いただきますと、三人揃って手を合わせる。壱岐誠一郎と、住之江吉彰と、香月晴季。苗字の異なる三人が同じ机を囲んで、そして同じ料理を前にしている。

 晴季はどの料理に手をつけるでもなく、まずは麦茶のグラスを手に取った。目の前ではキャベツと豚肉の炒め物を箸で摘まんだ誠一郎が、行儀が悪いと言われない程度に口を開いている。

 ごくりと麦茶を一口飲み込んだ。冷たい麦茶が食道を滑り落ちて、胃から腸まで冷やしてくれるような気分になる。

「良いよねえ。みんなで食事」

「あのさあ、おっさん。それ毎日のように言ってるけど飽きないの?」

 四角いテーブルのそれぞれの辺を陣取るようにして、三人が座っている。晴季の目の前が誠一郎で、左手側が吉彰。そして右手側には、誰もいない。

 咀嚼を終えた誠一郎のことばに、吉彰がこれみよがしな溜息を吐いている。誠一郎はそんなものを気にする様子は一切なく、笑みを浮かべていた。

 晴季がここに住むようになるよりも前のことは、よく知らない。けれど晴季が住むようになって三年目、たしかに誠一郎の「みんなで食べるご飯はおいしい」という趣旨の発言は、吉彰の言う通り毎日のように聞いていた。

「飽きないね! ひとりよりふたり、ふたりよりたくさん。さらに! ハレはお前より可愛げがあるしむさ苦しくない!」

「あっそう。まあ僕も、おっさんの顔ばっかり見てると飽きるけどね」

 誠一郎に倣うようにして、晴季もキャベツと豚肉の炒め物を口に入れた。柔らかくなって、けれどなりすぎていないキャベツの食感と、豚肉の味。キャベツを噛めば噛むほどに豚肉の味と、味付けのオイスターソースが広がっていく。

 じっくり味わってからごくりと飲み込んで、もう一口と晴季は皿へ箸をのばした。

「じゃあスミヨシも姉さんと義兄さんに感謝するといい」

 吉彰は誠一郎のことばに返答することはなく、その代わりに少し肩を竦めていた。

 横目で見た吉彰は晴季や誠一郎と同じものを食べているはずなのに、ちっともおいしいものを食べているようには見えなかった。背中を丸めているせいなのか、もそもそと少しずつ食べているからなのか、晴季から見て彼はいつも何かまずいものでも食べているかのようなのだ。

 晴季が見ていることに気付いたのか、吉彰が少し顔を上げた。

「で、晴季。花菖蒲公園に行ってきたんだろ?」

「うん。学校で白骨死体のことが話題になってて、それで吉彰くんが言ってたのを思い出したから。何かいるのを、期待したわけじゃないけど……」

 ただ事実として、何かはいた。期待していたわけではない、というのは嘘ではない。けれどそこに何かいるかもしれないと、そう思ったのも本当だった。

「女の子が、いたよ。紺色のワンピースを着た、髪の短い女の子が」

 吉彰を見れば、もごもごと口を動かして、そして喉仏が上下する。麦茶のグラスを手にして、流し込むように一口。吉彰が口を開いたのは、ことりとグラスをテーブルに置き直してからだった。

「……沢野さわの宇月うづきか?」

「え、と?」

「ああごめん。白骨死体で見つかった女の子の名前だ」

 そう言われても、晴季にはぴんとこなかった。

 確かにニュースでは名前も言われていたような気がするのだが、まったく記憶に残っていない。珍しい名前かと言われれば、それほどもでないだろう。白骨死体というインパクトが強すぎて薄れてしまったのか。興味がなかったわけではない、というのはどうにも言い訳じみていて、晴季は口にしないことにした。

「ハレ、ニュース見てなかったか? 人の名前はちゃんと覚えないと駄目だぞ」

「見てたんだけど、名前まで覚えてなかったから……」

 誤魔化すようにして、晴季は箸を手に夕食の皿に向き直る。大根おろしがのったイワシの竜田揚げを、大根おろしごと口に放り込んだ。

 大根おろしが程よく染みて、衣を濡らしている。端の方はかりっとした食感の衣は、中央に近付くにつれて少しだけ柔らかくなった。じんわりと溢れ出たイワシの味は、さっぱりとした大根おろしのおかげで後に引かない。

「おっさんに言われたくないだろうけどな、晴季も」

「何だとスミヨシ」

「だっておっさん、別に人の名前なんて興味ないだろ」

「それは否定しない!」

 言い切った誠一郎に、晴季は箸を置いてからつい笑ってしまった。

「警察は、事故だって?」

「んー……まあ、一応事故と事件の両方から調べてはいるらしいけど、事故の見解だってさ。一応スミヨシから聞いた話は伝えたけど、ヨウさんの一存じゃ警察は動かせないし」

 あんぐりと口を開けた誠一郎はキャベツと豚肉の炒め物を入れて、それから白飯を入れている。晴季もまたもぐもぐと口を動かして、咀嚼したイワシをごくりと飲み込んだ。

「所詮は一介の刑事だからねぇ」

 口の中にあったものを飲み込んだ誠一郎が、わざとらしく肩を竦めている。

 伝え聞いた話をどこまで信用するのか、一人の刑事が信じたところで組織が動くとは思えない。学校だって一人の生徒が騒いだくらいでは何も変わらないのだから、大きな組織であれば尚更だろう。

 それこそ、何か大きなものでもなければ動かない。誰もが認める証拠であるとか、衝撃的な何かだとか――人の死、だとか。

「吉彰くんから聞いた話って……あの、家庭教師先の子の?」

「そうそう。くさかべくんだっけ?」

 ごくりと、吉彰の喉がまた上下した。

日下くさかだよ。日下一志かずし。おっさんこそ人の名前きちんと覚えたら?」

 ぼくはひとをころしました。

 日下一志という少年は、一体どんな気持ちでそのことばを口にしたのだろうか。しかも家族でも何でもなく、家庭教師でしかない吉彰に。どうして彼は吉彰に対してそれを言おうと思ったのだろうか。

