一 いづれ菖蒲か杜若

 じめじめとして今にも雨の降りそうな曇天の日は、頭が痛くなる。この頭痛がやってくるといつも、いよいよ雨が降るのだなと思うのだ。どこかじんじんとした痛みを訴える右の後頭部を軽く手で押さえて、はれは窓の外へと視線を向けた。

 かつかつと黒板の上をチョークが走っていく。やがてその音は止まり、「ではエリスの母はなぜここで態度を変えたと思う?」という教師の声が右から左へと駆け抜けていった。

 窓の外はどんよりと影を落とし、今にも空から水が溢れてきそうな気配がある。三階にある教室から見える景色は、毎日然程変わりはない。ただその日その日で違うものも、確かにあった。

 大きく切り取られた窓の外――この窓を、晴季の親戚は「設計ミスだ」と言っていた。何せ窓が広いせいで、太陽が出ているとどうにも眩しくて仕方がないのだ。その窓の外から女生徒がひとり教室を覗き込んで、ぱくぱくと口を動かしている。

 何かを探すかのように教室をぐるりと見まわしていた彼女と視線が合いそうになって、晴季はついと目を伏せた。

 あんなもの、視線を合わせるものじゃない。

 彼女の首は直角に折れ曲がっていた。首をかしげているとかそういうわけではなく、本当に、かくりと折れて真っ直ぐに戻ることもない。セーラー服の襟に自分の右耳をつけ、縺れて絡まった髪はそのままに。紺のプリーツスカートの裾も、揺れはしない。

 視線を落とした先、校舎に沿うようにして植えられた木々の葉が揺れていた。何も見えないふりをして、晴季は丸い襟と、臙脂色のリボンタイを指先で撫でた。

 彼女は何かを探していて、けれど何も見つからない。

 きんこんかんこんと授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。教師の「今日はここまで」という声と共に、「起立」の声。それに従ってがたがたと音を立てる教室の窓の外、彼女はもう姿を消していた。

 右の後頭部は、今もじんわりと痛みを訴えている。雨や雪が近付いて気圧が下がってくると、いつもこれだ。小学校四年生の頃からなのだから、もう八年が経過している。「ああまたか」と思うだけということはつまり、慣れた、ということなのだろうか。この頭痛にも、他の人には視えない存在にも。

 自分の着ているスカートの裾に視線を落とした。やはり、彼女のものとは違う。

 まばたきをして窓の外を見れば、彼女はもうどこにもいなかった。その代わりというのも何かがおかしいが、ぼんやりとした薄暗い影が窓の向こうを羽ばたくようにして通り過ぎていく。

 こういう景色に、多分晴季は慣れたのだ。この、頭の痛みと共に。ひとつひとつに驚かなくなる、その間に。

 教室の中はざわめいていて、そのざわめきの中でひとりぽつりと取り残されているような心地になる。誰にも視えないはずのものを視ていると、自分がたったひとりおかしいように思えてならないのだ。

