鳴らぬ天の鼓

千崎 翔鶴

天鼓をば呂水の江に沈め

 せんせい。ぼくは――ひとを、ころしました。


 三間さんげん四方しほうの舞台の上、老人は嘆く。童子は舞う。観客のいる見所けんじょから一番近い、舞台にあるきざはしの上。橙色の布が巻かれた鞨鼓かっこ台の上には、鼓がひとつ。

 天より降り下った鼓は鳴らない。まるで沈められた持ち主を待ち続けるかのように、誰に打たれても鳴ることなく、ただひたすらに鼓は沈黙を貫いていた。

 老人の嘆きは理解ができる。

 子どものいなかったある夫婦に与えられたのは、天から鼓が降り下る夢。その鼓は妻の胎へと入り、そして子どもは生まれてきた。そしてその子が生まれた後に、本当に天から鼓が降り下った。

 けれどもその鼓は、時の皇帝に奪われる。献上せよとの命令に背いて逃げた子は、追われて最期は呂水に沈められた。

 そして奪われた鼓は、沈黙を続ける。誰が打とうとも、誰に命じようとも。


 僕は、ひとを、ころしました。


 瞼をゆるりと閉じれば、悲痛な声が耳に聞こえるようだった。

 罪の告白と称して良いのかも分からないその叫びは、笑い飛ばして良いようなものではなかったのだろう。

 部屋の片隅に転がった、サッカーボール。

 目の前には正座して手を膝に置いて、ただ裁きを待っているかのような子ども。

 握りしめられた拳は真っ白になっていて、それは日に焼けていないからだとか、そんな理由でもなかった。

 たすけてと、声が聞こえた気がした。決して叫び声ではないのに、その告白は悲痛な叫びに他ならなかった。


 せんせい。


 子どもは裁かれるのを待っているのか。

 俯いて、顔を見ることもなく。けれど「たすけて」と、聞こえた気がした。

 ぽぉーんと鼓の音がした。甲高い笛の音がした。三間四方の舞台の上で、童子は喜んで舞い遊ぶ。まるで鼓と戯れるかのように何度となく舞台を踏んで、音を鳴らして。

 果たしてこれは、うつつか夢か。波のように寄せては返し、童子が舞う。


 これは呂水に沈みし天鼓の亡霊。殺され奪われ、それでも天鼓は悦び舞い踊る。

 まるでそこには何の恨みも、憂いも、ないかのように。


 鳴らぬ鼓は、何故鳴った。

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