「証拠も何もない、ただ殺した相手が三年前に同じクラスだった女の子というだけ。どうやってとかそういう具体的な話もない」

「でも、吉彰くんはそれを信じたんだよね?」

「……日下君が、切羽詰まった顔をしてたから。嘘を吐いていたようには見えなかった」

 笑いながら言われたのだったら、吉彰もきっと信じなかっただろう。けれど目の前でそのことばを告げられた吉彰が信じたということは、それほどの顔を日下一志がしていたということだ。けれどそうであるのならば、もしも彼が殺した相手が沢野宇月だとしたら、おかしなことになる。

 花菖蒲公園で見たあの亡霊は、白骨死体の少女のはずなのに。

「うーん……」

「何か気になることでもあったのか」

 殺されたのならば、恨んだりしないのだろうか。嘆いたりしないのだろうか。

 そんなものは殺された人間しか知らないのだろうけれど、少なくとも彼女のようにはきっとならない。学校の窓から覗き込んでいる彼女が殺されたのかどうかは分からないが、まだあちらの方が「殺されました」と言われて納得がいく。

 視える人間が他にいない以上、何を思ってもそれは晴季の主観でしかない。誰かと話し合えるわけでもないし、こうだったねと確認もできない。けれどそうと分かった上でも、やはり彼女の姿はこれまで視た亡霊の中でも異質なものだった。

「花菖蒲公園の女の子、多分沢野さんなんだろうけど。でも、様子がちょっと」

 吉彰は何も言わなかったが、食事の手を止めて、続きを促すようにじっと晴季に視線を注いでいる。晴季はまばたきをして一度誠一郎の方に視線を投げてみたが、彼は特に興味がないような様子で食事の続きに取りかかっていた。

「その、日下くんの話が本当なら、沢野さんは殺されて、池に沈められたってことになるよね?」

「そうだな」

 どのように殺されたのかは分からない。殺されてから沈んだのか、沈められて殺されたのか、それも分からない。

 けれど、どちらであったとしても、やはり彼女の様子はおかしかった。

「でも……楽しそうだったよ?」

「楽しそうだった?」

「うん。嬉しそうにピンク色の花だけを数えて、くるくる踊って。あ、でも」

 白い花や他の色には目もくれず、ただピンク色の花だけを数える彼女。楽しそうに笑ってくるくる回って、紺色のワンピースの裾がふわふわ揺れる。

 今を盛りと、花菖蒲が咲いていた。花菖蒲咲き誇る池の向こう側を、どうしてだか彼女は指差した。

「晴季?」

「視えてるの、気付かれたんだけど。それで何か伝えたいみたいに、一生懸命どこかを指差してた。別に何かあるというか、雑木林があるだけで何もなかったんだけど」

 彼女の声は聞こえない。彼女の示した先には雑木林があっただけ。反応しない晴季に焦れたようにして、彼女は地団太を踏んでいた。

「楽しそうで、嬉しそう……雑木林も、気にかかる、が」

 彼女は晴季に、何を伝えたかったのだろう。どうして欲しかったのだろう。

「そもそも、変な話だ。行方不明になった時点で、花菖蒲公園みたいに池があるところに寄っている可能性があるのなら、溺れたことを考えて捜索しそうなものだけど」

 吉彰が目を閉じる。晴季も思考の海に沈みそうになったところで、ぱんぱんと手を叩く音によって強制的に引き上げられた。

「はいはーい、そこまで。二人ともご飯食べる手が止まってる!」

「おっさん……」

 晴季も、吉彰も、すっかり手が止まってしまっていた。最初はほかほかと湯気を立てていた夕食からは、もう湯気が立っていない。

 つう、と、麦茶のグラスの外側を結露した水滴が滑り落ちて、グラスの底とテーブルの間に吸い込まれていく。かろんと、融けた氷が音を立てた。

「だいたいヨウさんはじめ、警察は動いてるんだから。それともスミヨシ、ハレも、首を突っ込みたいの? 赤の他人なのに? それに君たちは、ただの学生だよ?」

 赤の他人と言われてしまえば、その通りなのだ。

「僕一応、日下君の家庭教師なんだけど?」

「今のところ、その日下君が関わってる証拠はないだろ?」

 吉彰は「それはそうだけど」とだけことばを落として、麦茶のグラスに口を付けた。何となく手を動かせないでいた晴季の目の前で、麦茶のグラスの外をまた水滴が滑り落ちて吸い込まれていく。

 晴季は、視えるだけだ。けれどそれを誰かに証明する手段もなく、信じてもらえなければ視えていないのと同じこと。

「面白半分に首を突っ込むものじゃない。首突っ込むなら、途中で投げずに最後までやらなきゃならないんだから」

「最後までって……」

「責任を取るところまでってことだよ。そこに隠された真実があったとして、暴き立てるだけ暴き立てて終わりにはできないんだ。その真実を暴くことで何かが起きたとして、その責任を負えるのか?」

 日下一志のことばを信じることは、できるだろう。それを信用して、勝手に動いても誰に何を咎められるわけではない――一応は。

 吉彰は何かを考え込むような顔をしながら、それでもまたもそもそと、ひどく不味いものを食べているかのような姿で食事を再開した。それを見習うようにして、晴季もまた箸を手にする。

 誰も、何も、ことばを発しない。そうして、無言の食事時間の終わり。

「――天鼓てんこ

 ぽつりと吉彰のことばが、空っぽの皿の上に落ちていった。

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