 静かに現代文の教科書とノートを閉じた。机の横に引っかけたリュックサックの中にどちらも滑り込ませれば、仲間外れの筆箱だけが机の上に残される。

「ねえ聞いた? 花菖蒲はなしょうぶ公園の白骨死体。あれ、何年か前に行方不明になった小学生の女の子だったって」

「三年前じゃなかった? 確か、小学校四年生の女の子!」

 間近で聞こえた声に、晴季は一度目を伏せる。それから前を向けば、教師が黒板に書いた文字が、日直が操る黒板消しに食べられていくところだった。

 緑の黒板の上、白い線だけが名残のように残っている。白い文字も赤い文字も黄色い文字もすべて食べられて、筋雲のようなものだけがそこにある。

「足を滑らせて池に落ちたんだって聞いたけど」

「誰かに押されたのかも? ほら、こうやって……」

「わっ、ちょっと!」

 がたんと音を立てて、晴季の背中に何かがぶつかった。ぐらりと体が揺れて、後ろを振り返る。短いスカート丈の彼女らが、少しだけばつの悪そうな顔をしていた。

「ご、ごめんね、香月こうづきさん」

「大丈夫。あ……ええと、大丈夫?」

「え? うん、大丈夫大丈夫。ごめんねー」

 眉を下げて申し訳なさそうな顔をしている彼女に、晴季はゆるりと首を横に振った。

 少々ぶつかったくらいで、どうにかなるようなわけでもない。「危ないじゃないの」という声はぼそぼそと小さくなって、それきり彼女たちの声は消えてしまった。

 振り返らない方が良かっただろうか。けれど、ぶつかった彼女が怪我をしたりとか、そういうことがあってはいけないと思ったのだ。

 ふたつに結った髪の片方、その毛先を摘まんでみた。特に傷んでいるというわけでもないが、艶やかというようなものでもない。黒板の文字は気付けば綺麗に消えていて、白い筋もほとんど残っていなかった。

 もう一度、チャイムが鳴る。「ホームルームを始めるぞ」という教師の声に、がたがたと音がして、そして静寂が訪れる。窓の外には今はもう何もなく、変わらず木々の葉だけが揺れていた。

 花菖蒲公園の、白骨死体。

 あれが全国ニュースだったかどうか晴季は知らないが、少なくともこの辺りを騒然とさせる話題であったことは確かだ。

 このげんとう高校から北に十五分ほど歩いたところにある公園は、その名の通り花の季節になれば多数の花菖蒲が咲き乱れる公園である。

 花菖蒲の植えられている池の中から人の骨らしきものが見付かったというのが、数日前の話。公園で犬とボール遊びをしていた人が、犬がボールではなく骨を咥えて戻ってきて、というのが発見の経緯だったと、そんなことを聞いた。

 発見した人はさぞや仰天しただろうと、そういう考えは他人事か。いや、本当に他人事だけれども。骨を発見した人のことも、白骨死体そのものについても。

 けれどつい考えてしまうのは、昨日聞いた話のせいだ。神妙な顔をして、「じゃあ聞いてくれ」と言ったその声にも、表情にも、嘘や冗談の色はなかった。関連があると決まったわけではないが、ただその内容は、関連を疑うしかないものだったのも事実だ。

「それじゃあ、気を付けて帰れよ」

 思考の海に深く潜りかかったところで、急速に引き上げられる。ホームルームの終わりを告げる教師のことばに、がたがたと教室内はまたにわかに騒がしくなった。

 部活があるものは、部活動へ。質問があるものは、職員室へ。晴季はそのどちらでもなく、机の横にかけていたリュックサックを背負って、スカートを巻き込んでいないかを確認してから教室を出た。

「香月、ちょっと」

「はい」

 教室を出たところで担任に呼び止められて、振り返った。来いという手招きに応じて近付けば、担任が少し声を潜める。

「今度の懇談は、誰が来る?」

せい一郎いちろうさん……あ、いえ、叔父が。去年までと同じで、叔父が来ます」

「今年は高三なんだから、ご両親の方が良いかと思ってな。ご両親の帰国は?」

「秋に一度戻るとは、聞いていますが」

 晴季の返答に、担任は少しだけ難しい顔をした。その難しい顔の下で何を考えているのかなど分かるはずもないが、ともかく担任が「叔父ではなく両親に来て欲しい」と思っているのだろうことは伝わってくる。

 そんなことを言われても、仕事の都合だ。晴季が言ったところで、「じゃあすぐに帰るね」と、そんな風に返答を貰えるものでもない。

「そうか、秋か」

「はい」

「進路のこともあるからな。帰国される詳しい時期が分かったら、伝えてくれ」

 そんなことを言ったところで、晴季の両親はきっと「娘に任せています」とそれだけで終わるだろうに、それでも担任は両親と話がしたいのだろうか。

「分かりました」

 叔父である誠一郎では駄目だと担任が思う理由を問うこともなく、ただ晴季は承諾のことばだけを唇に乗せた。担任の話はそれだけで、「気を付けて帰れよ」とだけ言って、彼は晴季に背を向ける。

