は、やはりどれも似たような色をしている。
一歩足を花束の方へと進めれば、ざりりと砂が音を立てた。その途端にぞくりと背筋を冷たいものが走り抜けて、晴季は進もうとしていた足を止めた。
池に咲いた花菖蒲は今が一番の見ごろで、花菖蒲公園の中には他にも人がいる。ただ平日の昼を過ぎて夕方に近付く時間、大勢の人がいるとまでは言えない。池の上をアメンボがついついと滑るのが見えて、それから、まばたきをひとつ。
ふわりと翻ったのは、半ば透けているような紺色のスカートの裾。白い丸襟に、肩くらいまでの長さの髪。
いた。
十歳というと、どれくらいの身長なのか。晴季自身が十歳の頃を思い返して、けれど詳しくは思い出せなかった。十歳だと、目の前の彼女くらいの身長が普通なのか。
ふわふわと風もないのに、紺色のワンピースの裾が揺れている。ひとつふたつみっつと数える指先は真っ白い花束を無視して、ピンク色の花だけを数えている。そして彼女は、楽しそうに笑いながら拍手する。たくさんあることを、喜ぶように。
何度も指先は数えるように動いていく。ただじっと視ているだけの晴季に気付くこともなく、白い花には見向きもしないで、ピンク色の花だけを数えて。彼女はピンク色が好きなのだろうかとぼんやり考え、それからスマートフォンのカメラのレンズを向けた。ボタンを押そうとしたところで、突然くるりと彼女が振り返り、その拍子にかしゃりと音がする。
咄嗟に目を伏せた。ああいうものとは、目を合わせてはいけない。思わず押してしまったボタンによって撮られた写真には、彼女が写っていない。それが当たり前の景色なのだから、晴季もまた視えていないふりをしなければ。その存在を知らないふりを、気付かないふりをしなければ、そうでなければ近付いてきて――目の前に、少女の顔があった。
まばたきをひとつしても、少女の顔は目の前から消えない。下から晴季の顔を覗き込むようにしていた彼女はまた笑って、ひらりと身をひるがえして離れていく。
そして、どうしてだかひどく楽しそうに踊るのだ。踊る、という表現が正しいのかは分からないが、くるくると踊っているように晴季には見えた。そうしていたかと思えばくまのぬいぐるの前に立ち、じっと見てからしゃがみこみ、くまのぬいぐるみを手に取ろうとして、けれど取れなくて地団太を踏む。
小学校四年生というと、こんなものだろうか。もう自分にとっては八年前で、晴季はその判断をするための思い出がほとんど見付けられない。
彼女はまた、花を数える。やはり白い花を通り過ぎて、ピンク色だけを。何度数えたところでその数が変わることはないのに、それでも楽しそうに数えている。
理解ができない。
ふっと晴季の中に浮かんで消えたのは、そういうものだった。彼女は花菖蒲公園の池で見付かった白骨死体の少女だろう。足を滑らせた事故か、あるいは。
吉彰の生徒が言ったことばに彼女を当てはめるならば、彼女は殺されたことになる。もしそうだとすれば、悲しんだり恨んだりするだろう。けれど目の前の彼女は悲しい顔も恨みの顔もすることはなく、ただただ楽しそうに笑っている。
「どうして……」
ぽつりと落ちた声は、池の上を駆け抜けてきた風に攫われて、溶けて、消えた。
紺色のワンピースを着た彼女は、また楽しそうにくるくると踊っている。そしてその動きを止めたかと思うと、笑顔で晴季の方を見た。
そうしてすっと、池の向こう、雑木林の方を人差し指で示している。
彼女が示した方向を見ても、何かがあるようには思えない。ただ池があって、橋があって、花菖蒲が今を盛りと咲いていて、今がちょうど見ごろを迎えている。橋の上を小さな子の手を引いた母親が通り過ぎていく。老夫婦が手を繋ぎ、池のほとりを散歩している。
彼らから見れば、晴季はたったひとり、花束の近くで立っているように見えるだろう。けれど確かに晴季の目の前には、ずれた視界の中には、少女がいる。
雑木林の方を見たものの何も反応しない晴季に焦れたのか、彼女がぶんぶんと雑木林の方を示している手を上下に動かした。そしてぷくりとその頬を膨らませて、くまのぬいぐるみが取れなかったときと同じように地団太を踏んでいる。
その口が、何かを紡いでいた。けれどぱくぱくと動いている口からは、何も音が聞こえない。晴季の耳は、彼女の声を拾えない。
どれだけ彼女の口が喚くように動こうと、聞こえてくるのは風の音と、かさりと花束を包んだフィルムが擦れる音だけ。地団太を踏んで喚く彼女の声は、何も聞こえない。
もう一度、彼女が示す雑木林の方を見る。やはりそこには何かがあるようには見えず、そして何かが視えるわけでもない。
行ってみるべきなのか、どうなのか。けれどそこに何かがあった場合に、晴季がひとりで対応できるようなものではないかもしれない。そう考えて、一度は向けようとしていた爪先は、途中で止まる。
ざあっと涼しい風が吹き抜けた。アメンボは素知らぬ顔をして、ついついと池の上を滑り続ける。
振り返ればもうそこに、彼女はいなかった。
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