2.旅支度(前編)

ことが決まれば行動が早い性格であるのが私の数少ない良いところであった。家に帰ると誰もいないリビングを抜け階段を駆け上がり、自室へ入ると通学鞄を床に無造作に置き、クローゼットから埃のかぶった少し新しい黒のリュックを取り出した。中学の頃、親に買ってもらったものであるが、使う機会がなくクローゼットにしまっていたもので、叩くとほろほろと斑雪が零れる。なにか必要なものはあるだろうかとライターを詰めた。次に山に登るための乾パンの缶詰と500ミリの水の入ったボトル、電灯と懐中時計を詰めたところで、半分位が収まった。ランタンをいれるにはちょうどよいくらいで、チャックを閉めると私は少し重いくらいのそれを背中に背負い、家を出て、10分余走った。川が近づけば近づくほど海は遠ざかり、波音は弱くなっていき、次第には川と人の声でかき消されていた。明るい提灯が葉桜の木々に括りつけられて、昼下がりのような明るさになっており、会場の川沿いには沢山の境遇の人々がいた。家族連れ、小学生ら、恋人、同じ部活の高校生ら、町内会の年端を重ねた老人など様々だ。その人だかりを掻き割って私は受付の登坂さんに「ランタンを下さい。」と言った。登坂さんは町内会の人で私が小学生の頃、よく友達と登坂さんで遊んだものだ。

「紬ちゃんか。久しく会ってないですね。」

登坂さんは人に優しく接してくださる為に私を覚えてくれているらしい。

「お久しぶりです。ランタンをいただけますか。」

「勿論だよ。ちょっと待っててね。」

登坂さんは後ろの段ボールから解体されたランタンを取り出し、私に渡した。

「友達と行くのかい。」

登坂さんが気さくに訪ねた。

無論、一人で山に登るとは言えないので嘘をついた。

「はい。とっても楽しみです。」

「そうかい。それは良かったね。」

登坂さんは微笑んで「楽しんできてね。」と言うと、私はその場を立ち去った。それを胸に抱え、人だかりを掻い潜り、山の方を目指た。季節は立夏だったため少し汗を掻いてしまい、風が乱れた制服の中に入り込み冷気が感じられた。同時にランタンを持ちながら山まで駆けたため、人々の視線を感じた。が、そんなことはお構いなしに駆けた。やってやったという興奮と星々の情緒を乱したことによる落胆なのかもわからない。兎にも角にも複雑な感情が交錯した。ようやく人気のないところに出た。山の麓である。家屋も無く、木々のみである。興奮した感情を押さえながら山の入口にある「立入禁止」と書かれた黄と黒の錆びたA型看板を脇に寄せる。山には人が入れるように狭い砂利道が続いており、向こう一寸先には闇が広がっていた。リュックから懐中電灯を取り出し、目前を照らした。まだ少し暗く感じたが足元を照らすには十分なくらいであった。山に足を踏み入れると感覚は舗装された道から、不安定な砂利道になる感覚に陥った。暫く歩いていると、前に明るい黄土が見え、見上げると星屑でなく、風にそよぐ木の葉とその音に移り変わっていた。足元は砂利から苔の生した木の根に変容して、少し怖かった。暫時歩くと、もう頂上に着く具合になっており、同時に気配がした。ぞっと背筋が凍った。同時に強風が吹いて、またブリーツがふわっと舞った。誰かが頂上にいるのだ。誰だろうか?私がここに来ることを予想していたのだろうか。ざわめきは次第に大きなものとなった。時空が歪んだような気がしたのだ。咄嗟に気づかれてはいけないような気がして懐中電灯を消した。すると、夜は一層際立った。ここで引き返すのもなんだか勿体ないような気がして、恐る恐る、その極点に歩みを進めた。そこは少し開けており、平たいところである。正体は人であった。人は立っており明るい何かを持っていた。どうやら女性らしく、髪は肩くらい長かった。私と同じ制服を着ていることから同級生と見受けられた。そして、自ら人に話しかけない私が珍しく人に話しかけた。

「あ、あの何をしているんですか。」

彼女は声に気づいてこちらに振り返った。彼女の手に持っている煌めきはあのランタンであった。「あ、それ。」とランタンを持っているその人の両手の平を指さした。

「これ、ランタンだよ。でも貴方はどうして、ここにいるの。」

「私も、この山頂でランタンを上げようと思って。」

なるほど、私と同じくこの山頂からランタンを飛ばしたいらしい。

私は彼女に近づき、顔を伺うと見知った顔であることに気がついた。彼女は「赤坂 澪」といった。この高校で彼女を知らないものはいない。友達は多く、勉強もできる。いわば、私とは真反対の人柄である。そんな赤坂さんが何故こんな所にいるのだろうと思ったのは至極、当然であるので「友達と行かないの。」と質問すると、

「私ってそんなふうに思われているんだ。」

と俯いた。刹那に私は「しまった。」と思った。なにか触れてはいけないように感じた。「ご、ごめん。」と平謝りするしかなかったが、彼女は慌てて、「だ、大丈夫だから。」と私を収めた。彼女は気を切り替えたように私に問いかけた。