 教師というのもなかなか大変なんだぞというのは、誠一郎のことばだ。それは誠一郎自身が教師だからというわけではなく、彼の父、つまり晴季の祖父がかつて高校の教師であり、そして大学で教鞭を取っていたから出てきたものだったのだろう。

 その時は彼の言うことを、ただ「そんなものか」と聞いていたけれども、今この瞬間にそれを晴季はふっと思い出した。

 階段を降りて、玄関へと向かう。担任との会話はすっかり思考の外に追いやられて、頭の中を占めたのは、思考の海から引っ張り出されるより前に考えていたこと。

 花菖蒲公園の白骨死体。立ち止まってスマートフォンを取り出し、そのことばを検索の四角に放り込んだ。

 クラスメイトが話していた通り、あの白骨遺体は数年前に行方不明になった小学生の女の子のものだと判明したらしい。そして警察は、それを事故と発表した。

 けれど。

「……吉彰よしあきくんの言ってたこと、本当なのかな」

 昨日の夜遅く、誠一郎と共に聞いた話がある。毎週行っている家庭教師のアルバイトから帰ってきた吉彰が妙な顔をしていて、「何かあったの?」と晴季はつい聞いた。そうしてぽつりと落とされたのは、「事故じゃないかもしれない」ということば。リビングのソファに身を沈めて聞いた話によれば、吉彰の家庭教師先の生徒が、どうも奇妙なことを言ったのだという。

 靴を履き替えて、外に出た。気温は日々高くなっていくようで、今日もじとりと汗ばむ陽気だ。じきに梅雨を迎える季節。晴季の右の後頭部をサッカーボールが強打したのも、これくらいの季節だった。

 教室の中に校庭から飛び込んできたサッカーボールが、晴季の頭を強く揺らした。そのせいと言ってしまえばそうなのだろう、あれから晴季が見ている世界というものは、普通の人が見ているそれからは少しばかりずれてしまった。

 振り仰いだ校舎の三階の窓辺には、何もない。まだ教室の中に誰かいるのか、開いた窓から入った風が、薄汚れたベージュのカーテンをゆらりゆらぁりと揺らしていた。

「花菖蒲公園……」

 公園は玄冬高校からそれほど遠くはない。徒歩で行くには時間がかかるが、バスに乗ってしまえばすぐに着く。

「ひとを、ころした」

 口の中で転がしてみたことばは、どうにも晴季の中に馴染まないというか、すとんと落ちてくるようなものではない。

 昨日の晩に吉彰から聞いた話によれば、彼が家庭教師として教えている生徒が、「人を殺しました」と言ったのだという。それを嘘だとか冗談だとか、そんな風に晴季が一蹴できなかったのは、その子を知っているからではなく、吉彰が神妙な顔をしていたせいだ。

 いつ、誰を。

 その問いに対して、その子は「三年前に同じクラスの女の子を」と答えたのだという。中学校一年生、十三歳。三年前は小学校四年生、十歳だ。

 どのようにして。

 もう一つの問いに対しては、何も答えなかったのだという。ただ口を閉ざして俯いて、首を横に振っていたと。

 目の前には高校の校門から駅へと真っ直ぐに南へと伸びる玄冬街道。校門を出たところで足を止めたのは、玄冬街道の名前を誇らしげに口にしていた祖父が思い出したからだ。かつて高校教師だった祖父は、大学で教鞭を取ることになる直前までこの玄冬高校に勤務していた。「玄冬街道の名前は俺がつけた」というのは、きっと祖父の自慢だったのだ。

 そんなことを思い出したのは、先ほどの教師のことばで祖父のことを思い出したからかもしれない。また墓参りに行こうと考えつつ、晴季は花菖蒲公園に行くことを決めた。

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