「あなたの制服、私と同じ。名前は何。」

「私は紬よ。新島 紬。」

「にいじま…あぁ、三組の。」

赤坂さんは私のことを知っているらしく、なにか思いついたような顔をしている。

一呼吸空いて、彼女から話しかけられた。

「今日は友達とは行かないよ。」

今日は、という彼女の言い回しに何か突っかかりがあるように聞こえた。

「そうなんだ。それ、ラン…タン…。」

確かに彼女の手のひらにはあのランタンを持っていた。

「これはね、一人で飛ばしたいと思って…。」

「一人で。」

私が疑問符で問いかけると「うん。」と赤坂さんは微笑んだ。その笑みは私に眩しいはずであったが、今の笑みは夜闇に薄雲の笠がかかった月のように寂しそうであった。

「新島さんは、何をしに来たの。」と言われたので「私は友達がいないから。」と悲しい現実をありのままに応えた。すると、彼女はえらく笑った。ランタンは激しく揺れて今にも落ちそうになっていたが、そんなことお構いなしと言わんばかりに。しばらくして、落ち着くと、ポツリと「私も独りなんだ。」と呟いた。

「友達と上げたくないの。」と質問すると「うん。」と言葉を漏らした。何やら、深い事情があるらしく深く黙り込んだ後に、

「友達って何だろね。」

夜空を蔑みながら私に問うのだ。無論、私には友達とも呼べる人もおらず、急な哲学的質問に苛まれた。どう言っても正解のない質問に尻込みしていると、赤坂さんは微笑み、「急にごめんね。」と言ったので更に、たじろいだ。こんな質問をする赤坂さんではあるが、こんな事情の深そうな彼女の一助になれないという申し訳無さに不甲斐ない次第だ。何も言わないのも癪なので苦し紛れに、「一緒に遊んだら友達なんじゃない。」こんなありきたりな回答になってしまう自分が恥ずかしく、手を振り、「気にしないで。」と前言撤回した。

「うーん。今の私には友達がわかんないや。」

赤坂さんは夜景が見える山頂の開けた所まで手を引いた。

思わず、「綺麗。」と呟いてしまった。街の明かりに月、星と川を沿う形で設置してある提灯で街の明かりが弱々しいのが天の川の星々を形作っているように見えた。暖かいペルシア絨毯に火の粉がしらしら召されているようなその情景を表せるような言葉が見つからず、空いた口が塞がらない。街と遠くに浮かぶ海の光にうつつを抜かしていると赤坂さんが話しかけてきた。

「綺麗だね。この街にこんな素敵な所があったんて。」

そう言っていると、川沿いの光がより一層光りだした。皆がランタンに火を灯し始めたのだ。あと、僅かな時間でランタンを飛ばすらしい。

「新島さんは、ランタンを上げないの。」

あ、そうだ。すっかり忘れていた。私はランタンを上げに山を登ったのだ。

「忘れてた。」

すっかり、夜景に目を奪われていた。私はリュックを地べたに置き、その奥底を探り、ランタンを取り出した。急いで和紙を丸めて糸にそれを組み立てた。中に小さな青く平たい蝋燭を置いた。そして、ライターを取り出し火を着けようとしたが風が邪魔をした。山頂で潮風が直接吹くのである。木は山中にしか生えていないのだ。

「赤坂さん、ちょっと手伝って。」

赤坂さんは快く「いいよ。」と言って自らのランタンを鞄の側に置いて、飛ばされないようにして、私のランタンが風で飛ばないように抑えてくれた。私はゆっくりそれに火を灯した。ライターをリュックの中に戻す。赤坂さんは私のランタンを拾い上げて私にくれた。

「ありがとう、赤坂さん。」

リュックを再度背負いそれを受け取る。

「赤坂さん、じゃなくて澪でいいわ。」

私は少々、尻込みした。なぜならそんなこと初めて言われたからである。ただ、知り合いになっただけなのか、それとも“友達“になろうと遠回しに言われたのかわからないからである。次に何を言おうか熟考してようやく言葉を発せた。

「じゃ、私も紬って呼んで。」

「宜しくね、紬。」

そして、初めて下の名前で呼び合う仲の同級生が出来たことがこんなにも心地よいとは思わなかった。澪は、毎日こうやって友達等と楽しく話し合っているのだろう。

澪の笑顔がランタンの暖かい火に反射している。今、私が持っているものも同じく暖色を漂わせていた。

「そういえば、ランタンはいつ上げ始めるのだろうね。」

澪がそう言ったので地面にランタンを置いてリュックから懐中時計を取り出した。針は七時四十五分を指していた。

「あと、十五分位で上げ始めるよ。」

「十五分か。」と澪か呟くと、何か思いついたように「そういえば。」と続けた。

「山から上げたらその様子が川から見えるんじゃない。」と言ったので、しまった、後のことを考えていなかったとたじろいだ。

確かに、今いるこの場所は立入禁止の場所であったので、川からその様子が見えたら下山するときに見つかってしまいそうだ。「うーん。」と唸ると、澪が「もう上げちゃおうよ。」と言い出した。確かにそれならバレない。急いで下山すればランタンは見つかってしまうが誰が上げたものなのかはわかるまい。

「それはいいね。もう上げてしまおう。」

二人はどっと笑った。ようやく収まると、天の川の見える海の方へ並んだ。

「ねぇ、紬。」

「ん、どうしたの。」

澪は一呼吸置いて、同時に空気がほのかに澄んだ気がした。

「私達、友達だね。」澪がそう言うと澄み切った空気は緩やかな追い風に変わった。ああ、これが友達なんだ。私の中で何かが共鳴したように感じた。「うん。」とだけ頷くと、澪はその手を優しく天に掲げた。私も澪に続けた。














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